丹後の地名 若狭版

若狭

下田(しもた)
福井県小浜市下田


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福井県小浜市下田

福井県遠敷郡中名田村下田

下田の概要




《下田の概要》
南川の支流田村川流域に開けた地域。中央部を県道岡田深谷線が田村川沿いに走る。田村川流域一帯は田村谷と呼ばれ、当地はこの一帯の6か村中最大の集落を構成し、中名田地区(旧中名田村)の中心地。
下田村は、明治初年~明治22年の村。田村が上・下の2か村に分村して成立した。田村内部では江戸期から上田村・下田村に分けられていた。当村は田村川右岸上流から竹ノ本・岸・山左近・大原、右岸に清水・脇原の6集落からなる。山左近・岸・竹本・脇原の順で記される宮衆株があり文化10年では宮衆として34軒を記す。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て同14年福井県に所属。
下田は、明治22年~現在の大字名。はじめ中名田村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西8町・南北4町余、戸数92、人口は男286 ・ 女270。


《下田の人口・世帯数》 275・93


《下田の主な社寺など》

加茂神社

県道沿いに、延暦8年坂上田村麻呂の創建と伝える産土神加茂神社。古くは能が奉納されていたという。
『中名田誌』
加茂神社(上田区・下田区・和多田区)
 祭神 加茂別雷命 祭日 三月二日、十月二日
 加茂神社は、第四二代文武天皇、大宝(七〇一~○三)のころ鎮座されたという。我が国では、神社に対する制度の整いはじめたのは第四〇代天武天皇の時(六七三~八六)といわれ、当神社こそ、まさに神社草創の早期の創立とみられる。
 延暦八年(七八九)に至って、坂上田村麻呂によって京都市北区上賀茂神社をこの地に勧請されたのである。田村麻呂は当時まだ三一、二歳で、参議従王大納言の位も、若狭大守の任にも達していなかったろうが、坂上大宿弥藤原朝臣という名門の貴族、しかも武将であった。山城の国の一の宮として皇城鎮護に当たり、古くから朝廷の崇敬を受けていた京都賀茂大社を、都の貴族として田村麻呂が当地に勧請しだのは当然と考えられる。従って当社の祭神も、京都上賀茂神社と同神である。土地の豪族による祭政 古来我が国においては、天皇は現人神とされ、世を治めるに当たって、群臣とともに神祇を祭られた。この地においては古代、坂上田村麻呂の末裔、その一族が、この土地の開拓者としての政治権力者であり、同時に祭司の主宰者でもあった。
 このことは、坂上系図でも明らかである。田村麻呂から一一代目(推定天暦(九五〇)~天禄(九七〇))の慶円執行(織部入道)が熊野三所宮、山前大明神(加茂神社)両社守摩織司を務めている。慶円は入道として仏門に入りながら神事をつかさどっているのである。
 更に保延六年(一一四〇)「上之宮(岩屋谷)、下之宮(矢波前加茂大明神)祭礼神事座例之式」(『坂上文書』吉田一夫氏所蔵)によれば、加茂神社の神事は、神酒弘役五名の筆頭仲太夫時氏(ヲヤ)は坂上中太夫藤原朝臣であり、その父弁覚上座(藤原広近)(イワヤダニ)こと祖父の相模次郎入道信覚(イワヤダニ)は七名の禰宜職の筆頭で、いずれも、坂上藤原朝臣の一族がその主位を占めている。
頌徳の碑 加茂神社前、県道沿いに二つの石碑が建てられている。一つは延宝時代(一六七三~八〇)京都上賀茂神社より派遣され、七代二百余年、この地の加茂神社宮司を務めた西池家の頌徳碑であり、今一つは、明治の村政、和多田地区から大瀬槁を経て田茂谷に達する道路開通の偉勲、そして二十数年の加茂神社の宮司を務めた大道四郎兵衛の顕彰碑である。
 ところで、当加茂神社に藩政早期、なぜに従四位下西池保顕を派遣したのであろうか。その第一の理由は、本加茂神社は京都上賀茂神社の直系であり、社格の高かったことにある。当時、朝廷の崇敬と特別の処遇を受けていた本社の京都賀茂神社に対し、江戸幕府の政策が大きな影響を与えた。朝廷が財力を失ったとき、幕府の資力に依存しなければならない。寛文三年(一六六三)京都賀茂別雷神社は、社領の削減に見合って、今まで特権社司を頂点にした支配組織も、幕府の裁許を経て大きく改変した。社司家の一人、西池保顕が当地へ分遣されたのもそのためといえる。

