丹後の地名 若狭版

若狭

挙原(あげはら)
福井県大飯郡おおい町名田庄虫鹿野挙原


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福井県大飯郡おおい町名田庄虫鹿野挙原

福井県遠敷郡名田庄村虫鹿野挙原

福井県遠敷郡知三村虫鹿野挙原




挙原の概要




《挙原の概要》

南川支流久田川最上流の山村地域。県道35号(久坂中ノ畑小浜線)が通じている。周囲は山地で、古くは木地師の村。昭和41年から始まった揚水発電所計画により全戸移住して無住。市辺押磐皇子の伝説を伝える村史跡の皇子塚が残っている。

出合からしばらく県道35号を進むと「出合校跡」という少し広い所があり、その先の分かれ道にこんな木柱「名田庄村指定 史跡 皇子塚」、「是れより参道三百メートル」と書かれている。左は県道35号で、右の道を行けば挙原集落の址である。
何とも親切な案内である。参道とはどれのことか、まったく案内の役には立たないが、木柱の位置から見て下の道がそれらしい。
挙原
下の道をしばらく行くと、屋敷跡らしい石積がある、4軒分くらいはある。電柱もあるが電線はない、昔は電気が来ていたようである。ここが挙原集落の跡であろう。
皇子塚はどこのあるのやら、どこかこのあたりだろうが見当もつかない。幸い行った人もあるので、そちらを参照して下さい。
挙原
旅の終わりは若狭路へ

挙野は虫鹿野を母村とする久多河内と呼ばれる山間地の小村の1つ。地内に履中天皇の皇子で雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の墓と伝える皇子塚があり、本居宣長をはじめ多くの人たちによって考証が試みられたが確認されていない。挙原の集落は、この塚を祀る陵戸または守戸ではなかったかともいう。
挙原村は、江戸期~明治初年の村。小浜藩領。「正保郷帳」では上原村と書かれる。
「若狭郡県志」「稚狭考」などでは他の枝郷とともに本村に含められ、虫鹿野村一村として記される。「旧高旧領」もまとめて虫鹿野村と記し、明治初年、行政的には虫鹿野村のうちとして扱われた。「雲浜鑑」によれば、家数9・人数44、神社に山神が記される。集落の奥に合子ヶ谷と呼ばれる深い谷があり、杓子製造に携わる木地師たちが居住していたという。
挙原は、明治22年~現在の大字名。はじめ南名田村、明治24年知三村、昭和30年名田庄村、平成18年からはおおい町の大字。もとは虫鹿野村の一部。「虫鹿野の内挙原」ともいう。山神社は明治40年虫鹿野の皇王神社に合祀された。


《挙原の人口・世帯数》 0・0


《挙原の主な社寺など》
皇子塚(おうじづか)
挙原集落の西方約60メートルにある。人頭大の自然石を積上げた、約2・5メートル四方、高さ約1メートルの方形の石積遺構で、ほぼ中央に五輪塔がある。遺構の年代・性格は不明。伝説によれば、履中天皇の皇子市辺押磐皇子の墓といわれ、いつの時代からか春秋二回(旧暦三月二一日・七月二一日)皇子塚講が開かれ、塚の前に餅を供えて「みつむねの皇子さま」ととなえて拝む村人の信仰があったという。
『名田庄村誌』
皇子塚
名田庄村出合
  昭和三十九年四月一日名田庄村指定
  管理 名田庄村
 二・五メートルに、一・二メートルの石垣の中に、自然石で空・風・火・水・地を刻んだ四角柱の五輪塔が立っている。古来から皇子塚と称される。第十七代履仲天皇の皇子、市辺押磐皇子の塚で、皇子は猟に出で、あざむかれ、この地で殺害され屍は馬糟に入れてこの土の中に埋めたといわれる。昔から塚の尊崇は厚く、春秋二回(三月二十一日・七月二十一日)、皇子塚講が行なわれている。


