丹後の地名 若狭版

若狭

次吉(つぎよし)
福井県小浜市次吉


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福井県小浜市次吉

福井県遠敷郡国富村次吉

次吉の概要




《次吉の概要》
北川下流右岸、国富平野の中央東部に位置する。

次吉は、鎌倉期から見える地名で、遠敷郡国富荘のうち。建久6年(1195)12月4日の太政官符に「遠敷郡国富郷」内の国富荘の四至を記する、そのうち「南限次吉并神女崎」とあるのが初見。戦国期に入って村名となる。応仁元年(1467)・永正14年(1517)の羽賀寺への如法経米寄進札には「願主次吉村三郎大夫」「次吉村大屋権守」と見え、弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「弐百文 次吉村」とある。西津を本拠とした武田氏被官内藤氏の支配下にあったという。
近世の次吉村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数37・人数180。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年国富村の大字となる。
近代の次吉は、明治22年~現在の大字名。はじめ国富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北1町、戸数35、人口は男80・女81、学校1。


《次吉の人口・世帯数》 99・27


《次吉の主な社寺など》

古墳
一言神社の裏山に円墳5基

条里制遺構
昭和38~41年の土地改良事業により古代~中世の条里坪付と推定される二ノ坪・三ノ坪・塩堺(庄堺)などの遺構は消滅した。

一言神社

集落の入口に鎮座。
『国富郷土誌』
泉岡一言神社
次吉集落の北西の山ろく、次吉第五四号宮の上六番地に鎮座する。泉岡一言大明神本地正観音尊を祀る。正安三年(一三〇一)鎌倉時代の創建である。
 古伝に曰く正安三年丑年に異相(天変地異)ありてこの岡に神出現しまします。故にこの霊地に勧請なして氏神となす。人、民の願望淨信の一言は必ず御聞きとどけありというありがたい御告げありて一言大明神と号する(岩見健太郎氏『次吉の歴史』資料)。
古文書によると、四〇〇年前「鎮守の御社の上葺は一代祈祷のため次吉の大屋常顯夫妻の合力によって行われた」とあるが大屋家の子孫はつまびらかでない(同前)。
一言神社は、一言だけは必ず霊験があるということで、昔より参詣者も多く、明治初期から昭和にかけての戦時中は、参詣者も多く社頭はにぎわった。現在でも受験時期、選挙時期になると参詣者も多い。なお次吉の人は信仰心あつく、明通寺には、四〇〇年以前からの多くの寄進札が今も残されている。境内に樹齢数百年と推定される周り一・二メートル、高さ四メートルぐらいの榊の大本(小浜市天然記念物指定)があったが、昭和五十三年ごろ枯れて(指定解除)、今は株根が腐食しているが、その近くに二代目が一〇センチメートルぐらいの太さになっている。本殿の裏山は榊が密生し、いかにも霊山とよぶにふさわしいところである。
現境内は、下段、中段、上段の三段になって、本殿は以前は中段にあったが、民家も近く火災の心配や老朽化によって大正六年現在の上段の位置に移転改築され、神殿を高くし崇神の念も深からしめんとして御遷座された。
年中行事
一月一日(元旦祭)全区民参拝
一月六日    神明講
二月一日    厄年厄払い
五月一日    一言神社春大祭
五月十五日   神明講
五月末     五月休み御祈祷
九月十五日   神明講
九月十八日   御陵祭り(脇宮の祭り)
十月一日    一言神社秋大祭
十二月九日   山ノ口講
十二月十五日  新嘗祭、七五三御祈祷


『遠敷郡誌』
一言神社 村社にして同村次吉字宮ノ上にあり、祭神は一言主神にして元泉一言明神と稱せり、境内に御霊社祭神不詳、廣峰神社祭神不詳の二社あり。.


