丹後の地名 若狭版

若狭

本郷(ほんごう)
福井県大飯郡おおい町本郷


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福井県大飯郡おおい町本郷

福井県大飯郡大飯町本郷

福井県大飯郡本郷村本郷

本郷の概要




《本郷の概要》

JR若狭本郷駅↓や、町役場などがあるおおい町の中心地。

若狭人としてのアイデンティティを失って、メルヘン世界へ逃避かと町民精神の敗北を疑われそうな姿の建物である。どこの町も似たようなことではあるが…
原発関連のゼニなのか当地も昔とはずいぶんと様変りしている。しかし原発の存続そのものだが、未来はないものなので、今後原発ゼニに頼らずどう町作りを進めていくのか、そんなことはカンタンな事よと言いたげな程度のアホげなニセ政治屋やセンセなどなどどもにはだまされることなく、頭の薄いの連中が思うほどには何も簡単なことではない、町民の頭と腕の真価がいよいよ問われることになる。
本郷は佐分利川下流域に位置し、北は青戸ノ入江に面する。地内を東西に丹後街道が通り、佐分利川左岸の堤防上を佐分利街道が通る。「和名抄」大飯郡大飯郷の本郷であったとされる。
本郷は、鎌倉期~戦国期に見える郷名。鎌倉初期に「大井本郷」、戦国期に「本郷郷」とも記される。貞応2年4月10日の関東下知状に源朝親の譲状に任せて源有康の「若狭国大井本郷地頭職」を安堵するとあるのが初見、その後、本郷氏は16代続いて本郷を領した。朝親は東国御家人で、承久の乱後に本郷地頭職に任じられたものと推定される。朝親の子孫はこれ以降当郷の地頭として戦国期末まで支配を続け、南北朝期の観応元年から本郷氏を称している。文永2年11月の若狭国惣田数帳案には国衙領のうちに本郷が見え、 116町8反290歩の田地のうち地頭給15町などの除田を引いて81町余が定田とされ、所当米は525石余と定められている。元亨年間頃の朱注に「地頭美作さ近大夫跡、同美作三郎伝領也」とあるが、美作左近大夫は源朝親を指す。南北朝期の本郷氏は一貫して幕府方・足利尊氏方として若狭や畿内などで戦い、本郷のほかに多くの所領を与えられている。本郷氏ははじめ高田城に居たが、天文年間達城に移ったと伝える。
近代の本郷村は、明治12~22年の村。市場村・上下(うえした)村・下薗(しもその)村が合併して成立した。市場村は旧丹後街道沿いの地、下薗村は日枝神社のあたり、上下村はあみーしゃん大飯のあたり。はじめ滋賀県、明治14年福井県に所属。同22年本郷村の大字となる。
近代の本郷村、これは大きな村の方で、明治22年~昭和30年の自治体名。父子・野尻・芝崎・岡田・小堀・本郷・尾内・山田・犬見の9か村が合併して成立。旧村名を継承した9大字を編成。役場を本郷に設置。昭和30年1月10日加斗村長井を編入し10大字となる。同年同月15日大飯町の一部となり、当村の10大字は同町の大字に継承された。
本郷は、明治22年~現在の大字名。はじめ本郷村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北8町余、戸数234、人口は男596 ・ 女566、学校1、小船37。


《本郷の人口・世帯数》 2139・969


《本郷の主な社寺など》

日枝神社
日枝神社(若狭本郷)
地頭本郷氏の氏神として創建された本郷の総鎮守。夏大祭の7月27、28日水無月祭(かわそさん)では神輿をかついで町内を練り歩き、海中にも乗り入れるという。当地は漁師町ではないし、水無月社という社殿も見当たらない、御輿を末社としているものなのか。
『大飯町誌』
日枝神社(旧社号・山王大権現、元村社・神紋左三つ巴)
祭神 大山咋神
所在地 本郷字東下薗(一三八の一五)
境内地その他 二、八三七・三四平方㍍、境外林地二、〇四九・四平方㍍、宅地一九七・五平方㍍、山林二、九九九・九平方㍍、溜池二、七一二・八平方㍍
氏子 本郷三三〇戸
例祭日 十月十八日
宮司 松田忠夫
主な建造物 本殿、幣殿、拝殿、末社上屋、天満社、水無月社、舞台、手水舎、社務所
特殊神事 例祭浦安舞、神事能、三者舞
由緒・系統 本郷朝親が坂本日吉大社を勧請した(一二ー五年ごろ)。『福井県神社誌』には貞応以前(一二二二)の創建とある。日吉系
〔末社〕
若狭彦姫神社
祭神 彦火火出見命、豊玉姫命
由緒・系統 文久三年(一八六三)造営 一の宮系
愛宕神社
祭神 火産霊神
由緒・系統 天和三年(一六八三)荒木孫右衛門、藤原秀正再建 愛宕系
天満神社
祭神 菅原道真
由緒・系統 宝永七年(一七一〇)山口彦平弘貞造立 北野系
山神神社
祭神 大山祇命
由緒・系統 明治三年(一八七〇)山口市左衛門神祇改造山神信仰
秋葉神社
祭神 迦具土神
由緒・系統 慈眼院活門和尚が秋葉山大権現を奉請 明和九年(一七七二)創建 秋葉系
天満神社(旧社号・松原天神)
祭神 菅原道真
元地 本郷字天神
由緒・系統 永享四年(一四三二)村松筑後守橘村雄創建 明治四十二年日枝神社境内に移転合祀

