丹後の地名 若狭版

若狭

谷田部(やたべ)
福井県小浜市谷田部


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福井県小浜市谷田部

福井県遠敷郡口名田村谷田部




谷田部の概要




《谷田部の概要》
国道27号(丹後街道)の勢坂トンネルと後瀬山トンネルの間の三叉路から県道222号(丹波街道)を南側へ入り谷田部トンネルを抜けた所。
矢田部とも書いた(若州管内社寺由緒記)。南川下流左岸の平坦部に位置する。

矢田部は、南北朝期から見える地名で、若狭国遠敷郡のうち。建武3年9月14日に近江の朽木義信が足利尊氏方として「矢田部坂西尾」で敵と戦ったと記しているのが初見。戦国期には年未詳5月17日の小原吉次書状に「次あミは之儀者一昨日やたへにおいて右京亮殿と被仰談候」と見える。中世は今富名に属した。「若狭郡県志」は「青井村与谷田部村之間ニ有谷田部坂、々頭有石地蔵是為両村境界之徴也、此村中有池上門前池明神中条下条等之号合之而為谷田村也、去小浜行程一里許」と記す。当地では現在も北側を下庄、南側を上庄という。
谷田部村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数110・人数558、寺院は真言宗谷田寺、法華宗長徳寺、禅宗雲外寺・西方寺・禅正寺、神社は八幡宮・山王宮がある。村内は池上・門前・池明神・中条・下条などの集落に分かれ、谷田寺裏の玉山は松茸の産地であった。鍛冶屋が多く13軒が記録されている。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年口名田村の大字となる。
谷田部は、明治22年~現在の大字名。はじめ口名田村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西4町余・南北11町余、戸数101、人口は男273・女277、学校1、小船2。


《谷田部の人口・世帯数》 367・135


《谷田部の主な社寺など》

若宮八幡神社

谷田部の語源とも伝わる社、当集落の成り立ちと関係する社のようであるが、今に残る史料だけではよくわからない。隣に薬師堂がある。
『口名田郷土誌』
若宮八幡神社
 雲浜鑑に谷田部には、神社は八幡宮と山王宮があり、両社はのちに若宮八幡神社となった。境内地には薬師堂があると記している。若狭遠敷郡誌によると「若宮八幡神社は指定村社にして、谷田部字八幡縄手にあり、祭神は仁徳天皇なり、往昔幡田堅海太良なる者神託を受けて古社を再興す。時に神亀二年(七二五)なり、此故を以て八幡邊村と号すると謂う」とある。
 なお、福井県神社誌に祭神仁徳天皇、例祭は四月十五日とあるが、平成十二年より四月二十九日に改められた。境内地三一〇平方メートル、旧社格指定村社、社紋は鳩紋、主要建物としては本殿は木造瓦葺・入母屋造、拝殿は木造瓦葺・切妻造、氏子一二七戸、宮司、佐波近典、また、同誌には由緒沿革として「創立勧請年代詳かならずと謂えども、人皇四十五代聖武天皇の御宇、神亀二年(七二五)再建なり」とある。
 因みに口名田村誌にみられる「八幡邊村根元八幡宮再建立記」から、若宮八幡の由緒を小川進勇氏に解説してもらうことにする。
 むかし、この村の田中森に、老木の茂った古社があったが、いつのころからか、すたれてしまった。ある年のこと、この森から太陽のような光を放つものがあり、いぬい(乾=西北)の空へ飛んでいった。それから七夜の間、その場所が明るく見えたので、村人は何事かと驚いていた。
 その時、幡田の堅海太良という人が、その光る場所へ近寄って見ると、八、九才の子どもが山の裾野に的場を作って小弓を射て遊んでいた。やがて遊びが終わると、田中森に帰って行った。堅海太良は、これを見て不思議に思い、神楽を奏で幣を祭って神にお伺いをたてた。
まもなく「わたしはこの国無双の八幡宮である。ゆえにこの村を八幡辺村という。年月を経て朽ちたこの神社を再建して尊崇すれば、長くこの村人の守り神となろうごとお告げがあった。
 村人たちは、老人も若者も皆この神のことばに喜んで、神殿を再興した。これが現在の若宮八幡宮の起源であるという。
 これより子どもが弓を射て遊んでいた所を的場と名付け、神の通った道を神の諦道と名付けたという。
 若宮八幡神社の修復は昭和三十八年六月伊勢神宮式年祭記念・若宮八幡神社一千二百五十年記念として氏子の浄財により本殿の銅板ふき替と拝殿の修復工事を行なっている。また昭和四十八年十一月には若宮八幡神社御鎮座千二百五十年祭を記念して、氏子の浄財により玉垣と参道が完成した。