曹洞宗松雲山新福寺

集落の一番奥にある。フジの木(県天然記念物)で知られる。
『国富郷土誌』
新福寺
次吉第五二号不動谷六番地にあり、曹洞宗で松雲山と号す。本尊は十一面観世音菩薩で右に不動明王、左に地蔵菩薩の脇仏が祀られている。慶長二年(一五九七)旨外守玄大和尚が開基開山した。境内坪数は七畝。
 創建当時は天台宗であった。一七五〇年火災にあい全焼し、それ以前の記録は一切残っていない。本尊脇仏檀徒位牌は、かろうじて難をまぬがれた。天台宗時代の名ごりをとどめるものに、集落の入口(今は集落中央に位置する)に、阿弥陀如来をまつる阿弥陀堂があり、区内安全を祈る区民の信仰の場となっている。毎年彼岸には念仏供養、八月二十四日は百万遍の供養が、区民総出で盛大に行われる。
 阿弥陀堂前に自然石の一字一石塔がある。石柱の中央部には「奉納一字一石大般若理趣分塔」と書き、「癸、文化十星生願主前正明」一方に「酉五月建焉老山謹書写」と刻してある。文化十年(一八一三)当時、次吉集落内に、たびたび火災があり、区民一同不安のどん底に悩んでいた時、新福寺住職左山という人が、火災はもとより除厄の悲願をこめて、理趣分経の一字一石に書写し、お祀りしたのである。今もなお区民の信仰の的であり、毎日必ずお参りがある。毎年一月二十五日朝除厄の弓打ち、盆の念仏供養が必ず行われている。六月二十四日秋葉山祭りと同時に本祭りがある。
 阿弥陀堂と理趣分塔はともに新福寺の管理下にある。
 新福寺は永らく寺格がなかったが、明治十一年彗海知産大和尚の時に法地開山が許され、開山の祖となり現在に至っている。
  開 基 旨外守玄大和尚
  一 世 彗海知産大和尚
  二 世 万丈桃林大和尚
  三 世 義天大英大和尚
  四 世 赫照祖道大和尚 原田祖岳老師の師匠
  五 世 混山祖琳大和尚
  六 世 棹川祖巌大和尚
  七 世 漆崎清寛大和尚 現加茂長泉寺住職
  八 世 原田雪渓大和尚 現伏原発心寺住職
  九 世 木屋道信大和尚 現住職
 新福寺は、集落戸数二六戸のうち一八戸が檀徒であり、集落外に一〇戸ほどある。寺の規模は小さいが名僧が多く出て、大英大和尚・祖道大和尚・原田雪渓大和尚と三人も伏原僧堂発心寺住職となられた。なかでも四世祖道大和尚が伏原仏国寺住職当時七歳で、弟子になられた原田祖岳師は一三歳の時に師匠が新福寺に転任されたことから、少年期青年期を次吉ですごされた。師祖道大和尚が二六世として、祖岳大和尚は二七世として発心寺住職となられたことは、新福寺として最も誇りとしている。
 新福寺として寺格のない時代であったが、幕末から明治初年にかけて島根県松江の高僧で雲叟禅師という方が新福寺にこられ衆生済度に力を入れられ、明治四年九月五六歳で入寂され、誠におしむべきであり「雲叟禅師の碑除」として顕彰碑が建てられている。
   年中行事
  一月一日  元旦祭  区民一同参拝
  一月十五日 御日待     〃
  一月十六日 仏法初め 観音講(六五歳以上の女性)
             念仏供養
  一月二十五日厄除け弓打 大般若理趣分塔前
  三月十四日 涅槃   観音講念仏供養
  三月彼岸       念仏供養
  七月十日  大般若  区民全員
  八月七日  施食会
  八月十四・十五日
         六斎念仏供養 新福寺、墓地・理趣
         分塔・阿弥陀堂各所で行われ、区民
         一同参詣
  八月十六日  盆行事
  八月二十三日 地蔵盆
  八月二十四日 百万遍 阿弥陀堂 区民全員
  九月二十三日 阿弥陀堂 観音講念仏供養


『遠敷郡誌』
新福寺 同寺(天養寺)末本尊観世音、慶長二年開創始祖守玄同村次吉字不動谷にあり。


岡山城跡
東部の山頂に内藤氏が弘治年間に築城した岡山城跡が残る。
『国富郷土誌』
岡山城址     小浜市次吉・栗田
次吉・栗田・太良庄の三集落をわける海抜二六二・九㍍の山頂に城址が所在している。
「若狭郡県志」に「下中郡次吉村に城址あり、内藤筑前守の出城の跡なり、岡山城という」と記録されている。太良庄賀羅岳城の山縣民部丞政秀の攻撃に備えて築かれた天ヶ城の出城か、見張の砦の役割を果たしたものと思われる。
『若狭の中世城館』には、小規模ながら一応城郭としての機能を備えており、北側尾根筋には二段の堀切りを持つ(後略)と調査の概要を記し、築城の年代を弘治年中(一五五五~五七)とし、守将はだれであったのか不明としている。
天ヶ城の防備にとって大切な役割を持ったことと思われる。


