丹後の地名 若狭版

若狭

矢代(やしろ)
福井県小浜市矢代


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福井県小浜市矢代

福井県遠敷郡内外海村矢代

矢代の概要




《矢代の概要》


田烏湾に面する、奈胡崎と矢代崎に囲まれた海沿いに集落がある。「若狭国志」「若狭郡県志」によれば、古来稲富浦と称されていたが、従三位源頼政が平治2年(1160)禁庭で怪獣ヌエを射止めた賞として朝廷から稲富を賜わり、その時使用した箭羽が稲富産であったことから、以後稲富を矢代と改称したと伝える。「遠敷郡誌」は君が浦と称したとも記される。
矢代浦は、平安末期に見える浦名。仁安3年(1168)8月の若狭国司(平経盛)庁宣に、矢代浦は往古より賀茂別雷社(上賀茂社)の社領であるので国役雑事を停止するとあるのが初見。次いで寿永2年(1183)秋から平氏や源氏の軍勢に押妨された宮河荘と矢代浦を安堵するよう源頼朝に伝える後白河院院庁牒が寿永3年2月7日に出され、これを受けた頼朝は同年4月24日矢代浦をはじめとする諸国の賀茂別雷社領における武士の狼藉を禁じている。
中世の矢代浦は、鎌倉期から見える浦名。鎌倉期初頭まで当浦は宮河荘と一体のものとされていたが、天福元年(1233)10月に延暦寺僧筑前房宗俊が宮河荘内の大谷村と矢代浦の住人を日吉社神人化し宮河荘から切り離そうとしたため、賀茂別雷社は延暦寺に訴え宗俊の行動は禁止されている。しかし翌2年には宮川保地頭と結んだ延暦寺僧宗慶阿闍梨が、さらに文暦2年(1235)~嘉禎3年(1237)には宮川保・宮川新保の地頭が大谷村と矢代浦を割き取ろうとしている。これらの試みはいずれも延暦寺や六波羅探題によって退けられているが鎌倉末期には宮川保に属すようになった。浦人の活動としては早く文暦2年に宮川保内黒崎山のうち佐島山を矢代浦延員が、小傾山を同浦重貞が預っており、矢代浦刀禰の重員の名も見える。また文永6年(1269)正月の黒崎山に関する注進状には矢代浦の大権守や惣大夫らが名主として見え、宮河領矢代浦と多烏の山境は黒山永尾峰であるとされている。正安4年(1302)6月には矢代浦刀禰に栗駒延成が補任されており、正和年間(1312~17)頃には「宮川保内矢代浦」の住人栗駒宗延・延永らは越前国三国湊の住人らを幕府へ訴えていることから、栗駒氏も若狭の他の浦々と同じく鎌倉後期には日本海廻船に従事していたことがわかる。貞和4年(1348)4月に多烏浦天満宮造営に助成した矢代浦人の虎女・太郎兵衛・おほ母・権三郎大夫の名が見える。
近世の矢代浦は、江戸期~明治22年の浦名。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば家数26・人数147。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内外海村の大字となる。
近代の矢代は、明治22年~現在の大字名。はじめ内外海村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西50間・南北1町余、戸数24、人口は男82・女88、小船27。昭和4年130有余年の伝統を持つ矢代石灰鉱山が閉山となる。同山は最盛期には10万俵を生産し、主な販売先は加賀地方であった。


