丹後の地名 若狭版

若狭

高塚(たかつか)
福井県小浜市高塚


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福井県小浜市高塚

福井県遠敷郡国富村高塚

高塚の概要




《高塚の概要》

北川下流の右岸、国富平野の最東端、北川に架かる高塚橋のたもとの集落。
高塚は、南北朝期から見える地名で、暦応4年(1341)閠4月に太良荘農民木藤太正吉が空心房などによって奪取された文書のうちに「一通まこ太郎 たかつか」とあり、これが地名の初見とされる。享禄4年(1531)12月27日の地蔵丸名田畠坪付注文に常満保のうちの地蔵丸名中に「在所高塚 四郎大夫」とある。天文22年(1553)の明通寺への如法経米寄進札の施主として「高塚村 介大夫」とあり、弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状に「百四十一文 高つか分」と見える。
近世の高塚村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数88・人数414。小浜から国富堤防を通り上中町へ抜ける通称裏道の街道筋にあたり、集落内には下町・奥町・万町・出口・大谷などの小字が残る。田地は国富平野より北川左岸の大溝(おおみぞ)・上清水川(かみしみずがわ)・大鷺(おおさぎ)・土器田(どきでん)・紙漉田(かみすきでん)など遠敷(おにゆう)平野に多い。北川に接するため、秋から冬にかけて簗による鮭漁が毎年行われており、若狭名物の1つにあげられている。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年国富村の大字となる。
近代の高塚は、明治22年~現在の大字名。はじめ国富村、昭和26年,からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北2町、戸数102、人口は男250 ・ 女258、学校1。


《高塚の人口・世帯数》 506・169


《高塚の主な社寺など》

古墳
高塚というくらいだから、古墳がありそうな所である。ずいぶん古いものがあるようで、裏山の中腹には円墳3基の高塚古墳群、4世紀頃のものと推定されるという。北東山頂稜線には方形台状墓3基があるといい、これは弥生のものでなかろうか。


山乃神神社(蛭子神社)