次吉城跡
『国富郷土誌』
次吉城址(仮称)  小浜市次吉(城の腰)
次吉と熊野の間に突出した小さな丘陵があり、県道東小浜線によって区分され
ていた。現在は土砂の採取によって丘陵地は削り取られ、平坦な荒地となって城址は失われた。
天ヶ城とは熊野川・江古川をへだて、天ヶ城を攻撃する敵の後方を扼する絶好の砦といえる。
『若狭の中世城館』には、城は東西八五㍍、最大幅一五㍍と小規模で砦の要素が強い、二つの郭が接続してつくられ、西側郭は三方を若干切り落として平場を持つ。
東側では東西両端に土塁を配した構造となり南側に張り出した腰曲輪がある。郭の東終焉には二段の空堀を設置し、北側斜面に一本、南側斜面に二本の竪堀が堀の延長に設けられている(後略)と調査の概要を記録している。今は失われた城址であるだけに、貴重な調査の記録といえる。
この砦に関する文献資料は何もないが、この丘陵地の小字を「城の腰」と呼び、城址であったことが知れる。築城の年代は岡山城と同じ弘治年中(一五五五~五七)
のころと推定されている。



善徳塚
この碑を探したが見つからなかった。カメムシは私の所でもよく見かけるが、こんな害虫とは知らなかった。

『新わかさ探訪』(写真も)
国富の善徳塚   若狭のふれあい第127号掲載(平成13年8月18日発行)
小浜藩が害虫捕獲に奨励金 今も残る虫供養碑
 近年、カメムシなどの害虫が異常発生して、注意報や警報が出されることがよくあります。農薬などの有効な防除手段がなかった昔は、作物が壊滅的な被害を受け、人々はそれを神の怒りや悪霊のたたりとして恐れました。若狭に今も残る虫供養塔には、虫の害に苦しみ、神仏に加護を願った当時の人たちの思いが刻み込まれています。
 江戸中期に小浜の町人学者である木崎惕窓が書いた『拾椎雑話』に、次のような話が載っています。
  小浜の国富庄で「善徳」と呼ばれる 虫がわいた。それは大きな豆粒ほどで、 色が黒く、肩がいかり、角がおり、羽 があって飛び立つ。秋稲を食い枯らす。善徳虫は次吉村の山の間からわき出して、近辺は稲を作ることができず、みな大豆を植えた。和久里村や府中村へもわたり、はびこった。役所は、貧しい人たちに虫を拾わせて一升につきいくらと銭を与えた。虫が少なくなるまでに多くの銭を必要とした。
 善徳虫をとる手は黄色に染まった。その虫を海に捨てたところ、小松原の漁師たちが「虫を食った魚は毒だといって買う人がなく、迷惑している」と役所に申し立てたため、次吉村と奈胡村の山すそで焼き捨てることになった。このとき、虫を俵に詰めて積み重ねたところ、およそ50俵にもなった。〔中略〕これは貞享年中のことである。
 昔、奈胡村に善徳という、銀を蓄えた独り身の男(僧)がいて、ひそかに殺されたという。この亡魂が虫となって近くの村に害をなす。それで、善徳虫と呼ぶ。稲の害虫の類いである。
 善徳虫というのはクロカメムシのことで、福井県嶺南地方特有の呼び方です。この虫は山林や堤防などで越冬し、本格的な梅雨の到来とともに、わき出すように集団となって水田に飛来し、稲の汁液を吸い、株元に卵を産みつけます。大量発生すると、水田一帯が白穂になり、収穫皆無となるケースもあります。国富庄は若狭でも有数の穀倉であり、江戸初期、小浜藩は害虫捕獲に奨励金を出して、コメの収量を確保しようとしたわけです。
 今も次古と栗田との集落境の山麓に、「善徳塚」と呼ばれる供養碑が立っています。高さ75mの石碑には、中央に「南無妙法蓮華経善徳蟲供養、その左右に法華経の一節である「諸悪虫輩」「交横馳走」、そして文政3年(1820)、国富庄の村々からの寄進でこの碑が建てられたことが刻まれています。『拾椎雑話』にある貞享年問(1684~88)の話から、130年余り後のことです。おそらく、その後も善徳虫による被害が発生し、大量に捕獲した虫の霊を供養するため、この碑が設けられたのでしょう。
 ほかに小浜市甲ケ崎や、敦賀市色ケ浜の本隆寺開山堂横にも善徳虫供養塔(甲ケ畸の石柱には「漸得虫」と刻字)があり、嶺南の広い範囲でクロカメムシをゼントクムシと呼んでいたようです。これら3基には、いずれも「南無妙法蓮華経」の文字が刻まれており、建立年代も近いことから、何らかの関連かあるものと思われます。
 国富地区では、昭和26年ころまで各集落単位で「虫送り」が行われました。これは、夏の夜に大勢の人が出て、手に夕イマツを持ち、あぜ道を1時間ほど歩き回って、炎の明かりで虫を誘い駆除するものです。東隣りの宮川地区では、昭和54年に復活し、それ以後、夏の恒例行事になっています。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