『遠敷郡誌』
若宮八幡神社 指定村社にして同村谷田部字八幡繩手にあり、祭神は仁徳天皇なり、往昔幡田堅海太良なる者神託を受けて古社を再興す、時に神亀二年なり、此故を以て八幡辺村と號すと謂ふ。

薬師堂

境内共有で、薬師堂がある。立派な薬師様が祀られていた。ガラス越しに写す。
案内板がある。
木造薬師如来坐像 一躯
有形文化財/彫刻
時代:平安時代
指定年月日:昭和45年5月8日
指定番号:福井県指定第157号
管理者:谷田部区
当地はもと真言宗薬師寺のあったところと伝えられているが、江戸初期には既にこの寺は無住となったようです。この堂の本尊薬師如来座像は平安時代末期の作であり、材質は、まきの木とみられる。
寄木造り、内刳りを入念にほどこされ、したがって法量の割りには軽い。法量は像高142㎝、膝張124㎝、肘張121㎝の堂々たる姿で、左手には薬壺をもち、切付け螺髪が細粒よくそろっているあたりも時代の特色を示している。像高に比して頭部が小さめで、それ故に像は軽快にみえ、相好も伏目のやさしい両眼、小さめの唇、いかにも丸い両頬のアウトラインなど平安末の如来像の特色が顕著であるが、両脚部の衣丈が体部のそれと趣を異にし、すこぶる剛直にみえるので、あるいはこの部分後補したかと考えられる。


高野山真言宗普門山谷田寺





谷田寺は、タンダイジと読む。集落の西側山裾に山門があり、そこから200メートルばかりである。高野山真言宗、本尊は千手観音。泰澄の開創とする伝承がある。
大寺で、古くは12坊の寺領30町を持ち、のちには主として名田庄地域とかかわりをもった、谷田部村八幡・山王の両社・薬師堂の別当をはじめ、小浜八幡宮、奥田縄村山王・観音堂、深谷村山王・阿弥陀堂、和多田村地蔵堂、知見村知見之宮、挙野村沙門堂などの別当を兼ねており、神社の遷宮、寺院の開帳に出向している。