皇子塚の伝説
(一)市辺押磐皇子の陵をめぐる諸説
 久田川の支流、挙原川の左側小高い丘地に、挙原部落がある。昭和二十年代までは四戸の部蕃であったが、離村して現在は二戸となっている。この部落の西方約六十メートルのところに一段高い長方形の丘陵地がある。古から伝えて皇子塚という。前方後円の形熊をなしているが、自然山形とも見られる。これは履中天皇の皇子、市辺押磐皇子の塚であるといい伝えられている。
 この皇子塚の事について古くから研究され、論議されているが、まだその真疑の決定を見ていない。ことに本居宜長や伴信友もこの塚について言及しており、郷土の先輩や研究家により幾度も研究調査されているが、発掘調査は行なわれていない。市辺押磐皇子の陵は滋賀県八日市市(旧市辺村)にあり、一応宮内庁の指定がなされているが、これは後代につくられたものであるともみられ、皇子塚の原点は、ここ挙原であると古老は伝承している。
 知三村誌には、皇子塚について、「皇子塚(御子塚又は殿の王塚とも袮す)は知三村挙原第三号字猿畠にあり。朝夕の日共にさし、塚は魚形をなす。その頂に一間半に四尺余の石垣の造り畳むに石を以てす。その上に、納石さ可致の空風火水地を刻める四角柱の五輪石を立てあり。村民はこの塚を尊崇すること甚しく、古米春秋二回皇子塚講(旧三月二十一日・七月二十ー日)を開催してこれを祭りて参詣す。村民相伝へて曰く、往古この塚の石を弄したる者ありて非常なる祟りを受けしことありしを以て今に至るとも三歳の稚児と雖もこの塚に手を触れずと。又この塚の所有主なる中元三蔵の父翁に糺すに、この塚はわが家の祖先にして古文書を相伝来せしが御維新の当時に明盲目の為め売払へりと答ふ。尚塚を参拝するに何々様と云ふべきかを尋ねたるに、みつむねのわうじ樣と申して参拝すと答へたり。皇子塚の後方の斜に石垣を造り地蔵堂あり。この堂の下は墓墳なりしを村民が不知不識足下に踏むことを恐怖してこの地蔵堂を建てたりと云ひ伝ふ」とし、なお宜長の古事記伝や信友の萓野考などを引き、この塚を市辺押磐皇子の陵としている。
 皇子塚の主人公といわれる市辺押磐皇子と雄略天皇との関係を示すために、系図を掲げておこう。
(略)
 次に市辺押磐王をめぐる事件の概要を日本書紀等により、記述しておこう。すなわち仁徳天皇の後、その皇子、履中天皇・反正天皇・允恭天皇の兄弟が相次いで即位した。ついで允恭天皇の皇子、安康天皇が即位した。この時に、仁徳天皇の皇子に大草香皇子あり、その子眉輪王が安康天皇を弑した(二人は従兄弟の間柄)。
 允恭天皇の皇子の大泊瀬皇子、異名大長谷王(雄略天皇)、二兄(境黒彦王・八釣彦王)の事にためらうを見て怒り二人の兄を殺し、更に兄の仇としで眉輪王(従兄弟の間柄)を誄した。さらに大泊瀬皇子は市辺押磐皇子(従兄弟の間柄)を狩に誘い久田綿の蚊尾野で、帳内佐伯部売輪(仲子)と共に殺した。その翌月雄略天皇として即位した。
 顕宗天皇は父君市辺押磐皇子の埋められた地点をさがし当て、陵をつくった。これは父君の死から約三十年後のことである。この陵の地点が挙原であると知三村誌には記されているが、確証が得られず、古来から研究が続けられている。
 香川政男氏は、飯田季治氏が日本書紀新講(昭和十三年発行)に「近江来田綿蚊県野は近江国蒲生郡の綿向山の裾野原である。吉岡明徳氏云ふ。綿向山は甲賀蒲生の二郡に跨り高さ胆吹山に亜ぐ。山の西麓に西明寺(古称来田綿寺)あり、其より卅町許にして北畑村あり(この村名来田綿の古名の訛伝に非ざるか)、此の北畑村の東に隣りて音羽村あり(此の村内に御廟野とも御骨野とも申して押磐の皇子の御墓は今もあるなり)。此の村の南に連りて熊野・千木野など云う郊野あり。此辺即ち古への蚊屋野(萓野)なるべし」という近江説を紹介している。しかも本居宣長の古事記伝巻四十三には「さて此ノ市辺ノ王の御陵の事、或は云ク、近江国蒲生郡日野の内、音羽村にありて、御廟野とも御骨野(みこつの)とも云て、御陵今モ現存て、内なる石構露れて見ゆ。(傍に薬師堂あり、此の御陵の域内へ牛馬を牽入ルときは、其牛馬忽に死ぬと云て里人いたく畏るとなり。さて日本紀には此ノ御陵二ッ同じさまに築けるよし記されたれども、今二ツは無し、一ツなり。さて又此ノ陵に葬リ奉れる前、初メに埋奉し処
は、こぼち塚と云て蒲生郡の内にあり。此御陵の地とはやや遠しと里人語り伝へたり)と云り。又近きころ或人の云ク(右の音羽村なるは、市辺ノ王の御陵にはあらず、彼レは息長ノ墓なり)今山城国、愛宕郡(の北の極)に久多谷あり、(久多越とて近江、若狭へ越る処なり、村々ありて、久多庄と云フ)近江ノ国高島郡に和田村あり、若狭遠敷郡に蚊屋野あり。此ノ処々、山城と近江と若狭と丹波と四国の堺にて、皆相近くして其ノ蚊屋野と云に塚二ツありて御子塚と云フ近江の久多綿之蚊屋野とあるは此ノ地にて、此ノ塚ぞ市辺ノ王の御陵なるべきと云り。何れか正しからむ。なほよく尋ねて定むべし」として挙野説をもあげながら断定をひかえている。しかし香川氏は挙原説を強調されている(「皇手塚を尋ねて」)。
(二)久田庄・来田綿考証