次吉の主な歴史記録


『国富郷土誌』
次吉
一 次吉の歴史
 次吉の里は、静かな山間に二つの谷川が流れている。その水を求めて、次吉の先人たちが住み着いたものと思われるが、それはいつのころかは定かでない。
しかし、昭和六十二年北川の護岸工事で発見された丸山河床遺跡は、弥生時代前期のものといわれ、出土品は土器一〇〇〇点と縦斧の柄(カシ製)・黒漆塗高坏(ケヤキ製)・ヒョウタン果皮等である(約二三〇〇年前)。
この遺跡は、当時の人々が定住して稲作りをしていたことを明らかにしてくれた。またこの遺跡は通称次吉出口と呼んでいる北川右岸の河床にあり、次吉の里の近くにあった。
このことから考えられることは、次吉の里もほぼこれと同じ弥生時代前期にはすでに人々が住み着いていたと思われる。
次吉に流れる二つの谷川の下流には、少し傾斜して谷水を有効に使い、肥沃な平坦で大雨でも冠水しない稲作には最も適した平地が広がっている。この地に先人たちも着眼し、次吉を定住地として稲作を始めたのではないかと思われるが、資料がないので明確にいえない。
時代は変わるが、次吉には奥所(おくじよ)と呼ばれる古い住宅跡と思われる所がある。今はカヤ野や植林地に変わっているが、新福寺の横手から三ッ谷川の分かれまでの広い範囲で、三〇坪ぐらいに細かく段切りされて、古い石垣の一部も残っていて、
かなりの数の家跡と考えられる。
この地は今でも小面積ではあるが、多数の人が所有している。時代の流れと稲作が進むにつれて、人々は水田に近い口の方の便利な地へ移り住んだに違いない。
一言神社の裏山には、祭殿の土地造成工事で見つかった円墳があり、六世紀ごろのものとみられている。
平安時代、京都壬生家文書によると、永万元年(一一六五)小槻隆職相伝の私領であった国富が、一八〇石の官御祈願米・造八省米・法華会料米・官厨家納絹代と残米は国庫へ入れるということで、国衙領国富の保が成立した。
また、建久六年十二月四日(一一九六)太政官符(「吉川半七所蔵文書」)の中で、遠敷郡国富郷のうち「南限次吉扞神女崎」と出ているのが、「次吉」という名が出てくる初めのようである。
国富保の南の境として、神女崎(現在の湯ノ山)と次吉崎とでている。次吉には土地改良前までは、「塩堺」や「一ノ坪」「二ノ坪」「三ノ坪」「四ノ坪」という地名が残っていた。「塩堺」は土地改良前までは一ノ坪ともいったが、国富の庄と他の庄との境ということで「荘境」の語源のようである。
一ノ坪から四ノ坪までは、時代は明らかではないが、奈良時代より行われていた条里制の名残であり、「坪」とは、条里制の中の一区画のことである。
一ノ坪から四ノ坪まで残っていたのは、若狭では珍しいことである。この地は土地改良以前でも区画が整理されて収量も安定した良い土地であり、その他にも七反坪や八反坪もあった。
このようなことから、次吉は早くより水田稲作が発達していたことが伺え、戦乱の世では重要な地点となり、国富荘も次吉村もさまざまな土豪たちに征服され治められた。
応仁元年・永正十四年の羽賀寺への如経米寄進札には、「願主吉村三郎大夫」「次吉村大屋権守」と出ている。明通寺鐘鋳進算用状は、「弐百文次吉村」と出ている(「小浜市史」)。このように、次吉からの寄進も多かったようである。
次吉の村下には、「大ぐろ」といわれる二つの大きな土手があった。今の北村宅の前と後に羽賀の方へ向かって三〇〇㍍ほど延びていた。敷幅は取付部で五㍍を超えたが、先の方では細くなっていて、高さも高い所では四㍍を超えたであろうといわれている。
次吉の北側の村のはずれに「城ノ腰」と呼ばれる小高い山があったが、今では山上を取って平坦地となっている。戦国時代にはここに城ノ腰城があった(三六ハページ参照)。この城のトリデとして、この二本の土手が築かれたものともいわれる(「岩見健太郎「ふる里」より』)。北側の土手の上には次吉宮前川が流れて、その土砂で先端が年々延びていたが、土地改良により、この二本の大きな土手はなくなり美田に変わった。
