丹後の地名 若狭版

若狭

若狭(わかさ)
福井県小浜市若狭


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福井県小浜市若狭

福井県遠敷郡内外海村若狭

若狭の概要




《若狭の概要》
「わかさぶら」ともいうそうで、ムラは群がっているからムラではなく、ムラやウラはフルの転訛ではないかの思いが強まる。内外海半島の久須夜ケ岳南麓に位置し、南は小浜湾に面する。かつては現在地の西、小山1つ隔てた西浦の地に集落はあったが、ある年疫病が蔓延したためその災厄を避けるため東浦と呼ばれた現在地に集落を移し、国名と同じ名称にしたと伝える。西浦には現在民家はなく田畑となっているが、台地の北東山裾には椎村神社、西側山頂には西浦古墳群がある。
若狭浦は、戦国期に見える浦名で、弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状に「百十文 わかさうら」と見える。また、「実隆公記」大永7年(1527)冬の紙背文書のうち波々伯部正盛書状によれば、「抑彼船於若狭浦令着岸候ける」とある「若狭浦」は当地のことかという。
近世の若狭浦は、江戸期~明治22年の浦名。小浜藩領。慶長7年(慶長1612)の若狭国浦々漁師船等取調帳には当浦分の記載はなく、海に面しながら漁業はほとんど行われていなかったと考えられる。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内外海村の大字となる。
近代の若狭は、明治22年~現在の大字名。はじめ内外海村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北50間、戸数17、人口は男68・女62、小船20。


《若狭の人口・世帯数》 43・14


《若狭の主な社寺など》

椎村神社(式内社)