 市辺押磐皇戸が雄略天皇に殺された地は、日本書紀雄略天皇即位前紀によれば、近江の国来田綿の蚊屋野とあるので、それは近江の国の地籍内であろう。若狭国久多綿の蚊屋野とあれば若狭の地籍内であると断定してよいわけである。しかし昔はよくあて字を使用したから、久田も久多も同じ地籍をさしていたかも知れない。近江・若狭の国境はその当時はっきりしていなかったとも考えられる。
 三国嶽は昔、久多峯と呼ばれ、この附近一帯の地域を久多(田)庄といい、久多河内もその内に含まれていたと考えられる。ただし庄の名で呼んだのは荘園時代からのことである。それ以前は郷の名で呼ばれていた。久多河内はのちには知見郷に含まれているはずであるが、記録にはみえない。庄に変った当時においてもそれが見当らない。したがって、他県に含まれた久多庄の一部ではなかったかと思う。それで日本書紀本文所見の近江の国来田綿に挙原も含まれていたと解すべきかも知れない。
 徳禅寺文書によると、名田庄の崩壊したと考えられる、大永三年(一五二三)以後においてその部藩名が出てきている。豊臣秀吉が検地を行なったのは、天正十年(一五八二)頃のことであるから、その頃からではないかと考えられる。
 江戸時代においても、庄屋の記録によると虫鹿野に含まれており、小庄屋としての記録が残っている。
 したがって現在の所属県をもって諭じてもあたらないというべきであろう。事実明治初年には、この附近一帯は、滋賀県に属したこともある。問題は、米田綿はどこであったかである。
 そこで綿の字義であるが、この綿について香川氏は綿(わたり)とされ、辺(あたり)・辺(ほとり)と解され、来田の綿(わたり)(辺)の蚊屋野ではないか。もしそれがそう解されないならば、誤字ではなかろうかとされている。
 綿にはいろいろな意味がある。この「来田綿の蚊屋野」に関係すると思われる字義は、「つらなる」「とおく」「はびこる」「長くして絶えざる貌」(久保天随編大漢和辞典)等である。これを本文にあてはめると、来田(地名)の広い、長く続きはびこる蚊屋野、つまり一面に萱の生い茂っている所(萱野ヵ原)とその状熊をあらわしての語ではなかろうかと思う。
 香川氏は誤字説もとられる。何の字の誤字かは指摘されていないが、筆者も又誤字ではないかとも考える。そして誤字であるとすればそれは、「郷」の字の誤りではないかと思う。近江の国、米田郷の蚊屋野とすればはっきりする。日本書紀は奈良時代、養老四年(七二〇)につくられたものであり、郷名を用いていた時代であるから、そう呼ばれたことに不思議はないわけである。
(三)挙原の部落
 挙原の部落は、明治時代には九戸程あり、昭和二十年代までは四戸であった。現在では中元家(木家)一戸である。つぎつぎに移住した。この部落の本家は中元といい、その他小西・中西等の姓で皆同族関係にある。祖先より代々皇子塚を祀っているという。塚の祭日は、毎年三月二十一日と七月二十一日の二度で、塔の前に餅を供えて、「みつむねの皇子さま」と称えて拝むという。
 現在は系図もまたこの塚に関する古文書もない。この部落の檀那寺は、出合の福寿寺で、その開基は、明応八年(一四九九)である。戒名の古いものは約三百年前のものであるが、同寺は昭和七年出火があり、本尊を残すだけで、他の物は一切焼失してしまったため、以前を知る資料が得られない。
 この部藩は以前一家一族のようである。部落に死者のある時は、寝棺を用い、北枕に葬る。これは先祖からのいい慣わしであるという。墓地は昔は自分の屋敷内に造っていたが、明治の頃墓地規則によりて現在のところ、皇子塚の傍に共同墓地を設けている。この塚が市辺押磐皇子の陵とするならば、その祖先は、日本書紀に記されている狭々城山君韓袋の遠い子孫であるということができる。
 そしてこの拳原都落は陵戸または守戸の部落であるかも知れない。古代において古墳の附近にたてられた集落は、多くはその古墳に関係する陵戸または守戸であって一般集落でないのが普通とされているからである。たとえ市辺押磐皇子の陵ではなくて、他の誰かの皇子またはそれに関係ある人、あるいは豪族の墓であるとしても、挙原部落は、行事慣習等からみて他の部藩とは趣を異にしている点から考え、その成立過程を異にした部落ということができると思う。
(四)市辺押磐皇子陵の原点
 市辺押磐皇干の陵としては、すでに宮内省(現宮内庁)の指定を受けているものが滋賀県八日市市、市辺町にある。昭和四十四年七月、筆者は縦降氏と共に同地を尋ねた。同所教育委員会事務局長西部文雄氏の案内のもとにその陵を訪れた。同氏は少年時代を口名田で過された方である。
 御陵は舗装された街道添いにあり、その地は平野地である。境内には棚がめぐらされており、宮内庁指定の標石が建てられている。内へ案内されたが、円墳が二つ並んでおり、東の方がやや大きく、これが市辺押磐皇子の陵で、西の円頂は、帳内佐伯部売輸の墓であると西部氏は語られる。かの事件のあったころは、古墳時代の後期であるか
ら古墳の規模が縮少されていたので、あまり大きくないことはうなずけるが、そこに植えられている樹木の大きぎさ、その他の情累からみて、千数百年か経たものに感じられない。
 西部氏の語られるところによると、この陵は、破壊されていたので、考証の結果、明治八年宮内省から指定され、その後修繕されたものと思われるとのことであった。
 しかし本居宜長の古事記伝中の、「近江国蒲生郡日野の内音羽村にありて云々」の地籍と右市辺町とは地点が異なっている。