《矢代の人口・世帯数》 44・15

集落の海岸には古墳時代~奈良期の製塩遺跡がある。

加茂神社

賀茂別雷社(上賀茂社)の社領であった浦なので、当社があるのであろう。
『内外海誌』
加茂神社
所在 小浜市矢代5号4番地
祭神 事代主神
合祀神社並祭神 神明社(天照大御神豊受大神応神天皇宇迦御魂神彦火々出見命豊玉姫命菅原道真公)住吉社(底筒男神中筒男神表筒男神)山神社(大己貴尊大山祇神菊理姫尊猿田彦神伊弉諾尊伊奘冉尊)下加茂神社(大雷神玉依姫命蛭子命)    例祭4月3日。氏子数 20世帯
木殿 流レ造1.8坪、向拝1.8坪計3,3坪。拝殿 3.3坪。鳥居木造一基。長床 12.5坪。
境内地 259.44坪(被譲与国有地)
境外社地 7畝7歩
天平十七乙酉三月大和国葛上郡より勧請。中頃加茂大明神社と尊稱した。同地矢代観音の日と同日を以て祭日とし唐船漂着にちなむ特殊神事の奉納があり今日に至っている。通稱矢代手ともいう。
矢代の氏神。
「加茂大明神社 矢代浦にあり、産神にして三月三日祭礼あり。」若狭郡県志。
「右同 矢代浦 正一位加茂大明神 末社共十四社 仁徳天皇之御建立之由申伝候 年号不レ知 祢宜不レ知 延宝三乙卯九月二四日 矢代浦 善之丞」若州管内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
賀茂神社 村社にして同村矢代浦字小森にあり、祭神は事代主神にして天平十七乙酉年三月創建、大和國葛上郡より勧請せりと傳ふ、境内に左の四社あり、何れも本社同時の創建とす。
 神明社祭神天照大神豊受大神應神天皇宇迦御魂神彦火々出見尊豊玉姫神菅原道具公。住吉社祭神表筒男神中筒男神底筒男神。山神社祭神大已貴尊大山祗神菊理姫神猿田彦御伊弉諾尊伊弉册尊。下賀茂社祭神大雷神玉依姫蛭子命。



観音堂(高野山真言宗頼位山福寿寺)

『内外海誌』
観音堂 真言宗醍醐派。
所在 小浜市矢代10号9番地
本尊 聖観世音菩薩
境内坪数 210坪
堂の建坪 35坪
由緒。当堂ノ創立ハ大同元年丙戊二月ナリ 是ヨり先天平宝字元年丁酉春二月ノ初丿 唐船一艘風波ノ難ヲシノギ萍流浮転シテ遂ニ此海浜ニ漂着ス 土人就テ其国所ヲ訊問スレドモ言語互ニ不通 船中ヲ伺ヒ見ルニ異裝ノ婦女六人品格甚ダ貴嬌ナルヲ覚ユ 男子ト相像スル者二名共ニ咽喉ヲ撫テ食ヲ乞フノ状アリ 土人糧及薪木ヲ給ス 此ニ泊スル事数旬其ノ状土人ヲ試が如ク居ラント欲スル如シ 然シテ村民船中所載ノ貨物ヲ利セソガ為忽チ悪念ヲ起シ 其ノ三月船ニ迫リ終ニ一行ノ人ヲ刺害シテ 所載ノ貨財什器ヲ掠奪スルニ船中扇ヲ設ケテ観世音ノ像ヲ奉スルニ在り 又奪ヒ去ツテ柴ノ庵ヲ造リ之ヲ安置ス 是ヨリ大同元年ニ至ル迄五十年間災厄頻リニ至ルヲ以テ 村民前非ヲ悔悟シ亡霊ヲ招魂スルニヨリ又当堂ヲ創建シテ亡人ノ遺幸セル観世音ノ像ヲ安置ス 実ニ是レ人皇五十一代平城天皇ノ御宇大同元年丙戌春二月也当観世音臨産ノ感験明ナルヲ以テ著名ナリ(以下略)以上由緒は矢代栗駒操 「仏堂礼拝施設存続届」(昭和17年5月30日宗教団体法による届出書)による。
 「観音堂 在二矢代浦一 相伝 古此地領主源頼政創建 一説大同年中創建本尊仏白二異域一来者」若狭国志。
「矢代観音堂 矢代浦にあり、頼位山福寿寺と号す、従三位頼政郷此地を領する時之を創建す、本尊は観世音の像なり。一説は大同年中の草創にして本尊は支那より来ると、今世は金谷村万徳寺の僧堂事を司どる」若狭郡県志。


手杵祭
加茂神社と観音堂は集落の中央に、向かい合わせになっている。
4月3日に行われる漂着の秘話にまつわる手杵祭は県無形民俗文化財になっている。
昔当浦に唐船が漂着した時村人が船に積んである財宝を奪い乗組員を殺害したが、その後村に凶事が続いたので観音堂を建立し怨霊を弔った。そして,顔に墨をぬり手杵を持って踊り凶行を真似たことが祭礼の始まりとされている、奇祭と呼ばれるが、今は毎年は行われていないという。
案内がある。(写真も)
手杵まつり
はじめに
矢代まつり(昔から地区の呼び名)は、その特異な装束での舞と、いわれの趣きが述べられていることによりて、多くの方々の注目をあびている奇祭である。この祭について矢代区に伝わる「観世音略縁起」その他の文献などから申し述べたい。
由来