水無月神社
祭神 上筒男神、中筒男神、底筒男神
例祭日 七月二十七日、二十八日
特殊神事 みこし渡御、奉納相撲
由緒・系統 寛延四年(一七五一)神輿造営 大正六年現神輿造営 海神信仰

日枝神社
 東下薗に所在、祭神は大山咋神で、御神系は素盞嗚尊の孫に当たり、父神は大年神、母神は天知迦流美豆比売命といい、近江(滋賀県)の日枝山に鎮座して、山野を主宰した神である。
 沿革、創建はつまびらかでないが、地頭本郷氏が当地に入部した当時に、その氏神として近江の坂本(大津市)の日吉大社から、御分霊を勧請してこの地に祀ったものである。本郷氏の入部は建永元年(一二〇六)であり、「本郷の日吉社」と文献に明記されたのが文永二年(一二六五)の『若狭国惣田数帳』であるから、その中間を取って、今仮に建保三年(一二一五)を創建の年と推定しているのである。
 その後正平元年=北朝貞和二年(一三四六)、応永年中(一三九四~四二八)、寛文八年(一六六八)、享和三年(一八〇三)に社殿を造営した。現在の本殿は享和改築のものである。貞和、応永の両回は本郷氏によってなされ、寛文、享和の両回は氏子(慶長ごろから本郷三力村の氏神となった)の手によって造営されたのである。
 本郷氏が当地を退去した天正十年(一五八二)から、慶長のころまで十数年間は地元下薗村の宮座の手で維持していたらしいが、年を追って社殿の修復を要するようになり、下薗村数戸では手におえなくなった。よって三力村に呼び掛けて、その氏神として共に力を合わせて維持経営に当たることにしたのである。
 また、村松喜太夫家の記録文書によると、寛政十一年(一七九九)上下村庄屋村松喜太夫等の奔走によって、京都の神祇道管領卜部朝臣良連から正一位を授けられその神額を迎えた。その額は今も社宝として保管されている。その後追い追いに境内外を整備して現今に至っている。末社は、若狭彦姫神社、愛宕神社、山神神社、水無月神社、天満神社、秋葉神社である。
 境内は二、八三七こ二四平方㍍、境外林地は二、〇四九・四平方㍍、宅地一五七・五平方㍍、山林二、九九九・九平方㍍、溜池二、七一二・八平方㍍である。氏子は三三〇戸、例祭は十月十八日、末社水無月神社の祭礼として七月二十七、八両日神輿神幸の儀を行っている。宝物として仏像・神額若干を蔵している。


『大飯郡誌』
指定村社 日枝神社 祭神大山咋神 本郷字東下園に在り 社地九百七十八坪 氏子百三十三戸 社殿〔〕拝殿〔〕神饌所〔〕神饌庇〔〕遥拝所〔〕廊下〔〕鳥居一基 制札〔〕由緒〔明細帳〕貞和二戌年建立之由村老申傳(大正元年八月二十六日指定)
〔文永二年太田文〕神田日吉宮ノ内 本郷宮 一町四反(當時社殿も多く盛大なりし事可想)。
〔宝永四年國中高附〕 上下 山王四月初申十一月初申九月二十日能仕但し山田村の七社大明神と隔年下園 山王権現三寸御供備〔雲濱鑑〕には下園山王のみを載す
境内社 六社若狭彦神社 祭神彦火火出見命豊玉姫命 愛岩神社 同火産霊神 天満神社 同菅原道真公 由緒〔明細帳〕字天前村社天滿神社 祭神同じ 天文二十二年癸子年勧請すと古老申傳へしを明治四十一年十月十二日此地に移し同日合祀 山神々社 祭神大山津見命 社殿〔〕 秋葉神社 祭神迦具土神 社殿〔〕 右五神建物一宇 水無月社 祭神 上筒男神中筒男神底筒男神 社殿〔〕末社上屋〔〕.