『口名田郷土誌』
谷田寺 山号は普門山 真言宗
 普門山谷田寺は、人王四十四代元正天皇の御宇養老五年(七二一)越前の国麻生津の大徳泰澄大師の開基により創建された。大師自ら十一面千手観音並びに脇仏を刻み、堂内に安置された。その後、応永二十年(一四二六)二月に山号を谷田山観音寺と号した。その後、享禄三年(一五三〇)に現在の普門山谷田寺に改められた。当時一山、塔頭一二坊を有して仏法宣揚の拠点としての位置を確立した。また、中世において弘安十一年(一二八八)、時の山主重厳は、年々増加する年貢に苦しむ民衆を救済するため、代官工藤右エ門に対し軽減嘆願書を提出したことは史実にも有名である。建武二年(一三三五)南北朝の争乱には比叡山と共に一山の常塔悉く灰じんに帰する悲運に遭う。文安元年(一四四四)正月に開創当初より天台宗であったが、高野山真言宗に改宗した。天正十年(一五八三)には当山に立てこもった僧兵が信長の軍勢と戦い、全伽藍を焼失した。元禄四年(一六八八)三月に本堂再建供養があった。その後平成六年(一九九四)五月に旧本堂老朽化のため文化財の保存上、鉄筋コンクリート延床面積五五平方メートルの収蔵庫(本堂)再建の落慶供養が行われた。
 なお、明治初年の神仏分離令が出るまでは、谷田部の神社仏閣を始め、名田庄方面の神社仏閣に当山住職が別当職として出向し祭祀を司っていたが今は皆無となり、和多田地蔵堂一ヶ所のみとなっている。こうして一二七〇年余の歴史を有する当山も栄枯盛衰を重ねて壇信徒の信仰を糧に共に法灯を護っている(当山七〇代目法主談)。
 若狭国で奈良時代に創建された最も古い寺院といえば、羽賀寺霊亀二年(七一六)、天徳寺養老二年(七一八)、谷田寺養老五年(七二一)等の寺院があり、いずれも泰澄大師の創建によるものである。
 若狭国惣田数帳(文永二年・一二六五年)によると、寺田を有する主な寺院として国分寺(二五町五〇歩)、神宮寺(三反二四〇歩)、松林寺(一町二反)、発心寺(一町)、谷田寺(一町一六〇歩)等が記されている。これらの諸寺は寺田による収入の他に幾つかの社寺諸堂の別当職を兼ねていたため収入もあった。大寺には門前という特別の部落が形成されていて寺領にたよる生活が営まれていた。
 東寺百合文書の宝徳二年(一四五〇)の文書に、若狭国の寺院が束寺の修造に納めた料足奉加物が記されている。これによると明通寺一貫五百文・二〇人、羽賀寺八〇〇文・八人、妙楽寺二〇〇文・二人、谷田寺一貫二〇〇文・一二人、神宮寺二貫文・二六人とある。納めた金額と提供した人足の数を示したものである。これによって、当時の東寺関係の諸寺のうち谷田寺の経済力の大きかったことも容易に知ることができる。
 また、羽賀寺に伝わる古記録で天文年間(一五三二~一五五五)以降元禄三年(一六九〇)までの間、書き継がれている羽賀寺年中行事の中に、「年始公方江礼銭引き付覚」をみると、羽賀寺八〇二文、谷田寺四八〇文、妙楽寺二四〇文、多田寺二三五文等が記録されている。これらの諸記録から谷田寺の勢力が相当なものであったことを伝えている。
 昭和三十年(一九五五)十月、戦時中に強制伐採によって全山が荒廃したため、治山治水を目的に一二ヘクタールの山に杉と桧の植林が小浜市営造林として行われた。
 平成三年八月には、祖先崇拝の理念から、広く使用されることを目的に旧墓地の区画整理が行われ入仏完了をした。
 平成十年四月、谷田部区民の帰依心篤く、浄財を得て天神さんの本殿を改築し現在に至っている。


『遠敷郡誌』
谷田寺 真言宗古義派にして本尊は千手観世音なり、同村谷田部字寺谷下に在り、元観音寺と稱す。
  若州普門山谷田寺繰起曰
 夫當寺人王四十四代元正天皇御宇養老五年泰澄法師建立之地也〔中略〕粤去開闢五餘歳降廢交有之叡願之手無失然而文永初有代官山城前司者勘洛寺領又制山林時院主重嚴代雖訴追先制無用終十一年正月達京執權武蔵守義政歎此舊條義政命之惣判官代許封内賜山林田畠之免書再作所願之場後字多醍醐兩朝之頃隣郷以妨境内擧事訴之下制札並御教書弘安正応兩通存封境制止云嚴然俊光巌御宇建武元年夏將軍尊氏公補寺務職課訴願御教書亦貽焉〔下略〕
 當寺は屡荒唐したる者の如く今殆んど舊観を止めずと雖往古は池坊正乗坊勝藏坊十行坊中ノ坊上ノ坊安樂坊等十餘坊を存し、明暦の頃には谷田部・東田繩・深谷木谷、出合・擧原・小倉・槇谷・井上各村氏神の別當職たり。