今から凡そ一千二百余年前の奈良時代にさかのぼる。天平宝字元年(七五七年)二月矢代の海岸に一隻の唐船が漂着した。この船には高良な女性と船子とみられるもの八人が乗っており、磯辺におりて藻などを採り飢えをしのいでいた。これを発見した村人たちは言葉も通じないままに食料を与えて面倒をみたが、異国からの長い日を重ね、月を超えて風波の難を凌ぎながらの漂流であったため、心身ともに疲れ果てて、約一か月後の三月に船中でそれぞれ空しくなっていったのである。只船中に祀られていた一体の聖観世音薩像だけが、殊更にさん然と輝いていたので、村人たちも奇異の念にかられ、小さな柴の庵を結んで観音像を安置したのである。
その後において村人たちの間に災いや不祥事が絶えなかったので、約五十年後の大同元年(八〇六年)の春、例の唐船を解体した材木を使って本堂を建立し、観音像を安置すると共に、福寿寺を造営して僧伽を置いて、亡き人々を弁才天と崇めその決め事は怠慢なく永く守り続けていくことを誓う(今、矢代崎に弁天宮の厨子あり)そして悲運の最後を遂げた、異国の女性達の霊を慰めるため、平安初期以来全く途絶えることなく受け継いで毎年四月三日(新暦)にこの祭を厳守しているのである。

又、村人たちは聖観世音菩薩を深く尊像として信仰し、別に女性が安産と子授けを祈願すると不思議と霊験ありて、産婦の難が全くなくなりこれが祈願する人々に真であることか知れ亘ったのである。そして矢代観音の霊験の話は天皇にまで達し勅使の御下向があって巌重な法公等がなされて勅願所となったのであります、今も本堂には菊の御紋章が燦然と光り輝いてあります。
この伝説を伝える古文書の中に、唐で起きた安禄山の乱で楊貴妃をはじめとする玄宗皇帝嬪は熱砂を踏んで乱を避けたとあり、流れついた船中の女性はこの妃嬪であるように明記されている。

唐船が漂着したころの唐の国は、玄宗皇帝の時代であり、玄宗は在位中の晩年は遊楽にふけり、政務をおろそかにしたため、の政治は乱れるし農民は生活に苦しむようになった。安禄山はついに反乱をおこした。安禄山が安史の乱をおこしたのは七五五年でそれから九年間続いたという。都を追われた玄宗一族と仕えていた女官たちは、あちこちへ難をのがれて逃げた。その中の一部が海を渡り日本に向かっての冬の季節風を受けてこの矢代海岸に流れついたのだといわれている。
手杵まつりは毎年旧暦三月三日でありこの日は一陽来復を祝う山遊びの行事の日でもあった。手杵棒ふりや弓矢持ちが頭につけるシダは山の精霊を表し、手杵棒ふりと弓矢の所作は春の到来を呪い豊穣を祈って地固めをする意味が込められているのと、矢代という地名伝承とも深くかかわっているようにも言われております。