今の集落のある谷(東浦)の一つ西の谷(西浦)に鎮座。この谷は田畠があるだけで、人家はないが、古くはこちらに集落があった。
祭神は青海首椎根津彦神で大山祇命を合祀。遠敷郡式内社。文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写には「椎村宮二反 秋里名」とみえ、享禄5年(1532)の神名帳写には「従三位椎村明神」とある。嘉祥3年(850)4月、日吉神社の大光坊智真が山王社を勧請して相殿とし、「山王二之宮大権現」を称したと伝える。社殿の再興については「寛永廿一甲申年春、酒井備後守忠朝公御再興」とあって、羽賀寺法印良秀が遷宮の式を勤めている。5月5日の祭礼には王の舞が奉納される。
『内外海誌』
椎村神社
所在 小浜市若狭18号5番地
祭神 青海首椎根津彦神。尚山神社(祭神大山祇命)合祀。例祭 5月5日
本殿 流レ造6.75坪 向拝3.1坪 計9.85坪。鳥居石造一基。他長床 8坪。
氏子数 12世帯。
境内地 429.18坪(被譲与国有地)
境外地 山林1町5反1畝18歩
人皇45代聖武天皇の御宇天平3年創建式内神社である。
 椎社とも称し中頃は山王社とも尊称し毎年5月5日祭礼には御輿神事並に王の舞の神事を行う。御幸の祭神は、主祭神でなく、相殿の山王神である。相殿の祭神を嘉祥三年勧請してから当社を山王社と尊称した事は上記の通りである。(社記)
 「青海首推根津彦命を奉祀。式内の社にして聖武天皇御宇天平三年の創建云々」福井県神社誌。
 「椎村神社。村社にして同村若狭浦字椎にあり、祭神は青海首椎根津彦命と称し、天平三年創建と伝ふ。延喜式神名帳に椎村神社あり、国帳に従三位椎村神社あり、文永二年田数帳神田の内に椎村宮二反秋里名とあり、神名帳考証に椎根津彦命、倭名杪云、阿桑(阿乎)姓氏録云、青海首、椎根彦命之後也とあり、而して旧藩時代の神社帳石高帳及郡県誌等に此社名無く山王社あり、山王二三宮大権現などと称し、羽賀年中行事には嘉詳三年日吉大光坊智真律師の勧請する所にして鑰田として三斗六升の物成を別当職に宛行はれ、寛永十一年酒井忠朝再興され別当羽賀寺法印良秀遷宮の式を勤めし事見ゆ。(以下略)」若狭遠敷郡誌。
「山王社……」若狭郡県志にあり、次項に引用したのでここには省略する。
「椎村神社 国帳に従三位椎村、明神○文永二年に注進の当国の大田文に(此大田文の事此の若狭比古神社の下にいへり)東郷云々、寺社田六町八反四十歩国分寺云々、上下、宮云云、椎村ノ宮二反秋里名とあり、当社の事此ほかには書(モノ)には見あたらず○郡県志に、山王ノ社在二下中郡若狭浦椎崎一 斯処又称ニ西浦一(ニシガウラ)祭日五月五日也。則神輿遊行ス向若録云、西が浦在二若狭浦ノ西一、無二民居一唯有二一小祠一 椎林周匝 自為二瑞籬一 歳々枯葉落 埋二小径一 偶有二来遊者一 跫音響二于幽谷一 或称二椎崎- また椎崎ハ云々、与二福谷村一隔レ海相向 斯ノ処無二民居一唯耕種而巳、山下椎樹繁茂為レ陰 故名二椎崎一 といへる椎崎の山王社決くこの椎村ノ神社なり。若狭浦の老人に、椎崎の事を問ふに、郡県志にいへるに同じ。但しその椎崎といふは若狭浦(山副の海辺の里なり)内なから東浦と呼て人里ある所より、西の方小山一つ隔たる一区(ヒトトコロ )の地にて、又の名を椎ノ森ともいふ。椎樹多く叢生(ムラガリオヒ)たり。その森ノ中に在る社を椎ノ宮といへり。祭神は椎崎御垣(シヒザキミカキ)大明神と申す。山王は相殿に坐して御垣山王とも申す。されどもなべてはただ山王社と申なり。(御垣大明神は国帳にあり下に注すべし)。古は此椎崎を西が浦ともいひて人里在(アリ)けるが一年神の祟にて疫病(エヤミ)のいたく行はれ、ほとほとも盡なむとしけるを、東浦に避け移り住で、佳キ名を新めつけむとて、やがて国の名を負せて若狭浦といふこれなり。さてこの神社の祭五月五日なり。暴神に坐まして云々の亊ありとて何くれと物語れり。
 (注)その山王と呼ぶ神社のあたりに王塚(ワウヅカ)といふ塚あり、むかし異(カラ)国より王ざまの人舟にて渡り来て、此浦に住りけるが、身まかりたるを埋たる墓なり、かれが乗来れる舟の屋形の美麗(ウルハ)しきをとりて、神の御輿を作りたりと云伝たるがあり、いと古びて何の木とも知られずとぞ。其ほか何くれの調度の残れるが在て、薬師堂に入置たりけるが、百年あまり前火災に焼失たり。其王塚の前の坂を王の前(ソウノマヘ)坂といふ。今はオノマイ坂と訛りて稱へり、即西が浦より若狭浦へ越ゆる坂なり、忠朝朝臣君、放ありて西が浦におはしゝ時、かの王塚を掘らせて見給ひければ刀一口めづらしき花瓶の如きもの出たり、なほ在げなけれど止させ給へり。其刀は今も神庫にあり、花瓶の如き物は、或僧がとり去て今はなし、さて王塚はさきに掘らせ給へるによりて、むかしとは低く小さくなりたりと云ヒ伝ふれど、今も高さ六尺ばかり、巡り三十間にもあまるべし、艸深く生茂りてあり。又かの塚の申に黄金の鶏(トリ)を埋たりと語伝へて、をりをりそれが鳴を聞ものあり、其を聞たるものは必幸ありといふ、其塚のあたりの田の字を鶏がすと云ふも、かの鶏の古事によれりと、これも同翁語れり。(以上注。)
然ればいま椎崎御垣大明神と申は二神の名を浦ねたる唱にて、その椎崎と申は、此椎村ノ神に坐し、御垣と申は国帳に正五位御垣明神と載(ア)る神を合殿に祀れるにて、いわゆる御垣山王とも、ただに山王とも申し、又後にはその二神ごめに、なべて山王と申しならへる事となりたるなり。さて又社号を椎村と申すは、椎叢(シヒムラ)の中に坐すよしなるべし(又椎村といふは地名にもあらむか、さるは椎樹の多きによれるにて、今も椎崎といふにもおもひ合さる)」伴信友全集巻二。P.102。
註。伴信友の考証の結論は、「然れば」以下にある。群誌の伴信友の引用は省略にすぎるので此処に全録した。