臨済宗南禅寺派神谷山雲外寺

県道222号(中井青井線・丹波街道)沿いで、長徳寺と向かい合う。本尊観音菩薩。開山は若狭守護武田元信の嫡子潤甫周玉(玉長老)と伝える。
雲外寺旧記写(寺蔵)に、
  当寺之開山潤甫和尚大禅師者(中略)幼少時入禅法、臨済門之先途洛東南禅寺住僧而、被遂秉払、有賢名称美之聞、天文元年冬、不図北方有出奔之志、小浜青井入栖雲寺住居、其後天文八己亥年、於矢田部郷被立山荘、此所者栖雲寺之外故号雲外寺、(中略)天文十九年庚戌年六月廿三日、潤甫和尚於此地遷化
創建以来寺領100石があったが、豊臣秀吉に召上げられ、寺地山林のみが安堵されたという。

『口名田郷土誌』
雲外寺 山号は神谷山 臨済宗
 雲外寺は臨済宗南禅寺派、山号は神谷山、本尊は聖観音菩薩。開山は若狭守護武出元信の嫡子で、後瀬山城を築いた武田元光の舎弟潤甫周玉(玉長老)である。
 当寺の開山潤甫は幼少のとき、仏門に入り、臨済宗の最高位である南禅寺の住僧となり、その後大永八年(一五二八)わずか二十五歳で、小浜大原の栖雲寺の住職となり、天文八年(一五三九)隠退して矢田部郷に山荘を建てられた。その場所が栖雲寺の外にあるので雲外寺とよんだ。同十九年(一五五〇)六月二十三日、四十六歳でこの地で遷化された。雲外寺は創建以来寺領一〇〇石があったが、豊臣秀吉に召し上げられ、寺地は山林のみが安堵された(雲外寺旧記写)。
 かつては雲外寺の隣に西方寺があったが、明治三十一年(一八九八)秋、一朝風雨の災害により破壊され、再興が困難となり、西方寺・雲外寺両檀家の合意により合寺することとなった。明治三十九年一月には公許を得て正式に合寺した。
 西方寺に安置されていた阿弥陀仏は、雲外寺位牌堂の本尊として現在も祀られている。
 昭和三十四年四月には、壇信徒の浄財により本堂の屋根がふき替えられ、昭和六十三年八月には位牌堂と書院の新築、本堂の修復が総事業費二千万円で行われた。


『遠敷郡誌』
雲外寺 臨濟宗高成寺末にして本尊は観世音なり、右同所に在り、天文八年三月小濱栖雲寺住職潤甫和尚の開基なり。

西方寺
『遠敷郡誌』
西方寺 臨濟宗高成寺来にして本尊は阿彌陀如来なり、同村谷田部字上通に在り。


日蓮宗法華山長徳寺

『口名田郷土誌』
長徳寺 山号は法華山 日蓮宗
 若狭郡県誌に長徳寺は下中郡谷田部村の中条にあり、日蓮宗にして長源寺の末派であると伝え、又、若狭遠敷郡誌には、長徳寺の本尊は妙法蓮華経宝塔釋迦如来多宝仏であると記している。
 長徳寺は永享七年(一四三五)の創建で、開祖車輪院口忍聖人が今の地より東南二町程距る処に地を選んで一宇を建て、法華堂と称した。慶長十年(一六〇五)慈雲院日甄上人が今の地に移し、堂名を山号に改め法華山とした(口名田村誌)。なお、長徳寺境内地には番神堂がある。
 戦後になって本堂の屋根ふき替え工事や位牌堂の改築、昭和四十四年には宗祖日蓮大聖人七百年遠忌を記念して墓地の区画整理が、また、平成四年二月には立教開宗七五〇年記念事業として、新墓地の造成がなされた。平成八年七月には新しい庫裏が建築された。