「葬式祭」「殺人祭」とかの呼び名もあるという。
この祭はそうした簡単なことではなさそうである。
『森の神々と民俗』
歯朶の冠-異人殺しとマレビトの装束
手杵祭縁起
 小浜市矢代の手杵祭は、「殺人祭り」とも「葬式祭り」とも呼ばれている。殺人祭りという呼称は、「朝日新聞福井版」昭和十七年四月五日付の記事の見出しで初めて用いられた、いわばマスコミ製のキャッチフレーズである。一方、葬式祭りという別称がいっの時代から使用されたかはさだかでないが、故老が語る言葉のはしばしに自然に口をついて出てくることからして、相当古くから祭りの由来とともに語り伝えられてきたのであろう。まずは江戸時代の史料『稚狭考』(一七六七)と『若狭国小浜領風俗間状答』(一八一七)から手杵祭りの項を引く。
  遠敷郡矢代村鴨下上大明神社あり。其側に観音堂有。毎年三月三日、手杵まつりといふ事あり。此堂は、昔もろこし船の漂泊し来るに、乗来る女をころし、船を砕き侍りしに、一村疫を煩らひくるしみ、右の罪を悔み、観音を安置し舟をもて堂を作るといへり。実にも、ろ・かい・いかり いすれ石にふれしかと見ゆ。祭の日歌をうたひ墨にて顔をぬりたる男三人、歯朶の葉をかふり、古き素襖きて縄の襷かけ、はき高くかかけ、手杵かひこんて出る。うち二人は手杵に縄の弦かけて竹の矢そへて出るは、弓の心もち成へし。麻の上下きたる男六人、小船を竹にて作りて持出る。又年のころ十二三なる女の、かしらに袋いただき、左の肩のころもぬきかけ、顔に扇さしあてて、老女七人従ひ出て、何れも同音に、てんしょ船のつきたるそ、もろこし舟のつきたるや、福徳や、さいはいやと訇り。太鼓打拍子とりて出る。他郡より見に来る人に恥て、朝とく此事を行ふとなり。(『稚狭考』)
  此月、神事、仏事異成義なし。但し矢代といふ邨海辺にあり、祭礼は三月三日朝、古き錦の袋を  戴きし若き女を、老女かしつきて宮の前にいづ。時にしだを頭にいたたき、素襖をきし者、顔を墨にてぬり、杵をふり廻して、其きねを投く。其故は、むかし異国の舟貴人とおぼしき女をかしつき漂着せしを、村の者ともいひ合せ、杵にてうちころし、船中の財宝を奪取しが、其後村中大に疫癘流行し、村民大半死亡せし故、その女の霊を観音と崇め、懺悔の為其様を成せしかは、疫癘止みしとそ。その後先祖の悪行を真似びて祭とするを恥てやめしかば、疫癘また大に行れける  故、再び祭をなす事元の如し。此祭を民俗手杵祭といふ。(『若狭国小浜領風俗間状答』)
 現在、手杵祭は昭和十八年以降新暦に改められて、一ヶ月遅れの四月三日に行われている。「他郡より見に来る人に恥じて、朝とく此事を行ふとなり」と『稚狭考』にあるように、もともとは秘密結社的な秘祭であった。ところが近年、年毎にマスコミで奇祭殺人祭と報じられて世に広く知れわたり、また昭和四十三年に福井県指定無形民俗文化財に指定されたこともあって、できれば先祖たちの悪業を後世に伝える行事などしたくはないのだが、今更止めるに止められないのだと瀬戸宗太郎は苦笑い
をして語った。いくら千数百年前の故事であろうと、村中が人殺しの子孫ということになれば、内心おだやかであろうはずがない。
 「この報道も興味本位の記述で読者からは直ぐ忘れられてしまう程度だったが、村人達はこの記事に限りない憤りを今も抱いている。人を殺して財宝を奪ったというあまり名誉でない伝説を事実あったこととして信じているだけにその腹立ちは大きかったに違いない」と、「矢代の手杵祭」(『若越郷土研究』9の1)のなかで錦耕三は、自社の新聞記事への反省をこめて冒頭で述べている。
 祭りの前日、すなわち宵祭りをエマツリといって、この日から手杵祭の神事がはじまる。午前中に大袮宜と小袮宜が帳屋につめかけて祭りの準備を行う。午後、大禰宜は羽織袴の正装をし、供の当番二人(戦前は四人)が小舟をこいで、唐船が漂着したという矢代崎の鎮守さんに参拝することになっている。時化の日は山道から浜へと降りていく。矢代崎には小さな浜があり、殺された唐の王女と八人の女臈を埋めた墓地の傍に弁天が鎮守として祀ってある。この弁天は観音堂の横にも小祠として祀られ、殺された王女たちの怨霊を斎いこめたものである。殺害した当初、「村下の浜ヘボイヤットいた(捨ておいた)ところ、ホームラ(火の玉)が出たので、船がうちあがった浜(矢代崎)へ埋め直した」(瀬戸宗太郎談)とされ、浜には大石が敷かれ、村のサンマイのようにごそっと中心部が落ちこんでいるという。
 その浜の一帯はタモや欅の巨木が繁り、埋葬地の景観を呈しているといい、「こんなことをいうたら貴方がたはおかしく思うかもしれないが、わしらは唐船の女﨟を殺して宝を奪ったことは本当にこの村の先祖らがやったことだと思うている」(錦耕三前掲論文)と禰宜の言葉にあるように、いわば先祖の悪業を確認する場所になっている。従って矢代の氏神加茂神社の祭礼とはいうものの、御霊信仰の対象は矢代崎に祀られている弁天ということになる。なお、氏神の春の例大祭は簡素に五月一日に行われている。.