臨済宗相国寺派普済山潮音院
潮音院
『大飯町誌』
普済山潮音院
宗派 臨済宗(相国寺派)
本尊 延命地蔵菩薩
所在地 本郷字館寺(八五の四)
主な建物 本堂、庫裡、位牌堂、薬師堂、観音堂、なお、現本堂は昭和二十七年(一九五二)再建
境内地その他 境内二、一三八平方㍍、山林八、一四八平方㍍
住職 鈴木元拙
檀徒数 一三四戸
創建年代 元亨二年(一三二二)、天文元年(一五三二)再興
開基 明極和尚、一説には楠公とも
開山 桂廬仙和尚
寺宝 永禄八年(一五六五)の過去帳あり)


潮音院
 本郷字館寺所在、山号は普済山、完派は臨済宗相国寺派、本尊は延命地蔵菩薩。創建や沿革については、当寺がしばしば火災にかかっているので、古い記録に欠けている。霄益(おおぞら)道和尚の記しておいた同寺沿革誌がただ一つのたよりである。
 それによると、元享二年(一三二二)後醍醐天皇の時、元の僧明極和尚が来て、本郷船岡の地に一宇を創立したのが、そもそもの始まりであるということになっている。なお、楠公の開創だとの説もあるが、師はこれは後世の付会であろうと断じている。
 その後、寺地を字在畑(通称堂屋敷)に移したが、中世に及んで久しくその仏灯を絶つに至ったようである。天文元年(一五三二)八月に桂盧仙和尚という良僧が来て、再び鐘の音を続けることとなったという。
 このとき臨済宗相国寺派となったのだから、今はこれを開山の時としている。『若州管内社寺由緒記』に、「京都相国寺七十二代桂老和尚が当村へ御下り二百三十年以前(延宝三年起算)の文安三丙寅年に開基」となっているし、また、本郷の一文書に、「永禄中開基桂老和尚示寂本郷治部少輔天正年中建立」とある。
 桂老は桂盧仙を簡略に書いたのであろう。とすると開山桂盧仙にはすべて一致している。ただ年代がまちまちである。死亡が永禄とすれば天文元年が正しそうに思われる。また、『大飯郡誌』によると、相国寺派が本郡内に入ったのは南北朝のころ内浦に行われたものを初めとし、次いで守護武田氏が帰依して高浜に長福寺を建てて、その初代信栄の菩提所としたことから、高浜城主逸見氏の信仰するところとなり、内浦、高浜、和田、本郷、大島などの沿海の地に追い追いに延びてきたのだと説いている。一応理路の通った説だと思う。
 以上の諸文献から桂盧仙再興の時を創立と見るのが穏当のように思われる。もちろん、船岡や在畑には仏寺跡と見られるものが現実に存在しているから、それを全然否定するのではないが、臨済宗として普及してくるには今少し年代がかかるべきだと思われる。
 さて、また益道師の沿革誌になるが、慶長年間(一五九六~一六一五)寺地を字館に移し(荒木新輔家文書には、「館の下薗分へ屋敷替」)、天和元年(一六八一)と寛政十一年(一七九九)と二度の火災(荒木文書には、翌年また大工小屋が類焼したとある)に遭い、誠にみじめな有様であった。天和の時は三年春中に大工吉兵衛(渡辺源右衛門の先祖)が建築し、寛政の時は十二年に平州和尚が現寺地館寺に三転して建築し、享和元年(一八〇一)に竣工した。これが無事に長く続いて昭和二十七年、現住職元泰和尚が改築し、面目を一新したのである。
 本尊延命地蔵菩薩は、元禄十五年(一七〇二)に台座と後背とを修復することとなり、同年八月十一日に京都へ移し仏師右近の手で作られ、同年閠八月五日下向、在畑の毘沙門堂にしばらく安置して、同十五日入仏式が行われたと荒木新輔家文書にしたためてある。涅槃像は寛政十一年に焼失したので、文化六年(一八〇九)二月十二日再興、筆は小浜藩家中小林衛盛と同文書にある。寺内にある弘法大師木像は、明治二十六年(一八九三)十一月三十日舜邦和尚代に高野山から受けてきたものである。
 境内仏堂、観音堂(本尊三十三所観音)は、弘化年中に北洲の創建したもので、天井に竜の絵が描いてある。風来の旅僧が描いたものといわれている。ほかに船岡地蔵堂(本尊延命地蔵、舜邦代に船岡から寺内に移したもの)、毘沙門堂(本尊毘沙門天は元堂屋敷にあったもので、元禄十一年創建天保九年(一八三八)北洲が改築した)、薬師堂(本尊薬師如来元樋の口にあったもの)、以上五堂あったが、今は観音堂と薬師堂と位牌堂だけとなった。
 薬師堂については、次のような伝説が『本郷中古伝説記』にある。「長覚寺焼き討ち後この薬師堂に居た恵遁という和尚に、本郷城主累代の霊位を託しその菩提を弔わしめ、一町四方の境内を与えられてあった。そのため一時隆盛であったが、その後火災にかかって本尊の行方も不明となっていた。元亀元年の秋大川へ流れ出たので、引き上げて又堂を建てた」ということである。また、荒木新輔家文書には「元禄十五年秋樋の口薬師建立」とある。
 船岡地蔵及び薬師堂にあったという数体の残欠像は皆一木彫成のもので、それらの堂の歴史は相当古いものであったことが推定されるのである。