瑞伝寺の隣り、社殿は奥にあるよう。
『国富郷土誌』
山乃神神社
高塚奥山二七-二に鎮座。祭神は山乃大神(大山祇命)で境内面積は、宮地七三〇・五七平方メートル、山林八〇五平方メートル、計一五三五・五七平方メートルで、氏子は九五戸ある。
高塚の出口源右エ門家の古文書によると、当社はもと、高塚村字大谷にあったが、文政、万延、明治十三年、十四年と人家に火災が発生した。幸いにも社の焼失の難をのがれた。しかしこのような火災が今後ないとは限らない。そこで、これまでの安置場所から、高い所へ移転することになり、高塚村内三家の所有の奥山地籍の土地を境内地とするために、総代を中心に村内の氏子が浄金をもって購入し、神社移転届を氏子総代の連名で、福井県令、石黒務氏あてに提出し、明治十五年十月十日に、高塚区一村共有の神社となったと記されている。昭和四十年に本殿の屋根を銅板に葺替えされた。本殿に合祀されている蛙子神社は、遠敷郡栗田村が応永年中に攝津の国、西ノ宮より勧請したもので、祭神蛭兒命を栗田より、高塚へ分神合祀されたと伝えられている。
本殿に向かって左側の稲荷神社は、承元二年(一二○八)左由門氏が伏水(現在京都市伏見)より稲荷明神を勧請、宇賀乃御魂命をお祀りしている。境内社裏には、栗田の曽尾神社の遥拝所があり、東側隅に石囲いをした一段高いところに、稚の大木(神木)があり、山乃神の元敷地への遥拝所がある。本殿左側に、屋敷神を集めた三つの小祠がある、奥の方から金比羅大神で出口源右エ門家が、正月と四月十日に祀る。中央は春日大神(元出口久左エ門)現在は宮川七平氏が正月に祀っている。手前は八幡大神で出口伊左エ門家が正月と九月十五日に祀っている。本殿右側の稲荷大神の小祠(元興津家が祀っ7いた)は、現在は上前庄七家が正月と初午の日に祀っている。
境内より二〇〇メートルほど離れた山腹に、秋葉神社があり、六月十四日に瑞伝寺の僧侶が区内の安全を祈祷している。社の破損が甚だしいので、昭和四十年氏子により修復された。この社へは五月休みの早朝、区長を先頭に提灯をもって、小学一年生と六年生の男子各一名と、その親が代表して秋葉神社に詣り、下山するのを待って区内の小学生全員が神輿をかつぎ、「毒を払え、万代の毒を払え」「ドックワライ、マンダイドックワライ」といってかつぎまわると、各家では神輿様に五穀豊穣を祈願する。
国富地区では現在子どもが生まれると、男児は五〇日目、女児は五十一日目にお宮詣りをする。総代三名は、区の総会で三年目ごとに改選(再選を妨げない)、任期中神社の管理運営にあたる。鳥居は大正十四年四月吉日、村内八氏から初老、還暦記念として奉献された。幟旗は、大正十二年八月吉日、村内出身者夫婦がハワイからの帰国記念として、祖国の産土神に奉献された。その後風雨のため破損が甚だしいので、血縁にあたる夫婦が、昭和五十年四月吉日に新調された。
   年中行事
○正月三ケ日、氏子の初詣
○旧の初午の日、稲荷明神を祀る。当日は社の周囲に、正一位稲荷大明神の幟旗をたて、小浜の広峰神社の神官を迎えて、総代三名と区長が氏子を代表して、御神酒、海、川、野山の種種(初穂)赤飯、油揚げ、からしあえ等旬の野菜を供え祈祷し、氏子の無病息災、五穀豊穣の祈願をする。
○春の例祭、四月二十三日、総代が前日に蛭子神社の幟旗をたて、当日御神酒、山、海、川の珍味を供え、神官を迎えて、厄年の者が参列祈祷を受ける。
○秋の例祭、十月二十八日、お供えの準備物は春の例祭と同じで、神官を迎えて五歳児が参列し祈祷が行われる。
○十一月二十八日、神迎えの祭典、神官を迎え、神無月に出雲大社へお帰りになっていた神様をお迎えする。


