丹後の地名 若狭版

若狭

新保(しんぼ)
福井県小浜市新保


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福井県小浜市新保

福井県遠敷郡宮川村新保

新保の概要




《新保の概要》

野木川左岸の宮川谷中央部に位置する。集落は南西流する新保北川・新保南川上流域谷間の山沿いに立地する。
新保は、鎌倉期~戦国期に見える保の名、保というのは国衙領のこと、室町・戦国期に新保村とも見える。宮川保は少なくとも南北朝期には本保・新保・奥(保)に分かれていた。天福2年(1234)以降宮川保地頭は賀茂別雷社領宮河荘から大谷村と矢代浦を割き取ろうとして争いを起こすが、文暦2年(1235)6月の六波羅御教書案では、その中心となったのは「宮河新保地頭代」であったと見え、これが新保の初見である。その後も嘉禎3年(1237)・寛元元年(1243)の国検の時、宮川保・新保地頭は大谷村・矢代浦、保内の賀茂社神田について国衙在庁と結んで保の所領化、すなわち国衙領化しようとしたが、いずれも成功しなかった。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案には新保は15町2反290歩と記され、除田のうちに賀茂社と紛争になった賀茂出作田1町4反80歩・地頭給1町8反180歩などが見える。また遠敷郡の別名吉末名は建長3年(1251)11月に春日社領として見え、この吉末名のうちl町100歩が新保にあり同惣田数帳案にもそれが記されている。応永31・32年(1424・25)の明通寺寄進棟札にそれぞれ「新保西坊」「新保杉若」が見え、文明6年(1474)に「新保村秀司大夫」、享禄4年(1531)に「宮川保新保村」とあって、村と称されるようになる。また,16世紀には武田氏一族の武田信高・信方父子が新保霞美ケ城に拠って「宮川殿」と称され勢力を振るった。
近世の新保村 江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」に、家数61 ・ 人数307、寺3・社8、小名に谷条・上条・下条・青野がある。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年宮川村の大字となる。
近代の新保は、明治22年~現在の大字名。はじめ宮川村,昭和30年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西12町余・南北5町余、戸数53、人口は男135 ・ 女124。


《新保の人口・世帯数》 141・41


《新保の主な社寺など》

竜泉寺山古墳群


若狭地方の最古級のものとされる竜泉寺山古墳、あるいは弥生墳墓。竜泉寺のある小さな谷を抱く左右の腕のような低い山にある。
『小浜市史』
宮川谷のほぼ中央部東側に位置する新保では、中世山城の所在する新保山(標高二九七メートル)から南西に延びた枝峰先端部の三ブロックに分布がみられる。龍泉寺(禅宗)の東南に張出す丘陵上にはかつて古墳の所在したことを示す部分が認められるが、現在は城郭遺構の様相が強く、ここでは記録だけにとどめておく。これに対蹠して西南に張り出す丘陵では三基の方墳と三基の円墳が所在する。方墳は山頂に順列してつくられ、一号墳は一辺が一〇メートル四方、高さ三メートル、二号墳は一二×一五メートル、高さ一・五メートル、三号墳は一辺一一メートルの正方形で高さ一・五メートルが計測される。これらの築造年代は不明だが、古い様相を示すものとして注目されよう。円墳はその斜面と背景の山嶺につくられている。
新保と大谷との境をなす山嶺稜線上の小字こわきには、方形墳一基と円墳一一基が並んでつくられているが、最高所に一四×一〇メートルの方墳があり、その前方に本古墳群で最大の直径一三メートルを計る円墳が所在する。それよりやゝ下って、尾根状に一〇基が並ぶがいずれも径一〇メートル以下である。最高所の方墳・円墳の被葬者がこの地球の支配者であろうか。ここからは加茂平野が一望され、立地としては最高の場所といえる。
こわきから北へ延びた枝峰山裾の大谷区矢袋地区にも二基の古墳がある。いずれも石室の一部を露出させているが、このうち一基は農道拡張のとき破壊されたらしく、側溝でハソウの完形品が採取された。それによって本古墳が六世紀後半につくられたと推測される。