『大飯郡誌』
潮音院 臨済宗相國寺派 本郷字館寺に在り 寺地六百四十坪 境外所有地一町三反六畝二十三歩 檀徒五百五人本尊地藏尊 堂宇〔〕庫裏〔〕経蔵〔〕客寮〔〕佛堂〔〕由緒〔明細帳〕元享二十壬辰八月十六日元の僧明極創立其後中絶天文元年壬辰年八月九日柱盧和尚再興兩度類焼舊記焼失不詳。
〔元禄五年改帳〕 上下村普濟山潮音院開基柱老和尚永祿年中示寂本郷治部少輔天正年中建立名寄一斗七合年貢地也。
〔境内仏堂〕(一)、観音堂あり三十三所の観世音菩薩を祀る(二)、舟丘地蔵堂あり地蔵及阿彌陀二佛を合祀(三)、毘沙門、藥堂あり名の如く二佛を祀る、又明治二十六年弘法大師の木像を高野山より讓り受け本堂に合祀す。



曹洞宗発心寺派金龍山慈眼院
慈眼院
『大飯町誌』
金龍山慈眼院
宗派 曹洞宗(発心寺末)
本尊 延命地蔵菩薩
所在地 本郷字絵郷(一四四の三)
主な建物 本堂、庫裡、観音堂、開山堂、山門、本堂は弘化二年(一八四五)竣工
境内地その他 境内二、七二七平方㍍、境外四八五平方㍍
住職 飯塚正徳
檀徒数 六五戸
創建年代 応永十九年(一四一二)
開基 玉翁慶公和尚(再建)
開山 発心一六世、聯山祖芳和尚(法地開山)
寺宝 画僧風外禅師三福対(絹本)