この祭をワタシはこれまで見たことがないし、今後もいつ行われるかわからない。はたしてワタシが生きているうちにあることやら…
同書に祭礼の概略がある。
祭りの朝八時頃、観音堂で万徳寺の住職により法会が行われたあと、女臈八名を除く当番全員が臨席して、ヘラ藻の味噌あえを肴にして盃三献の儀が催される。加茂神社の帳屋でも三献の盃事があり、神前に一同参席して神主が祝詞奉上と献饌を行う。その後帳屋にもどり、村の中老組からえらばれた三役、すなわち手杵棒振り一名、弓矢持ち二名の役者の扮装が大太鼓のはやしと音頭とりの甚句にあわせて行われる。前日近くの山から小袮宜が採ってきた歯朶の葉をカツラとして頭にかぶり、歌舞伎十八番の「暫」のように墨で鼻の下にひげをえがき、眉と頬に隈どりをして悪を装い、黒地の麻の素襖に荒縄の襷がけをする。
 手杵棒振りと弓矢持ちの三役が帳屋から出て来るところから、いよいよ神事がはじまる。漂着した唐船をかたどった唐船丸舁きの十六名の若衆が、甚句をうたいつつ進み、その後を八名のタカラズキン(金袋)を頭にいただいた女臈と大太鼓、笹持ちが社殿へと向かう。甚句(加茂神句)は矢代観音祭礼甚句と矢代祭礼音頭があり、いずれも他村に口外することは固く禁じられていた。『稚狭考』にある「てんしょ船のつきたるそ云々」というのは、その甚句の一節と思われるが、現在口承されていない。錦の調査報告には「唐船のつきたるぞ、福徳ぞ、幸ぞ」とあるが、私は故老から「唐船ふねがついたりや、何かへいかとーのぼろう、福徳幸いにエーター」「にいもも、さえもも、観音えんげんまいられたー」とうたうのだと聞いた。甚句の一部は錦論文と斎藤槻堂「手杵祭」(『文化財調査報告』19)に収められている。ともあれ甚句そのものは秘密裡に伝えなければならないような内容ではないし、手杵祭の伝説に深く関連するものとも思えない。むしろ千石船の舟子から伝授された民謡のようなのだ。
 唐船丸舁き、女臈、笹持ちの一行が社殿の背後に回ると、手杵棒振りが社殿の右側から現れ、舞殿の正面に立ち、力足を踏んで手杵を地面に二度突きたてる。次いで弓持ちが舞殿の広場で相対し、鏑矢と刺股矢の矢先を触れ合わす。いわば手杵棒振りと弓矢持ちのこれらの所作は、王女殺害の場面を無言劇のように再現しているのである。たしかに古井由吉氏が「子安」で述べているように、「どの所作もすぐに跡切れて、あとには劇的な名残りもない。行列はとりとめもなく本殿めぐりをくりかえす。女臈たちを殺害するような場面はありそうにもない」が、手杵を地面に突きたてたり、矢先を突き合わせる所作は、端的に象徴化されたパフォーマンスといえるだろう。このあと行列は社殿を右回りに一周し、ふたたび手杵棒振りと弓矢持ちが同様の所作を三回くりかえす。境内での神事をひと通り終えると、観音堂に舞台を移して唐船襲撃のパフォーマンスを三回くりひろげる。一行が帳屋へひきあげて扮装をとき、直会となる。なぜかこの行事は必ず午前中に終了することとされている。


