丹後の地名 若狭版

若狭

多田(ただ)
福井県小浜市多田


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福井県小浜市多田

福井県遠敷郡今富村多田



多田の概要




《多田の概要》

多田川上流域左岸遠敷と境する九花峰の西側山すそ。国道27号と舞鶴若狭道が交差するあたりの南側。
多田は、南北朝期から見える地名。中世には今富名・富田郷に属して推移。鎌倉時代、若狭一二宮(若狭彦神社)神官牟久氏と深いかかわりをもつ在地土豪多田氏の本貫地と考えられる。多田氏は応安4年の国一揆にくみし、玉置河原の合戦で守護方に敗れ没落。地名としての初見は、建武3年7月25日に足利尊氏方の斯波時家(家兼)が脇袋・三宅・和久利・河崎とともに「多田」を焼き払って小浜に入部したと記す「若狭国守護職次第」の記事である。戦国期に入って大永4年10月23日の武田元光安堵状(尊経閣文庫所蔵文書)には「若州遠敷郡今富庄多田村」とあり、新田のうち1反100歩の田地が西村次盛に宛行われている。若狭の雨乞祈念は多田ケ岳で行うことになっていたらしく享禄4年7月5日に羽賀寺では登山の順番のくじ取りについて定めている(羽賀寺年中行事・小浜市史社寺文書編)。弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「三百文 田多村」と見える。
近世の多田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば家数42 ・ 人数188、寺院は浄土宗照光寺、真言宗多田寺、禅宗宗伝寺・西光寺、神社は多田大明神がある。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年今富村の大字となる。
多田は、明治22年~現在の大字名。はじめ今富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西6町余・南北6町余、戸数51、人口は男131 ・ 女116。
丹後街道の北側、和久里・遠敷地籍に入込んで、条里制「億田里」の名残と考えられる字奥田(おくだ)があり、さらに若狭国惣田数帳写に載る「雲月宮三反」の所在を示す字雲月(くもつき)もある。


《多田の人口・世帯数》 842・385


古墳など
集落の西側木崎山山裾に文永2年の若狭国惣田数帳写に「性興寺三町七反二百八十歩」とある性興(しようこう)寺の跡地があり、寺域内には曽我五郎・十郎・虎御前の墓と伝える五輪塔3基があり、小字正光寺畷(しようこうじなわて)も残る。寺跡に隣接して鎌倉末期の五輪塔(市指定文化財)があり、また字池町(いけまち)には古墳群(円墳3基)がある。


多田ケ岳
多田ヶ岳
北麓の多田寺の山門越に見る多田ヶ岳(712m)。このあたりから見るとそれほど高く見えない、たぶんこの地の標高が高いものか。赤い欄干の橋の下は多田川である。
山体は古生層の砂岩・粘板岩よりなり、ブナ・スギ・ミズナラなどに覆われる。役の行者が若狭修験の根本道場として開いた行場と伝える。当地より多田川沿いに中腹まで林道があるそうである。当山の麓には当地の多田寺、式内社多太神社はじめ、古代からの立派な神社仏閣が集中する。


多田神社(遠敷郡式内社・多太神社)

多田寺より少し下流側の山麓に西向きに鎮座。「延喜式」神名帳の「多太神社」に比定されている。祭神は大己貴命。旧村社。「若狭郡県志」は「多太大明神社」として「称徳天皇天平神護二年影向、則創建神殿祭之」と記す。享禄5年(1532)の神名帳写(小野寺文書)には「従二位多太大明神」とある。文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写に「多田宮壱町二反二百七十歩」とあり、うち西郷で七反余、安賀郷で五反の社領を有した。裏山には古墳群があるそう。多田寺は元々は当社の神宮寺であろうか。

『今富村誌』
村社式内多田神社 (多田字宮ノ下)
一、祭神 大已貴命
一、由緒 人皇四十八代称徳天皇の御宇天平神護二年此の地に彰向在せられ之れに依りて村民玉殿を建造し敬神し奉ると式内神社なり
一、本殿  間口 一間三尺  奥行 二間四尺
一、拝殿  間口 二間三尺  奥行 三間
一、鳥居  一基
一、境内神社 二社
 天照大神社
  祭神 天照皇太神、軻偶突知神、素盞嗚命
  社殿 間口 一間五尺  奥行 一間
 山ノ神社
  社殿 間口 一間三尺  奥行 一間
一、境内坪数并地種 四百三十四坪 官有地第一種
 外に一段七畝十六歩 明治三十七年十一月十三日境内地編入許可
左記三牡を本社に合祀の儀 明治四十二年一月五日出願同一月二十七日許可
  今富村多田 無格社 山 神社
  同      同  八幡神社
  同      同  六所神社


