丹後の地名 若狭版

若狭

尾崎(おざき)
福井県小浜市尾崎


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福井県小浜市尾崎

福井県遠敷郡今富村尾崎

尾崎の概要




《尾崎の概要》
谷田部の南川を挟んでの対岸側、多田ヶ岳の西麓。南川右岸沿いに走る国道162号の南部一帯の氾濫原に開けた地域で、集落は多田ケ岳山麓沿いにある。
当集落はかつては南川西岸の大日山東麓にあったが天正6年頃の洪水で消滅し、河川の変流もあり現在地へ移住したと伝える(円照寺由緒記)。今の谷田部のクリーンセンターのあるあたりの東側山麓は今も尾崎地籍で古墳や経塚があるが、古くからそのあたりにあったという。
中世の尾崎村は、戦国期に見える村で、大永3年12月10日の周栄・浄泉・池田員清連署社地寄進状に「尾崎退蔵庵 周栄」と見える。弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「百五十文 尾さき村」と見える。
近世の尾崎村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば家数59・人数447。慶長年間には若狭国主京極氏の直轄領となって代官として小浜の豪商組屋六郎左衛門(宗円)が支配している。寛永19年には在国中の藩主酒井忠勝が当村において鮎漁などの川狩を行っている。当村は南川での漁業権を持ち鮎・鮭漁を営む川師仲間を結成し、藩の船奉行より鑑札を受けた。「若州管内社寺由緒記」には文安元年対岸の堂谷から移築した六所明神を記すが現存しない。同社は慶応2年の御領分中村々高書上控に「六所大明神二月二十三日翁面、八月二十三日能アリ」とある。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年今富村の大字となる。
尾崎は、明治22年~現在の大字名。はじめ今富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西5町余・南北4町余、戸数73、人口は男162 ・ 女175、学校1、小船3。昭和26年南川の堤防に国道162号が開通した。明治34年円照寺大日堂の木造大日如来座像,昭和16年同寺の木造不動明王立像がそれぞれ国重文に指定された。


《尾崎の人口・世帯数》 236・77


《尾崎の主な社寺など》

赤松神社

円照寺と隣合っている。
『遠敷郡誌』
赤松神社 村社にして今富村尾崎字宮脇にあり、天照大神を祀る、元六社明神六所明神六聖大明神と稱す、境内に八幡社・天神社あり共に祭神不詳なり。


臨済宗南禅寺派地久山円照寺

尾崎の西南山裾。臨済宗南禅寺派、山号地久山、本尊阿弥陀如来。伝承では真言宗で遠松(えんしよう)寺と称し、南川を渡った大日山の山裾谷あいの小字堂谷にあったが、洪水と山崩れで破壊され、文安元年(1444)現在地へ移されたという。その後荒廃したが、越前杣山(そまやま)城(南条郡南条町)城主瓜生氏の女慶智尼の発願で再建され、臨済禅に改宗、円照寺に改めたという。寛政7年(1794)に再建の坐禅堂は大日堂と称し、もと遠松寺の本尊と伝える像高2・51メートルの木造大日如来坐像(重要文化財)を安置、像高1・58メートルの不動明王立像(重要文化財)もある。本堂には木造地蔵菩薩立像(市指定文化財)が安置され、東嶺和尚墨蹟(市指定文化財)も残る。

『今富村誌』
圓照寺〔尾崎にあり古文書縁起の章參照〕
 圓照寺地久山と號す。臨済宗南禪寺派の寺院にして、元眞言宗に屬し南川の西堂谷にありて遠松寺と稱せしが堂宇頽廃文安元年今の所に移す。開山仙宝和尚其の禪僧たりしの故を以て臨済宗に転派し圓照寺と改めたりといふ。享保十七壬子年鐡堂和尚再建寛政七乙卯年大提和尚坐禪堂を建立す。今の大日堂之れなり、大日如来を安置す。天智天皇の御宇佛師春日の作に係る元三笠山の邊にありしを堂谷に安置したるものなりと。大日如来彫刻木造座像一躯明治三十四年八月二日甲種三等國寳に指定せらる。左右に不動愛染明王あり、不動は空海、愛染は運慶の作なりと傳ふ