 古事記には、「於二其奴屋野之東山一作二御陵一」とあるのに、山辺陵は山地でなく平野地である。この点にも疑問がある。考証の結果とはいえこの陵については異論があり、論議されたとのことである。
 八日市市蒲生野顕彰会発行の蒲生野誌に掲載の「妙法寺町を中心とした古代史の一考察」の表題の論文(西部文雄氏)は大いに参考にたるので、その関係個所か引用記載してみたい。
 現在市辺町にある塚が明治八年に皇子の墓として指定されているが、いろいろ異諭があって、妙法寺町においても、熊の林の塚こそ市辺押磐皇子の墓だとして、徳川末期から明治の末にかけ、いろいろ史実の実証に努めたことが、神崎郡志稿からもうかがえる。この市辺町の二つの円墳(王児塚(おにづか)・仲子塚、別名地蔵塚)は日本書紀にみえる雙陵には相違ないとしても、顕宗天皇および皇太子が父の押歯ある御頭と、上歯のおちた売輪の觸髏とを折角別ち得た限り、またそのままの場所に埋葬したかどうかが問題ではないだろうか。おそらくは、不慮の災害にあわれた父君の遺骨を、何か因縁のある上地に改めて葬ったと考察するならば、古事記にみえる「於二蚊屋野之東山一作二御陵一」が気にかかってくる。具体的には、妙法寺町のお墓のことではないか。これが異諭の焦点となっている。
 蚊屋野の地名については、西部氏も状態説をとられる。八日市市全体をもって、東を蚊屋野、その西を蒲生野(蒲の叢生地)とするならば、市辺町も蚊屋野の方からは西の一部にあたり、その市辺町の鬼塚(王児塚)から東一里余を隔てて現在の妙法寺町となるわけである。いわゆる「於二蚊屋野之東山一作二御陵一」が納得できそうに思える。
 妙法寺町の市辺押歯別命山陵は、文政四年に、茂助という土地の人が、自分の持地である熊の林のこの古塚を開いて巨骨と歯三十枚を得たり、あるいは明和七年春よりこの附近を開懇して、大きな自然石を寺院や薬師堂に運びこんだり、またこの山陵を「市辺さん」と称して歯痛のひとびとが遠近より参詣してその治癒を願ったというなど、この山陵につながる妙法寺町の歴史は数多くあるわけで、現在でも妙法寺古墳群の遺跡は残っている。以上が、西部文雄氏の見解の大要である。
 次に筆者は、古事記伝にみえる地、蒲生郡日野町旧音羽村を尋ねてみた。そこには音羽城址がある。附近の人たちに尋ねたところ詳細を知る人にめぐりあわなかったが、市辺押磐皇子のかくれ穴があるとの伝説を聞いた。確認はできなかったが、ここにもまた遺跡伝承地があると考えてよい。この地方には多くの古墳があるようであるから、その内からこれが誰のものであるかか判定することは、不可能に近いことである。
 ともあれこの皇子塚の候補地としては、現在指定されている、市辺町のもの、妙法寺町の山陵、日野町の旧音羽村、ここ名田庄の挙原の皇子塚と四力所があげられる。
 その原点がどこであるか、おそらくはその当時の王朝の複雑な関係から推して、その墓は人目をさけた場所に、他にわかりにくい規楔につくられたものではなかろうか。西部文雄氏もいわれるように塚のようなものは造らず、ひっそりと埋めたと考えるほうが正しい気がする。そのために目撃者である、置目以外は誰も知らなかったわけであろう。それを千数百年後にあてようとするのであるから、非常な困難事というべきであろう。
 かりに来田郷の蚊屋野の地が正しいとしても、現皇子塚がその原点であると断定することはできないと思う。発掘して確証の得られる出土品があれば別ではあるが、筆者の推察ではあるが、別のどこかに本当の塚があり皇子はそして、仲子は静かに眠りますとも考えられる。
(五)皇子塚に関する異説
 挙原の皇子塚がもし市辺押磐皇子の塚でないとしたら、誰の塚であろうか。このことについて異説を称える者もまた伝承もないが、今後の研究の資料ともなればと思い、一、二記して見たい。
 その当時の事変を思う時、権力の座を得るための昔の人間の争いは露骨であっだ。したがって弱者は山奥深く逃れてきている。ここ久多地方の深山は、そのかくれ場所として恰好の地であったと思う。未知の史実をここは秘めているといってもいいすぎではないと思う。
 例えば、武烈天皇には皇子がなかったものか、皇儲が絶えよりとした ので、大連大伴金村・大連物部麁鹿火・大臣許勢男人等の大和の豪族が会議を開き、丹波国桑田郡に住んでいた仲哀天皇の五世の孫に当る倭彦王を擁立することをきめ迎えようとしたが、王は驚愕して遁げてしまった。いたし方なく、さらに会議を開いて後継者を審議し、大伴金村が推挙した男大迹王を迎えることとなった。これが継体天皇である。
 倭彦王が遁幸された後のことは記録には見えないが、丹波の国桑田郡に住まわれており、ここから山谷に遁れたとすると、ここ名田庄の地籍、特に久多地方ではないかと考えられる。拳原の部落民の皇子塚を拝するのに「みつ峯の皇子さま」と称することは、三つ峯、三国嶽から来られた皇子さまとの意味ともとれ、あるいは倭彦王自身かまたはその皇子を祭ったのがこの皇子塚であるとの一説もたてられないこともないと思う。
 今一つは第十章の木地師のところで述べるように、木地師の祖とされる、惟喬親王あたりの塚とされたのではなかろりかとも思う。後述の記述を参照されたい。