『遠敷郡誌』
長徳寺 日蓮宗長源寺来にして本尊は妙法蓮華經寶塔釋迦如来多寶佛なり、右同所に在り、境内佛堂に妙見堂あり、元法華堂と稱せり寛正二年日忍今の地に移す。


《交通》
谷田部坂

県道222号(中井青井線・丹波街道)の谷田部トンネル。ここは昔は峠↑を越えた。難路で有名。今もその道が残っている。トンネル谷田部側入口右側コンクリート擁壁の手前から登ったようである。急坂といった程度のものではない、垂直に近い山腹を一直線に登っていく道である。

道は整備されていて、案内板まであるが、足元あやしい年寄りが行けるような道ではない。元気な者でも荷物を背負っての通行はムリだろう。大正12年トンネルが開通するまで運送はすべて南川を利用したという。
谷田部坂(丹波道の一部)
 口名田村誌に、「谷田部坂は名田庄七里ケ谷の咽喉にして、眼下に南川を望み、河を隔てて多田ケ岳を仰ぎ、展望殊によし。坂頭に丈余を廻るタモの木二本対をなし、亭々として高く地を覆う。夏季の緑陰必ず憩はざる人なし。明治三十七年有志先代藤本佐治右衛門氏地蔵尊を安置して、小堂宇を建てたり。実に谷田部坂は口名田の名所にして、また、名田庄の一大関門たり」と記されでいる。
 右のタモの木二本は既に切られてなくなっている。地蔵堂は大正十三年に谷田部坂の下にトンネルが出来た後、トンネル南口県道沿い約一00メートル南寄りに移されたが、その後県道が拡幅されたとき、現在の雲外寺の参道に移され、小祠に安置されている。
 谷田部坂には、後鳥羽院の御代・文治の頃、西行法師が回国の際、谷田部坂で詠まれたという古歌がある(若狭国伝記)。
  『若狭路やしら玉椿八千代へて又もこしなん谷田部坂かな』
 また、谷田部坂には「深谷のシイ」という怪力がかつぎ上げたという赤石の伝説もある。谷田部坂の頂上には道を挟んで右側に角のとれた赤味を帯びた石があり、この石こそ「深谷のシイ」にゆかりのある石であるという。また、左側には五箇の石で組まれた腰掛石かある。言い伝えとして村の古老の話によると、昔谷田部の善右衛門さんが坂頭で茶店を開いていたとき、旅人の休憩場所にと思い腰掛石を並べたと教えてくれた。


『口名田郷土誌』
谷田部坂峠(谷田部区)
 小浜市青井から谷田部区へ入るには、大正十三年にトンネルが開通するまで、その上の谷田部坂峠を越えなければならなかった。谷田部坂は名田庄へ入るための最大の難所で、標高は二〇〇メートル、道は険しく交通の大きな妨げとなっていた。しかし、眺望はすばらしく眼下に南川を望み、川を隔てて多田ケ岳を仰ぐことができる。
 口名田村誌には「眺望殊によし。頂上に丈余を迴る樟樹(たものき)二本、対をなし亭々として高く、かつ繁茂せる枝葉は四方に出でて広く地を覆ふ。夏期の緑陰必ず憩はざるなし」と書かれている。峠には茶屋もあり、明治三十七年には藤本佐治右衛門がこの峠に小さなお堂を建て六体地蔵尊を祀ったが、トンネルの開通によって茶屋も地蔵尊もトンネルの人口に降ろされた。地蔵尊は、今、雲外寺に移されている。
 この峠は丹波道の難所として有名で、「若狭国伝記」や「若狭郡県誌」などの地誌にも記録され、西行法師も通ったのか「若狭路やしら玉椿八千代経て またも越へなん谷田部坂かな」という西行の歌も残されている。


