丹後の地名 若狭版

若狭

和多田(わだた)
福井県小浜市和多田


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福井県小浜市和多田

福井県遠敷郡中名田村和多田




和多田の概要




《和多田の概要》
南川の支流田村川下流に開けた地域。中央を県道223号(岡田深谷)線が通る。田村川左岸に上和多田、塩瀬、右岸の大原、下和多田の4集落がある。市の伝統産業若狭和紙の産地で、手漉和紙生産組合があり、染色和紙の生産も行われている。

和多田村は、鎌倉期~戦国期に見える村で、若狭国遠敷郡名田荘のうち。嘉暦2年10月10日の公禅契約状に「若州和多田村河手事」とあるのが初見。嘉暦2年10月10日の公禅契約状によれば、田村川・南川の舟運が盛んで、当村に河関もあったことが知られる。年間約60貫文の関銭収入を公禅が知行相伝してきたと見える。南北朝期の貞和5年8月27日には和多田村河手などの代官職を5年契約で良円が請負ったことも知られ、彼らは在地の土豪層であろうと思われる。弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「弐百文 わたゝ村分」と見える。
近世の和多田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」による家数84・人数571。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年中名田村の大字となる。
和多田は、明治22年~現在の大字名。はじめ中名田村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西7町・南北4町余、戸数61、人口は男165 ・女163。


《和多田の人口・世帯数》 257・90


《和多田の主な社寺など》

稲荷神社(塩瀨)
『中名田誌』
稲荷神社(地籍 下田区 行政和多田区 塩瀬)
祭神 倉稲魂神 祭日 二月初午日、十月二十六日
 祭神の倉稲魂神は農業神で、稲の精霊が宗教的に高められ「稲なり」、「いなり」と転訛した神といわれている。本神社は、大同三年(八〇八)、土地の住人治郎兵衛という人が、山城国(京都市伏見)の稲荷神社から勧請され、現地に創建したと伝える。稲荷を奉祠する稲荷神社は全国に数多くあるが、その多くは江戸時代の中ごろといわれるが、当神社のその創建は極めて古く、その信仰の広くて厚いことを示している。
 本神社は広大な宮の森の奥に鎮まり、そこに通ずる長い参道は、むかし信者の献納する赤い鳥居で埋め尽くされたという。稲荷神の始原は稲・養蚕・食物の神であるが、中世から近世にかけて商工業が盛んになると、生産や商業の神ともなり、本神社は名田庄谷唯一の商売繁盛の神として栄えたという。
 毎年二百十日、宮の前で行われる松明上げの神事は極めて盛大である。
 棟札は次のとおりである。(略)


『中名田村誌』
稲荷神社(下田区塩瀬)
 祭神 倉稲魂神 祭日 二月初午の日
由緒 本社は、山城国紀伊郡稲荷神祉の別社である。延暦九年の昔、名旧荘野川の西岸に平林があり、この地に鎮守を奉る治郎兵衛という者、第五十一代平城天皇のころ、大同三戊子年、山城国の稲荷神社から招き、現地に社殿を創建して祭り、稲荷神社と号する。当時平林を開拓し塩瀬と称する一村を起こした。以来毎年二月初午の日に、例祭を行い、五穀豊穣、養蚕満作の祈頤をしているが、参拝の農商が多い。



稲荷神社・金刀比羅神社(上和多田)
『中名田誌』
稲荷神社(和多田区上和多田)
祭神 正一位稲荷大明神 祭日 二月初午日
 当神社は上和多田のほぼ中央、金毘羅山のふもとに位置している。参道の御神灯は享和二年(一八〇二)、社前の狛犬は文久二年(一八六二)に建立されている。保存されている宗札は「文久二壬戊年(一八六二)二月十六日)、「文政辛五年(一八二二)」と、いずれも江戸時代後期のものばかりである。しかし本神社がいつ創建されたかは明らかでない。
 本神社は上和多田及び大原地区民の崇敬厚く、祭日には全家庭からお餅(繭玉餅)を献り、家内安全と五穀豊穣を祈願し、餅まきの行事も行われている。
 社殿は、昭和五十一年に新築され畳五畳が敷かれるほどになったが、日増しに参拝者も増え、今日では更に拡張するとよいの声も出ている。


