丹後の地名 若狭版

若狭

須縄(すの)
福井県小浜市須縄


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福井県小浜市須縄

福井県遠敷郡口名田村須縄








須縄の概要




《須縄の概要》
国道162号(丹波街道)を下側から来れば、「小浜市総合運動場」の手前を東ヘ入る。南川の支流須縄川沿いに開けた地域で、須縄川下流の口須縄と上流の奥須縄に分かれる。今はスノと呼ぶが、かつてはスナワと呼ばれていた。

「すなハ村」は、戦国期に見える村。中世は今富名・富田郷に属し、弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状(明通寺文書)に「百廿文すなハ村」とある。武田氏家臣の大塩氏が田縄村とともに当地を所領としていたと伝える。
須繩村は、江戸期~明治22年の村。口田縄・奥田縄と合わせて三縄(みなわ)と総称された。小浜藩領。村内は治部条・上条・中村・畑条・別野条・団条などの小村からなっていた。「雲浜鑑」によると、家数57・人数273、寺院は禅宗大智寺、神社は熊野権現・白山権現とある。寛文12年流浪中の堀田正信が当地に館を構え、延宝5年阿波国へ送られるまで過ごしたという。ウド・セウマ・キキョウ・シャクヤクなど薬草の産地でもあり、ゴボウ・大根などは当地の名産であったという。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年口名田村の大字となる。
須縄は、明治22年~現在の大字名。はじめ口名田村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西21町余・南北1町余、戸数50、人口は男138 ・女127、小船8。明治初期から石灰の製造業が興り、明治34年石灰原石の運搬のため須縄軌道会社が設立された。同41年若狹石灰株式会社が設立され、工夫25人・焼石人夫20人を使用して大規模な石灰製造が行われたが大正末期廃業となった。


《須縄の人口・世帯数》 135・50


《須縄の主な社寺など》

須縄の大滝
『口名田郷土誌』
須縄の大滝(須縄区)
 熊野神社のそばに開かれた林道をみなご谷と呼ばれる谷川に沿って五〇〇メートルほど進むと須縄の大滝がある。高さは十七メートルで、周辺は杉や落葉樹の林となっている。区民以外にはあまり知られていないが、高さでは奥田縄の滝にまさる。
 伝説によると、泰澄大師が諸国巡業のみぎり、この大滝周辺を見て那智山の景勝に異ならずと、滝のふもとで七日間の勤行をし十一面観音を彫りあげて、これを祀るための堂宇を建てられたという。これが長滝寺の起源で、長い間信仰を集めたようだが、江戸時代初期には廃寺となり、観音堂は現在熊野神社の境内にあって、大智寺が管理している。

熊野神社社頭の道を奥ヘ行くとあるようだが、晴天なのにゴロゴロと空模様がアヤシイので行くのはやめた。

熊野神社

須縄の奥、道や人家から離れた高台にある。境内は広く、屋敷跡のような所があちこちに見られ、ここにはかつて何かあったのでなかろうかと思われる。
『口名田郷土誌』
熊野神社
 熊野神社の由緒沿革は社伝によれば、元は熊野大権現又は熊野権現社と称した。
 元正天皇の御宇天平十六年(七四四)「伽藍擁護の為に熊野権現を勧請す」と言う。又貞享五戊辰年(一六八八)当所の名主西本右近太夫が鎮守熊野両社権現を再建ともいう。大正四年一月十六日指定村社となる。
  熊野神社  小浜市須縄二十二号字的場五番地
  祭神    いざなぎのみこと・いざなみのみこと
  例祭    三月二十六日
  神紋    五三桐
  境内地   一四八七平方メートル
  旧社格   指定村社
  境内神社  瀧ノ神社・白山神社・産土神社を祀る。
  主要建物  本殿は、木造・瓦葺き・流造り。拝殿は、木造・瓦葺き・流造りである。
  氏子   五十戸
  宮司   小松信満  (福井県神社誌より)
 年間の行事としては、次の通りである。
 一月一日「元日祭」区民が神社に参り元日を祝うとともに区民の健康と安全、併せて区の繁栄を祈願する。
 一月十九日「宮始めの儀式」区の在住者で戸主が座を決めてもらう儀式であった。当日に「弓打ちの儀式」が行われた。当年厄年の男が弓を射て厄払いをする。併せて豊作祈願をしていたが、この両儀式とも現在は行っていない。
 二月二十六日「神楽祭」「かぶら祭り」熊野神社祭礼で神主を招き五穀豊饒と区民の健康・安全を祈願する。
 四月十五日「熊野神社の祭」親類縁者を招き酒食でもてなす祭りであるが、現在は生活改善により酒食のもてなしは行われなくなった。昭和三十四年までは、十月一日に熊野神社の祭を行っていたが、区長会で、口名田地区の生活改善の協議がなされ、上地区「両相生・上中井・下中井・滝谷」は十月に、下地区「口田縄・奥田縄・須縄・新滝・谷田部」は、四月に統一をした。これより須縄区の祭りを四月に行っている。
 十ー月三十日「神迎え」神主を招き新嘗祭を兼ねて当区厄年の人々の厄払いをする。
 「おしたき」戦前まで、各戸より米を集めて大釜で飯と汁を炊き、区民全員が神社に集まって一年の無事息災を喜びあい、併せて五穀豊饒に感謝をした。しかし、「おしたき」行事は現在行っていない。