『知三村誌』
皇子塚
 皇子塚(皇子塚又殿の王塚とも称す)は知三村舉原第三號字猿畠にあり、朝夕の日共にさし、塚は魚形をなす。その頂に一間半に四尺餘の石垣の造り疂むに石を以て。その上に納石さ可致の空風火水地を刻める四角柱の五輪石を立てあり。
村民はこの塚を尊崇すると甚しく、古来春秋二回皇子塚講(舊三月二十一日 舊七月二十一日)を開催してこれを祭りて参詣す。村民相傳へて曰く、往古この塚の石を弄したる者ありて非常なる祟りを受けしことありしを以て今に至るとも三歳の稚児と雖もこの塚に手を触れずと。又この塚の所有主たる中元三蔵の父翁に糺すに、この塚はわが家の祖先にして古文書を相傳来せしが御維新の當時に明盲目の爲め賣払へりと答ふ。尚ほ塚を参拝するに何々樣と云ふべきかを尋ねたるに、みつむねわうし樣と申して参拝すると答へたり。皇子塚の後方の斜に石垣を造り地蔵堂あり。この堂の下は墓墳なりしを村民が不知不識足下に踏ひことを恐怖してこの地蔵堂を建てたりと云ひ傳ふ。
本居宣長古事記傳第四十三卷に
 近江の久多の蚊屋野はこの地(挙原)のことにて市邊押盤王の御陵なりと云々
伴信友萱野考に
 市邉押盤王の亊を述べその歌に『そのかみを思へはかなしひさかきの茂る萱野の奥のおくつき』と云々
日本古代史に安康帝は國を履中の皇子市邊押盤に傳ふる御志にてありしに大長谷王はこれを恨みに銜み折しも淡海の佐佐紀君韓袋が來田綿の蚊屋野に猪鹿多くあう其の立足は荻原の如く指挙る角は枯樹の如しと白すに因て市邉押盤皇子を誘ふて淡海にゆきその野に各異に假宮を作りて宿し給ふ明旦また日の出ぬ時押盤皇子は何心なく大長谷王に到う御伴人に向ひまだ寤まさぬか早く白せ夜は既に曙ぬ猟庭へ出ませと言捨てゝ馬を進めて行給ふ大長谷王の侍ども白すにはうたて物云王子なれば慎み給へ御身を堅むべしとて衣中に甲を著け弓矢を取佩て馬に打乗り出行き忽追付て馬と隻へ失を抜て猪よと呼て押盤皇子を射殺されたり皇子の帳内佐伯記売輪其屍を抱き爲ん方にくれ呼號ひて徃還しけるを大長谷王また之を殺し給へり。とあり上代王朝志に皇子の御屍等と馬糟層に入て土中に埋めけりこの変を聞き傳へて皇子の御子意富祁王袁祇王ともに禍の至らんを恐れ逃れて播磨至り給ひその國人の志自牟なる者の家に御身を隠し馬飼牛飼に使役せられて坐しませり。後世袁祁王(顕宗天皇)近飛鳥の八釣宮にて天位しろしめてき二月天皇詔したまはく先に父王わざはひに遭ひてあら野にかくれ給へり今吾天位を継ぎて父王の御骨を求むれども知る人なし如何にせんと宣ひて皇太子(意富祇王即ち仁賢天皇)と共に泣き給ふこといと悲しかりき。こゝに古き翁共を召し集めて躬ら問はせ給ふに一人の老嫗進み出てゝおのれ置目御骨の處と知れり見ませつらんと申す天皇乃ち皇太子と共に來田綿の蚊屋野にいでまして堀り出して検給ひしかばまことに嫗の言の如くなりき然るに舎人仲子(佐伯売輪異名也)の骨あひ交りて別き難きによリ老媼に問たたまへば仲子は上に齒落ちたりと申しけり斯くてつひに御骨を別ち得たり故に天皇改めて二つの墓を同じさまに葬りまつりき云々。
大日木通史に天皇父押磐皇子の墓地を尋ねて遺骨を改葬せんと幸し給ひ一老媼の奏上により蚊屋野の東山に陵を作りて改葬し狹々城山若韓袋が曾て皇子を殺すときに興りしを以て其の族を貶して陵戸となして山を守らしめ老嫗置目を厚く賞賜し且宮の傍に居らしめて時々に参上せしめられたり云々
按ずるに蚊屋野の変は皇位継承の際に於ける争乱にして市邉押盤皇子は仁徳天皇の嫡孫にまして履仲天皇の皇嫡子なり。理に於て天位を継き給ふべきものなれば安康天皇は父帝(允恭天皇)の御遺言もあるを以て位を皇子に傳へんの志あり。この御志は固より正常の亊なるに、反正、允恭二代兄弟相及ひて己に俑を作りしより、大長谷王の心中密に天位の望みありしを、安康の此に出でずして彼れに出で給へるを聞きては、その?健の氣質いかでか憤怨の事なかるべき。此に於て北條義時が公曉を使嗾したるが如きこなしと言ひ難がるべきにや。安康の崩御を閲くに及びても兇行は眉輪の手に出でしを知りつゝ先づ眉輪を誅せずして諸兄を殺したるも、後の自立の地をなしゝなるべく而して此の時皇子が仁徳の皇嫡孫として又安康の付託を受けて勢望ありしこは後年袁祇王が父王を稱して、於市邉宮治天下天萬國萬押盤尊ちいへるも天皇を輔けて政を執り給ひしによれるならん。故に大長谷王の之を除かんとするにも容易からず、郊遊を勧めて遂に大事には及べり。噫、皇子は郊原の秋の霧に空しく消へ給ひしも御魂の恨千歳の下に残りて、三国嶽の風、擧原の月誰かその古へを思ひ出でざらん。悲しき哉。
皇子塚は村民の尊奉の心厚くと雖も手を觸るれば祟ありとの迷を信じつゝ來りしを以て、石垣は壞れ叢草蘚苔これを覆ひ、寂々寥々然として千愁?傷に堪えず。茲に於て出合尋常小学校長加納治毅は数回所有者中元三蔵に交渉したる上、大正二年九月十六日來田綿青會員一統及び擧原區民を指揮してこれを修繕し更に石垣の四方に丸木の棚を続らし修繕報告祭を舉げ、福壽寺の住職の読経を受けたりき。
市邉押盤皇子に閧する御系を調査するに次の如し。…


