丹後の地名 若狭版

若狭

八百比丘尼伝説(やおびくにでんせつ)
福井県小浜市


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福井県小浜市

八百比丘尼伝説の概要



人魚の肉を食べたため、800歳まで若々しいままに生きたという八百比丘尼。全国を歩きその先々で白い椿を植えたという。
あちこちにその伝説があるが、小浜に生まれ、小浜に死んだというのがだいたいである。

小浜には3箇所、伝承地がある。


小浜男山の空印寺の薬医門の前に「八百比丘尼入定の洞窟」がある。




洞窟は、高さ1.5メートル、幅1メートル、くらい。奥行きは10メートルはない。入口には危険だから入るなと書かれている、奥には水が溜まっているようで、ポトンポトンとしずくが落ちる音がする。天井はコンクリートの打ち放しのようで、洞窟は全体に後世にかなり補修が行われているようである。奥壁に何か書かれた石板が立てられているが、ここからは読めない。



案内板がある。
八百比丘尼 不老長寿伝説
斉明天皇の白雉五年(西暦六五四年)若狭国祖荒礪命の末流、勢村(現在の小浜市勢)の高橋長者権太夫の家に姫が生まれました。膚は白玉のようにかがやき顔かたちも優美で生まれながらにして智恵徳行がそなわっていましたので、世の人々は神か仏の再来と崇めました。姫が十六さいの時、父の高橋長者が竜宮でのおみやげという「人魚の肉」を食べたところ、不思議や、幾さいになつても年老いることなく十六さい頃の若々しさと美貌気品がただよっていましたので、人々は驚歎し合ったといわれています。
姫は百二十さいの時、髪を剃り僧形(比丘尼姿)となって諸国巡遊の旅に出かけられました。此所に五十年、彼処に百年と止住して神祠仏閣を建立修造し、道路を開き橋を架け、時には五穀豊穣・樹木繁茂の技術を教え、人々に神仏への信仰と正しい人倫道徳を説き導きましたので、いたる所で敬募尊崇を受けられたということです。
後花園天皇宝徳元年(西暦一四四九年)七月、京都清水の定水庵で姫は諸国巡遊の旅を止めて生まれ故郷の若狭国に帰られました。後瀬山中の神明社の傍に庵を建て住居とされていましたが、八百さいになられたある日、(現在の空印寺境内にある)大岩窟にて静かに入定なさいました。後世の人々は、姫を八百比丘尼、または八百姫、長寿の姫と尊称し、姫がことのほか椿の花を愛し入定洞入口に椿を植えていかれたので、玉椿の姫とも申し上げたということです。
この入定洞岩窟にてお祈りをすれば、必ず不思議な霊験があらわれるとのことで、遠郊近在、老若男女を問わず、福徳長寿を願い諸病平癒請願成就を祈り加護を念ずる信心深い方々の訪れは絶えたことがありません。
どうぞ、みなさま方も真心こめて祈願し、ご霊験ご利益にあずかって下さい。
たのみなば いのちのほどや ながからん
いわまのしずく つきぬかぎりに


八百比丘尼(はっぴゃくびくに)入定の地
八百比丘尼の伝説は、北は東北から南は四国、九州まで全国に広がる物語ですが、いずれの土地のものも全べて若狭小浜と深いかかわりをもった伝説として語り継がれています。
若狭で語られている八百比丘尼物語とは、むかし東勢村(現小浜市)に高橋長者と呼ばれる人がいて、あるとき海中の蓬莱の国へ招かれ、お土産に人魚の肉をもらってさました。長者の娘がそれを食べたところ、八百歳になっても娘のように若々しく、困った娘は尼になり全国を行脚して、最後に若狭小浜に帰りこの洞穴に入定(生きたまゝ身を隠し静かに死をまつこと)したというものです。この時八百比丘尼は洞穴の入口に白椿を植えたと伝えられています、
八百比丘尼物語の源流小浜市は、この伝説に囚み長寿で健康で文化的な明るい町づくりに努めています、
 堀川河口には人魚の像を、国民宿舎小浜ロッジには長寿風呂を設けるなどしてこの有名な八百比丘尼の物語を語り継ぎ、また福徳長寿にあやからんものとの信仰がいまなお息づいているものであります。   小浜市


青井の神明神社の境内に「八百姫神社」
八百比丘尼はここで暮らしたといわれている。



京都府宮津市栗田に「八百比丘尼の塔」があったようで、
『丹哥府志』
【八百比丘尼の塔】(庵跡の南塔の華といふ處にあり)。若州神明山八百姫宮の縁記云。八百姫といふは若狭の国祖荒砺命の苗裔なり。父を高橋長者といふ。容姿美麗なれども会て婿を肯せず。自から髪を剃て諸国を巡遊して塔を建つ、若し破壊の堂社あれば是を修造し通路の絶へたる處には橋を架す。又人気のあしき處は順和の道を示し或は十年或は廿年爰彼に留り諸国に跡を残し給ふ。後に若狭に帰る。後瀬の山中に天照皇大神宮、豊受皇の宮あり、其側に庵を結び両宮に仕へ玉ふ。遂に其處にある岩穴の内に入定す。毎の椿の花を好ませ玉ふとて山に多く椿を植ゆ、よって八百姫の社を玉椿の宮と称す。抑八百姫は容姿毎に十七八歳の如く会てかわらず、よって当時の人目して白比丘尼童の尼又は長良の尼などといふ。人皇四拾二代文武天皇の御宇に生まれて寿を保つ八百歳是以又八百比丘尼と称す。