広峰神社
『中名田誌』
広峰神社(和多田区下和多田)
奉鎮 伊弉冉尊 火産霊大神 火之辺具土大神
   素盞嗚尊 稲田姫尊 五男三女神
 広峰神社は素盞嗚尊・奇稲田姫尊・五男三女の八王で、通常「山王」といい、山城国(京都)祇園牛頭天王社が起源である。和多田の場合はこの広峰神社に、さらに伊奘冉尊という記紀神話の国土創造神で最初に夫婦となられた国生みの女神と、火産霊大神・火之辺具大神という火の神をお祭りしている。
 いつの町代に創建されたかは明らかでない。明治以降、下和多田には大災が一件も発生していないということは、広峰神社のお恵みと、この地域の人の信仰が極めて厚いことを示している。近くは、昭和四十年四月十一月、加茂神社宮司杉岡貫一氏によって、改築祓殿神事が行われている。



曹洞宗大原山禅応寺

『中名田誌』
禅応寺(曹洞宗興禅寺末)
本尊 聖観世音菩薩
 本寺院はもと真言宗で愛堂庵といい、上和多田に位置していた。
 保延六年(一一四〇)「下之宮(山前大明神)祭礼神事座例之式」の文書の中に「式部入道道賢ワダタ」という人物か記載され、下の宮の「神酒弘役」を務めている。入道というのは仏門に入り仏の正道を修行する在家の信者である。当時の入道はかなり地位の高い豪族の一人とみられる。神仏習合の平安時代にあって、この道賢は愛堂庵の半俗道心の僧を務め、下の宮の祭礼に出席したのではあるまいか。愛堂庵の創立もかなり古い昔と考えられる。
 正保元年(一六四四)まだ愛堂庵が真言宗であった時、降蔵という半俗の僧がいた。延宝四年(一六七六)、僧竜積の時に至って、興禅寺末寺として禅宗に改宗、少林山禅応寺と改称された。その後、明治二十四年に火災のため堂宇一切炎上、明治二十五年、上和多から大原へ移転して堂宇再建、大原山禅応寺として現在に至る。仏のために衆生の苦厄を救い、人間を救済するという聖観世音菩薩を本尊としている。
如来水のこと 当寺院の裏庭に小さな井戸がある。
 大正十一年九月十七日、どこからか不思議な禅尼がこの寺へ見え、一週間ばかり滞在された。禅尼の教養は高く、その仏道の教えに地区民は感動した。その時この寺では飲料水が乏しく難儀を重ねていた。禅尼はこれを知ると、持っていた錫杖を振り祭文を読みついに霊水を求められた。禅尼の名は如来志希女といわれ、これを如来水という。いかなる時も渇水することがない不思議な井戸である。
 如来志希女の記された詩歌・教義は今も大切に保存されている。
住職 (略)
造改築(略)


『中名田村誌』
禅応寺(曹洞宗興禅寺末)
本尊 聖観世音菩薩
 当山は、元真言宗で愛堂庵と呼び、今から約二百七十年の昔正保元年のころ、隆蔵主と唱える半俗の道心者が居住していたが、延宝四丙辰年八月二十八日、興禅寺五葉白巌竜積和尚あらためて禅宗とし少林山褝応寺と号した。以来幾星霜を経て明治九年一月十五日、時の住持道謙和尚法地を開闢し、その師である上州洞尿七世雪巌棟門和尚を拝し、開山第一世とした。もともと当寺は旧向和多田にあったが、同二十四年十月十六日夜(当時三世楳岑和尚代)、どうした宿縁か、堂宇の一切が炎上の災難をうけたため檀信徒相談しあって敷地を移転し、今の地を選んで堂宇を再建し字号にちなんで大原山と改称、幾年も経ないで多大の浄財をなげうち、什器一切を備えて今日に至っている。創立の延宝四年から二百四十年、法地開闢以来四十年、再建以来二十有余年を経た。あたりは木々が茂り、緑色の峰々がかこんで、自ら秀霊浄域の地である。