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


挙原の主な歴史記録


『名田庄村誌』
永谷・出合・挙原
 本村の東部および東南をかざるこの三小区は、地理的歴史的に共通度が高いので一括集録する。永谷は木村の最東南端に位置し滋賀県と境する。挙原は東端にあってその一部は小浜市に接する。この地域か流れる川の出合地点に、出合部落かある。ここに小学校がある。三小区とも耕作地の殆んどは、山裾を切り開いた段丘にある。
 針畑越と称して、永谷より滋賀県に通ずる坂道がある。出合は久田川の支流の永谷川と挙原川の合流する地点にある。溪谷が多く、川に沿って谷々に多少の耕地があり、民家が散在している。戸数十四戸、人口五十二人である。字宮後の山神社は大山祇を祀る。字寺の下に曹洞宗福寿寺がある。
 出合東端の山奥には昔山男・山姥が住んでいたと伝えられるクセンの谷がある。挙原は、滋賀県境に近い一番奥の地区で、さいきんまでは戸数一戸のみで、老人が一人住んでいた。ここにある皇子塚を守っていた。
 ここには現在わが国最大の規模といわれる揚水発電所の建設工事が計画され、目下試験施工の過程にある。ハッパの響きと共に大きく様相を転じようとしている。近代科学の粋を結集する、一大電源地帯として大きく生れかわるのも近い。きびしいがまた一面限りなく美しい自然の中に生きてきた先人の生活の歴史は、やがてダムの水底深く忘れ去られてゆくことであろう。
 三小区あわせて、大正三年の戸数は三十一戸、人口百四十八人、昭和四十二年現在の戸数二十四戸、人口九十一人であった。

『名田庄村誌』
挙原揚水発電所建設計画と経過
 1 挙原揚水発電所の名称
 出合地籍に下部ダムができ、発電所が永谷地籍にできるのに何故、挙原揚水発電所といわれているのか。関西電力株式会社では、当初挙原部落下流にダムをつくり、その上流に約二十万キロワットの発電所を建設する計画で調査をすすめていた。調査がすすむにつれて、永谷地籍より出合に通ずる線で発電計画をすれば、出力百万キロワットの発電が可能ということがわかり、急遽挙原の計画を、永谷・出合方面に持ってきた。しかも、当初より計画した名称をそのまま挙原揚水発電所とよんでいる。しかし完成のあかつきには、名田庄村にふさわしい名称に変更されることが望まれる。
 2 揚水発電所のしくみ
 揚水発電所とは、上部ダムと下部ダムを作り、夜間電力の余剰が生じるのでその余剰電力を利用して発電水車を逆に回転させて、上部ダムに水を揚げる。昼間の電力需要期に下部ダムに水を落して発電し、送電をするしくみで水が下流に流れることなく巡回している。とくに原子力発電所が、何箇所も建設され、一たん原子炉に点火されると昼夜の別なく発電されるので、夜間電力の余剰は必至である。したがって原子力発電所と揚水発電所とは切っても切れぬ仲にある。
3 挙原揚水発電所計画の概要
(1)上部貯水池
  ダムの位置=京都府北桑田郡美山町
  水系及河川名=由良川水系由良川
  流域面積=五十二平方キロ
  総貯水容量=二千二百六十四万六千立方メートル
  ダムの高さ=七十二メートル
  ダムの長さ=二百八十三メートル
  ダムの体積=百六十四万立方メートル
(2)下部貯水池
  ダムの位置=福井県遠敷郡名田庄村
  水系及河川名=南川水系久田川
  流域面積=百九十七平方キロ
  総貯水容量=二千四十七万五千立方メートル
  ダムの高さ=八一・五メートル
  ダムの長さ=二百五メートル
  ダムの体積=百七十万立方メートル
(3)最大有効落差=四六六・七メートル
(4)最大発電力=百四万八千キロワット
(5)ダムの型式=ロックフィール型式
4 建設計画の経過
 昭和四十一年七月ごろから、ダム建設のうわさがあった。同年八月には木谷・出令・永谷の三部落の集会を開き、揚水発電所の設置計画に協力するよう上北村長その他の人々からり協力要請があり、挙原揚水発電所工事の話が、クローズアップされてきた。同年十二月十六日永谷地籍において、発電所接近横坑調査のために最初の鍬入れが実施され、揚水発電所建設の第一歩を踏み出した。
 昭和四十二年二月四日、出合小学校において、近畿支社北水力調査所係員が来村、木谷・出合・永谷の関係部落民・村長・議長・教育長・各課長出席の下に、揚水発電所建設計画の説明会が開催され、具体化してきた。村としても村の将来は、本揚水発電所の建設以外に発展はないと思われるので、前向きの姿勢で取組むために、昭和四十二年四月一日より開発局を設け専任の職員を配置した。地元やまた関西電力との話合いをすすめて行く態勢に入った。先ず調査工事に必要な土地の話合いを始め、地元の協力を得て会社が示してきた調査工事がスムースにすすめられることになった。その後調査工事が進捗した。ダムについては出合地係、発電所については永谷地係の地盤が非常に良く、発電所建設には申し分のない地点であると実証された。いよいよ本工事も実施されるものと思っていたところ、上部ダムの話合いが思うように進展しなかった。会社もできるだけの手を打ったが、全国的に学園紛争が拡大の一途をたどりつつある今日、会社としては、紛争の原因である七十年安保が終らなければ、京都大学側との話合いがすすめられなくなった。このような現況の下で下部の調査工事のみすすめることは、京都大学を刺激することとなり、マイナスになる点が多い。さらに下部の調査工事が大体終ったので、昭和四十三年十ー月九日、会社より村に対し、京都大学側の話が思うようにすすまないので今後予定している調査工事は、全部打切りたいとの申出があった。村としても如何ともし難く、会社の方針に従うこととなり現在に至っている。会社としては地形・地質共に申し分なく本地区を放棄することは絶対にしないといっている。大学紛争が収まり、話合いができる段階に至ったら早急に大学側と話をして一日も早く、本工事に着手したいという。近い将来には必ず、挙原揚水発電所が完成されるものと思われる。
 村としても本工事が完成されることにより、村の将来図は大きく書き替えられることと思われるので、是非完成されるように願っている。