江戸時代の「正保郷帳」に七四三石余、「元禄郷帳」七四六石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに七五一石余、「正保郷帳」での田畑内訳は、田方七〇〇石余、畑方四二石余、「雲浜鑑」によれば、家数三七戸、人口一八〇人と記されている(「角川地名」)。それによると、次吉の田の持分が他の村より、特別多かったのがうかがえる。ちなみに、栗田三一六石、熊野三七二石、奈胡六八一石、羽賀四六五石と記されている。
天明五年、栗田村根付目録控(「藤田家文書」)によれば、次吉の栗田村への出作田が三九石あった。今の三号道路(小学校前道路)により北川の方は、次吉持分であったらしい。高橋家文書によれば、天保七年(一八三六)の年貢免相に総高のうち、見捨分二四二石とあり、この年の凶作を伝えている。天保九年には、次吉村の庄屋・組頭連名で郡方代官へ訴えたが、飯米もない凶作ということで三五俵の借用を申し出ている。
次吉には、牛馬の売買をする博労がおり、仲間入り料として鳥目一貫文を出し、毎年蛭子講には菰役銀二匁を納めるなど、九か条の取り決めをしている。
隣村栗田村との出作田定納をめぐる相論が、嘉永六年以来継続していたが、文久元年十一月、栗田村に有利な裁決で決着し、両村とも郷方役所へ済状を提出した。
小浜城修築の使役として、村人たちは毎年多くかり出されたと思われるが、慶応二年には藩蔵米を近江の大津へ送るため、次吉より二六名が人夫として出されている。また京都行きの人夫も出されている(「高橋家文書」)。
新福寺にある門勘左エ門の碑(三七一ページ参照)は、文政年間の凶作で租税の納入は困難を極めたため、代官に窮状を訴え救恤米一〇〇俵をもらったと記されている。
文化十年ごろには、村中でたびたび火災があり、村人たちは不安のどん底にあったらしい。その時左山という人が理趣分経を一石に一字ずつ書いて、阿弥陀堂近くに埋めて、その上に大般若経一石一字の塔を建てた。火災や病苦がないよう村人たちが朝夕祈ったらしい(三七四ページ参照)。それ以後次吉には大きな火災がない。
明治二十四年の調査によれば次吉は、戸数三五戸、人口男八〇人、女八一人、学校一と記されている。江戸初期の正保の時代よりも、戸数で二戸、人口で二〇人少なくなっている。次吉には田畑が多かったので、奉公人といわれる人が多くいたものと思われる。学校一とあるのは、次吉と熊野の子どもが通った教庭小学校が一言神社の近くにあった。
平成三年では、戸数二七戸、人口一二四人である。明治二十四年からは、戸数で八戸がなくなり人口で三七人少なくなっている。
阿弥陀堂の横には、区の公会堂が昭和三十年まであった。古木で造られていたが一二坪ほどの建物であった。老朽化のため取壊して、現在の公会堂を昭和三十年に場所を変えて新築した。今の公会堂の地には、長床と呼ぶ神事等を行う六坪ほどの古い建物があったが、これも壊して裏山も削り広い土地を造成、今の公会堂を建てた。二六坪余りあり、地区内では大きな公会堂である。
区の入口であった辻堂の近くに、大正時代まで「馬のやいと場」というのがあった。農耕に使われた馬は過酷な使役のため病気になることも多かった。それで馬を栗の木の大きな杭につないで、暴れないようにしておきお灸をすえたという。
大正年代になり、農耕馬は病気に弱く飼育がしにくいということで、農耕には牛を使うようになった。この場所は今は雑草が繁っている。この地より五〇㍍余り田の方に入った所に、牛馬の「足洗場」というのがあった。土地改良前までは栗田村下より魔野を通り、江古川へ流れる大きな川があって、ここで農耕に使った牛馬を帰りにていねいに洗ってやり、家族のように大切にした。
昭和三十五年ごろより、農耕は牛にかわり耕耘機が使われ始めそのため黒毛和牛を飼育する人はなくなってきた。牛小屋が各家に残っているので、次吉ではホルスタインの乳牛が飼育され、多い時には一〇戸余りが搾乳をしていた。
昭和五十年ごろには、規模を大きくする人も出てきて六〇頭余りの乳牛が飼われて、酪農村といわれたが今は乳牛は一頭も飼育されていない。