『遠敷郡誌』
禅応寺 曹洞宗興禅寺来にして本尊は聖観世音なり、同村和多田字寺ノ脇に在り、元真言宗愛堂庵隆然なる者ありしが延寶四年龍積興禅寺末に改む。


地蔵堂

石に刻まれた縁起があるが、読めない。
『中名田誌』
地蔵堂(和多田)
本尊 延命地蔵大菩薩
脇立 不動明王・毘沙門天
脇壇 阿弥陀如来・弁財天
 本地蔵堂は、人皇第四四代元正天皇の御宇、養老六年(七二二)、越前国麻生津の大徳泰澄大師による創建で本尊は同大師の丸木作一刀三礼の地蔵尊を安置している。
 慈悲心によって衆生を済度するという和多田地蔵菩薩の誓いは、『中名田村誌』(本誌第一部)に述べられているとおりでここには省略する。
 本地蔵堂は奈良時代に建立され、末法思想が広まる平安時代に盛んとなり、鎌倉時代以降、阿弥陀如来の信仰も併せ、近辺一円の信仰網を拡大し、子育て延命地蔵としてこの地に堅く根を下ろしたといわれる。脇壇に祭られている阿弥陀如来は鎌倉時代の作とみられる。
 延宝三乙卯歳(一六七五)十月二日、谷田部村谷田寺の記録によると、和多田地蔵堂など四堂六社について、次のように記されている。
  右従往古当寺別当所ニ而、神事祭礼再興之開眼供養已下相勲
 申候以上。
   延宝三乙卯歳(一六七五)十一月二日  谷田寺頼運
  右者、大守酒井修理太夫忠直公御代、当国寺社方旧跡御尋故
 如此書上ル者也。
 本地蔵堂は往古から谷田寺の別当所であったとは記されているが、いつの時代かは明らかでない。谷田寺は開基の時から寺領五〇町歩を有し、太閤検地までは一二坊を持ち、高野山真言宗古義派の寺格の高い寺院だった。本地蔵堂は本尊のほかに不動明王・毘沙門天などの仏像が安置され、谷田寺に準じた高い仏式を表すものといえる。
 貞享元年(一六八四)以降周期的に開帳、閉帳の供養が行われていることは、『谷田寺文書』、『禅応寺主誌』、棟札などで明らかである。
  和多田村地蔵開帳 頼運勤修ス(谷田寺文書)
 于時 貞享元甲子歳八月廿四
            上ノ庄屋佐右衛門
            下ノ庄屋甚右衛門
   異筆「霊元天皇ノ御世ニテ将軍徳川綱吉ノ時代ナリ」
 宝暦四年(一七五五)、本地蔵尊は初めて彩色され、その開眼供養を行った。この年まで地蔵尊の鍵は庄屋方に保存されていたのであるが、いろいろな言い分があって、以後別当谷田寺方に保管願うことになった。
               宝暦四甲戊年
 和多田村地蔵尊彩色開眼供養 九月廿三日ヨリ四日
 相勤。現住法印権大僧都   妙楽寺弟子壱人頼
          高臨代
 此節地蔵尊鍵庄屋方ニ有シヲ、  庄屋下和多田善兵衛
 諸方言分何角と申ニ付、此方請  同 上  八右衛門
 取置申候。           組 頭  久 助
 宝暦十四甲申歳(一七六四)の棟札は次のとおりで、本
地蔵堂に阿弥陀堂が建立されていたことが明らかである。
   天下泰平五穀成就宝暦十四甲申歳
  奉建立弥陀堂 村内人民祓苦与楽攸
   仏日増輝法輪常転 六月吉祥日
            庄屋 伝七
 明和四年(一七六七)本地蔵堂は火災のため延焼、ご本尊は傷めつけられたので箱に入れ、御厨子の上に安置することになった。『谷田寺文書』は次のとおりである。
  明和四丁亥六月十四口夜半の時分
  一、和多田村地蔵堂炎焼     時ノ庄屋
   此時地蔵尊余程損ジ申候故、箱ニ入、  下 伝七
   御厨子の上ニ納メ置者也。脇立    上 八左衛門
   不動□毘沙門焼失いたし候。
  一、地蔵堂新造立。明和五戊了ノ七月。
  一、同年地蔵尊并ニ脇立不動毘沙門共新造立
そして、明和七年九月、新造立地蔵常入仏開眼供養を行った。『谷田寺文書』は次のとおりである。
  明和第七庚寅年(一七七〇)  別当谷川寺
  奉新造立地蔵堂入仏供養当村氏子中 息災祈攸
  九月廿四日