(この計画は2005年に中止となった。原発はこうした問題も生むが、今はその原発そのものの存続がアヤシイ、というより続くことはありそうにもなく、今のものが古くなればそれで終了するだろう、さらには事業主体の関電そのものすらアヤシイ、トップが小判もらっているようでは、当然にも永遠に中止ということだろう。自然を破壊する「村づくり」などはせぬがいい。学園闘争や70年安保も意外な方面に貢献して、この自然を守ったよう)


挙原の伝説


『名田庄のむかしばなし』
悲劇の主、皇子の塚 -久田川上流、挙原の丘陵―
 久坂から久田川をさかのぼること十キロ余り、その支流、挙原川の左側の小高い段丘に挙原の集落があった。昭和二十年代までは四戸の集落であったが、その後離村が続き、今はさみしい無人の里と化している。
 この集落の西方約七十メートルのところに一段高い長方形の丘陵地があり、樹令数百年の老樹の下に古くから伝えられる「皇子塚(おうじづか)」がある。一帯は見方によっては自然の尾峰形とも見えるが、塚の正面に参道、途中二段の乾濠(かんごう)等の形跡があり、左右の小谷を外濠とした前方後円の陵墓で、履中天皇(第十七代)の皇子、市辺押盤皇子の塚であると伝えられ、古くから論議をよんできたところである。
 それは遠いむかしのこと、天皇の位を奪い合うといういまわしい争いがくりかえされた頃のことである。第二十代安康天皇が、次の帝位を第十七代履中天皇の皇子、市辺押盤皇子に譲ることにしたところ、市辺押盤皇子の従兄弟である「大泊瀬王」(後の雄略天皇)がそれをねたんで策を企て「近江久田綿の茅野は鹿や猪の多い所であるから一緒に狩りに行こう。」と押盤皇子を誘い出した。皇子は誘われるままに久田綿の野に進み、そこで別々に仮の宮を造って宿ったその翌日のことである。
 押盤皇子はまだ日の上らぬうちに茅野に出、おくれて仮宿を立った大泊瀬王は馬を急がせて追い付きざま突然に「猪よ-。」とさけんで矢を放ち、押盤皇子を射殺したという。皇子の付人、帳内佐伯記売輪は皇子の屍を抱いて泣き悲しみ途方にくれているところを、大泊瀬王はこの付人をも殺し馬桶に入れて土中に埋めたという。その後、大泊瀬王は雄略天皇として皇位につくのであるが、この変を聞いた押盤皇子の子の意祁王、袁祇王は禍が身に及ぶのを恐れ逃れて播磨の国人「志自牟」の家に身を隠し、馬飼い、牛飼いの労役で身分を偽り時の到来を待ったのである。
 やがて時至り、袁祇王が皇位(二十三代顕宗天皇)につき、兄の意祇王(後の二十四代仁賢天皇)と共に茅野を訪れ、父押盤王の御骨を求め堀り出されたが、帳内佐伯記売輪の骨と混交して区別ができなか
ったため、二つの墓を同じ形にして葬りまつられたという。
 そして、佐々記君韓袋を陵戸として山守りを命じ、また皇子の御骨の所在を教え案内をした「置目」を厚く賞揚し、陵の傍に住まわせて時々陵墓にお参りするよう命じたと伝えられる。
 このようにして皇位争奪の犠牲どなった悲劇の王、市辺押盤皇子の亡きがらが悲劇の舞台、茅野の一隅に葬られたというのがこの塚であり、これを「皇子塚」または「御子の塚」ど伝え呼び、近年に至るまで、地元、中元三蔵家を中心にことのほかあがめうやまい、毎年二回、皇子塚講を催して霊を慰める祭りを行ってきた。
 塚は朝夕に日当りの良いところで、およそ三メートルに一・五メートルの長方形に石積みで囲い上げ、上面に石畳を敷き、その中央には、空、風、火、水、地の文字を刻んだ宝篋印塔の建つ塚、そしてその斜後方に同様石積みで囲む小さな祠、何れもが極度に荒れはてているあたり、心なしか千数百年の古をのぞく思いに迫られる。
 この故事は五世紀半のことであり、記録(日本書紀)は八世紀、しかも皇子の陵墓の所在については滋賀県八日市市をはじめ三ヵ所と、ここ挙原の四ヵ所があげられ、その真偽を正すすべもないが、記紀研究で有名な本居宣長先生の「古事記伝第四十三巻に「近江の久田の蚊屋野はこの地(挙原)にて市辺押盤王の御陵なり」と記され、また伴信友先生は萱野考を書いて考証され「そのかみを思えば悲しひさかき
の茂る萱野の奥のおくつき」と歌い残されたという。
 しかしながら、今もって史実と定むるに至らぬ故にここにとりあげたものであり、従って古史に詳しくふれることをさけておく。