加茂神社宮司奉仕者
(略)
棣札の一部(あと造改築の一年代のみ記す)(略)


『中名田村誌』
村社加茂神社(下田区字山佐近)
祭神 加茂別雷命   祭日 二月二日 九月二日
一、本殿 間口二間半、奥行三間半  文化九壬申年十一月十五日再建
一、向拝所 間口一間四尺、奥行五尺
一、拝所  間口八尺、奥行八尺五寸
一、拝殿  間口二間四尺、奥行三間三尺  文政十一丁亥九月再建
一、長床  間口二間一尺、奥行五間三尺五寸
一、境内坪数 四百三十六坪
一、境内末社 五社
 塩竈社  間口二尺、奥行二尺 文化三丙寅年三月再建
     祭神 不詳  由緒 不詳
 床浦社  間口二尺、奥行二尺  寛政三年亥年四月再建
     祭神 不詳  由緒 不詳
 妙見宮社  間口一尺、奥行一尺  安政四壬巳年
     小堂庄兵衛建立
     祭神 不詳  由緒 不詳
 太田神社  間口三尺、奥行三尺  天明四甲辰年三月再建
     祭神 不詳  由緒 不詳
 金比羅神社 間口三尺、奥行三尺  天保三壬辰年九月大道四郎兵衛建立
     祭神 不詳  由緒 不詳
 金毘羅社上屋 間口一間、奥行一間  明治十五壬午年三月中西宗兵衛建立
一、鳥居  一基
一、楼門 間口八尺、奥行七尺 文政十一丁亥年九月再建
一、石玉垣 内垣十五間外垣十六間五尺五寸 大正三年甲寅年九月竣工
  氏子戸数 二百四十四戸 管轄庁距離二十五里十町
若狭国志曰 矢波前加茂神祠在田村与和多田村共祭祀云々
若狭郡県志曰 矢波前加茂神祠在下中郡田村二月二日九月二日祭有神事有能有田村和多田村等土人為産神(中略)神主謂西池氏有二月二日九月二日祭礼有巫女社領従山城上加茂奉二十五石宛云々
 加茂神社由緒 本社の最旧殿は、第四十二代文武天皇大宝のころ、山前に鎮座していたが、桓武天皇延暦五丙寅年、坂上田村麻呂が当地に来て、社前を通ると不思議なことに白髪の老翁が岩穴にすわっていた。将軍が怪しんで問うと翁が答えて言うに「我は山城国葛野郡松尾に住む加茂別雷と号し当所を開発せんが為に汝を待つこと久し」と呼び、こつぜんと消えてしまった。将軍大いに感じこれこそ加茂別雷の神であったかと、これより開発に努め、村人を豊かにさせた。こうして延暦八己巳年、別雷神の御鎮座殿を現地に創建、山前加茂別雷大明神と号し、祭日を定めたり、この谷を田村谷と呼ぶようになった。それから田村麻呂の家臣が本社を守護してきたが、その後郷土の古家某が祭典を司るに至って、許されて宮田から荒稲、和稲、鏡餅等を奉献する掟となった。
 村上天皇天暦七年、山城国上加茂神宮の禰宜職正五位在実から二十二代を経て、従四位下西池保皆の二男を加茂からよこされ、禄高年九石六斗五升与えられ、矢波前加茂別雷大明神と号するに至った。
 従四位下西池保相(二代)禄高年十石三斗九升、従五位西池探題(三代)禄高年十二石四斗一升、正四位西池変顕(四代)禄高年十二石二斗二升、従五位西池俊顕(五代)禄高年十三石二斗七升、従五位西池治顕(六代)不給(但明治維新改革に依る)、西池里顕(七代)以後一時守護する者がいなくなったが、明治四十円年六月四日、大道四郎兵衛社掌となって守護するようになり現任している。
 明治三十九年四月、勅令第九十六号により、神饌幣帛料を供献することが指定された。