『遠敷郡誌』
椎村神社 村社にして同村若狹浦字椎にあり、祭神は青海首椎根津彦命と稱し。天平三年創建と傳ふ、延喜式神名帳に椎村神社あり、國帳に從三位椎村神社あり、文永二年田數帳神田の内に椎村宮二反秋里名とあり、神名帳考證に椎根津彦命、倭名抄云、阿桑(阿乎)姓氏録云、青海首、椎根彦命之後也とあり、而して舊藩時代の神社帳石高帳及郡縣誌等に此社名無く山王社あり、山王二三宮大権現などと稱し、羽賀寺年中行事には嘉祥三年日吉大光坊智眞律師の勸請する所にして、鑰田として三斗六升の物成を別當職に宛行はれ、寛永十一年酒井忠朝再興され別當羽賀寺法印良秀遷宮の式を勤めし事見ゆ。
 件信友は椎崎の地名に聯関し、此浦の老人の言ふ所郡縣誌にある如しとて又の名を椎森とも云ひ、その森中の社を椎宮といひ祭神は椎崎御垣大明神と申す、山王は相殿に坐して御垣山王とも申すされどなべてはたヾ山王社と申なり云々と記せり。



臨済宗南禅寺派法雲寺

村の中央
『内外海誌』
法雲寺
所在 小浜市若狭28号11の1
本尊 釈迦牟尼仏
臨済宗南禅寺派。
本堂 36坪。仏堂 21.45坪。納屋 3.82坪。
境内地 180坪。所有山林 2町4反9畝。
堂内仏像 本尊仏像の他脇仏地蔵菩薩像(1)聖観音像(1)誕生仏(1)仏堂に本尊薬師如来像(1)十二神将像(12)弘法大師像(1)
擅徒 若狭11戸他計16戸
本寺院ハ寛永十二年ノ頃若狭ノ領主酒井備後ノ守御領地椎村ニ移ラセラレ若狭浦ト改称シ賜フ(現在ハ若狭ト称ス)是レニ自テ吾ガ永久ノ牌所トシテ堂一宇ソ創立セラレ松洞山法雲寺ト名ケ賜フ 寛文二年三月二十四日逝去シ給フ、 法号法雲建立酒井備後守用雲院殿独立葉山大琲土ト号ス創立以来二百八十年相統シ来リシモ追々大破ニ及弘化三年五月住持雲道首座、本寺高成寺ノ忠玄和尚ニ上申シ檀戸臨議ヲ遂ゲ再建セラレ今ノ空宇是レナリ、而テ大正二年五月六等地ニ昇等ス(寺記)
「若狭浦 法雲庵 褝宗高成寺末
若狭浦法雲庵は代々高成寺末派 開基は不分明にて御座候 本尊は釈迦雲渓の作にて御座候  年号  月  日  法雲庵住持」若州管内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
法雲寺 右同宗本尊は釋迦如来にして同村若狭浦字中所に在り、享保七年梅翁創建とす。

薬師如来堂

法雲寺の隣
『内外海誌』
薬師如来堂
所在 小浜市若狭28号4番地、11の2番地
本尊 薬師如来
境内坪数 134坪(共所133坪堂有1坪)
堂建坪 21.45坪
縁起 夫れ当寺本尊は 人皇六十六代一条院の御宇 長保五年五月の頃 当国日代夢の中に天童子来りて告げて曰く 是より戌亥に当って清浄の仏庭あり瑠璃光如来応現の地なり 彼地に堂宇を建立し日夜の燈光をかかげなば国家安泰ならんと告げて東方指して飛び去りぬ 則ち去って彼地に至り玉ふに 大木のもとに光明赫々霊香芬々たりと雖も尊客をみることあたはず 暫く有りて尊客を拝し奉る事を得たり 誠に熈怡(きい)の思をなし堂宇を建立し則聖徳太子の御作薬帥如来を召請し寺を名づけて元光寺と曰う 僧侶をして二六時中の勤行をなし専ら護国利民を報すへしと云々 御守護の神として椎村神社を御勧請あり其後 後土御門院の御宇延徳三年羽賀寺頼乗上人に命し堂塔一山別当所とし玉ふ 亦後光明院の御宇寛永二十一申年酒井備後守忠朝公山王宮御再造あり 又此地に御館御造営ありて歳久敷く閑居し玉ふ 常に当尊を御信仰有り 爰に紀元二千五百三十年九月十八日大兩潤って田園漫々たり颶風山嶺に号し古桜忽ち折れて堂宇を圧す 然りと雖も本尊を始奉り日光月光十二神将の尊容毫も損する事なし 是れ霊像の不思議なり之に由って此地を占し再造の功を遂ぐる者なり 夫れ薬師如来東土相応の尊にして衆病悉除の御誓ひ余尊に超過し十二の大願豈空しからんや、各々一心清浄の丹誠を抽て法縁結縁の衆生は 現当二世の願望速に成就し 各々慎みて御拝あるべきなり。
附記。これは区有文書を読み易くして記録した。縁起文語りにすぎぬが、中に史実も含まれている。酒井忠朝の閑居址は現椎村神社へ向って右、水田の奥の山麓の小丘(森)である。尚、観音堂は元、椎村神社社殿石垣下にあった。元光寺所属の仏堂であったが、元光寺廃寺となり法雲寺が管理して今日に至っている。正式に法雲寺所属は昭和17年2月(寺院規則認可・宗教団体法第32条2項)。