谷田部坂
 中国山脈の一脈が走って来て、谷田部小字坂尻を通り抜け湯岡で終る。谷田部坂(丹波道の一部)は坂の南面に当る坂尻にあって、三つのピンカーブを描きながら坂頭(海抜一一〇メートル)に達し、更に、坂の北面青井にて丹後街道(現国道二七号線)に接続する。
 口名田村誌に、「谷田部坂は名田庄七里ケ谷の咽喉にして、眼下に南川を望み、河を隔てゝ多田ケ岳を仰ぎ、展望殊によし。坂頭に丈余を廻るタモの木二本対をなし、享々として高く地を覆う。夏期の緑蔭必ず憩はざる人なし。明治三十七年有志先代藤本佐治右衛門氏地蔵尊を安置して、小堂宇を建てたり。実に谷田部坂は口名田の名所にして、また、名田庄の一大関門たり」と記されている。
 右のタモの木二本は既に切られてなくなっている。地蔵堂は大正十三年に谷田部坂の下にトンネルが抜けた後、トンネル南口県道沿い約一〇〇メートル南寄りに移されたが、その後県道が拡幅されたとき、現在の雲外寺の参道に移され、小祠に安置されている。
 また、谷田部坂には後烏羽院の御代・文治の頃、西行法師が回国の際、谷田部坂で詠まれたという古歌がある(若狭国伝記)。
  若狭路やしら玉椿八千代へて又もこしなん谷田部坂かな
また、谷田部坂には怪力深谷のシイがかつぎ上げたという赤石の伝説もある。谷田部坂の頂上には道を挟んで右側に長さ約一・四五メートル、奥行約〇・四三メートル、高さ約〇・四五メートルの角のとれた赤味を帯びた石があり、この石こそシイにゆかりのある石であるという。また、左側には五箇の石で組まれた腰掛石がある。言い伝えとして村の古老の話によると、昔谷田部の善右衛門さんが、坂頭で茶店を開いていたとき、旅人の休憩場所にと思い腰掛石を並べたのだと教えてくれた。



《産業》
鍜冶屋
『口名田郷土誌』
鍛冶屋
 明和四年(一七六七)に出版された、稚狭考の中に谷田部に一三軒の鍛冶屋があったと記されている。このことから、今から二三四年前にすでに谷田部に多くの鍛冶屋があったことは明らかで、昭和の初め頃に五軒余の鍛冶屋が残っていたが、現在では一軒のみとなった。
 鍛冶屋で造られた釘や農具は村内の商人によって、丹波街道を経て京都方面へ、また、須縄の山を越え根来を通り抜けて京都や滋賀方面へ、更に、若狭街道を経て、滋賀や京都方面へ売り出されていた。古くから若狭の釘は堅木に打つとき、丈夫であったということで特に人気があったという。


《姓氏・人物》


谷田部の主な歴史記録


『遠敷郡誌』
谷田部 本村の北端にあり、縣道は青井より谷田部坂を経て此區を通過し、其坂の下に梅林あり、古へよりの名所と稱す、此區は後瀬山の背後に位し小濱より名田庄に通ずる捷路に當るを以て社寺の興廢等小濱に関係する事多し。

谷田部の伝説


『舞鶴の民話5』
杣びとシイ
 話は江戸時代にさかのぼる。シイは享保の頃の人だった。体は小がらだが、筋肉はりゅうりゅうとしまり、鋼鉄のように固かった。
 名田庄村から、京都府の美山町、京北町を通って京都市内にはいっていく。京都と日本海を結ぶ幹線道路の一つである。この名田庄の中名田から口名田へかけて、方々にこのシイの話が伝わっているのである。
 谷田部の峠は、細く急坂であったので、ここを通って小浜へ往復する人たちはいつも難儀していた。シイはふもとにあった大きな石を背負って峠の上に運び、この峠を通る人々の休み場にした。この石は今もトンネルの上旧道に残っていて、シイの休み石と呼ぶ。
 あるとき、牛に沢山の荷物を積んで、五十(いか)谷橋を渡っているとき、橋のまん中の所で、向こうからくる代官に出会った。牛をつれたシイと代官たちとは、すれちがうことが出来ない。代官たちは、当然シイがあともどりするだろうと思っていた。シイは何を思ったが、牛の四本の脚をつかんで、橋の外へつきだし、「どうぞ通って下さい」と言った。代官たちはおそるおそる通ったということである。その五十谷橋は、谷田部のトンネルから五キロさかのぼったところに架かっている。