『みやがわの歴史』
あおの山古墳群
龍泉寺の東南に張出す低い丘陵上にあります。これの現状は新保山城の南側最先郭となっており(新保山城を参照)、古墳の形をなしていないが、よくみると古墳を利用して城郭をつくったことがわがるため、古墳群としてここに記すものです。新保から龍泉寺へ廻る山裾先端は俗に六本松と呼ばれており、六体地蔵が安置されていますが、ここを登ると人工的に段差をつけた平場が数段つづき、海抜四〇メートルラインまでの間に円墳二基・方形墳一基の痕跡が認められます。とくに方形墳は最高所にあって、溝を掘って一画をつくっています。背後は中世に城の掘切りとして調整したものか、かなりの切断面がみられます。
 方形墳は、いわゆる方形台状墓となるのか、或は方墳であるのか、今のところ明らかにできませんが、盛土の低いこと、溝によって画されていることなどから、二世紀末頃につくられたという方形台状墓である可能性も考えられます。その下方に円墳が造成されたらしく、これらは六世紀代と考えられましよう。ただし、中世の撹乱があるためはっきりとは云えません。たとえば、加茂城の下城では明らかに古墳を整備して築城しており、掘切りも古墳を切断してつくられているのです。こうしたことから、前述のような推定がされるもので、各地で同様の形態をみることができます。なお先端部では道路拡張に際して山を削ったところ土師器が出土したと聞きますが今は所在不明となっているようです。
龍泉寺山古墳群
龍泉寺の南西に張出した海抜四〇メートル内外の独立丘陵状を呈した部分があり、仮に龍泉寺山と呼びます。丘陵先端の山裾には若狭地方でも通常にみられる両墓制の埋め墓があり、近世以降であろうか新保の共同墓地となっています。やや突出した丘陵上からは宮川谷中央部を望むことができ、古墳造成の地理的条件としては最適の場所と考えられます。龍泉寺周辺地域も昭和五〇年冬に調査しましたが、本古墳群は龍泉寺庫裡新築のために伐採されて裸山となったことで昭和四七年四月二三日、筆者によって確認されたものです。そのときは方形墳一基と円墳三基と考えていましたが、五〇年の調査
で、方形墳は一基ではなく三基が連続してつくられていることが明らかになりました。円墳については丘陵斜面を利用してつくられた三基と、北側尾根上六〇メートルラインの一基を加えて四基が発見されました。丘陵の円墳は二基とも東側斜面につくられており、これ以外にもやや封土らしきものを持った部分もあって、さらに増える可能性もあります。
 方形墳は丘陵先端部より仮に一号・二号・三号墳として記述すると、一号墳は平坦な丘陵の先端を方形に調整し、一辺が約一〇メートル、高さは三メートルが計測されます。本墳の南西前面が丘陵の先端となっているため二・三号墳より盛土が高く見えます。
 二号墳は一号墳に接続して造成され、一二メートル×一五メートルとなっていますが、高さは現状で一、五メートルです。三号墳は二号墳と溝によって画されており、一辺一一メートルのほぼ正方形で高さは二号墳と同じく一、五メートルとなっています。二・三号墳とも平坦な丘陵上部を利用して側面を調整しており、古墳時代の方墳とは趣きが異っています。
 この当時では、若狭で方形台状墓と推定される遺構は発見されていませんでしたが、本墳の発見以後、三方町の田名古墳群、松尾谷古墳群、上中町の瓜生古墳群、小浜市の高塚古墳群、木崎古墳群など各地で確認されています。もっとも発掘調査がなされていないため、造成年代を決定づけることは出来ませんが、これらはいずれも梯形状を示し、方形台状墓と呼ばれるもので、古墳時代の方墳とは区別されています。壮大な墳丘を伴った古墳とは異なり、敦賀市吉河遺跡にみられるような集落に接して墓域がつくられる弥生時代中~後期の方形周溝墓のあとに出現する墳墓として注目される遺構といえます。
 年代的には三世紀末頃と考えられ、古墳発生の初現を示すものとして龍泉寺古墳群は注目されるのです。二号墳・三号墳の溝は自然丘陵を意識的に調整し、一つの墓域を形成するためのものと考えられ、墳丘もいわゆる古墳の封土的なものでなく、方形調整に必要な結果と推察されましょう。
この墓域には複数の土拡の存在することも考えられるのです。円墳については恐らく後期古墳と推定され、造成年代を六世紀代に求められるでしょう。