明治のころから、「分け山」という制度がある。昔は田の肥料としてしば草が使われた。山へ行き草木の若芽を刈り取ってそれを倒しておいて、乾いた時に背負って持ち帰り田へ入れることがよく行われた。次吉にあった野山(個人の所有でないもの)へ村人たちが行き競って草刈りをしたという。春になると一年中使う薪も作った。村では人夫を出してその人たちが通る山道造りをした。
大正十二年七月には、その野山(村山)を個人に分け与えて、個人で地上権の管理をする。その権利は地上権のみで村人でなくなった時は、その権利を区へ返上するということにして個人に配分した。この制度は今も続いている。分け山といわれる個人山は、植林もされて立派な山となっているところもある。
昭和五年の大豊作後、昭和六・七年と米価の低落に農村は困窮した。政府の方でも救農工事を行い、農村の現金収入の道を開いた。次吉でも農道の拡幅と整備をして村人たちは仕事に出た。この工事で昭和七年ごろには、土地改良以前の田で八反坪・鉾立線と魔野線の整備をしている。
村中の道路は大きく分けると、三回にわたって改良している。昭和十五年には、吉井奥右エ門宅から阿弥陀堂までの改良をしている。戦後二十四年には、窪田治良左エ門宅より林道の終点まで拡幅をしている。この工事により村中を車で一巡できるようになった。
昭和二十八年九月二十五日には、台風一三号により大水害が起こった。次吉でも一五戸が床下浸水、二戸が床上浸水となり、区内の道路も谷川の氾濫により道路は寸断され通行不能となった。特に宮前川の方が被害がひどく、もとの川と道との区別がつかない所が各所にあった。宮ノ下付近で土手が決壊して田畑が土砂で広く埋まった。国富平野は湖と化し水面は村下の道路を越えた。村人たちは何日も災害復旧に出動した。翌二十九年より国の災害復旧工事で宮前線の改良がなされた。拡幅と谷川の方の石積み河床の石張りである。それも今では三面張りのコンクリートに変わった。
昭和三十六年には次吉幹線道路(五号幹線道路)が、農道舗装事業として採択され、北川堤防より次吉村下までが舗装されるとともに、集落内の道路が全線同時に舗装された。当時はまだ集落内の道路が舗装されている所は無く珍しいことであった。その費用約二〇〇万円余りは全額区で負担した。先輩たちの環境整備への熱意がうかがえる。
昭和三十八年には国富地区の巡回道路として吉井奥右エ門宅下より城ノ腰までが拡幅された。この道路は後に県道に格上げされた。
江戸時代に火事が多くあったらしい。そのため村人は防火の心がまえが高かった。今も阿弥陀堂の天井には、明治十二年と記された二台の応龍水という古いポンプが大切に置いてある。
阿弥陀堂横の消防小屋には、明治四十二年新調という腕用のポンプが置いてある。なかなか水は良く飛んで操法大会では優秀であったらしい。
大正十三年の羽賀村の大火事の翌年には、いち早く新福寺下に防火用水を完成させている。横六㍍、縦一二㍍という当時としては立派なものであった。大火事を教訓としての対応の早さに感心する。昭和三十九年には簡易水道と同時に消火栓も四基作った。昭和五十四年には村下に三〇トンの防火用水も出来た。
昭和三十九年には、国富地区で太良庄についで簡易水道が完成した。水道蛇口より飛び出す水を見て主婦たちが一番喜んだ。当時は一六トンのタンクにいっぱい貯水されると、次吉二七戸の生活用水は十二分にあった。
しかし、時代は進み水の使用量が増えて、五十三年にはさらに一二トンの貯水タンクを一基増設した。この水道施設は水の濾過に砂を使う、表流水利用緩連濾過装置といった。維持管理には毎年区で人夫を出して砂を取り替える等の手間がかかった。
さらに時代が進み、谷川から流れる水を全量使っても増え続ける使用量には及ばなかった。日照り続きの年には水不足が起こり始めた。
国富地区でも生活用水の不足が各区で起こり国富地区で農村総合モデルの一環として営農飲雑用水事業が採択され、次吉もこれに加入した。昭和五十八年より、四年の歳月と約三億円を費やして、現在の施設が完成し水不足の心配もなく使用している。
平成四年三月現在の世帯数は二七戸で、人口は一二一人である。