『遠敷郡誌』
加茂神社 指定村社にして同村下田字山左近にあり、祭神は別雷神なり、舊記に矢波前(ヤハサキ)賀茂神詞本國神諧記に正五位とあり、元矢波前賀茂神社又は山崎大明神と稱し、上田・下田・上和多田・下和多田を氏子とせり、祠官は西脇氏にして社領二十五石を山城國上賀茂より上るといふ境内に鹽釜社・床浦社・天満社・太田社・金毘羅神社あり、何れも祭神不詳なり、愛宕神社祭神軻遇突知神は、明和四年勧請大正九年字岸より合併す。


曹洞宗多古木山長田寺(田村薬師)

田村川右岸、能登地にある。山号多古木山、曹洞宗、本尊薬師如来。俗に田村薬師とよばれる。「若狭郡県志」や「若州管内社寺由緒記」に記す縁起は延暦年間延鎮の開山という。真言宗として推移し、室町時代には守護武田氏被官の名田庄代官粟屋元隆の崇敬を受け、同氏は享禄4年(1531)長田寺縁起写の巻末に、子の亀松丸と子孫の繁栄などを祈る願文を記している。江戸時代には小浜藩主酒井忠勝・忠直父子から戸帳の寄付を受けている。「若狭郡県志」に「天正年中属二妙楽寺之末派一、(中略)今曹洞禅僧寺守レ之」とあり、江戸中期以降曹洞宗に改宗した。長田寺の薬師如来立像は、田村薬師と呼ばれ、この地域を開いた坂上田村麻呂ゆかりの仏像として信仰が篤い。