『遠敷郡誌』
多田神社 村社にして同村多田字宮ノ下にあり、元多田大明神多田明神多太明神社と称す、祭神は大己貴命にして社紀に天平柳護二年創建すと傳ふ、延喜式に多太神社とあり、本国神階記に従二位多太大明神康和五年六月卜部兼良の奏文に若狭国多大神とあり、神名帳考證には埴安神云云とあり、境内に天照大御神社あり、祭神は天照皇太神・軻遇突如神・素戔嗚尊なり、山ノ神社祭神不詳は明治四十二年字池町より合併八幡神社祭神不詳は同年字若宮より合併六所神社祭神不詳は同年字宿石より合併す。


高野山真言宗石照山多田寺


高野山真言宗。山号は石照山。本尊は薬師如来。小さな村のお寺とは思えない立派な大寺院である。
「若州管内社寺由緒記」は天平勝宝年間の創建と伝え、「当寺往昔十二坊有之、為灯油料従天子御寄付の田地十六町三反五歩有之候」とある。滋賀県長浜市の大通寺に、貞治2年6月21日に鋳造された「若狭国遠敷郡富田郷 多太寺 貞治二年 才次癸卯 六月二十一日 大勧進院主権律師教弁 檀那沙弥道性 沙弥尼宝貞蓮 大工藤原正光」の銘のある梵鐘がある。天正12年10月7日付新庄蔵人宛羽柴秀吉書状(秋山断氏所蔵文書)に「従若州之鐘、其方請取置之由尤候、長浜ノ城并其外ノ寺ニも鐘可在之候」とあり、秀吉が徴集して大通寺のものとなったことがわかる。文安6年3月晦日付「若狭国多太寺東寺修造料足奉加人数注進状」によれば、4名の僧侶が200文(200文未進)を東寺に寄進している(東寺百合文書)。
多田寺の本尊は眼病に効くといわれ、現在に至るまで春と秋の彼岸には多くの参詣人が訪れ、多田参りとも称されている。裏山には四国八十八ヶ所を模して石仏を置き、それをめぐって代参とする風習もある。本尊の木造薬師如来立像は国重文、本尊脇侍仏の木造十一面観音立像(日光菩薩)・木造菩薩立像(月光菩薩)も国重文。木造四天王立像・木造阿弥陀如来座像(3体)は市文化財。

案内板

多田密寺由緒
今より一二四〇年前勝行上人この地に在り、百日の行願をなすに霊異を感じて、ここに薬師如来等安置さるるに諸佛の擁護日に、顕著にして事天聞に達し人皇四十六代孝謙天皇祈願し給うところ霊験忽ち顕れ、山林田畑等ご寄進になり、石?山の山号及び医王閣の勅額を賜う。本尊薬師如来は知恵と力をお授け下されて身心もろもろの病をおなおし下さるご誓願にまします。その佛慈日をあらたかにして今日にいたる。
石?山多田第八十三世廣本智宥代
平成九年丁丑誌


『今富村誌』
多田寺 (多田にあり)
多田嶽の麓多田川上流の地に一寺あり石照山多田寺といふ。真言宗の古刹にして薬師堂あり傳へ曰ふ、孝謙天皇御宇天平勝寶元年九月降雨雷電数日村民之れを怪む勝行上人入禪真言をす。雷止み風靜まり瑞雲東北の峯に??し藥師如来威容厳然として大磐石の上に安立せり、上人寺を建て薬師如来を勧請すと。大磐石は廣賀山上にあり。維新後附近の山を開き八十八ヶ所の観音を安置す


『遠敷郡誌』
多田寺 眞言宗古義派金剛峰寺末にして本尊は薬師如来なり、同村多田字大師谷に在り、開基は勝行上人にして天平勝宝元年の創立と傳ふ、古来多田の薬師堂と称し、郷民の信仰多く藩政時代に於ては其縁日には参詣者群集せり、永享七年及嘉吉元年の文書に東寺領若狭国多田院とあり、文安六年東寺奉加帳に長照山多太寺とあり。




当寺の薬師さんも昔は国宝だった、郡誌などには国宝と記されている。小浜は「海のある奈良」といわれるくらいで、仏像に限らず国宝がたくさんあったが、今はランクが下げられてしまい、国宝の仏像はない。
この奥の方におられるのだろうが、暗くてよく見えない、見ない方がよい、目がつぶれる、さすがに国宝ともなると迫力があってありがたすぎるのである。