下根来

鵜の瀬にある案内板の⑥に地図もあるのだが、わからなかった。

『越前若狭の伝説』
八百比丘尼   (下根来)
明徳元年(一三九〇)有名な若狭の白比丘尼は、小浜の西、青井白玉椿(つばき)のあたりで死んだ。この比丘尼は、むかし雄略天皇の時代に、若狭遠敷(おにゅう)郡根来(ねごり)の鵜(う)の瀬川のあたりで生れた。比丘尼は無病長寿で、自分の年令をいわなかったのでひとびとは、年令を知ることができなかった。八百才になったとき、本当の年を人に話したので、世の人は八百比丘尼といった。
比丘尼の父は、道満(どうまん)といい、鵜の瀬川のところに住んでいたといわれ、道満の屋敷あとが今も残っている。  (若狭守護代年数並旧記)

根来川の鵜の瀬から五百メートルほど奥に橋詰という里がある。ここに八百比丘尼の屋敷跡と申し伝えている所がある。今は田となっている。田の中に石があり、それが目当てである。   (拾椎雑話)


『郷土誌遠敷』(写真も)
八百尼の墓
中の宮区田口孝治氏(屋号田口弥五郎)の古屋敷内(下根来区橋詰)に八百尼と彫った石碑の墓がある。
大昔、あるところに一人娘がいた。幾年過ぎても一向に往生出来ず、この世、全てのものが新しくなり、自分に身近い者は全部往生し去ってしまった。
欲望も金もなくなり、この上は仏縁を心に求めて、家内の者に「私を柩に入れて埋めてほしい、先ず、私は仏壇の金をたたいて入るから、この金の音が聞えなくなったら、私が死んだと思ってくれ、また、金の音を聞くために節穴を抜いた竹を地面の上に出して置いてくれ」と頼み、土を被ったとの一般の説である。





八百比丘尼伝説の主な歴史記録


『越前若狭の伝説』(昭和45年・杉原丈夫)は、まことに詳しい。全国各地を調べまくる。

八百比丘尼 (一)         (男山・青井)
 八百姫(やおひめ)というのは、若狭の国の国祖あれとのみことの末流で、高橋長者の娘である。生れつき容顔麗わしく、結婚を望む人が多数あったが、嫁に行かず、みずから髪をおろして尼になり、諸国を巡遊した。こわれた堂や社があればこれを修造し、通路の悪い所には橋をかけ、水のない所には水をさぐり、木のない所には木を植え、人心の悪い所では正直・順和の道を示した。
なかでも東国に長くいた。後に若狭の国へ帰り、後瀬(のちせ)の山中の天照皇大神宮・豊受宮のお宮の所にいおりを結び、両宮に仕えた。つばきを好み、山に多くのつばきを植えた。よって八百姫の社を玉椿(たまつばき)の社と申す。
 姫は何年たっても十八才の面影のままで、少しも変らない。故に時の人は白比丘尼(びくに)と名づけ、童(わらべ)の尼ともいい、長良(ながら)の尼とも称する。幼少のころ人魚を食べ、仙術を学び、長寿を保った。最後は後瀬山(のちせざん)のふもとの岩穴にて入定(じょう)した。人皇四十二代文武天皇のみ世(七〇〇ごろ)に生れ、なくなった時の年齢はおよそ八百才である。ゆえに人は八百比丘尼と称した。福寿円満八百姫明神として当山にお祭りした。福徳寿命の神として信仰され、病気の人が一心に願をかければ、霊験あらたかである。  (八百姫宮略縁起)

元和五年(一六一九)小浜の西、青井の白玉椿(つばき)という所に小社を建てた。これは同所の神主菊地某のはからいである。あるころからこの辺に比丘尼の姿が現われ、通行の人と行きあっては、かき消すように見えなくなった。ここは八百比丘尼の住んだ跡であるから、きっとその亡霊であろうと、小社を建て、八百比丘尼の宮と名づけた。それからは怪しいものは出なくなった。 (若狭守護代年数並旧記)