『中名田誌』
長田寺(田村の薬師)曹洞宗興禅寺末
本尊 薬師如来(立像六尺二分)
脇立 日光菩薩・月光菩薩
脇壇 十二将神・延鎮上人(撫で仏)・弘法大師
 田村薬師の名で知られている多古木山長田寺は、坂上田村麻呂の御願内供で、大和の人、延鎮上人が延暦十五年(七九六)、能登地の奥に創建したことに始まる。七堂伽藍の堂宇は壮大を極め、金堂には延鎮上人自作の薬師如来と、その脇立として日光・月光両菩薩が安置されたという。
 当時田村麻呂の家臣、高階行宗(大膳亮高階朝臣)がこの地の采邑をつかさどり、その子覚慶が律師という僧位を得て、延鎮上人のあとを継承している。高階氏というのは、天武天皇の皇子高市親王より出た氏族で古代諸省の要職を歴任、朝臣姓を名乗った。高階行宗の子覚慶の代に至って富田郷(現中名田と三重地区)を領している。
 長田寺の創建と年代を同じくして、上田区見谷には長田寺薬師如来の鎮守神として熊野本宮大明神を招致しているし、同じく上田区岩井谷では田村麻呂の勧請で薬師奥の院として熊野権現を構築し、十一面観世音を併祀している。
 長田寺薬師堂の創建については、同寺の『縁起録』、『若狭国志』、『野代妙楽寺文書』で明らかであるが、何よりもその真実を裏付けるものは、岩屋谷熊野三所権現に残された棟札といえる。この棟札は天長三年(八二六)のもので、田村薬師創建後三〇年にすぎない。しかもこの棟札を通して坂上田村麻呂という人物が、当地域との関係において、それが架空のものでないことを如実に証明しているといえる。
 当社者草建之鎮守桓武天皇御宇田村麿御願延暦十七戊寅三月上
 旬於于岩屋山有霊現一人頭取依有之御公儀躰言上代官山申請斯
 処鎮座熊野三所権現与号薬師如来之奥院也………(以下略す)
         (天長三年・熊野三所権現棟札)
 鎌倉時代から南北朝時代に至って、戦乱の余波を受け、当寺院も荒廃するところとなり、ようやく応永三年(一三九六)、当寺院は能登地から移転、現在地に伽藍再興の工が起こされた。新たな金堂は七間に九間、一間の回り縁付きで、その結構は美観を尽くした。
 享禄四年(一五二八)八月、妙楽寺檀那源元隆が霊感あって当寺院の戸帳を開き、七昼夜にわたって諸祈願をするとともに、古びた縁起を旧本どおり写した。その時の記録の一部は次のとおりである。
 ………長田寺緑起………(略)
 享禄第四青龍辛夘秋八月初六月、以有霊感開当寺仏前戸帳、元
 隆斉于本寺者七昼夜、所冀国泰民安家斉身修矣、専祈亀松丸福
 寿増長・子孫繁栄・武運延洪・慈沢深宏、至若千災遠遁万病悉
 除焉。乃披閲縁起為歴年歳文字頓泯、謂有不安不為之改易以旧
 本写之而已
        当寺檀那源元隆誌焉(『妙楽寺文書』)
 天正十一年(一五八三)ころ、豊臣秀吉の家臣によって長田寺は焼き打ちされ、その所領を失った。小村城が同じく秀吉の家臣、丹波長秀によって破却されたのは、翌天正十二年である。
 『妙楽寺文書』によると、長田寺は、天正年中妙楽寺の末派に属して真言宗の受戒灌頂を受けたり、本尊の開帳を行ったりしている。開帳の時、若狭の国主酒井忠勝公から寺領の寄付書も受け、その例にならい酒井忠直公からも寄付を受けている。
  …前文略… 抑彼寺者、延咯之比沙弥延鎮和尚草建スト云フ。
  雖然星霜畳年伽藍朽闕ス。囚之天正年中之比、添当寺末派専汲
  密乗法水神道灌頂等行之。栄瑜法印修。私記曼荼羅等別ニア
  リ。自然以来本尊開帳代々当院ヨリ勤之。
  本尊開帳之事、先師栄真之代勤之。国主 酒井讃岐守忠勝公
  法名空印 此節戸帳有御寄附矣。其後 酒井修理太夫忠直公
  法名空山 御住国之節、木萪開帳之節、任先例乞戸帳、即日ニ
  在御寄附。栄玄代延宝七未八月廿一日開帳。戸帳之長一丈一
  尺。後為供養大般若令転読。
  寛文比在施主、本尊再典修之。院主栄玄。仏師平安城住大
                長田寺々務 院主栄玄(印)
 天保元年(一八三〇)長田寺は本堂並びに鐘楼まで延焼の災厄に遭い、天保十一年仮堂建設、嘉永七年(一八五三)ようやく現在の堂宇が再建された。その問、五年間にわたって関係者に寄付を求め、助成を仰いでいる。
   妙薬寺并名川庄上・下田村役員等連署願書控
 名田庄田村長田寺薬師如来者、桓武天皇御宇、坂上田村麿御
 願、延鎮上人之創建なり。然処去る寅十二月二日夜半、本堂并
 鐘楼堂至迄焼失仕。然共無檀無縁ニ而本堂再建も難出来ニ付、
 御国中当年より五ヶ年之間、年一度宛相対勧化仕、以助勢建立仕
 度候様奉願上候。右願之通被仰付被為下候ハゝ難有奉存候。
                         以上
  天保三年壬辰年(一八三二)十月  別当妙楽寺
                   下田村庄屋・組頭)
  (若狭藩奉行・代官三名宛)    上田村庄屋・組頭
 長田寺薬師堂の開帳は天正年代に始まり、今日に至る四〇〇年間、毎回一七年目ごとに行われてきた。しかし、宝暦九年(一七五九)、中開帳の年は不作のため困窮し、御開帳を捨て置いた年がある。ところが、その後村に難病が多発したり、農作物の不作が続いたため、これは仏のたたりと恐れ、七年目の明和二年八月、急ぎ開帳法事供養を行りている。
 近年、西国三十三か所の霊場建立はじめ、本堂、庫裡、渡り廊下などの増改築がなされ、往時の威容を偲べるに至った。秋の彼岸祭は参拝者でにぎわう。
住職(略)
増改築など(略)