『遠敷郡誌』
山神神社 同村高塚字奥山にあり祭神不詳、承元二年頃出口某稲荷明神を勸請す、從來字上大谷にありしと謂ふ。


曹洞宗鷲嶺山瑞伝寺

曹洞宗瑞伝寺は承元元年に若狭国惣守護津々見忠季の郎党清原是貞が創建したと伝える。同寺の地蔵菩薩座像は承元3年に奈良仏師幸千が造ったものといわれ、清原是貞発願の胎内銘を有し、県文化財に指定されている。江戸期には子安地蔵として地域の信仰を集めたという。
『国富郷土誌』
瑞伝寺
高塚第一九号奥町八番地に在り、鷲嶺山と号す。本尊地蔵菩薩を祀る曹洞宗の寺院で、奈胡龍雲寺の末寺、境内地は一二三一平方㍍で、檀徒および信徒は計九三戸である。地蔵菩薩一躯は、昭和六十三年一月二十一日に小浜市有形文化財に指定された。
 当寺の草創は、縁起によれば、承元三年(一二〇九)当国の惣地頭、津々見右衛門次郎忠秀の郎党、清原是定の建立によると伝える。もと天台宗で七堂伽藍が具備していたが中古荒廃し、享保二年(一七一七)龍雲寺四世、警堂俊策大和尚を開創とした。その後瑞伝寺には正式の住職がおらず、寺の留守居により維持され、主たる法要行事等は本寺の龍雲寺の住職があたっていた。
 昭和三年九月二十一日、高塚の檀信徒の願望により、大道機運大和尚を迎え、準法地であった寺格を法地に昇格し、昭和八年三月十九日、武内喜兵衛家よりの敷地の寄附と檀信徒の浄財一七四〇円五〇銭で、間口四間、奥行三間半の開山堂を新築し同時に本堂の瓦葺替工事を施行した。
 弟子瑞伝三世旭峰孝雄代になり、昭和五十一年十二月二十七日に上前正の寄進で、山門再建と三界万霊等の修復がなされた。また庫裡が老朽化し雨漏りがひどいため、昭和六十三年三月十三日に庫裡改築工事を施行、木造瓦葺二階建て一八万七二五二平方㍍を工事費二七五〇万円で完成した。庫裡建設と同時に、山門より東側川沿いに現和尚および村内檀徒三氏の寄進により、長さ二一㍍の石垣と塀を増設した。また巨大な石で神社参道の土止めも行い、さらに開山堂の拡張工事も行った。
 境内には、本堂に向かって左側に一字一石火防之塔、高さ一七〇センチ、万延元庚甲年(一八六〇)村中建之の石塔。一心法華千部供養塔、高さ一六五センチ、文政庚辰年二月良辰(一八二〇)退休代建之の石塔、石地蔵、高さ一㍍、弘化三年秋(一八四六)上野文右エ門家建之の三石塔があり、山門西側に、三界万霊等高さ一四三センチ、享保七寅天仲秋吉旦(一七二二)雪堂代の石塔がある。
 本尊は地蔵菩薩坐像で、木造、彩色、像高八五・七センチを計測する。鎌倉時代前期、承元三年(一二〇九)奈良の仏師幸千の造ったもので、清原是貞の発願で、像内背部下方に次の墨書がある(高さ二一センチ、幅二〇センチ)。
  願主偕行意
  承元三年三月一日己巳年
  清原是定
  幡磨包近
  仏師幸千
  曽 □ □□
  大中臣□
 木像は檜材の寄木造りで内刳りを行い、全身に彩色が施され、正面を向き、左手には宝珠、右手に錫杖を取り、左足をやや前に出して、ゆるやかに坐る姿に表されている。お顔は切れ長の目に豊かな張りを持った頬など整った美顔で、拝する者に安堵感を与える慈悲深い相である。また一〇種の誓願を寺伝に伝えている。一ニハ女人安産。ニニハ身根具足。三ニハ衆病悉除、四ニハ寿命長遠、五ニハ聡明智恵。六ニハ財宝盈溢。七ニハ諸人愛敬。八ニハ五穀成熟、九ニハ神明加護。十ニハ大菩提を証得せんとあり、特に昔より子安地蔵として近在の人々の信仰を集めてきた。
 毎年八月二十三日、二十四日、瑞伝寺檀信徒あげて、盛大なる地蔵祭が行われている。地蔵尊の脇侍には、不動明王、毘沙門天を祀る。毘沙門天は天台高僧、伝教大師(最澄)の作であると伝承されている。
 総代三名は、区の総会で選出され、任期は四年で、施食、水むけ、地蔵祭、斎米よせ、雪囲い作業、防火点検等寺の責任役員として護持運営にあたっている。
年中行事
一月一日~三日 大般若理趣分の祈祷
一月十六日 仏法始め、六斎念仏
一月十七日 梅花流詠讃歌奉詠
三月十四日 涅槃六斎念仏
三月十五日 梅花講員により花だんごを涅槃像に供え梅花奉詠
三月彼岸中日 梅花奉詠と六斎念仏
五月七日 釈尊花祭り、釈迦誕生像にあま茶を供え六斎念仏
五月八日 梅花奉詠
六月、十月 如来講
八月八日 総檀中および新亡の施食会、六斎念仏
八月十四日 棚経、六斎念仏
八月十六日 水むけ(精霊おくり)、梅花奉詠、六斎念仏
八月二十三日、二十四日 地蔵盆
八月二十四日 梅花奉詠、六斎念仏
八月三十日 子供会坐禅会、無縁仏供養、夕方六斎念仏
九月彼岸中日 梅花奉詠、六斎念仏
九月二十八日 開山忌、梅花奉詠、六斎念仏
十二月八日 成道会、梅花奉詠