『遠敷郡誌』
熊野神社 指定村社にして同村須繩守的場にあり、元熊野大権現又は熊野権現社と稱し伊弉諾命・伊弉册命を祀る、境内神社に瀧神社・白山神社・産ノ神社の三社あり、何れも祭神不詳なり。


これが熊野神社。周囲に建物がいくつもあるが、どれが何かわからない。

観音堂
境内の観音堂には鎌倉末期の作と思われる十一面観音立像(市文化財)がある。これは当時当地にあった長滝寺の本尊とみられる。長滝寺は須縄の大滝と呼ばれる滝に由来した寺で泰澄大師が諸国巡歴の時に建立した寺と伝えられるが、江戸初期にはすでに廃寺となっていたという。
『口名田郷土誌』
熊野山長瀧寺
 長瀧寺は、須縄の「みなご谷」大滝と呼ばれる滝に山来した寺で、泰澄大師が諸国巡歴の時に建立したと伝えられるが、江戸初期に廃寺となっていた。ご本尊十一面観世音菩薩は、熊野神社境内地隣の観音堂に安置してある。大智寺住職が管理をしている。
 ご本尊十一面観世音菩薩は、昭和四十八年二月二十四日小浜市の重要文化財に指定されている。更に、平成十一年四月二十三日に福井県の重要文化財に指定された。価値のある仏像である。また、本尊は、秘仏で十七年ごとに開帳をもって一般に公開されている。開帳には区民はもとより近隣の人々のお参りが多い。
 長瀧寺縁起には次のように書かれている。「そもそも当山の濫觴は、人皇四十四代元正天皇御宇天平十六年越智の泰澄大師諸国巡業の砌り長瀧の緲緲たるをご覧ありて、これ洵に日の本無双の霊地那智山の景勝に異ならずと瀧のふもとに於いて七日間の観行をこらしめ、御長三尺余の十一面観音の尊像を彫刻し給い、精舎ご建立ありて伽藍擁護のために熊野権現を観請なさしめ給ふ。
 夫より百四年の星霜重なり、堂社頽廃に及びける康和年中善智僧都と云える僧志を起こし東西に扶を求め元のごとく再建あり。山を名付けて熊野山と号し寺を名付けて長滝寺と号す。亦復三百余の年月を径て、天文五内申年二月瓦目源朝臣膳行公観音の霊験を感じ宥厳律師と心を合し伽藍鎮守をこの地に曳給う。
 始め泰澄大師当山開基の砌り此地境に於いて雷を結界し給う。これに依って、今に至るまで雷の落つると云う事なし。彼の観音を念ずる力によりて時に応じて消散する事を得、我前ヘー度歩行を連ぶ輩は雷の難を除き、疱瘡・安産を安全ならしめんとの御誓願也。」