『中名田村誌』
長田寺(田村の薬師)
本尊 薬師如来(立像六尺二分)
脇立 日光仏、月光仏(各三尺五分)
脇檀 十二将神
其他 延鎮上人、撫デ仏、弘法大師
祭日 秋期彼岸の中日及結願
本堂 問口七間、奥行五間、四方幅一間の迴橡付
庫裡 縦四間半、横三間半
鐘楼 縦二間、横一間五尺
般若庫 縦九尺五寸、横一丈
手洗所 縦一丈、横五尺
面積 四百七十二坪
若狭国史に曰 長田寺在田村縁起曰此地古者坂上田村麿之采邑也其臣大膳太夫高階行宗米掌菜地延暦年中令僧延鎮創造堂宇安延鎮所刻薬師仏伝言以大杉木一本造一堂至于今不罹災棟簡曰延暦十三甲戌八月八日造営始同十五丙子十月十八日棟上大工清原貞憲小工源末次同藤原友次同二十一正午三月十三日供養導師長意和尚此棟簡近世廃金皷勒曰応永三年八月田村長田寺云々
伴信友翁註曰 薬師堂は七間に九間なり古は所謂七堂伽藍のありしが今は一堂のみ残れり薬師の像長六尺一分あり此堂の材木綾杉と云ふ杉一本や以て作ると云ふ其の作りざま楔一つも用ひたる事なしと云ふ。考ふるにあや杉建と云ふで木を打違へに立て双べたり綾庫の類なるべしと
若狭郡県志に曰 長田寺は下中郡田村の内にあり供奉延鎮の開基也伝え曰此の処坂上田村麿の采色となす大膳太夫高梨行宗茲)に来て之を掌る行宗疾を患ふ一夜夢に老翁告て曰く此の山林に僧あり彼れに就き宜しく薬師の像を造立すべし然らば即ち疾病速に癒ゆべし行宗覚で後弘次恒沢の二士を使はし僧を山林に求む僧山中にありて持念す是所謂延鎮なり事田村麿に達し遂に天聴に覃す延暦十五年十月十八日堂宇既に成て薬師の像を安んず其長六尺二分日光月光の像長さ各三尺五寸倶に延鎮の刻む処なり而して山号を多古木山名を長田寺と定め四方に榜示するに至る所謂東は野川を限り西は瀑樋を限り南は多古木の嶺を限り北は飯盛山を限る、其後延鎮寺を律師覚慶に附属す覚慶は行宗の子也延暦二十一年三月十三日堂の供養あり長意和尚導師となる天正年中妙楽寺の末派に属し法印栄論灌頂を此の寺に行ふ。
長田寺沿革 当寺は、桓武天皇の時代坂上田村麻呂の御願内供奉延鎮上人の創建で、延鎮の自刻仏薬師如米、日光月光の二仏を安置されている。延暦十二癸酉年八月八日起工し、同十五丙子年十月十八日上棟式を挙げた。大工は、清原貞憲、小工源末次、同藤原友次で、同二十一壬午年三月十三日供養した。導師は、長意大和尚であった。寺領として四至を賜った。
東は野川を限る
西は武見の峯を限る
南は多古木の嶺を限る
北は飯盛山を限る
以後時勢の進運と仏徳の広大により、応永元年三月、堂宇再建の議決をし、直ちに着工、同三年八月現在の地に七堂の大伽藍を建築した。本堂は七間に九間四方、各一間の同橡付きで、結構壮大美麗、参けいの老若男女絶え間なく、田村薬帥の名声遠近に聞こえたという。天正のころとなり豊臣秀吉が天下を統一すると、その臣某に長田寺領を奪い取らせ、そのうえ所属建築物をことごとく焼いてしまった。以後二百四十有余年の星霜を経て、天保元庚寅冬半ぼ再び火災におよんだが同十己亥年、仮堂を建築し、嘉永七年に至って郷民共同一致の結果、現在の草堂を建築することができた。
宝物
一、僧円鎮上人御真筆の大般若経
一、豊公焼印の大柄杓(豊公の臣寺領を奪取するとき堂守の嘆願によって附与せられたもの)
一、高階行宗寄附の金襴の御帳幕
緑起 当寺は、桓武天皇の時代坂上田村麻呂の御頤内供奉延鎮僧都の創建である。この地は当時坂上田村麻呂卿の地行所だったため、その臣大膳太大高階行宗が来て、この地をつかさどる。延暦年中僧延鎮に命じて堂宇を創造させた。延鎮が自刻した薬師仏及び日光仏月光仏を安置した。延鎮上人は、大和国高市郡子島寺に住み、若年から菩提心を起こし、生涯中生身の薬師如来をおがみたてまつろうと誓願を立てられたが、ある夜夢に「大和を去り、北に赴き山中に入り霊所を訪ぬれば、薬師如来を拝し奉り得べし」と。延鎮大いに喜び翌朝旅装を整え京都、近江を経て若狭に入り、漸次名田荘谷に入られ険悪なる道をたどって田村谷(後の名)に入りて、立てり。(現竹の木)にたたずんで四方を眺められると、なんと不思議なことか、南方の山中に金色の御光を放っている。大急ぎで行ってみると、そこに一軒の草菴があって、白髪の老翁が安座し、陀羅尼を唱えている。延鎮は、汝は誰、此処は何処と問うと、翁言うに「予は行睿と号し此の地は多古木と謂ひ医王善誓の霊地なり我此の地に住すること二百余歳汝を待つこと久し」と。そしてかき消すように去り給わんとし、急ぎつく所の錫杖で背の長さを計り給うに錫杖の長さと等し(その後杖の長さをとって薬師如米の像の長さとした)と。延鎮不思議に堪えず、さては霊夢のように、まさしく生身の薬師如来でお存したかと、三拝九拝、足の踏む所を知らず歓喜された。それから行法怠らず、十六年の星霜を草菴で送り給う。ちょうどこの時、延暦十二癸四年、大納言坂上田村麿卿の臣高階朝臣大膳太夫行宗眼病にかかり、あらゆる医薬を尽くしても、さっぱり効果がない。そこで薬師如来に祈誓した。それから十七日の夜、夢に翁が現れて告げた。「此を去る南三里に霊地あり堂宇を建立し薬師如来を造安せしめば当病平癒ならん」と。翌日弘次、恒沢二人の使者が霊所を訪ねて延鎮のもとに行き、訪問のわけを語った。延鎮曰く「我が願既に成就す然れとも無物にして一宇を建立し難し」と。使者は帰って国務に語った。行宗は信心家だったので急いで将軍に伝え、将軍も感激して伽藍の造営を計画した。飯盛山に綾杉の大木があり、これ一木で材本に充て、綾蔵造りの金堂を完成した(この堂はくさび一木も用いずに造ったもので、これを「せいろだたみ」という)。寺領として四至を賜った。