-眼病と薬師と多田の伝説-
多田ケ岳で修行を重ねた勝行上人が当地を霊地と悟り堂宇を建立し薬師如来を安置したのが始まりという。薬師如来を信仰すると病から救われるという霊験は朝廷にも聞こえ、当時、重い眼病を患っていた孝謙天皇が眼病平癒を祈願すると、忽ち快癒したことから勅願寺となり「石山医王閣」の扁額や多くの寺領が寄進されたという。勝行上人は奈良東大寺の僧に抜擢された事から「出世薬師」としても信仰の対象となり、何時しか奈良薬師寺、出雲一畑薬師と共に日本三大薬師と数えられるようになったという。
坂上田村麻呂や多田(源)満仲、源頼光(満仲の子)といった武将などの祈願所として庇護されたことから寺運が隆盛し、最盛期は12坊を擁する大寺となり、特に多田満仲とは関係が深く本堂には満仲念持仏が安置され、境内には満仲の墓があるといい、その写真までつけた書まである。探してみたが、そのような物かなと思えるようなものもあるが、本当にそうなのかはわからなかった。
「勝行」は鍜冶の行者の意味かと思われる、多田はタタラで、たぶん銅鉱と蹈鞴と鍜冶の、また水銀の地であったものか。源満仲は摂津国多田に居住し多田荘を経営したため、多田満仲とも呼ばれる、多田源氏の祖。道長の時代で多田銅山のもうけで摂関家に取り入り出世したといわれ、墓もかの地にあるという。その長子が源頼光である。大江山の鬼退治伝説の人であるが、実像は武勇の人というよりはゼニの人のようである。同じ多田の地名であるので、両地には何か関係があるのかも知れない。薬師さんは目が悪いといわれ、目を痛め、身体を痛めた鉱山や鍜冶の守り本尊であったと思われる。


甲賀城趾
『今富村誌』
甲賀城趾 甲賀城趾(一に廣賀城に作る)多田甲賀山上にあり武田氏老將内藤筑前守(西津天ケ城主)の一族之れを守る子孫内藤氏を稱す


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


多田の主な歴史記録


『今富村誌』
多田區 (古多太と書き延喜式其他に多太神社と書せり 大正三年十二月四日?)
多田は木崎區の南多太嶽の麓検見坂木崎の鼻の間にありて別に一区画をなす。
其の平坦部丹後街道のある所を俗に口多田といふ戸数五十、人口二百三十三、山林の多きこと本村第二にして一百餘町歩炭焼を業とするものあり而も尚四十餘町歩の田畑あり。舊時の草高四百四十六石五斗二升一合
多田神社は天平神護二年此の地に影向在せられ之れに依りて村民玉殿を建立し敬神し奉ると、式内神社なり、境内に古松あり幾百年の昔を語る
或る書に、『多太大明紳社は下中郡多太村にあり、大已貴命を祭る傳へ言ふ稱徳天皇天平神護二年彰向す則ち神殿を創建して之れを祭る延喜式載する所の若狭國遠敷郡多田神社是なり亦若狭國神階記に遠敷郡従二位多太大明神云々二月九月十一日祭礼あり』と。若狹四十二座神社の一なり
多田寺も亦古刹にして薬師如来は有名なり。或書に同寺の觀音は若狭三十三所の観音第九番にして大和國興福寺に准ずと
古墳數ケ所あり多くは敗滅に歸し一箇僅かに形を存す。石を以て疊み幅六尺、高さ-丈餘にして長約六間あり土を以で被ふ。元本区池田辨次郎氏の所有地なりしが今時和久里辻松之助氏の有となる。二十四年前までは其の古墳たるを知るものなし其の発掘の際古刀剣土器の多くを出したりと。何人の墳墓なるか古記の徴すべきなし文珠塚は田圃の間にあり。藤の森といふ其の何なりしやと知るものなし。蓋し墳墓の地ならん
廃寺の趾三ケ所あり宗傳寺、西光寺(一に性興寺に作る)といふ。正光寺の趾に曾我兄弟の墓あり古書に『性興寺は多大村にあり無量山と號す本尊は阿彌陀像なり古真言宗にして十二坊あり衰廢の後唯一宇ありて舊豫を安んず今は浄土宗たり心光寺の僧の退隱の處なり」と



多田の伝説






多田の小字一覧


多田 奥田 雲月 桐谷 昼場 山ノ鼻 昼場谷 野本 藪田 下深田 佐司田 居折 村入口 下川原 中川原 青良 宮ノ下 灯明田 宮ノ前 河原畑 壱反田 小山 西小山 池町 馬ケ谷 正光寺畷 石橋 村中 宮ノ上 大師谷 坂ノ下 梨本 岡 椿原 峠谷 峠谷口 井根本 徳蔵 正楽寺 滝和 尾口 東川原 甲ケ瀬 岩宮 追坂 滝和尾 滝谷口 上追坂 丸小山 丸小山下 上滝谷 宿石 弥ケ谷 野山 甲ケ寺 宮ノ谷 惣山下

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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