八百比丘尼は八百代姫(やおよひめ)といい、若狭国小浜の西、青井の白玉椿という所に社がある。「若狭記」にいう。元和五年白玉椿のあたりに夜な夜な比丘尼の姿が現われ、舞い遊んだが、人に行きあいては、かき消すように失せた。これはむかし尼の住んでいた所であるから、その霊であろうと、同所の神主菊地某(今は伊賀某という。)のはからいで、社を建て、八百代姫の社という。それより怪しいものは出なくなった。
また尼が入定した所とて、市中の空印寺という寺の中の山に横穴がある。今は埋まって浅くなった。  (梅の塵)

小浜の空印寺は、八百比丘尼(びくに)の住んでいた所である。その御影がある。かたわらにほら穴がある。その奥は限りを知らない。空印寺の五六世前の住職がこのほら穴の奥をはかるため、はいったが、三日間かかって丹波の山の中へ出た。
むかし女僧がここに住んだ。その女僧は八百才にもなるのに、容ぼうは十五才の美しさだったので、八百比丘尼とよんだ。村の人の話によると、女僧は人魚を食べたため。長生きをしたといわれた。    (諸国里人談)

空印寺の長白和尚の夢に老尼が来たり、「わたしは菩提(ぼだい)が少い。よろしく頼む。」という。同じ夢を三度見たので、初めて比丘尼の墓を建てた。最初空印寺の開山の墓と並んでいたので、回国巡礼の人が、「夫婦墓か。」と尋ねる者が多い。よって比丘尼の墓を岩尾の所へ侈した。墓は寛文年中(一六六一ごろ)建てたので、古跡ではない。  (拾椎雑話)

    註
 文安六年(一四四九)五月、若狭の白比丘尼が京都へ来て、東国比丘尼と会い、語り合った。(康富記)
 文安六年七月二十六日、近ごろ八百才の老尼が、若狭から京都にはいった。都中の人は争って見ようとする。固く門を閉ざして、容易に人に見せない。故に貴者は百銭、賤者は十銭を出す。そうでないと門に入れてくれない。(臥雲日件録)

 八百姫宮は、小浜市青井の神明神社の境内にある。男山の空印寺とは別であるが、便宜上いっしょに記載した。(編者)
 参照 八百比丘尼(二)、(三)(次項以下)、八百比丘尼(小浜市下根来)、高橋長者(小浜市勢)、びくに谷(小浜市堅海)、神明神社(小浜市青井)、八百比丘尼(上中町堤)。尼来峠(名田庄村納田終)


八百比丘尼 (二)          (男山)
 若狭に白比丘尼(しろびくに)と称する人がいた。この人の父が、ある日山へ行き、見知らぬ人に出会った。いっしょにある所へ行った。そこは別世界であった。その人は肉をくれて、「これは人魚である。これを食べると、長生きして年寄らない。」といった。父はそれを持って家へ帰った。娘は喜び迎えて着がえの着物を受け取った。そでの中に人魚の肉があるのを見つけて、食べた。娘は四百余才となった。白比丘尼というのはこれである。(本朝神社考)

白比丘尼は小松原の人である。小松原は城の東の海べにある。尼の父がある日海でつりをして魚を得た。その容ぼうがあまり怪奇なので、捨てて食べなかった。尼は幼くて、それを拾って食べた。その魚は人魚であった。尼は寿命が長く延びて八百才になった。ゆえに世の人は八百尼と呼んだ。はだの色は顔も体もみな白いので、白尼ともいった。
この尼は人に語っていった。「わたしは源平の盛衰をまのあたり見た。また源義経がいつわって修験僧となり。この地を過ぎて奥羽へおもむくのを見た。」人はこれを聞いて怪しみ、西王母の仲間であるとした。
尼が寝起きしたほら穴は。後瀬(のちせ)山の南空印寺の内にある。巨岩を約二メートル四方にうがち、上は広く下は平である。ほら穴の西数十歩の所に小さい石橋がある。白尼は、この石橋を渡って、ころんで地に倒れ、起きずに死んだという。ゆえにこの橋をころぎ橋という。ころぎとは転倒のことである。この石橋を俗にコウロギ橋という。なまったのであろうか。あるいはいう、石橋は白尼が和田から載せて来たものである。(異本にはころび橋とある。)
 またいう、白尼は七仙女のうちのひとりである。その死んだ所を知らないと。   (若耶群談)

むかし若狭に大工がいた。娘をひとり生み、はなはだこれを愛した。毎日人にやとわれ、魚菓をもらうと食べずに袋にいれて持ち帰り、娘に与えた。ある日深山にはいり木を切っていると、異人に出会った。異人から珍らしいきのこをもらって帰った。しかし常のものと変っているので、娘に与えなかった。娘は父が外出するのを待って、それを取って食べた。父は帰って来てそれを聞き、大いに悔いた。その珍らしいきのことは芝草のたぐいであろうが。
あるいはいう。父は竜宮にはいり、人魚の肉を得て帰った。娘がこれを取って食べた。その女は尼になり、八百才のよわいを保った。その色か白かったので、若狭の白比丘尼という。また八百比丘尼ともいう。若狭の後瀬山にほら穴があり、その前に川がある。白比丘尼はそこに橋をかけて往来した。その遺跡は今もある。 (国史実録)