大幡彦姫神社


『みやがわの歴史』
大幡彦姫神社
新保区字沢に鎮座。俗に姫の宮とも呼ばれています。大幡彦神・大幡姫神を祀る(旧村社)。無格社山祇社(大山咋命を合杞)。境内社として日枝神社(大己貴命)・八幡神社(応神天皇)・熊野神社(少名彦名神)もあります。弘仁年中(八一〇~二三)の勧請と伝えますが「延喜式」神名帳には載りません。しかし、かなり古くから所在したものか、享禄五年(一五三二)の「神名帳写」(小野寺文書)には「正五位大幡彦明神・大幡姫明神」とあります。現在は新保区の氏神として崇敬され、二月九日 山ノ口、四月五日 春の例祭、一一月 神迎へ厄払の行事、一二月 山ノ口祭と併せて大祓などの年中行事がおこなわれています。
伴信友「神社私考」には
 正五位大幡彦明神・正五位大幡姫明神、郡県志に大幡明神社新保村の産神となす。彦姫明神と称す。即ち大幡彦大幡姫の二座を茲に祭る者か。相伝う新保村城主上杉金吾粟屋右京亮元隆武田中務同五郎等之を崇敬す。天文一九年(一五五〇)武田五郎斯の社を修補す。これの奉行内藤和泉入道為せり。尋ぬるにこの姫彦明神を下ノ宮とも呼びて、熱田の大神を移し祭れるなりと。別に山姫の神とも山の神と袮すが大なる森の中に坐せりという。今は社なし。この森のあたり神の山田と称う田地もあり、彦姫神社の祭日にはこの森の山彦姫の神をも宗る例なりと言へり。按ふにこの森に大幡姫の神の社ありけるが、破壊れおとろへ給えるを造り替うべき力なく神体を姫神の社に移し合祭りで彦姫明神と申し、さて其の姫神の社の跡処を山姫または山の神と申し祭り来れるならむ。
又今の彦姫明神の社と下ノ宮というはこのときのならわしならぬ。山姫の神の森の奥に観音堂あり、昔の寺跡なりとて大幡寺と銘ある古き鐘の遺れるをむもへば、この村を新保と呼ぶは後の名にて、旧は大幡村とぞ称えたりけむ。
   (注)観音堂の鐘は第二次大戦のとき供山された。
と記されています。また磐座があって古い信仰形態を示します(宮川の祭祀遺跡参照)。


大幡彦姫神社の磐座
新保区に鎮座の大幡彦姫神社背後の宮山に、大小数群で構成する古代の神座、即ち磐座があります。
 後世この磐座群の直下前面を削平して小平地がつくられ、本末社の社殿が造営されていますが、丘上の磐座群と、大岩盤を背に負う社殿は、背後に仰ぐ加茂三山の麗姿と相俟っていかにも古社らしい風格を漂わせます。
 大磐座群のうち、最も代表的なものは地上部が三体に分れる巨岩で、恐らく古代祭祀の中心神座と思われます。
 その中央体は丘上地上からの高さ二・二メートル、向って左側体が同一・七メートル、右側体が同一メートル、正面幅は最大二・七メートル、横幅は同二・〇五メートルを計測します。この磐座群は社殿後背の丘にのみ偏在して稜線に連らず、整然として神域を区画しています。
 伴信友は(『若狭国神名帳私考』)で、当社はもと下官と称し熱田大神を祭るという里人の伝えと、大なる林中で廃頽した上宮の大幡姫神を下官に合祭して、大幡彦姫一社の制としたこと、また古代の神名は地名を負う多数の例証から、新保村の旧称は大幡村であると考証し、一方、遠敷郡神社明細帳は当社を創建未詳とし、境内の日枝社を弘仁年間(八一〇~八二三)竹長・日枝神社よりの勧請と伝えます。これらの諸伝から大幡彦神は地主神として早くから磐座に鎮まり、のち伴氏指摘の経過をたどるうち、日枝神社の境内遷祀をみたものと思われます。
 往年の神庫も今は単なる岩石群と化しましたが、磐座の前面に建営した社殿の姿から、社殿祭祀移行の初期には未だ磐座の神威を恐れ畏んだ古人の心情が偲ばれます。