慈眼院
旧慈眼庵、現在地は本郷字絵郷、元地同瀬戸田坪である。山号は金竜山、宗派は曹洞宗総持寺派発心寺の末寺、本尊仏は延命地蔵菩薩である。応永十九年(一四二一)九月二日に越前の国宅良(田倉)の慈眼寺の徒弟であった玄春和尚が、初めて当地の瀬戸田坪に創建したものである。
 沿革、天文元年(一五三二)二月暴風によって堂宇破壊、翌三年十一月伏原発心寺徒弟玉翁慶公和尚(永谷刀禰家出身)再建。珍和尚の代に堂宇改築、天明六年(一七八六)八月二十九日暴風で堂宇壊滅、郡中を勧化してこれを再建。文政十年(一八二七)六月二十六日聯山祖芳和尚が伝法相続の免許を得た。これをもって法地開闢第一世としている。しかし、間もなく天保四年(一八三三)七月三日に出火して什器等ことごとく焼失した。ただし、観音堂だけはその災を免れたので、これを仮の住所とした。
 再建の議は度々議題に上ったが、一〇年後の天保十四年(一八四三)七月十七日に「易地再建郡内勧化の件」を出願して、同月二十七日官許が下り、建築に着手、弘化二年(一八四五)に完成した。曹州霊源和尚という優れた住職の代であった。現在の建物がそれである。
 なお『本郷中古伝説記』によると、「この寺は元は字高田の北方にあって、天文年中までは観音堂ばかりであったが、長覚寺焼討の際に、その本尊地蔵菩薩が谷奥に隠されてあったのに、不思議にもこの堂宇へ飛来せられたのであった。よって寺を建てて慈眼庵としたものだ」との意味のことが書いてある。
 また、慈眼院文書によると、この観音堂や寺地の一部は玉翁慶公和尚の代に刀禰家から寄進したもので、刀禰家の主人は代々その地に葬る例となり、今に及んでいるように記してある。現寺地については、渡辺源右衛門が絵郷の畑地を提供したのであり、用材等の檀徒の寄進についても詳細な文書が残っている。
 その後、長谷良音同修之両和尚の代に隣接の砂地の開墾を出願したり、地所を交換したりして、境内の拡張整備を図り、その後の代においてもそれぞれ寺勢の確立整備が行われて今日に及んでいるのである。
 境内仏堂、観音堂(馬頭観世音菩薩)は旧地のものを替え地と同時に移したものである。
 中島地蔵堂(字瀬戸坪所在)、本尊は延命地蔵菩薩である。この堂の所有者は前川庄右衛門家で、天保八年(一八三七)の本郷の大火に同家が焼失して、関係文書もなくなったので、この堂の詳細は不明である。
 口碑に残るところでは、「昔一人の旅僧が本郷の港から小浜へ渡航するとき、途中岡津崎へ差しかかった際に、海中へ飛び込んで海底から金色さん然たる一躯の金仏(子安地蔵)を拾い上げ、仏のお告げだと称して、船を本郷へ引き返させて、ここに祀ったものである。その後一旅僧がこの堂に一泊し、安置してある金仏と自分の持っていた木像とを取り換えて逃走したのである。」と言い伝えていた。
 旧堂が腐朽したので改築したところ、明治二十九年(一八九六)の洪水に流失し、本尊は幸いに付近の稲木の下にひっかかっていた。再び堂を建てて祀っていたが、数年前何者かに木像を持ち去られてしまった。破損はしていたがかなりお姿のよい仏像であったといわれている。


『大飯郡誌』
慈眼庵 曹洞宗總持寺派發心寺末 本郷字繪郷に在り 寺地三百二十七坪 境外所有地三反二畝十四歩 檀徒百九十九人 本尊地蔵尊 堂宇〔〕経蔵〔〕庫裏〔〕 由緒〔明細帳〕應永十九壬辰年九月二日創立開基玄春和尚天文壬辰年爲暴風破壊同十一月再建中興開山玉翁和尚天禄五甲午年類焼舊記弘化二年六月再建。


時宗常念山本誓院称名寺
時宗常念山本誓院称名寺
『大飯郡誌』
常念山本誓院称名寺
宗派 時宗(遊行派)
本尊 阿弥陀如来
所在地 本郷字寺の脇(一四〇の一八)
主な建物 本堂、庫裡、庚申堂、現本堂は昭和六十一年(一九八六)再建
境内地その他 境内一、〇七七平方㍍、所有地四、三三〇平方㍍
住職 (兼務)竹内明
檀徒数 二六戸
創建年代 貞和二年(一三四六)
開基 遊行七世
開山 覚阿弥
寺宝 遊行七世寺号額面