むかしこのあたりに、六人の福徳長者がいた。この六人は時々集まり宝比べをした。そのごちそうも、また珍らしいものを出して、食べ比べた。ある時人魚の料理が出た。五人の者は、人魚を知らなかったので、怪しんで食べなかったが、その中のひとりが、妻や子どもにも見せてから捨てようと、人魚の肉五六片を持ち帰り、隠しておいた。ところがその家の娘が、人魚の肉は妙楽だと知っていたので、家の者に隠れて、食べてしまった。娘は年を取らず、長く生き続けて、八百才も生きてここに住んだ。 (西北紀行)

むかしある漁師が珍らしい魚を得た。頭が異形で、人面ともいえるが、形が小さい。その漁師は、珍らしい魚を得たから振まおうといって、人々を招いた。いずれも親しい人なので、招きに応じて来た。
漁師の家であるから、外流しであって、あるじが調理しているのを、客のひとりが、「珍魚とはどんな魚か。」と、ひそかにのぞき見たところ、切り捨てた魚の頭が人面に似ていた。その人は大いに驚き、他の人にもささやいて、「こういう物であるから、珍魚だといって、もてなし厚くても、食べてはならぬ。」といった。
やがてあるじが、「料理ができた。」といって出て来て、酒さかなを進め、かの珍魚は焼き魚にし、もとより小さい魚なので、おのおのへ少しずつ付けた。いずれも気味悪く思ったから。食ぺたふりをして、紙に包んでふところに隠し、珍味の喜びを述べなどして帰った。
みなは途中で捨てたが、ひとりだけ酒に酔ったのであろうか、そのまま宿に帰った。幼い子どもが、父の帰ったのをみて、みやげを求めた。父は紙に包んできたものを、いろいろ取り出して与えた。その中にかの珍魚があったが、子どもは食べてしまった。「それは食べて悪い。」と留めたが、もう食べていた。しかし何のさわりもないので、そのままにてすんだ。
その子どもはやがて年ごろになり。他へ縁付いた。夫とともに年老いたが、夫が死んで後、また嫁に来たころの年齢に姿が若返った。人々は奇異に思い、このことを伝え聞いた人は、ふたたび嫁にもらうという人がなかった。
しかるに年を経て、他国の人に縁付いた。ところが夫とともに年老い、夫が死んだら、また姿が若返った。自分でも恥かしく思ったのか、それからは身を隠して、行くえ知れずになった。
だいぶん年がたってから帰って来て、昔のことなど語り、建康寺(寛文二年に空印寺と改号。)という寺の山へ入定(じよう)した。食事をとらずして、数日死なず、山をだんだん掘って行き、ついに今の社がある所に至った。その入定の年に、尼の年齢は八百才であったという。
社のほとりに白い花に赤いまだらのはいった椿(つばき)があって、これを白玉椿という・ゆえにこれを所の名とした。 (梅の塵)

若狭の国今浜の洲崎村にどこの国からともなく漁師のような人が来て住んでいた。ある日里の人を招いて。みずから調理した。その人が食を調べるのを見ると、人の頭の形をした魚をさいていた。怪しんで一座の友にささやき、食べるさまをして帰った。ひとりだけその魚の料理をそでに入れて帰り、たなのはしに置き忘れた。
その妻は、常のみやげであろうと思い、収って食べた。二三日して夫が思い出して問うに、すでに食べたと聞き驚いた。妻はいう。「初め食するときは、味わいは廿露のようであった。食し終わって身体とろけ死んで、夢のようである。ややしばらくして目ざめて、気骨すこやかに、目は遠くまで明らかに見え、耳はひそかなことでも小さく聞こえ、胸中はればれとして明鏡のようである。」
その顔色特に美しく、その後世が移り、夫をはじめ一類の者みな死に、七世の孫もまた老いたのに、彼女ひとり海仙となり、心の欲するところに従い、山水に遊行して、小浜に住んだ。
若狭の国小浜の空印寺は、八百比丘尼の住んだ所である。尼の像を安置し、常に戸帳を開いている。花の帽子をかむり、手に玉と蓮花(れんげ)ようの物を持った座像である。社家に霊宝がある。尼が所持した鏡、正宗作のほこ太刀、馬の角、天狗の爪である。この尼の父は秦(はた)の道満という人である。このことは縁起に書いてある。初めは千代姫といったのを、今は八百姫明神とてあがめている。(笈埃随筆)

    註
「十方庵遊歴雑記」にも同じ文がある。たぶん「笈埃随筆」によったのであろう。(杉原丈夫)