『遠敷郡誌』
大幡彦姫神社 村社にして同村新保字澤にあり、弘仁年間勧請すと傳ふれども祭神不詳なり、本国神階記に正五位大幡彦正五位大幡姫とあり、傳へ曰く新保城主金吾上杉某、右京亮粟屋元隆、中務武田元度、五郎武田元實等之を崇信し、天文十九年和道入道内藤某修補せりと、元大幡明神又單に彦姫大明神と稱せり、境内神社日枝神社祭神大已貴神は元竹長字郷社にあり、八幡神社熊野神社合祀祭神は應仁天皇、少名彦名命にして山神社祭神不詳は字宮ノ脇より大正九年合併す。


社殿の裏の方も探してみたが、磐座はない。社殿を建てるために整地する段階で、ジャマになると破壊してしまったものだろうか。気が利き過ぎてマが抜けてはいまいか。


曹洞宗青雲山龍泉寺

集落の北西谷間にあり、本尊聖観音。天文10年(1541)新保山城主武田元度(信高)の創建と伝える。当寺には信高の跡をついだ信方が末寺久源庵(新保村)に与えた知行宛行状や、敦賀の廻船問屋飴屋治左衛門を通して、松前藩祖が信高の長男太郎であるかどうかを問合せた書状などが残る。また信高・信方の肖像画も蔵し、信高肖像画には京都建仁寺住持英甫永雄(信高次男)の讃がある。

『みやがわの歴史』
龍泉寺
新保集落の北西谷間に所在する曹洞宗永厳寺(敦賀市)の末寺で山号は青雲山、本尊聖観音菩薩坐像(鎌倉時代)。「若州管内社寺由緒記」には新保山城(霞美ヶ城)城主、武田信高(宮内少輔)か が天文一〇年(一五四一)に創建したと伝えています。開山は大功文政で一説には武田氏一族とありますが、生前に画かれた大功文政頂相の讃(文禄三年に信高の子建仁寺英甫永雄が記す)には大利氏の出身とあります。同禅師は天正四年(一五七六)に六九歳で入寂しており、逆算すると三五歳で当寺の住持となったらしい。
 創建以来、宮川武田氏の牌所として重きをなし、信高・信方が手厚く保護を加えています。当寺の山門から左山裾に進むと信高の墓碑があり、歴代住持の墓地もあります。また、山門は新保山城にかかわりのある建造物との伝説があって、或いは旧宮川武田舘に使用されていたのかも知れません。
 当寺には新保山城二代目武田信方(彦五郎・守護信豊の子)が末寺久源庵に与えた知行宛行状や、御料所代官粟屋元行(左京亮)の知行宛行状を始めとして、近世末期に敦賀の廻船問屋飴屋次左衛門を通じて松前藩々祖が信高の長男であるかどうかを問合せた書状などが数多く残されています。
 大功文政卒後、二世人輪新巨が法燈を継いだものの、慶長三年(一五九九)以後、一時衰退したものか、三世大融寒徹(宝永元年・一七〇四卒)が中興開山として入寺する間空白の期間があったようです。四世以降は法燈がうけつがれ、現在二五世です。昭和四七年庫裡改築、同六一年第二次大戦で供出された梵鐘を再鋳かつては末寺が多くあって、当村の本保には良継寺、竹長の竹林庵、新保では久源庵・東照庵、大谷の長命寺・慶雲庵・霄雲庵・全光寺・休安寺・渓上庵、小沢寺の霊沢寺など一一ヶ寺を数えましたが、すべて廃寺となり現在は良継寺のみです。(現住職・米田宏明)。