『遠敷郡誌』
瑞傳寺 曹洞宗龍雲寺末にして本尊は地蔵菩薩なり、國富村高塚字奥町に在り、承元三年領主津々見衛門之次郎忠季公の家臣清原入道是定の創建する所にして、元天台宗にして七堂具備せしが中古荒唐し本尊も地中に埋没せしが小字堂田と稱する所より發掘せられ力るものなりと傳ふ。

案内板
福井県指定文化財 第二八九号
木造地蔵地蔵坐像一躯
  指定年月日 平成七年四月二十一日
  所在地 小浜市高塚一九-八瑞伝寺
当寺の本尊地蔵菩薩坐像は古くから子安地蔵として近在の人々の信仰を集めてまいリました。本像は像高八十六センチ、檜材の寄せ木造りで、鎌倉時代初期の承元三年(一二〇九)に造られた仏像であります。
当寺伝来の「瑞伝寺縁起」によれば、この御本尊は鎌倉時代の若狭の惣守護であった津々見右衛門次郎忠季の郎党清原是定が、奈良の有名な仏師快慶に造らせたものとされていました。しかし、近年の調査によりまして仏像の体内から次の墨書銘が発見され、これが裏付けられました。
願主僧行意 承元三年三月一日清原是定幡麿包近
仏師幸千 曽□□□ 大中臣宗□
承元三年頃、国富にいたと思われる地顔清原是定の寄進によって奈良仏師快慶ではなく幸千が造像したものであることが判明しました。鎌倉時代の在銘仏として大変貴重な仏像であります。  福井県教育委員会



山城
集落の東側山頂には天ヶ城主内藤氏の出城跡があり、空堀・竪堀を残している。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