八百比丘尼(三)       (男山)
富木(石川県羽咋郡)から二里の間八百比丘尼が植えたというつばき原がある。思うに若狭の白比丘尼の旧跡は所々にある。これは伊勢国(三重県)白子駅の産であるから白比丘尼ともいい、また八百比丘尼ともいう。また越中(富山県)黒部の庄玉椿(たまつばき)という所の産ともいう。たいへん長生きして、八百年のことを知っていた。いずれも回国して、若狭の国白椿山にいた。今も絵像があり、手につばきの枝を持っている。
むかし越中の国黒部川の港に玉椿の里という所があった。今はさびしい所であるが、そのころは玉椿千軒とて繁盛した。そこの長たる人が、あるとき上京する途中ひとりの武士と道連れになった。帰りのときもまた道連れになり、宿のなじみも重ねた。この侍というのは、越後国(新潟県)明光山のふもとに住み、三越左衛門という名の、千年を経たきつねであった。これからはお前の所へ時々来て語ると約束して別れた。
その後三越左衛門はたびたび来て、むつまじく語り合った。あとには心安い友一二人も寄って話し合った。あるとき三越がいうに、民家は物さわがしいから、わたしの一族のものにいいつけて、この家のうしろに亭を一つ建てて、そこで語ろうとのことであった。まもなく亭ができたので、お祝いのふるまいをした。三越は山海の妙味をごちそうした。そのうち友のひとりが、きつねの一族の料理をのぞき見すると、何やら人の形のものを料理している。このことをほかの友にもささやいたので、だれもこの肉を食べなかった。三越が特別に、この肉を食えとすすめるので、ひそかに懐中にいれて、帰りに捨てた。ひとりだけ酒に酔って、肉のことを忘れ、捨てないで帰った。その人に娘があり、みやげ物と思って食べた。その後三越が来ていうに、人間は短命であるから、長生きしてもらって共に語ろうと、先日人魚を出しだのに、食べてもらえなかった。人間とは疑い深いものであるといって、その後は二度と来なかった。この人魚を食べた娘は長生きして。八百比丘尼となった。
八百比丘尼は能登の国(石川県)鳳至郡縄又村の産であるともいう。 (能登国名跡志)

会津(あいづ、福島県)耶麻郡金川(かながわ)村にむかし若狭国小浜からひとりの老比丘尼(びくに)が来て、勝地を相し、この村の地頭石井丹波守に請い、一宇を建立した。地名にちなんで金川寺と号した。比丘尼みずから弥陀の霊像を刻んで本尊とした。長さ二尺六す(八十七センチ)である。住職は八百年のよわいを保った。よって世にこれを八百比丘尼という。寺の前に鶴淵(つるぶち)というふちがある。そのかたわらに大きな竒石が二つ並んでいる。その形が奔馬に似ている。よって駒形(こまがた)岩という。
八百比に尼の父は秦(はた)の勝道という。勝道は秦川勝の孫である。朝廷に仕えて天皇をいさめ、ざん言にあって追放された。和銅元年(七〇八)この地に来て会津山のふもとに住んだ。里長の娘と親しくなり、養老二年(七一八)正月元日にこの比丘尼を生んだ。勝道はかねて庚申(こうしん)を尊崇し、村の父老を集めて庚申講を営んでいた。ある日駒形岩のあたり鶴淵の底から竜神が出て、大衆をごちそうした。その中に九穴の貝があった。人は怪しんで食べず、道に捨てたが、勝道は拾って帰った。それをこの比丘尼が取って食べたので長寿を保った。 (新編会津風土記)

野州(群馬県)鹿沼で所の者は、「若狭の八百比丘尼はここから出た。」といっている。 (拾推雑話)

下総国(千葉県)海上郡椎柴村猿田に、比丘尼杉という樹齢千年を越える老木がある。八百比丘尼が植えたものという。明治三十八年六月に伐採された。  (海上郡誌)

武蔵国(東京都)足立郡みずはた(水波田村)村の慈眼寺に地蔵堂がある。その本尊は黄金仏で、八百比丘尼の守護仏であった。よって寿(ことぶき)地蔵という。この像は中古寺院が荒廃したとき、いずれかへ失ったが、享保年中(一七二〇ごろ)はからずも境内の土中から掘り出した。岩穴の中にいれてあり、岩の裏にかすかに「孝」の字が見え、その左右に「八百比丘尼大化元年」とある。
八百比丘尼が手ずから植えた木がある。先年枯れて、今は仁王門のひさしの下に片寄せてある。太さは五かかえあまりで、木質はえのきと思われる。
この尼は上古若狭国にありて、常に延命地蔵を信じ、一千の小石を集めて多年の供養を重ねたから、その功徳により悟りを得て、人間の俗縁を免れ、妙齢不老にて八百歳を保つたという。あるいはいう。この尼は若狭小松原の産である。幼時父が海浜でつりをして、怪しい魚を得た。これを尼に食わせたところ、それからは年を重ねても容ぼうが衰えず、若狭国の後瀬山のふもとの空印寺境内にある岩穴に隠れ住み、ついに八百歳に及んだ。故に人は八百比丘尼と名づけた。はだかきわめて白かったから白尼ともいう。宝徳年中(一四四九ごろ)京都に至り、常に源平盛衰のさまなどをまのあたり見たとて物語りをした。若狭国誌等によりこれを記す。 (新編武蔵国風土記稿)

