丹後の地名 若狭版

若狭

三分一(さんぶいち)
福井県小浜市三分一


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福井県小浜市三分一

福井県遠敷郡松永村三分一

三分一の概要




《三分一の概要》

松永川右岸沿い南部の門前橋から醒ケ井橋にかけての集落。川に並行して県道23号(小浜朽木高島線)が通る。
三分市とも書いた。三分一に先行して寺野の村名が散見され、中世前期には寺野村と称されていた。三分一村が定着するのは元和2年(1616)以降のようであるという.
中世の三分一は、戦国期に見える。松永荘のうち。明応3年(1494)6月26日の頼尊・朝雄連署状に「山門三分一」とあるのが初見。この地は集落としては寺野村と称されていたので、この三分一とは松永川下流の四分一と同じく年貢収納の単位を示していたものと見られている。永正14年(1517)12月晦日の明通寺領百姓名年貢注文案では三分一内の5つの名田が明通寺に年貢を納入することになっていて、そのうち2名が「三分一納所」とされていることから、三分一の農民集団を想定しうる。戦国期にも居住地表示としては寺野村が用いられている。天文22年(1553)10月30日の明通寺門前衆連署掟書に「西寺野」の住人とされている道法は、同24年11月13日の明通寺領百姓名年貢注文案には永正14年12月晦日の百姓名年貢注文案に見える三分一内介二(次)郎名の年貢納入者として登場する。元亀3年(1572)明通寺への如法経米寄進札には「松永庄三分一施主太郎左衛門女」と見え、松永荘内の地名化していることがわかる。江戸期に作成された明通寺の重書目録の注記に「寺野村ハ今ノ三分一也」とあって、中世の寺野村を合わせて江戸期の三分一村が成立した。
三分一村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数37・人数113。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年松永村の大字となる。
三分一は、明治22年~現在の大字名。はじめ松永村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北2町余、戸数29、人口は男64・女71。


《三分一の人口・世帯数》 61・19


《三分一の主な社寺など》

泉神社

『遠敷郡誌』
泉神社 村社にして元和泉明神と稱し、産神にして祭神不詳なり、同村三分一字上ノ山にあり。.


曹洞宗恵林寺

延宝5年僧林貞の開山。正明寺、法雲寺末寺。
『遠敷郡誌』
惠林寺 右同寺末にして本尊は阿彌陀佛なり、同村三分一上ノ山に在り、元徳隣庵と號し茶臼山下紅梅谷にあり、城主多伊良氏家老内藤左近居宅を以て寺となすと傳ふ。又内藤氏持佛惠心枯華釋迦像一躯を今に傳ふ、正明寺第三世今の寺を開く。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


三分一の主な歴史記録




三分一の伝説






三分一の小字一覧


三分一  高柳 上穴田 上大窪 向清水 三反田 下茂谷 松山 鷲塚 宮本 宮前 宮ノ上 山鼻 中河原 杉尾 下八幡田 辻ノ下 辻上 竹ノ下 中野 天神ノ下 天神前 楠橋 黒木 天馬野 口楠谷 八陣 上河原嵜 美農合 口紅梅谷 中紅梅谷 紅梅谷 下紅梅谷 戸ノ河原 寺河原 村上 間藤原 三ノ谷 下三ノ田 中三ノ田 上三ノ田 上大河原 大河原 五反田 辻 口南山 奥南山 奥ノ谷 若林 岸ノ下 淵ノ本 太良田 飛ケ谷 下山 桂谷 丸山 小畠 欠戸 中広河原 下広河原 西広河原 広河原 分レ途 奥ノ下 佐近奥 西村 村中 村北 高黒 井根口 中条 上ノ山 泉上 下岡 ? 上岡 岩脇 地獄谷 漆谷 滝ケ谷 恵木谷 兆山 西山 堂ケ谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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