『遠敷郡誌』
長田寺 曹洞宗興禅寺末にして本尊は薬師如来なり、同村上田字堂脇に在り、一に長傳寺に作り、延暦年中田村磨の所願内供奉延鎮の開基にして鎮師自作の本尊及び大般若經を納む、高階氏行宗の子薙染して覺慶律師と稱し鎮師より此寺を付せらると傳ふ、事實を徴すべき記録無しと雖中古以来明樂寺之が別當として正徳の頃迄遠近の通俗田村の薬師として尊崇し来りしが、其後火災に會ひ享保十六年興禅寺末に列し舊観を止めず。


曹洞宗太陽山最勝寺

『中名田誌』
最勝寺(曹洞宗興禅寺末)
本尊 大聚釈迦如来
脇立 文殊・普賢二菩薩
 本尊は仏教の開祖釈迦如来である。脇立に祭られている文殊普薩は悟りの最高知たる般若を身に備えると説かれ、釈迦の持つ知恵を形に表現した人物とされ、大日如来の五知を示す五髻を頭に結んだ童子形である。普賢菩薩もまた理知、悟りの心、修業の功徳を備え、釈迦の教化指導を助け広める役を果たすといわれる。文殊菩薩とともに、すべての菩薩の首位に置かれる。
 本寺院は、小寺を合併し最勝寺として開山されたのは明治十一年であり、寺院が現在地に建立されたのは同十三年である。
 合併前はどうであったかというと、文化五年(一八〇八)の文書『国鏡』によると下田村に玉峰寺(脇原)と徳雲寺(山佐近)があった。ところが玉峰寺というのは天正三年(一五七五)岸にあった妙法寺と脇原にあった高雲寺が合併された寺院である。してみると妙法寺(岸)・徳雲寺・高雲寺はいつ創立されたものであろうか。
 保安四年(一一四〇)「下之宮(山前大明神)祭礼神事座例之式」の文書には、「次郎香堂阿闍梨キシ」、「三河入道大道ヤマザコ」がいずれも禰宜を務め、「奥東左近介ワキバラ」が灯明役を務めている。更に、『坂上家の系図』(吉田一夫氏所蔵)では、田村麻呂から一一代(九七〇年ころ)慶円の嫡子信慶が左近太夫入道、次男が香道阿闍梨、三男が志摩入道(数馬介入道)と記され、それぞれに、この土地の人らしく、しかも仏門に入った僧であることがわかる。おそらく平安の昔においてこれらの豪族によって寺院が建立され、住民に信教が流布されたものといえる。
 本寺院は明治三十一年大災、同三十三年再建上棟、以下別表のとおり現在に至る。
住職 (略)
主なる増改築 (略)


