丹後の地名 若狭版

若狭

竹原(たわら)
福井県小浜市竹原


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福井県小浜市竹原

福井県小浜町竹原

竹原の概要




《竹原の概要》
南川と多田川に挟まれたところで、「こうのとし橋」のたもと。いまは狭い範囲である。

竹原村は、鎌倉期~戦国期に見える村名。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案の遠敷郡志万郷の神田のうちに「新日吉宮三反 竹原村」とあるのが初見で志万郷内に含まれていたことが知られる。また同惣田数帳案には天満宮と天王社が見えるが、これらはのちに竹原天満宮・竹原天王宮(現広峰神社)と袮される当地の神社であった。
応安2年(1369)8月25日の国衙税所海部信泰・源久家寄進状に「税所今富御領内 天満宮」とあるのをはじめとして南北朝期から戦国期の文書に「若州税所今富竹原天満宮」と記されており、竹原天満宮は税所の所領である今富名に属していた。文安5年から大永4年にかけての羽賀寺への寄進札には、施主として「竹原村禰宜大夫親俊」などとあり、弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「三百文 たわら村」と見える。天正16年以降、浅野長政・木下勝俊により当村から広嶺神社へ社領(高10石)が寄進・安堵されている。なお江戸初期には「正保郷帳」に竹原村461石余と村名が見え、また江戸期の郷名として今富荘のうちに小浜・竹原・府中・和久里として名が残るが、江戸前期以降は竹原村は上竹原村として郷帳類に記載され、あるいは西津村の小村の1つとして下竹原村の名が見えるようになる。慶長年間に京極氏が小浜城を築城した際に竹原村の大部分は城域となり、堀が作られまた家中侍屋敷となったため、旧来の村域がくずれたことによるものであろうという。
近世の竹原町は、江戸期~明治22年の町名。もとは竹原村(上竹原村)の一部であったが、江戸初期に小浜城下の武家屋敷地が形成されたことから農村部の上竹原村と区別され、その武家屋敷地が竹原町と総称されるようになった。明治前期には竹原村という。「遠敷郡誌」によれば、家中屋敷94軒、そのほか評定場、御厩、天神脇2か所、与力組長屋2か所があり、町名は図書之助町・勝間町・七左衛門丁・千代町・弥五兵衛丁・河南町・主鈴辺甲兵衛迄・馬場・馬場先町・定右衛門丁・入江町・卯右衛門丁・求馬町・二堀小路が記される。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年雲浜村の大字となる。
近代の竹原は、明治22年~現在の大字名。はじめ雲浜村、昭和10年小浜町、同26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西5町余・南北13町余、戸数268、人口は男540 ・ 女701、学校2、小船11。同42年評定所跡地に郡立小浜病院が移転し、若狭地方最大の医療機関として昭和14年まで運営された。一帯は各戸に掘抜井戸が設けられ、地下水が豊富に出るため葛饅頭を冷やして販売する店があり、明治から大正期にかけては菓子店が多かった。昭和46年大手町・四谷町・千種1~2丁目・一番町、同48年城内1~2丁目となり、ごく一部が当大字として残る。

《竹原の人口・世帯数》 52・18


《竹原の主な社寺など》



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


竹原の主な歴史記録




竹原の伝説






竹原の小字一覧


竹原  波洗 一ノ浜 二ノ浜 川口 本丸 西ノ丸 北ノ丸 三ノ丸 西作園場 東作園場 劔先 二ノ丸 西広浜 東広浜 桝形 西一ノ堀 勝間 千代 東一ノ堀 西二ノ堀 西三ノ堀 東三ノ堀 入江 馬見 千種 阿南 火除 関

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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