武蔵(むさし)国(東京都)足立郡峰村の八幡社のかたわらにいちょうの老樹がある。回りが二丈五尺(七メートル五〇センチ)ほどある。これは若狭の八百比丘尼が植えたものである。
同じ足立郡貝塚村に八百比丘尼の船つなぎ松がある。回り一丈(三メートル)ばかりである。八百比丘尼は貝塚村の人と伝えている。しかし諸記には若狭国小松原の人とある。(新編武蔵国風土記稿)

武蔵国(東京都)北豊嶋郡滝野川町中里に庚申の碑が三基ある。その中央の碑は八百比丘尼が建てたもので、高さ一二〇センチほどある。それより東北一キロばかりの田の中に雑木の茂った森がある。比丘尼山といい、八百比丘尼の屋敷跡という。(十方庵遊歴雑記)

神奈川県足柄下郡元箱根のさいの河原に八百比丘尼の墓がある。 (新編相模風土記)

むかし美濃国各務郡(岐阜県稲葉郡)前野の里にアサキという長者があった。長者は娘ひとりを残して死没したので、その後は娘がひとり住いをして、毎日麻木のはしにて食事をし、付着した飯粒を苧(お)が瀬池の魚に施していた。そのうち大きな財産も食い尽してしまった。しかし施行(せぎょう)の功力(くりき)により八百歳の長寿を保った。この比丘尼(びくに)は後に各務(かがみ)村に住み、その跡に六字の名号の碑がある。八百年生きたから八百比丘尼と名づけた。後に若狭国へ至って死んだ。故に若狭国にりっぱな墓がある。(稿本美濃誌)

飛騨(ひだ)国(岐阜県)益田郡馬瀬村中切に治郎兵衛という酒屋があった。竜宮に行き、「聞き耳」と称するものをもらって来た。これは鳥獣のことばを聞き分けることのできるものである。ところが娘がその箱を開き、中にあった人魚の肉を食べ、八百歳の長寿を得た。諸国を遍歴して、死ぬるとき、こがね(黄金)の綱三ばを埋め、杉を折って墓標とし、「漆千ばい、朱千ばい、朝日輝き、夕日うつろう、その木の下に、こがねの綱三ばあり。」と記した。杉は枯れたが、その根は残っている。 (益田郡誌)

八百比丘尼は、飛騨(ひだ)国(岐阜県)古城那阿曽布村麻生野の森の下という所で生れた。本名は道春という。同郡宝村在家の桂本神社にある七本杉は、比丘尼が鎌倉から持って来て植えたものである。根は一本であるが、地上二メートルばかりの所で七本に分かれ、根の回りは十かかえある。 (飛騨遺乗合府)

八百比丘尼は、新潟県三島郡野積村岩脇の漁家に生れた。その容色は年を経ても老いず常に十六七才の処女のようであった。故に三十九度他家へ嫁したという。後髪をそって諸国の霊場を参けいし、終わりに若狭国遠敷郡小浜の空印寺にいおりを結んで住んだ。すでに八百年を生存してなお娘のようなので、八百比丘尼と名づけた。諸方の大名に召されて往事を語るに、まことに確かである。世に八百比丘尼物語という本がある。尼はとても自然には死ねないことを悟り、元文年中(一七三六ごろ)空印寺の境内で入定(じょう)した。遺物としてつえとずきんが額にいれて庵室に保存してある。彼女の生家は高津金五郎、通称納屋(なや)といい。今なお連綿として続いている。尼の遺物であるといって越後国の古い絵図一葉を保存している。 (温古の栞)

越後国(新潟県)柏崎の十字町に大きな石仏がある。半ば土に埋もれている。大同二年(八〇七)八百比丘尼建之と彫刻し、今も文字があざやかに見える。(笈埃随筆)