『中名田村誌』
最勝寺(曹洞宗興禅寺末)
本尊 大聖釈迦如来
脇立 文殊、普賢二菩薩
開基 行円僧都(天台宗の時)白巌竜積大和尚
開山 恵海智産大和尚
 当山の古い歴史は、惜しいことに明治三十一年類焼の災厄で焼失し、その由緒をたずねることはできないが、曹洞宗に帰してからの来歴は、本寺の旧記に記されている。しかし、ここでは、昔からの伝承あるいは旧家に残る古文書を対照し、次にこれを載せる。とはいっても真偽のほどは責任を持てないので、この点了解されたい。
 当山は第百五代後奈良天皇の時代、天文十三甲辰年のころ、字岸村に妙法寺という一軒の草奄があり行円僧都がここに住んで大いに天台の宗風を布いた。その後天正三己亥年行円は亡くなり、脇原高雲菴に合併した(真言宗)。以来半真半俗の道心が住んだ。延宝八庚申年に至って、時の住持永蔵主が曹洞の宗風を慕い、ついに桂木村(現相生)興禅寺五世白巌竜積和尚を招いて曹洞宗に改宗した。一船快乗和尚、竜積和尚の命を奉じ高雲奄に移った。これより寺号を玉峰寺と改め、山号を孤雲山と称し、純然たる曹洞宗となる。また山佐近徳雲菴は昔珍蔵主という半俗者が居住し、曹洞の宗味を聞き、興禅六世天瑞円至和尚に同菴を寄付、曹洞宗に改宗し、薬師山徳雲菴と称するようになった。ところが星移り年変わるにしたがい、明治維新の新しい時代に浴し、日進月歩文明が進むとともに、一部落で幾つもの寺を維持することは不経済だとして、合併論を唱導する者が続出し、令併委員を選出した。以来、各関係者と協議を重ねて合併することを決め、明治十年十二月十三日に合併、寺号改称に関する願書を提出して十一年二月十五日付で認可され、最勝寺となった。ところで、玉峰寺、徳雲菴の敷地は、いずれも僻地で不便であった。これに対し下田中央地の今の敷地は幸い昔から妙法寺屋敷だったため、この地を開拓し、同十三年四月二日、関係者方面の認可を得て旧玉峰寺伽藍を利用しながら移転再建、同十四年住職だった桃林万丈和尚法地開闢の認可を得て、その本師たる佐賀県佐賀市、宗竜寺三十五世恵海智産和尚を法地開山に勧請し、翌十五年六月開闢普山式を行った。万丈和尚は当地に錫を止むること七年で納田終檀溪寺の請を受け、山崎雲外和尚を当寺の補住に招き、納田終に転住した。雲外和尚は約五年後の二十一年ついに永眠したため、万丈和尚が再住し、三十年其資現住職その後をついだが、三十一年四月十二日、不幸にも住職不在中に火を出し、伽藍はもちろん什器、古文書ことごとく灰にしてしまった。しかし昔から伝来の本尊及び脇立の三尊像は、難を免れたため旧徳雲菴で雨露をしのぐこと三年、三十二年八月起工し、三十三年三月上棟したのが今の堂で、現住職は桃林和尚の徒弟、小堂潜竜と呼ばれる。
伝承 岸村の埋葬地は、昔安部晴明この地に來て古い、墓地にしたという(字樫本)岸村の妙法寺は、昔田村将軍の従者香堂入道の創立というが享保二十年(卯年)の洪水で破壊された。しかし再建することができず、以来、小堂族の所有に帰したという。


『遠敷郡誌』
最勝寺 曹洞宗興禅寺末にして本尊は釋迦如来なり、同村下田字樫本に在り、天文年間より一の草庵あり、天正三年字脇原に真言宗永藏主なる者之を合併し其後延寶八年興禅寺来となり、字上野に在りし徳雲庵を合併して最勝寺と改め明治十三年字北勝の地より移轉す。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


下田の主な歴史記録




下田の伝説


『越前若狭の伝説』
加茂神社           (下 田)
 延暦五年(七八六)坂上田村麿か当地に下ったとき、この社の前を通ったところ、岩穴の中に白髪の老翁が安坐している。将軍が怪しんで問うと、「わたしは山城国(京都府)葛野郡松尾に住む加茂別雷(わけいがずち)といい、ここを開発するため、お前を待つこと久しい。」といって、姿を消した。将軍は大いに感じて、開発につとめ、戸口かふえた。        (中名旧村誌)





下田の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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