丹後の地名 若狭版

若狭

忠野(ちゅうの)
福井県小浜市忠野


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福井県小浜市忠野

福井県遠敷郡遠敷村忠野

忠野の概要




《忠野の概要》
遠敷川沿いの集落。神宮寺と下根来の間のある。もと中野村と称したという。
忠野村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数13 ・ 人数63。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年遠敷村の大字となる。
忠野は、明治22年~現在の大字名。はじめ遠敷村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北1町余、戸数10、人口は男27 ・ 女26。


《忠野の人口・世帯数》 35・9


《忠野の主な社寺など》

八幡神社

集落の中程、永正14年(1517)の創建という。
『遠敷郷土誌』
八幡神社 (忠野区)
○祭神 應神天皇
 「遠敷区忠野にあり、應神天皇を祀る永正十四年の創始に係る書類今猶存す。毎年十月十日祭典を行い祈祷をなす」と遠敷産業誌に記載


『遠敷郡誌』
八幡社 村社にして同村忠野字村中にあり、祭神は應神天皇にして、永正十四年の創始と傳ふ。


嫁日(嫁の休み日)が残っているという。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
『郷土誌遠敷』
天明の打毀し
天明の飢饉は、小浜藩にも深刻な影響を与え、天明三年(一七八二)には打毀しが起こっている。その打毀しの張本人の詮議がされ、「忠野村」の二名が捕らえられ、湯岡村芝原で獄門にかけられた。
飢饉に際しての無理な年貢取立てに対して、敢然と戦った熱血男児が「忠野村」に居たのである。


忠野の主な歴史記録


『郷土誌遠敷』
神宮寺裏山に落とされた機雷
昭和二十年六月頃には沖縄戦もほぼ終わり、いよいよ本土決戦を迎えようとしていた。本土の都市は毎日B29の絨緞爆撃に曝され焼土と化していた。制空権、制海権を米軍に握られていた日本の残存艦艇は行き場がなく主として若狭湾にあった。米軍のB29はこの若狭湾に連日飛来して機雷投下、海上封鎖を行っていた。
七月末、B29の大編隊が根来方面から多田岳上空を経て若狭湾への機雷投下し、帰っていった。その時、どこかで被彈したのか一機遅れて来たのがあった。その一機が若狭湾まで出ずに、神宮寺上空で機雷を投下して帰って行った。神宮寺裏山の谷に落ちた機雷は五~十発位か、これが一度に爆発したのだから「百雷の一度に落ちる」という喩えのように物凄い音響と地響きであった。当時、神宮寺の一山では朝鮮の人々による「珪石」の採掘が行われていたので、そこが「要塞」に見えたから爆撃されたのでないか等の噂もあったが、あれは捨てられた機雷であった。その落ちたところは神宮寺の裏の谷であったので、本堂、仁王門、神宮寺集落には被害がなかった。谷の口の方向が忠野集落の方なので、忠野で二軒窓ガラスが割れたぐらいの被害はあった。
谷底の機雷の残骸はそのまま捨てられていたが、昭和二十五年朝鮮戦争勃発と共に金属類が高騰した。その頃ある人が谷底の機雷の残骸を馬で引き上げ、銭にしたようである。
その後年を経て、昭和六十二年になって、神宮寺のM氏が谷底に赤錆びてへばりついていた機雷の破片を引き上げ、神宮寺公会堂で展示し、戦争を知らない子ども達にも見せたという記事が当時の新聞にも載ったが、その後はどうなったかは分からない。

忠野の伝説






忠野の小字一覧


忠野 白山 下河原 赤井坊 谷田 晩田 後山 後畑 村下 村中 谷久保 松ケ平 柳ケ谷 山原 大水口 天王前 中瀬 後谷 仏ケ谷 山腰 大畑 平良 桂谷 芦谷 宮ノ谷 湯谷 木+八谷 尾白山 蜂久保 松ケ平山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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