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


若狭の主な歴史記録




若狭の伝説、民俗


『内外海誌』
王の舞について
椎村神社祭礼奉納行事に、王の舞がある。「椎村神社」相殿の神日吉神の神輿渡御、神社所在の西の浦から、現若狭部落(旧称東の浦、その頃は部落は現西の浦にあった)への神輿の御旅であるが、その発着毎に行なわれる。若狭部落の中央に神輿の御旅所がある。
獅子舞、二人が一組になって行なう。獅子頭と尾とである。獅子頭の方は御輿に向って右回転の軸となり、尾の方の人は左足より出て三歩し、四歩目に砂地をける様にして跳ぶ、その時大鼓一打。一廻転三跳、三廻転すれば、獅子舞の衣装をぬぎ、頭の方の人は神輿前に末広をひろげ一揖して二人退く。鼻高(天狗面をかぶる)、獅子舞が終ると、この鼻高を行なう。侍者のささげる鉾に結びつけた衣をはずしてこれを着用し、面をかぶり鉾を持つ、御輿に向い一礼後、御輿の前で廻転する、左廻転、二歩で三歩目に跳ぶ、この動作四度で元の位置へ戻る。各三歩毎に大鼓一打。これを三廻転行なう。鉾を右脇にかかえ獅子を追う状態である。これが終って鉾を構え左先右手前で、鉾を神輿下にひそむ獅子を突きさす様で突差す。再び鉾を持直し右先左手前の持方で鉾を持ち同じく突差す。突差す毎に大鼓・打。終って後、鉾を侍者に渡し、今度は、一旦姿勢を正し左右の手を腰にあて居丈高の姿勢をとる、これは獅子を突差すことに成功して最早や武器を手にしていない状態である。御輿の正面で居丈高、腰に左右の手で、そのまま三歩大きく退く(退右進左の退右)、退き終って、また姿勢を正しのけぞりかへり、今度は、左右の手の指三指(親・人指・中)を出し、他は曲げて、うつむいて、指さす恰好で左右左と一歩づつ進む三歩で終り、面をはずして侍者のささげる鉾に元通り着け結び、末広を開き御典に一揖して去る。
使用する獅子頭および鼻高面(天狗面)は古く年代不詳。


『越前若狭の伝説』
若狭浦             (若 狭)
 小浜湾の海沿いに若狭という所がある。この村の西の方に小山を一つへだてて椎崎(しいざき)または西浦とも呼ばれる所があった。
若狭の村は初めはこの西浦にあったが、ある年神様のたたりで悪い病気か流行した。流行病がはげしくて村中か死んでしまうのでないがと心配されるほどだった。そこで生き残った人々は今の土地に村を移し、その名前もめでたくするため国の名の若狭と同じに若狭浦と名付けたのである。もとは、ここを東浦といっていた。   (若狭旧事考)




若狭の小字一覧


若狭  馬留 西長路 長路 篭郷 植ノ上 郷ノ木 左近ケ地 上左近 抜戸 奥ノ谷 風呂屋ノ鼻 七屋谷 鍛冶屋谷 王塚 大旗 新道 横畑 椎 坊谷 谷田 宮ノ口 鳥居浜 王ノ前 坪足 下所 鍛冶屋号 上所 竹ノ越 中蔵 堤ノ左近 石蔵 栗林 歯ケ蛇 神田 雨ケ谷 神田口 畩上 鍵畑 墓ノ腰 左近谷 左近 登畑 中所 神ノ前 東谷 思坂 宮郷左近 田中 絵名郷 中絵名郷 小絵名郷 西谷 西谷 ヲ子

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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