次吉の伝説


『越前若狭の伝説』
善徳塚                  (次  吉)
 貞享年中(一六八六ごろ)いなごか多く発生して稲に害を与えた。藩主酒井忠囿(ただその)は価を定めていなごを拾わせた。そのいなごを埋めたのが善徳塚である。むかしこの地に善徳という名の僧かいた。土地の人に殺され、その亡霊かいなごとなって害するので、いなごのことを善徳といい。、つかの名もこれによる。     (若狭国誌)

 むかし国富庄次古のあたりから、稲をくい荒す害虫がわいた。この虫は、色が黒く羽根があり、大豆ぐらいの大きさであった。百姓は稲を作らず、みな大豆ばがり作った。
 この虫は、繁殖して、和久里村、府中村までも広かった。これを知った殿さまは、貧しい人たちに申しつけて、この虫を捕まえさせた。捕まえてきた虫一升につき、いくらかの銭を出した。
 この虫を海へ捨てたが、小松原の漁師か、虫をくった魚に毒かつき、買う人がなく、めいわくだと、役所へ申し出た。そこで次吉と名胡(なご)の山すそで、虫をつめこんだ俵五十俵を焼きすてた。
 この害虫のことを、村人は善徳虫と呼んだ。それは、むかし、名胡にひとりの坊さんかいて、善徳といった。この善徳という坊さんは、独身でお金をたくさん、たくわえていたので、村人かひそかに殺してしまった。この亡霊か害虫となって、村人の作物をいためつけるのだと信じた。
 虫を焼きすてた跡に、空印寺からお坊さんに來てもらい、供養のお経をあげ、石塔を建て、善徳塚としてまつった。    (抬椎雑話)

 次吉と栗田(くりた)の間にまの(魔野)という所がある。この山すそに善徳虫の墓がある。むかしどこかから善徳という旅の坊さんかやって来た。この坊さんはたくさんのお金を持っていたので、村の人々がみんなで殺してそれを奪ってしまった。ところが死んだ善徳は、その恨みを晴らすため、化けて虫となり、付近の田の稲を食い荒らした。人々はこれを善徳虫と呼んで、そのたたりを恐れた。そこで、まのの山すそに善徳虫の墓を立てて、その供養をした。また毎年夏になると、夜村中の人がたいまつを作って火をかざし、「ぜんとく虫やー、送りや送りやー。」などと叫びながら田の道を歩き同り、北川の川原でこれを集めて燃やし、虫送りをした。   (永江秀雄)


 若狭地方では、今もなおイネノクロカメムシを善徳虫とよんでおり、「拾椎雑話」の善徳虫は、日木最古のイネノクロカメムシに関する文献と思われる。(衣水富)





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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