何を祀るものか何とも正確なところはわからない。祭日が三月三日というのが何か手掛りかも…


曹洞宗西福寺

『内外海誌』
西福寺
所在 小浜市矢代10号1番地
本尊 聖観世音菩薩
曹洞宗
本堂35坪。本堂附属16坪
境内地 172坪
堂内仏像 本尊仏像の他阿弥陀仏(1)地蔵尊(1)達磨像(1)大権木像(1)誕生仏(1)高祖承陽大師像(1)太祖常済大師像(1)創立開山木像(1)
檀徒 20戸
本寺院ハ宝暦十一年建立ニシテ本寺発心寺九世?山和尚ヲ開山トシ昭和十四年六月二十八日法地ニ昇格ス
「右(註矢代)浦 西福寺 禅宗発心寺末 西福寺開山宗秀首座禅師は応永二乙亥年至二当年一而二百七卜七年と申候
    九月廿四口 伏原発心寺末 西福寺住孤遊」若州管内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
西福寺 曹洞宗發心寺末にして本尊は聖観世音なり、同村矢代浦字堂ノ上に在り、寶暦十一年建立す。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


矢代の主な歴史記録




矢代の伝説、民俗


『内外海誌』
矢代祭について
矢代祭は、旧3月3日、現在4月3日、矢代鎮座加茂神社(天平17年勧請)の例祭、並観音堂礼拝の日をさしていう。当地区では、矢代祭り、と云って「手杵祭」とは云はぬ。神社並に観音堂への奉納行事の中に、棒と弓矢を持ってする所作があり、参詣者又見物人等他所の人の付けた名前であろう。「稚狭考」はすでに「手杵まつり」と云っている。
-「稚狭考」が引かれる-
稚挾考(明和丁亥年十月・1767)より現在(1969)迄200年余である。此間多少の変化があったか。最近種々の記録があるが、矢張この稚狭考の記録が最もよく全体を把握していると思うので、これを基として述べる。「墨にて顔をぬり」の墨は藁をたきその灰でつくる。普通の墨ではない。「小船を竹にて作りて」とあるが、現在のは半永久的使用に湛える木製丸木船。「手杵かひこんで出る」はよく表現している。現在の参観記録でこの「かひこんで出る」に言及したものは少い。「太鼓打拍子とりて出る」も実描写である。勿論これは、前章「さいはひやと訇り」の説明では無い。「訇り」で句切って了うべきである。そうするとよくわかる。即ち大役(棒1・弓矢2)三人、唐船丸(青年6人)、少女八人(七五三の時の如き衣装・綿様の袋をいただく)大鼓、青葉のついた竹、の順序で、神社長床を行列をつくって出る。正に「大鼓打拍子とりて出る」のである。この行列は神社々殿右(例として左大臣右大臣左近桜右近橘の右即ち下座)から社殿の後ろを廻って社殿左(即ち見物人からは右)下の石段に立ち、それから、先づ構えて棒(所謂手杵である、古い、千年を経ていると言う、櫂であったとも言う)を参詣人の足もとすれすれに棒下端が境内を半円形を画く様に走り、神社右(見物からは左)石段に達し、構え直して逆行し、拝殿の正面に立ち、荒業所作があり、つづいて弓欠の所作があり、終ると唐船丸以下の行列が、時計の針の方向に拝殿社殿を回る、回る事三回、一回毎にこの行事が行われる。
 奉納行事(加茂明神並観音への)であるから、神社の場合、最初、長床で大役任命の儀(任命者大袮宜)が行われ。終ると神職と大祢宜は神社々殿に参進して祭典を斎行する。修抜、開扉、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠が終り、そのまま神職は大床に、大袮宜は階下に伺候して動かない。その問に、「出る」準備をととのえた行列が、前記の所業を奉納する。奉納行事の行列が神社境内を離れて、観音堂の方へ移行して抬めて閉扉(此の場合奉仕者は神職と大祢宜)される。参詣人も見物人も所謂視察者も、殆んど此の奉納行事のそれも一部分である荒業所作に目をうばわれて了うのか、この順序が正確に記述されているものは稀である。あく迄も奉納行事であって、祭典としては一部分である。此の行事が昭和43年3月、民浴資料として県の指定を受けた。
 矢代が頼政の領であった事、ヌエを退活したと云う由来、又頼政女二条院讃岐の事、などで、遠くから来た所謂郷土誌家と称する人人の記述の中には、此の奉納行事と混同した記述もあるが、又其の由来を附会して述べたのもあるが、共に要するに其の人達の見解にすぎぬ様なものも多い。
○附記。若狭湾漂着物語は、内外海地区に関しては、古く「つるべ」の漂着、此の矢代の漂着、元暦元年の仏谷脇左衛門の海中から拾いあげた上の山観音物語、「そとも」唐船島に曾つて南蛮船が繋留し、小山近くの「越後くり」に越後の船が難破した。西小川への難破船漂着。近くは明治33年、泊へ韓国人93名難破漂着した事実がある。
対馬暖流は西から東へ若狭湾(日本海沿岸唯一の凹み)の沿岸を洗って流れ、リマン寒流はシベリア東岸を一部南下して若狭湾沖に於て此の暖流に突当り、施回して東上する。内外海地区は若狭湾沿岸の略々中央に位し、此れ等奇しき海の物語はそのまま内外海の歴史の中に鏤められる。