『越前若狭の伝説』
皇子塚  (挙原)
 皇子塚(おうじづか)は、御子(みこ)塚または殿の王塚ともいう。むかしこのつかの石をなぶった者が非常なたたりを受けたので、子どもといえど手を触れない。このつかの所有者である中元三蔵によれば、参拝のとき「みつむねおうじ様」と申して参拝するよしである。(知三村誌)

 雄略天皇の第一皇子イチノアシワ皇子が、近江に猟に出かけ、流れ矢に当って死んだ。よって現在の挙原へ遺体を運んで埋めた。(名田庄村の歴史)

『新わかさ探訪』(写真も)
挙原の皇子塚 若狭のふれあい第49号掲載(昭和63年1月9日発行)
山深い廃村に眠る 三ツ峰の皇子さま
 おおい町名田庄でも最も山奥に位置し、今は廃村となった集落に、履中天皇(5世紀前半、大和朝廷の天皇)の皇子市辺押磐皇子の墓と伝えられる皇子塚があります。
 名田庄中心部の久坂地区から東へ向かい、南川の支流久田川沿いの道を10㎞ほどさかのぼったところに、挙原集落跡があります。昭和20年代まで4軒の家がありましたが、次々と離村し、最後までただ一軒で10年間とどよっていた中元三蔵さんの家も、昭和48年に下流の挙野地区に移り、廃屋は雪でつぶれて、今では人が暮らした形跡もはとんどありません。
 皇子塚は、この挙原集落跡の西側、一段高い丘陵地(左右の谷を外濠とした前方後円の陵墓)にあります。林立する巨木に守られるように長方形の石積みがあり、その中央に「空風火水地」の文字を刻んだ小さな石柱が立ち、石積みの斜め後ろには祠がまつられています。
 日本書紀によると、5世紀後半、市辺押磬皇子が大泊瀬皇手(専制君主として伝えられる、のちの雄略天皇)から狩に誘われ、「久田綿の蚊屋野」で謀殺されます。その死から約30年後、押磐皇子の子顕宗天皇が父の御骨を探し出して陵をつくったとされています。
 この「久田綿の蚊屋野」は、「久田のあたりの萱が生い茂る所」というような解釈がされていますが、それが久田川の挙原で、皇子塚がその陵なのかどうか、史実として確定しているわけではありません。残念ながら皇子塚の由来は定かではなく、発掘調査も未実施です。
 一方、滋賀県東近江市にあるものが、市辺押磐皇子陵として宮内庁の指定を受けているほか、いくつかの説があり、江戸後期の国学者本居宣長や伴信友をはじめ、古くからさまざまな考証がなされてきましたが、いまだ市辺押磐皇子の墳墓を確定するには至っていないようです。
 挙原の人々は、皇手塚を大切に守り続け、毎年2回、皇子塚講を開いて石塔の前に餅を供え、「みつむね(三ッ峰)の皇子さま」と唱えてお参りしてきました。これは、近江から三国岳(三ッ峰)を越えてきた皇子を、そう呼んだのだと解釈することができます。中元家では、「ご先祖さまのように思っておまつりしてきた」といい、また昔、塚の石をいじって祟りを受けた者があると伝え、手供にも手を触れさせないようにしてきました。
 市辺押磐皇子かどうかは未確定ですが、永い年月を大切に守り継がれてきた皇子塚の主は、人家の絶えた山あいで、森の緑に包まれて、おだやかに眠り続けています。



挙原の小字一覧


『名田庄村誌』
挙原地区
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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