高塚の主な歴史記録


『国富郷土誌』
高塚
一 高塚の歴史
高塚は、国富平野の東端に位置し、南部を北川が西流し、北部は栗田と東部は光岩を境に太良庄と接している。古くには『遠敷郡誌』に「古墳の分布あり上代すでに付近に住民存しなるべし……北川流域の変動甚だ多く治水の不完全なりし時代においては洪水毎に泥土氾濫し耕地を損し水路は常に変動したり……」とあるように、平地での生活は危険を伴うことから、山麓での生活はごく自然な姿であったであろうと思われ、山頂稜線に残された円墳等の高塚古墳群・方形台状墓等はその名残りであろう。
それが時代とともに、海岸沿いから始まった農耕も北川を上流へとさかのぼるに伴い、生活の場も山裾へと移り「承平二年(九三二)高塚奥山(神社の裏あたり)に出口某稲荷明神を勧請す」(『遠敷郡誌』)とあることから、集落が平地近くになって住民の信仰が初めて見えてくる。
承元元年(一二〇七)には、曹洞宗瑞伝寺が創建されたと伝えられ、本尊の地蔵菩薩坐像は、承元三年に造られたと胎内に銘記されていて、市指定の文化財となっている。このようにして神社・寺院等の建立が早く伝えられる中で、集落名誕生については遅く、「東寺百合文書」は暦応四年(一三四二)ごろの文書の中に「一通まこ太郎たかつか」とあって、地名の初見としてよいであろう。妙楽寺文書の享禄四年(一五二八)十二月二十七日の地蔵丸名田畠坪付注文に、「存所高塚四郎大夫」とあるほか、天文十七年(一五四八)の羽賀寺寄進札にも、同様「高塚四郎大夫」とあり、明通寺文書に、天文二十二年(一五五三)の明通寺如法経米寄進札の施主として「高塚村介大夫」、さらに弘治二年(一五五六)六月二十二日明通寺鐘鑄勧進算用状には、「百四十一文、高塚分」と記されており、だんだんと集落形成の進行が伺える。
「正保郷帳」によると、高塚村の村高は二二四石余、「天保郷帳」には、二四五石余となり、「雲浜鑑」には、戸数八八、人口四一四名の記録があり、明治十九年の戸数は、一〇〇戸で、人口は四八八名、明治十四年、福井県に所属、二十二年に国富村の大字となり、昭和二十六年三月小浜市となった。
集落内には、上町(かみじょう)・中町(なかじょう)・下町(しもじょう)・大谷町(おおたにじょう)(神社より上流で用水路より山側) ・三軒町(寺より下流の用水路より山側)があって、大体の位置を示す時に使われてきた名称が残っている。
昭和十五年ごろ、各戸連絡を徹底することのほか、助け合いや親睦などのため隣組制度がとられ、ほぼ同数ずつ六組に分けられ、現在に至っている。
高塚を語るとき欠かすことのできない二つの事柄がある。
その一つは、高塚は文政三年(一八二〇)の大火災を含め三回にわたって大火災に見舞われたことである。そのために秋葉神社をまつり、火祭り・送り火等の行事が行われてきたが、組制度ができてからは、毎月一日の日に常会と称し各組ごとに各家順番に回って、区からの連絡や協議事項を話し合うと同時に愛宕神社のお札を受けておまつりする行事を続けている。
今一つは、高塚や周辺農家では古くから莚の生産が盛んであったことから、明治二十八年ごろから昭和九年ごろまで北川の莚舟がその輸送機関として活躍し、小浜漁港まで運ぶほか、急病人や小浜へ出る入らも便乗したといわれ、現在では想像もできない歴史があった。
このころ川幅が四〇㍍ぐらいあった北川も、大正末期から昭和初期にかけての大河川改修により、川の拡幅と堤防のかさあげなどから、従来の倍の高さになり、見違えるような現在の道路が完成し、また昭和十四年には高塚橋も改修された。
昭和二十八年九月二十五日襲来の台風一三号では、高塚橋によって北川の水がせがれ国富用水水門上の堤防が低かったことから、水は堤防をこえ瑞伝寺下まで濁流がおしよせてきた。民家の生垣と寺の樅の木を消防のホースで結び、寺への避難の命綱とし、ほとんどの家が避難した。家屋は、北川上流からの謚流と丸山上流での堤防の決壊により、全戸床上浸水となり大被害を被った。さらに稲作については、泥土が堆積したところや冠水、稲木の流失などによって収穫のできないところも多くあった。
その災害の復旧も、一応終えた昭和三十八年から四十一年には、国富地区土地改良事業が行われ、大圃場となって機械化と省力化が急激に進んでいった。
一方、住居の新築・改築により村下より北川下流へと移転するようになった。昭和六十三年ごろから「ニュータウン北川」高塚第七組の誕生をみ、平成四年三月現在では世帯数一二〇戸、人口四六六人となった。平成二年の農林業センサスでは農家五〇戸、経営耕地面積、田五三六四町、畑二七戸四八町、専業農家二戸、第一種兼業農家三戸、第二種兼業農家四五戸となっている。



高塚の伝説





高塚の小字一覧


高塚  午新田 神楽田 五反田 艸田 上神楽田 上午新田 宮地 畳田 野手ノ上 須崎 下須崎 上須崎 幣ノ本 岩本 村越 堂田 下町 中町 奥町 下大谷町 上大谷町 上町 柴内 橋柱 口六反田 慶林田 嶋田 橋向 高稲木 海老田 下海老田 塚ノ本 鴨ケ淵 草ケ田 長塚 常田 奥田 下奥田 上奥田 三反田 上器田 清水田 紙漉田 小鴨 野本 中猪ノ子 大溝 中大溝 下大溝 白見塚 相田々 柴垣 上柴垣 下藺原 上畳田 下見定 上藺原 口鎌田 下鎌田 奥鎌田 上蒲田 下清水川 上清水川 中大鷺 川大鷺 大鷺 大上 六反田 上橋柱 光岩 奥山 岩鼻 須崎谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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