『越前若狭の伝説』
矢代観音(一)         (矢 代)
 むかし矢代と阿納(あの)の境の浜へ、九人の女が乗った。一隻の船か流れ着いた。これを見た両村の人たちは、それぞれその船を自分の村の方へ招いたが、不思議にも阿納の方へは行かないで、矢代の浜へついた。
 女の中のひとりは、唐のある王の娘で、他の人たちは、その召使いの人たちであった。ある事情によって、王は娘に、一体の観音と八人の召使とたくさんのお金とを持たせて、一隻の船に乗せて流したのであった。
 その船が流れ流れて矢代の海岸に漂着した。村の人たちは、唐の女がやって来たというので、浜へ出かけて行った。なるほど九人の美しい女が乗っていた。みなのものは、珍しそうになかめていたが、女たちがたくさんお金を持っているので、その金がほしくなり、悪心をおこした。
 ちょうど三月の節句の日で、村では家ごとに餅をついていたので、そのきねで女たちを殺して、姫たちの持っていたものは、残らず奪ってしまった。ところかまもなく、悪病か流行した。お祈りしても、悪病はますますはげしくなり、村の者は、非常になやんだ。
 そこで、姫を殺したり、船中にあった観音さまを粗末にしたりしたことのたたりに違いないと気づき、姫たちか乗ってきた船材で、堂を建て観音さまを安置した。また姫は弁天さんとして村に祭った。そのうちに、村人がなやんでいた悪病もやんでしまった。今ある観音さまは、昔のままのものである。
 毎年四月三日村のお祭りの日には頭にしだの葉をかぶり、顏を墨でくまどり、きねを持って、観音堂の前で姫たち九人を殺すまねをして、「てんしょ舟の着きたるぞ、唐舟着きたるぞ、福徳や。」とうたうのである。これか矢代の手ぎね祭りの起源である。       (福井県の伝説)

矢代観音(二)        (矢 代)

 矢代浦は、もと稲富浦といって、源頼政の領地であった。そのころ高倉天皇はふしぎな病気にかかった。毎晩夜がふけてから、どこからともなく怪物か雲に乗って現われ、御所の上へ来て、天皇を悩ませした。朝廷では源頼政に怪物退治を命じた。
 頼政が、どうして怪物を退治ようかと、心をくだいていると、ある夜の夢に観音様が現われ、「わたしはお前の領内の稲富浦にある観音である。お前が怪物を退治しようと思うならば、わたしに願をかけよ。」といった。さっそく領内を調べると、はたして稲富浦に観音堂があった。頼政は大いに喜び、はるばる京都からこの地に来て、観音堂に断食七日の願をかけた。
 七日七晩の満願の夜、また観音様か夢に現われ、「山鳥の羽で矢羽を作ったならば、必ず怪物を射とめることができよう。」と告げた。翌朝稲富浦の山中で山鳥を捕えて羽をとり、宮川村の竹やぶで矢竹をとって矢を作り、その矢を射て、みごとに怪物を退治した。
 頼政は稲富の観音様にお礼参りをして、稲富の一部と外面(そとも)を観音様に寄進した。これから稲富を矢代と呼ぶようになった。今も宮川村に頼政を祭った堂があり、矢代には頼政の屋敷跡がある。また矢代では山鳥を食べない。      (福井県の伝説)





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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