『遠敷郡誌』
龍泉寺 曹洞宗永嚴寺末にして本尊は釋迦如來なり、同村新保字上青野に在り、天文十年武田元度の創立なり、境内佛堂に地蔵菩薩を祀る、萬延元年の建立なり。

こんな案内板が立っている
狂歌 英甫永雄(えいほようゆう)
1547年(天文16)。父武田信高(元度)と母宮川尼(細川幽斎の姉)の子として生まれたと伝わる英甫永雄は、若狭守護武田元光の孫にあたります。和歌・狂歌に秀でていた毋の影響か、永雄も歌などを嗜みました。はじめは。建仁寺如是院に住み、1586年(天正14)建仁寺の長老になり、雄長老と呼ばれました。また、雄長老は京都五山の学者でもあり詩僧でありました。近世狂歌の祖と謳われた雄長老の作品は,和歌をたしなんだ叔父の幽斎・歌人の松永貞徳・連歌師の里村紹巴などといった文人との密接な関係から生み出されたと考えられています。こひ宮川の竜泉寺には雄長老が讚した「絹本著色大功文政像」(市指定文化財)が伝わっています。1602年(慶長7)に亡くなりました。
    偽りのある世なりけり神無月 貧乏神は身をも離れぬ




新保山城(霞美(かすみ)ヶ城)

集落の北側裏山にある新保山城は市史跡に指定されている。西側枝蜂先端部には同城の出城跡が、南麓には館跡がある。館跡には立ノ上・立ノ下の字名が残る。西側の谷間には字小屋ノ谷があり、家臣の居住地であったかもしれないという。
北側裏山は標高293メートルを頂点とする稜線上に蛇行して、全長250メートル、最大幅17メートルの城郭があり、さらに西側尾根筋を大谷に向かって延びる枝峰の中段にも城台があり、東西210メートル、最大幅50メートルを測る。城はこの新保側の上城と大谷側の下城から成り、最上段と最下段の比高は70メートルあるという。
上城は山頂稜線を削平しているため、長大な割に幅は狭く、階段状に18郭が連なる連郭式である。5ブロックに分れ、郭の間には空堀を設けて防備とし、287メートルラインの郭と最高所郭を結ぶ3郭が主郭と考えられる。これらの郭の後方・前方・側面は土塁で囲み、一部に盛土した櫓台と推定されるところもあり、宮川谷一円はもとより、松永・平野方面まで望見でき、しかも両側面は急傾斜面で、天然の要害であるという。城主は「若狭郡県志」に「伝言、昔上杉金吾拠之、後年粟屋右京亮元隆居焉、元隆武田元光麾下之士也、其後武田中務守之、中務始名八郎、其子五郎亦棲焉、而領宮川保四箇村并松永東郷之内七箇村、又三方郡倉見庄有采食之地」とあって、上杉・粟屋・武田の三氏が拠ったとする。上杉氏は国衙領宮川保の代官であったが、城を築いたとは考えられず、大永年中(1521ー28)粟屋元隆が築城した可能性が強い。元隆は孫三郎・右京亮を名乗り、初め元泰を称した。若狭守護武田元光の奉行人として加判に列し、最大の武力集団粟屋党の領袖でもあった。また三条西実隆に師事して永正6年(1509)には短冊の認め方を問合せており、以後も文芸の道を歩いている。大永七年の桂川合戦には先陣として活躍した。この戦いで足利義晴・細川高国・武田元光らは近江坂本へ逃れたが、同年10月元隆は同族のみ800人を引具して上洛し、「武具美麗の由各称之、当春多分同名討死、雖然又令上洛、可レ謂武勇之専一一者歟」と京雀を驚かせている。彼は宮川保だけではなく京都大徳寺塔頭徳禅寺領名田庄の代官も兼ね、大永末年から天文初年にかけ勢力は著しく伸長した。
守護武田元光は敗戦や丹後海賊等の若狭湾沿岸への侵入等で気力を失い、隠居して子の信豊に家督を譲り、天文7年(1538)元隆は武田一族の中務少輔信孝を擁して背き、信豊も元隆の成敗を決意した。谷田寺付近の合戦に敗れた元隆は丹波へ逃れ、同年九月、細川氏被官の合力を得て再び若狭へ入ろうとしたが、幕府は細川氏を制止してしまった。
新保山城へは元光の子の信高が入る。彼は兄信豊の奉行人として活躍し、宮川殿とよばれた。しかし弘治2年(1556)信豊・義統親子の相剋で信豊方について討死したとも、病死したとも伝えられる。その跡職は信豊の子と伝える信方が継ぎ、翌3年には信豊の奉行人として加判に列している。信豊隠居後は義統と同等の権限をもち、軍事面での全権を握り、義統卒後は若狭武田氏を代表する勢力となった。元亀元年(1570)織田信長の越前攻めでは反信長勢力を結成し、山県孫三郎のこもるガラガラ城を落城させた。また11月には近江在陣の朝倉義景に陣中見舞を送っている。仏国寺本武田系図は永禄年中(1558ー70)に備後へ没落したと伝えるが、少なくとも元亀三年までは若狭に在国し、信方の没落は天正初年丹羽長秀入部以後と推定される。
新保山城の廃棄は天正12年(1584)丹羽長秀によってなされたと伝える。