『遠敷郡誌』
圓照寺 臨済宗南禪寺派にして本尊は釋迦如来なり、同村尾崎字宮ノ脇に在り、傳云元真言宗にして遠松寺と稱し、南川の西堂谷に在りしが頽廢せんとして文安元年今の所に移す、開山は仙室臨済宗に改め、圓照寺と名くと、境内佛堂に大日堂あり、本尊に國寶大日如来彫刻坐像一躯あり、丈七尺八寸、膝幅六尺、胸圍七尺五寸、蓮坐高さ二尺三寸、徑六尺五寸にして明治三十四年八月甲種三等國寶に指定さる、大日堂は寛政七年大提の建立せし坐禪堂にして本尊は天智天皇の御宇佛師春日の作に係り、元堂谷に安置したるものなりと傳ふ。


いつぞや訪れた日には、モリアオガエルが迎えてくれた。大日堂の扉が開いていて、平安期の木造大日如来坐像(重文)が拝める。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


尾崎の主な歴史記録


『今富村誌』
尾崎區
尾崎は野代區の西にあり尾須の鼻を以て口名田村に接す。尾須の鼻とは尾崎、須縄の界の義なり。戸数六十七、人口三百六十九、田畑段別五十町歩、山林九十餘町歩。今人家のある所は中古の移轉にして昔時は南川の西岸にありしといふ舊時の草高五百二十二石九斗九升五合。本區所出の大根は味の美なるを以で有名なり
赤松神社 圓照寺あり。圓照寺の大日如来は佛師春日の作に係り國寳となる、寺内孝子池田安太夫の墓あり。
郡縣志に「尾崎村は今富荘に属す云ふ小濱に近く一里」と
尾須の鼻は永禄年間湯岡城主南部宮齋口田縄城主大塩氏と戰ふや馬を此處に進めたりと傳ふ
尾崎村の移轉は其の年代詳ならずと雖も蓋し圓照寺の移轉文安元年の前後ならんか
堂谷は俗名なり昔は塔の壇といふ
慶智尼 越前瓜生城主瓜生越前守大入文年間朝倉義景と戦い敗れて子民部大輔と共に若狹に來り武田元光に頼り飯盛に居る武田氏亡び丹波に移る慶智は民部の女なり。尾崎村に住し尼となり圓照寺を建つ、寛永元年八月十六日卒、圓照寺殿了岳慶智尼大姉と號す。兄あり宮内印輔といふ織田信長に仕ふ。織田氏亡び身を外叔父熊谷大膳亮に寄せ小濱に住す。寛永元年八月十九日卒、青井妙徳寺に葬る、春峯忠和居士と號す、子孫小濱に住す
六所明神社 古書に『六所明神社は尾崎村にあり産神たり二月二十三日は祭日なり又八月二十三日神事の能あり』と

尾崎の伝説






尾崎の小字一覧


尾崎 峠 立山 西越 越後 勘定 越後口 奥越後 硲古 昼田 水取 上荒堀 下荒堀 塚田 井林 根林 池ノ谷 綿ケ谷 大道 中縄手 宮野 菴 宮ノ脇 野間 西町 穴田 大通 荘治女 上見岩 尾畑 橋谷 下岩見 小分ケ 桜塚 下河原 村中 下中 上岡 水谷口 中岡 四ノ谷 下岡 東裏 下石丸 森下 下角 大野 番所 桂上里 下り途 上堂谷 中堂谷 上瀬木裏 上樋掛り 上石丸 下樋掛り 柳瀬 上渕 中瀬木 下瀬木 上新田 新土部 堂谷 大日田 中堂谷 尾崎田 大日山 西越後 東越後 綿ケ谷 宮ノ谷 西八幡 持出 奥八幡 東八幡 風呂中 松山 岡山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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