『新わかさ探訪』
奥深谷の怪カシイ   若狭のふれあい第88号掲載(平成7年2月28日発行)
数々の伝説を残した実在の剛力男
 おおい町名田庄にほど近い小浜市の山間に、奥深谷という集落があります。ここに昔、シイと呼ばれた怪力の男がいました。体は小さいのに、堅くてたくましい筋肉をしており、まるで椎の実のようだったので、その名がついたそうです。年代も名前も正確にはわかりませんが、今からおよそ300年前の、江戸享保年間ではないかといわれ、深谷ではシイの怪力ぶりが今も語り継がれています。
 深谷から小浜へ出る谷田部の坂は、今はトンネルができて便利になりましたが、昔は急な坂道で難儀をしました。ふもとにある大きな石を運び上げて、峠に休憩の場所をつくるといいと誰もが思ったのですが、重くて動かせる者がいませんでした。この話を聞いたシイは、その石を背負い、一気に峠まで運び上げたそうです。それが「シイの休み石」と呼ばれています。
 谷田部トンネルの上を通る昔の峠道は、今もトンネルの両側からたどることができ実際に歩いてみると、確かに峠のところでは一休みしたくなります。休み石は、道の片側の山肌に、大きな5つの石を組み合わせてつくられており、ちょうど腰掛けるのに都合のよい高さて、荷物を背負ったままでも休めるようなあんばいです。この石を一人で運び上げたというシイは、ずば抜けた豪腕と、とびきり頑丈な足腰をもっと人物だったのでしょう。
 シイは、杣(きこり)を仕事にしていました。なぜか山に弁当を持っていくのをきらったので、一度にたくさんの飯を食べて腹ごしらえをし、数日間山に入って働いたそうです。その間に仕上げたものをからげて背負い、山から下りてくる姿は、まるで小さな山が動いているようだったとか。
 当時、小浜の八幡神社で奉納相撲かあり、近在から力自慢が集まりましたが、シイが土俵に上かってシコを踏み始めると、ほかの者は恐れて取り組もうとせず、戦わずして勝ち名のりを受けたという話も伝わっています。
 またあるとき、牛に荷物を載せて小浜へ行く途中、五十谷橋(現在の中井橋あたり)の真ん中まできて、運悪く駕籠に乗った代官と出会いました。狭い橋の上では行き違いもできず、シイはやむなく牛の4本の足を抱え、欄干の外にさし出して代官を通したそうです。
 いささか大げさなところもありますが、シイと呼ばれた怪力の男がいたことは事実のようで、その手孫だと言われている人もいます。
 日が照ってまばゆく輝く雪景色に見とれていると、シイがひょっこり現れてきそうな気がする奥深谷は、昔も今も変わらない美しい山里です。





谷田部の小字一覧


谷田部 不動上 下動下 大名 大名下 鐘鋳場下 鐘鋳場 切岩 谷川 大谷 大谷下 湯田 西堂 前川 鳥居畑 稲場 茶屋上 茶屋下 百合道下 藍戸 大門 大門下 流シ谷 寺谷上 寺谷下 百合道 後川 後川下 森下 茶屋前 茶屋後 雲外河原 堤 中河原 宮ノ腰 宮下 法花堂 木戸 山ノロ谷 山ノロ谷下 上道 上道下 八幡縄手 縄手 蟹谷 生水ケ谷 瀬戸ケ谷 榎木谷 榎木谷下 灌浄木 久保 岩見谷 柳原 宮ノ浦 生水川 馬立 横瀬木 横瀬木下 下河原上 下河原 堂谷 端谷 地蔵ケ谷 地蔵ケ谷下 山田口 坂尻 端谷山 地蔵ケ谷山 蟹谷山 山口谷 寺谷山 小岩尾 大六谷 地蔵谷 大名ケ谷山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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