《交通》


《産業》
当地の新保山に産する赤色の石で作られた硯は全国的に有名。「若狭郡県志」は「又鳳足硯闕地禁裏之宝器也、天和二年秋、水戸宰相光圀卿奉勅作銘ヲ」と記し、小浜藩主酒井忠直は鳳足石で硯を製作し、全国著名社寺30ヵ所に奉納したという。
『みやがわの歴史』
紫石(鳳足石)
宮川の産物で日本的に有名なものとして紫石があります。現在はあまりいい石は出ないそうですが。かつては多くの名石を産出し硯石として有名を馳せたのです。
 上の写真は宮川新保の龍泉寺に伝来する紫石の硯です。背面(上写真)には「天文三年(一五三四)二月五日献之宮川住武田中務源元度」の銘文が線刻してあり、石材もかなり大きく最大長径三〇・一㎝、幅二八㎝、高二・九㎝が計測されます。表面はほゞ円形に彫られ中央部がかなり減っているところからかつてはよく使われていたことが伺えます。しかし、この硯は伝承として新保山城主が寄進したとされるもので若干疑問もあります。銘文も短冊型で近世的な様相がみられます。本体は別として後世に線刻されたと考えられましょう。
 いずれにしましても、宮川武田氏が龍泉寺に寄進したとすれば室町後期にはすでに知られていたことになりますが、確実な史料としては京極忠高の時代に求められ、慶長年中から寛永初年には採集されていたことが伺えます。このことは寛永一二年(一六三五)一〇月二七日付酒井忠勝書下(『酒井家文庫』)に
  一遠敷郡宮川村之山に硯になり候よき紫石、若狭戸之(京極忠高)時分より近年在之由候。能々見セ候て、少成ともワきへきり取候ハぬ様にかたく法度申付候。上方ヨリもほしがり候石之由候間、油断仕間敷候事。
とあって裏づけられます。これによると京・大阪あたりまでよく知られていたらしく、この頃から宮川の紫石は有名だったと推定されます。この紫石を忠勝は勝手に切り取らぬ様規制したのです。天下の名石を小浜藩が独占し高級な硯をつくろうと目論んだのでしょう。事実、寛永一四年三月二七日付忠勝書下に
 一若州硯石高嶋之此跡ヨリ石見申候ものよび候て相見せ、能石を沢山ニとらセ置可申候事。
 一右之石之内ニて(向井)安右衛門ニ申付、去年のことくの大キ成硯石三面程まるき硯三つ程、八角之硯三つ程常之硯五つ程、京都ニて天下一ニ念を入きらセ可申候。能出来候ハゝ、院之御所様 国母様へ上ケ申候間、出来候ハゝ其方ニ置候而左右を可申越候事。
 一筆之儀ハ京都ヨリ御このミ申来候ハゝ、少もはやくゆわせ上ケ可申俟。硯之儀者しつかにきらセ侯でいつ而も出来次第此方へ可申す越候事。
とあり、例年禁中へ献上の硯を京都の有名硯石工に命じて切らせていたことがわかります。国母様とは二代将軍秀忠の女和子(東福門院)のことです。筆もよいものができたらしく東福門院女房奉書には「わかさのしゝうより御筆百ついしん上候。今程京にハ上すも見え候ハぬ折ふしにて、かやうのてきは一入めつらしくおもしろく。下略)とあります。