  同本尊開眼供養同時ニ現住政応勤之
     大工三重村喜右衛門  下庄屋 善兵衛
     同    善 七   上庄屋 八左衛門
     同    善 八   下組頭 久助
     木挽   作右衛門  上組頭 小左衛門
 明和四年の火災以後の棟札は約三〇枚保存されているが、その大部分は開帳供餐のものである。
 地蔵は釈迦入滅のとき、その委嘱を受け弥勒出世まで六道の衆生を済度教化する菩薩とされたという。和多田の地蔵堂は極めて古い歴史を持ち、しかも類まれな堂宇を持つ大きな地蔵として近隣に知られ、特にその縁日(地蔵盆)は、昔から参拝者でにぎわっている。
造改築 (略)


『中名田村誌』
地蔵堂(和多田)
本尊 地蔵大菩薩
本堂 間口五間半、奥行四間
庫裡 縱二間半、横二間
祭日 七月二十三日
緑起 当堂本尊地蔵大菩薩は、第四十四代元正天皇の時代養老年中越知大徳泰澄大師がこの里に遊行、霊地を感じられて伽藍一宇を草創し、丸木作一刀三礼の地蔵尊を安置された。本尊がこれである。嗚呼尊くも、六道(天道・人間・畜生・地獄・餓鬼・修羅)能化(仏)であって、御願いは他尊に勝っていられる。世尊伽藍陀山で御説法の会の座に現れ仏に誓っておっしゃった。すなわち、「我末法の濁惡なる世に於て受苦の衆生を導き、免れ難き業報の者には我代りで苦を受けん」と、宣し、すべての人々の迷いをことごとく救われた。もし一人でも残せば我正覚(最高のさとり)を取るまいとの大願を起こされ、釈尊の御附属を受けられ、法自身体普きが故に種々に身を変えられ、無量無辺に身を現してあさましい我らを護ってくださること、しばしも止むことがなく、影が形にしたがうように、また音が耳に応ずるようであった。いうまでもなく、この地蔵菩薩の大慈悲の誓いには、十種の福寿を得させられる。
 一、女人安産   二、身根具足   三、衆病悉除
 四、寿命長穏   苙、聡明智恵   六、財宝任心
 七、衆生愛敬   八、五穀成就   九、判明加護
 十、無上大菩提
 このほか八つの大怖を除いて下さる。以上釈迦如来に誓われたことは経説に明らかである。だからただ一心に礼拝恭敬の輩は、現世に福寿円満を得させられる。なんと貴いことか、この仏の誓い、広大無辺のことは何をもってたとえることができるだろうか。



地蔵堂の山裾に石材が転がっているが、これは石室古墳のようである。そこから火葬の遺灰を納めた壺が出土したという。そこの案内板には、
地蔵堂火葬墓供養塚
ここに埋納されている陶質の壺は、当区地蔵堂の背後に祀られていた石積古塚から出土したもので、平成五年二月、地蔵堂周辺整備のとき発見されました。その形から12世紀末~13世紀始め頃の遺物と推定されます。これは火葬した遺骨、遺灰を納入した蔵骨器で、当時地蔵堂に係わった僧侶のものと思われます。地蔵堂は古くから真言宗谷田寺と係わる由緒ある寺院です。ご本尊延命地蔵は地域の人々の深い信仰によって護持されてきました。このたびの公園化によって装いを一新しましたが、その一偶に住民の総意で蔵骨器を安置し、永久に供養するものです。和多田区


上和多田に伝わる六斎念仏は市無形民俗文化財。

《交通》


《産業》
若狭和紙
江戸時代には紙漉を行い、「若狭郡県志」に「桂ノ木村・田村・和多田村・三重村之土人多ク漉二厚紙一、其ノ製卑俚而充二雑用一」と記す。

《姓氏・人物》


和多田の主な歴史記録




和多田の伝説





和多田の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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