白山神社


曹洞宗慧照山大智寺

熊野神社より手前に、こんな田舎に(失礼)、立派なお寺がある。
『口名田郷土誌』
大智寺 山号は慧照山 曹洞宗
 寛文三年、鎌倉北條家の末孫北田幸祐氏が開基となり、妙徳寺元瑞和尚を開山に請して四二・五坪の本堂が創建された。
 その後、同町内にあった福聚山無量寺と合併して福聚山大智寺と称していたが、後に慧照山大智寺に改める。明治四年創建以来歴代山主は、看住として妙徳寺の支配にあったが、法地寺院として独立の住職を置く事になり大滝梵邦和尚を第一世とする。
 時に、藤本佐治右衛門氏中興開基となりて、その後、大書院の増築・禅堂・開山堂・庫院など新築され、区民の道場として今日に至る。当寺の本尊は、十一面観世音菩薩座像である。
現在までの本寺の住職は、左記の通りである。
(略)
 昭和五十七年に若狭観音霊場が開創されることとなり大智寺は、第二十五番札所に指定された。以来近隣の方のお参りはもとより最近は、県外からバスを利用した団体参拝がある。
 また、山号「慧照山」にあやかり「慧光照すことは無量にして、大智の寺として普く十方に観音の妙智力は及ぶものなり」といわれ、参拝することにより仏智が得られる。
 御詠歌「大智慧と 慈悲の誓いの み仏は
              良きも悪しきも もらしたまはず」
大智寺の建設
 昭和四十九年二月の区総会において老朽化した寺の新築が決議され、月五百円を壇家のものが積み立てる事を決める。昭和五十年二月の総会で資金の増額が決議され月千円に決定する。五十一年二月の総会で五十三年に着工して五十四年に竣工することが決議され、建設準備委員会を作り、委員二十三名を選任する。同年六月六日第一回の準備委員会で藤本善八郎氏を委員長に選出して建築に向かって動き出す。同年七月四目委員が小浜の立光寺・大島の海岸寺・高浜の中山寺・小浜の宝積寺を見て回る。七月十六日に第二回の委員会をもって、建築様式・規模・資金の調達について協議する。同年十一月二十ー日に区有林の伐採調査を実施する。
 五十二年二月の総会で建築準備委員会を建築委貝会にする決議がなされる。五十三年四月の役員会で委員長以下二十三名に建築委員の委嘱をする。(下略)


『遠敷郡誌』
大智寺 曹洞宗妙徳寺末にして本尊は千手観世音なり、同村須繩字小谷口に在り、寛文三年妙徳寺第十世元瑞開創す。



《交通》


《産業》
薬草
石灰

《姓氏・人物》


須縄の主な歴史記録


『遠敷郡誌』
須繩 須繩川の流域にして藩政時代より石灰の産出多く、今は會社を組織して産出に從事す、堀田正信舘址あり、奥山に瀧あり、高さ五丈二尺幅一丈三尺。

須縄の伝説、民俗など


すぎもり
『口名田郷土誌』
《すぎもり》
 当区の青年の行事で、毎年十一月二十二日に行われていた。この地方でも奇祭である。
 すぎもりの起源も、いわれも判らないが、熊野神社にまつわる言い伝えに、人身御供のいわれがあると聞く。当区も熊野神社を氏神として祭っているために人身御供の身代わりにすぎもりをしたのではないかと言い伝えられている。
 すぎもりは、木を三本組んで藁をくくりつけ胴体を作りこれに杉葉をさして杉の森をつくる。森は雄の森と雌の森の二体をつくる。青年団員が回りで宿をつとめた。宿当番の家に団員が集まり杉の森を手分けをして作り出来上がると、床の前に据えて飾る。
 夕方から団員が、区長・中老(先輩)を招いて宴会を始める。杉の森にもお神酒を供えて宴をもりあげる。ほどよいころを見計らって中老が合図を出し、伊勢音頭を歌いながらいよいよすぎもりがかつぎ出される。青年が交代して神社へかつぎ上げる。
 道中は酒の勢いもあり、森も重いためにすんなりとはいかずに行きつ戻りつで練り歩く。道中は中老の指揮で動く。神社にかつぎ上げた森は、観音堂前に安置され区民の安全と無病息災を祈願して儀式が終わる。この行事も、青年団員が少なくなり、昭和三十ー年を最後に行われなくなった。





須縄の小字一覧


須縄 大川 勧請木 蛇谷 跡畑 屋敷 中大川 見取場 辻堂前 住伝 打明 大川端 山神 山神ノ元 下り途 百合 菅谷 奥菅谷 百合下 戈神 花立 下堂ノ元 下堂ノ下 上菅谷 一ノ瀬 下堂ノ上 段ノ下 下段 段 段ノ向 寺山腰 佐近田 的場 宮ノ腰 畑ノ下 坂頭 窪ノ元 岡端 小谷口 岡谷 窪 竹尻 権連 障子畑 西ノ畑 今谷 名頭 水口 岡山 竹ノ腰 覚見谷 足谷口 下向 中向 上向 市尻 桜谷 北谷 小滝 畑ノ谷 窪 千草 岳 直谷 覚見谷 今谷 段ノ谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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