むかし佐渡国羽茂村大石の浜で、村人が大勢集って酒盛りをしていると、どこからともなくひとりの見知らぬ男が現われて、その酒盛りの仲間に入れてくれと頼んだ。村人は心よく仲間に入れてやるとたいへんよろこんで、この次にはわたしのところで皆さんをごちそうしたいから何月何日にこの浜へお集りしていただきたいといって別れた。約束の日に村人たちは浜へ出ると、もう先日の男が来て待っていた。それではこれからわたしの家へ御案内いたそうといってひとりひとりを背負い、目隠しをして連れて行かれた。そして着いたところは、浦烏太郎の行った竜宮城のようなりっぱな邸宅で、そこでたいへんごちそうになった。ひとりが便所へ行った時、節穴から料理場をのぞくと、人間の子どもを料理している。驚いて、この事を皆の者に話すと、急に家へ帰りたくなった。別れをつげると主人はこれをみやげにといって、その料理をわらつとに入れてくれた。そしてまたひとりひとりが目隠しにされ、背負われて大石の浜へ帰って来た。村人たちはせっかくもらった料理ではあるか、人間の肉だというので浜へ捨てて帰った。ただひとりのじいさんだけは忘れて家へ持って帰り、たなの上においた。それを知らずにその家の女の子が食べてしまった。そうするとその女の子はそれから少しも年を取らず、元の少女の姿のまま八百歳まで生きたので、その料理は人魚の肉であろうといわれている。
その後、この少女は比丘尼となって若狭国に住んでいたが、一度佐渡へ帰ったことがある。その時郷里の大石の村の人たちはこの村へ見知らぬ旅の人を入れることはできぬから、昔ここにいたという証拠を話せといったところか、比丘尼は、わたしの若いころ粛慎人を葬った「粛慎の隈」のあるところを知っているからとて教えた。その塚を掘ったら岩石の下から人骨が現われたので村人もはじめて納得した。その後比丘尼は、しばらく郷里にいたが、また若狭国へいき、一千年の寿命のうち二百年の寿命を其国主に譲って、八百歳で死んだ。国主は八百姫明神として祭り、今でも土地の人は、佐渡の島の生れだと、いい伝えているということである。
その生家だという大石の田屋の門口にはその岩石が立ててあって、今でも光明真言の文字を彫ってある。この大きな石のあるところから「大石」という地名が出たといわれている。 (佐渡の島)

佐渡国(新潟県)佐渡郡羽茂村大石の田屋に八百比丘尼が誕生した屋敷跡がある。むかし庚申(こうしん)待ちの夜、田屋のじいさんが人魚の肉を持ち帰り、家の少女に食わせた。(日本伝説叢書)

平野(三重県鈴鹿郡)から国府に至る山道の左側に松の木が一株ある。かたわらに小川があり、橋がかけてある。ここに白比丘尼塚と称するものがある。若狭国八百比丘尼を葬った場所で、世俗では赤子の長寿を祈ってここにお参りをし、その子に名づけるに橋の字をかぶせて称する。このことはすでに「鈴鹿郡賦」に載っている。
白比丘尼は俗に八百比丘尼といい、若狭では神に祭って八百姫明神とあがめている。 (勢陽五鈴遺響)

八百比丘尼は三重県安濃郡草生で生れた。十七才のとき無尽講に行き、人魚の肉のごちそうを食べたところ、不老長寿となり、常に十七才の若さを失わなかった。後に若狭国へ渡り、八百年のよわいを保ち、ふたたび草生へ帰って死んだ。今も八百姫明神の塚がある。(中塩清之助)

草生(三重県安濃郡)の内広村にヒサフチ天神という社がある。これから山へ八町(八百メートル)ほど昇ると、八百比丘尼の旧地がある。(勢陽五鈴遺響)

紀伊国(和歌山県)那賀郡丸栖村では、八百比丘尼はこの村で産れたといっている。若狭でもそう信じているという。 (紀伊続風土記)

兵庫県神崎郡寺前村比延には、八百比丘尼が投身して死んだ所がある。 (播陽俚翁説)

因幡国(鳥取県)法美郡正蓮寺村に面影山という山があり、その頂上に少しばかりの平地がある。そこを八百比丘尼屋敷跡という。ここに八百比丘尼が住んでいたと伝える。むかしこの里に老婦が住んでいた。大路山のふもとにねずみの岩屋があり、そこでもてなしにあい、行ったが、おぜんに人魚が供えられた。老婦は怪んで、これを食べず、ふところにいれて家に帰った。家に女の子があったが、その魚を食べた。老婦は、その魚は怪しいので食べなかったのだといったが。子どもはなんの病気にもならなかった。その後女の子は長寿を保ち、世に八百比丘尼という。  (因幡誌)

因幡(いなば)国(鳥取県)法美郡卯垣村に爵山城と号する城跡がある。代々小西釆女正(うねめのしよう)という人の居城であった。あるとき城主が川狩りをして人魚を得て食した。その後城が没落し、男子はすべて討ち死にし、女子ひとり生き残って長寿を保ち、諸国を経歴した。八百比丘尼というのはこれである。 (因幡誌)

隠岐(おき、島根県)の岩井津という所に七かかえの大杉がある。むかし若狭から、人魚を食べたという尼が来てこの杉を植え、八百年たったらまた来て見ようといって去った。それ故八百比丘尼の杉という。 (隠岐のすさび)

隠岐国(島根県)に八百比丘尼手植えの杉が三木あった。そのうち一本は風で吹き折れ、その一本の木だけで、一の宮の本社の拝殿の普請(ふしん)ができた。 (西遊記続篇)