 二代藩主忠直は嫡子備後守忠朝の廃嫡によって小浜藩主となりましたが、これを祈念して全国有名社寺に三〇ケ所に硯を奉納しています。この紫石に「紫潭祥雲」と名付けたのが幕府の御用学者林春斉でした。若狭では若狭一宮と若狭神宮寺に奉納されました。神宮寺に残る紫石硯はまことに見事なもので、諸社寺奉納中最高のものと思われます。変形五角形の中央には真円に半月(日・月)を型どった切り込みがあり見事な調和を見せております。勿論未使用です。最大長径三四・二㎝、幅二九・一㎝、高さ三・七㎝を計り、龍泉寺の硯より若干大きく、紫色もきわめて鮮やかです。裏面には
 先考若狭少将?讃岐守源忠勝竭勤労蒙洪恩
 賜若狭一国?數郡余襲封其國郡實
官家厚恵先考餘慶也若州土地膏??産數品就
 中紫色之石鮮明堅緻方今命上?刻爲硯而
 寄進若狭国神宮寺夫硯者壽者也永傳千年祝
 同家繁榮也弘文院林子自先考相識故請之記
 其事
寛文六年(一六六六)丙午仲夏 日
  若狭国主従四品修理大夫源姓酒井氏忠直
と記してあります。三〇ヶ社寺同文で寄進社寺名が異なるだけです。なお禁裏に奉納された紫石硯は天和二年(一六八二)勅命を奉じた水戸光圀によって鳳足石と名付けられました。宮川の硯は結局小浜藩に押えられ、天皇家や大名への献上・贈物として利用されただけで、宮川の特産品とはいいながら村方には何の恩恩も与えられなかったようです。


『大日本地名辞書』
宮川硯は新保に伐出す、其色紅紫或は猪肝、或は青緑にして、其質堅理、緻密、能く墨を発し、温潤玉のごとし、端渓石に似たり、或は命名して鳳足石と云ふ、蓋凝灰岩の一種なり。


《姓氏・人物》


新保の主な歴史記録




新保の伝説・民俗


『みやがわの歴史』
帯取らず明神
新保の青野という里に石碑があり、帯取らず明神(みょうじん)とよんでいる。むかしひとりの少女が青野家に奉公していたが、ある日主人の家で帯がなくなった。みんなこの少女を疑った。少女は無実を訴えたが、信じてもらえず、この家を逃げ出して、川を渡ろうとしたが渡れず、とうとう自殺した。この後、少女が無実であったことがわかり、碑を建てて、その少女の霊をまつり、帯取らず明神と名づけた。自殺した所も帯とらずと名づけ、竹長村にある。  (宮川村誌)

辻堂の松
松の根元に小さな地蔵堂があるので、この名がある。この地蔵堂を建てたとき植えた松であるという。下枝が垂れて田んぼの面に達しているが、だれも切らない。枝を切ればたちまち腹痛を起すという。(宮川村誌)


無病息災や五穀豊穣などを願い、子どもたちが集落を回る伝統行事「戸祝い」行事。





新保の小字一覧




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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