石見(いわみ)の国(島根県)浜田の人が、ある年小浜の木崎太郎左衛門方に泊り、「若狭の国の八百比丘尼は、元来浜田生れの人であると、在所では申し伝えている。」と語った。(拾椎雑話)

土佐国(高知県)高岡郡須崎村多之郷の鴨神社の鳥居のそばに、八百比丘尼の塔がある。白鳳年間に漁師が大坊海で人魚を得た。娘がその肉を食い、長寿を受けた。諸国を遍歴して、若狭にとどまったが、後に帰郷して死んだ。(土佐古跡巡覧録)

福岡県山門郡東山村本吉では、八百比丘尼はこの地の人であるという。奈良時代に僧行基がこの地に来た。そのとき唐人竹本翁(ちくほんおう)が随行して来て、ここに住みついた。後に分かれて三軒となる。よって今なお三軒家(や)の名称がある。その子孫は竹木(たけもと)を姓としている。
この翁の娘は、容姿端麗で、同郡の舞鶴(まいづる)城主牡丹(ぼたん)長者に仕えた。あるとき肥後(ひご、熊木県)の桑原長者から珍らしい螺(ら)貝の肉を贈ってきた。娘はそれを盗み食いして、長寿を保った。夫が死んでも、自分は若いため、二十数人の夫に嫁した。 (耶馬台探見記)

   註
「福井県の伝説」に八百比丘尼の異伝が載っているが、その内容をみると、伝説というよりもむしろ創作民話という感じであり、採集地も出典も明らかでないので、ここに掲載することは保留する。なお八百比丘尼の伝説を民話化して述べたものは、未来社の「越中の民話」「飛騨の民話」等にも出ている。(杉原丈夫)


『新わかさ探訪』
八百比丘尼の伝説   若狭のふれあい第37号掲載(昭和61年6月26日発行)
人魚の肉で不老長寿に--800年を生きた若狭の人
 人魚の肉を食べたために、いつまでも若く美しいまま年をとらず、国々を巡り、病気の人を治し、貧しい人を助け、行く先々で椿を植えながら旅をしたという八百比丘尼。八百歳まで生きたというその伝説は、全国各地に伝わっています。小浜市男山の空印寺には、八百比丘尼が最期に自らの命を絶つたという洞窟があり、木像や伝説を伝える絵図が所蔵されています。
 小浜市郷土研究会の調査によると、八百比丘尼についての伝示地は、福島から熊本まで27都府県、116カ所にのぼります。その内容はさまざまですが、若狭で生まれ、小浜で入定(洞窟などに身を隠し、静かに死の訪れを待つこと)したと伝えるものが多くあります。八百歳もの長寿であったか、いつまでも若い娘のままであったかどうかは別として、八百比丘尼とか八百姫と呼ばれた長寿の女性は、実際に存在したのではないでしょうか。以下は、空印寺に伝わる話-
  その昔、若狭の国勢村(現小浜市) の高橋権太夫という長者に、容貌美しく知徳万人に優れた娘がいた。16歳のとき、竜王の与えた人魚の肉を食べ、何年たっても容色衰えず長寿を保った。120歳のとき髪を剃り、諸国を巡遊して堂社を修造し、道を開き、橋を架け、五穀樹木の繁殖を教え、五常の道(人が常に守るべき道徳)を授けるなど、世の人々の幸を願っていた。のちに故郷に帰り、後瀬山中の神明神社の傍らに住んでいたが、齢およそ800歳にして後瀬山麓の洞窟(今の空印寺境内)に入定したという。その時代の人たちは、名付けて八百比丘尼と呼び、また公百姫とも玉椿の尼ともいった。
 比丘尼が「玉椿の尼」と呼ばれたのは、白椿を好み、巡り歩いた国々に椿を植え続けたことに由来しています。
 八百比丘尼入定の地と伝えられる洞窟は、空印寺の山門前にあります。入り口は狭いものの、中は奥行き約8m、4畳ほどの広さがあり、中央に「八百比丘尼」と刻んだ花こう岩の碑が建てられています。また、小浜市青井の神明神社境内には、八百姫宮がまつられていて、ここは比丘尼が小浜に戻ってから住んだところとされています。さらに同市下根来には、八百比丘尼の墓があり、その自然石の墓碑には「八百尼」と彫られています。
 八百比丘尼の人生が”不老長寿”であったとしたなら、それは、死ぬことを許されない長い歳月でもあったわけで、果たして幸せなものといえるのかどうか。若狭を巡り歩いて山辺に咲く椿の花を見るとき、恐らく自らは苦しみながらも、人々に尽くして生きた八百比丘尼のやさしさが思い起こされます。




関連情報


若狭の人魚

市街地海岸に人魚像がある。
人魚にまつわる八百比丘尼という女性がいつまでも若々しく、八百歳まで生きながらえたということから、この市が平和で美しい…心ゆすらぐ長寿の理想郷であることを願って、人魚の像を建立したものであります。
とある。

人魚の浜と名付けられた砂浜。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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