称名寺
本郷字寺の脇に所在、本尊は阿弥陀如来、宗派は時宗遊行派、山号本誓院常念山。
 沿革、養老年間(七一七~七二四)、泰澄大師の開基で、当初は真言宗(天台宗と書いたものもある)であったと伝えられている。正応二年(一二八九)に遊行二祖真教上人(一遍上人智直大和尚ともある)の教化に会って、本宗に改宗したという(『本郷中古伝説記』には、「元臨済宗で市場村の漁師がその檀那で、下薗村の寺であった」と書いてある)。
 貞和二年(一三四六)の刻印のある遊行七世直筆と称する「称名寺」の額面が現存しているから、これが本物とすれば遅くとも南北朝時代には、開創されていたことになる。また、伝えるところによると、本郷朝親が地頭になって入部したころ、堂塔伽藍と寺領二〇〇石を寄進して、当地方随一の名刹となっていたが、豊臣秀吉のときに寺領を落とされて境内五〇間四方だけを免許されたのだという(『本郷中古伝説記』には、「治部少輔帰依なされ境内一町四面御寄附なされ甚だ繁昌これあり候」とある)。
 同寺に掲げてある「常念山縁起(写)」には、
   「常念山本誓院称名寺(時宗遊行末寺)は下薗村、開基元祖遊行一遍上人知直大和尚正応二丑年、中興開山十七代東陽院覚阿和尚、本尊阿弥陀如来慈覚大師の御作なり、脇仏、勢至弥勒、乾方に末寺地蔵院本尊地蔵菩薩、阿弥陀寺本尊阿弥陀如来二ヶ寺あり、両寺とも寺跡に小なる堂あり、時の本堂なり。艮に当って天神庚申鎮守これあり(中略)。
 一、右府殿内大臣正二位の上仏前水引寄付なり。一遍上人智直等の名号これあり。七代遊行上人の閣直筆今の閣是なり。四十三世同人熊野大権現画像三幅対直筆これあり。本郷城主治部少輔木像あり、幡一流、凰鳳石の硯幅八寸長一尺御寄付なり。本郷判官法名宝誓院殿大居士永享十二年七月二十三日。同所同名法名常岳院殿大居士大永元年十二月二十五日。高浜城主逸見駿河守御内室涅槃像絵其時天正十歳壬午八月寄進なり。破却いたしこれ無く、其後檀那中にて文政五午年寄進これあり(中略)。
 遊行上人五十三世巡国半潰を申上げ御拝借願侯処金子三両仰下させられる。夫代にて本郷組、佐分利組、加斗組三年の間格夜相勤め、宝暦十二辛未歳建立なり、大工藤井藤左衛門。天明六丙午歳八月二十九日西より大風来て慈眼庵称名寺在家七軒小数多一時ふきつぶし、当住円山和尚これを前のごとく格夜富これあり、他力を以て天明八年中の歳建立なり。大工同名藤左衛門子の時なり。並に天神庚中堂建立大工同人。
 右の通三宅庄太夫方にこれあり、処々虫喰これあり、此度旦那御中にて相違これなく取記す。真物なり。時に文政八乙酉歳、庄太夫父是を書く。」
とある。なお過去帳(今は流失)に、「称名寺毆前作州大守善阿弥陀仏慶長十七巳年九月」と記してあったというが、本郷氏は美作守を称していたから、本郷氏の中の一人が慶長十七年(一六一二)まで当地に隠棲していたものであろうか。


『大飯町誌』
稱名寺 時宗 本郷字寺ノ脇に在り 寺地三百二十六坪 境外所有地四反三畝二十歩 檀徒百五十人 堂宇〔〕庚申堂〔〕 由緒〔明細帳〕正應二巳丑年開基貞和二丙戌年遊行七世上人の額を藏す。


真宗大谷派願成寺

『大飯町誌』
願成寺
宗派 真宗(大谷派)
本尊 阿弥陀如来
所在地 本郷字瀬崎(一四六の五の二)
主な建物 本堂は昭和二十五年(一九五〇)再建
住職 (兼務)杉谷隆教
檀徒数 二三戸
創建年代 昭和二年(一九二七)


日蓮宗妙見山長応寺
日蓮宗妙見山長応寺
佐分利川の河口近く、達城山の一番北の端の山の上にある。妙見宮の鳥居から登る。
『大飯町誌』
妙見山(旧常住山)長應寺
宗派 日蓮宗(身延派)
本尊 三宝尊(釈迦、多宝、日蓮)
所在地 本郷字山上(一一三の一一の一
主な建物 本堂二棟、庫裡二棟、最上堂、本堂は明治八年(一八七五)と大正七年(一九一八)
境内地その他 境内六四四平方㍍、参道三八〇平方㍍、田七三〇平方㍍、畑五四五平方㍍、墓地二四七平方㍍、宅地三五三平方㍍
住職 北尾龍瑪
檀徒数 二九戸
創建年代 安永九年(一七八〇)中興
開基 中興開基、円静院日運上人
開山 法徳院日重居士
寺宝 法華経八巻(元禄五年慈海宗順校正)


長応寺
 本郷字山上所在。山号は妙見山(元は常住山)、宗派は日蓮宗身延派、本尊は三宝尊(釈迦、多宝、日蓮大菩薩)。海抜約六〇㍍の山頂を境内として、本堂二、最上堂、庫裡の四棟が建っている。往時は本郷氏の出城であった所で眺望がよい。現寺号を継ぐことになったのは昭和七年(一九三二)二月十五日のことで、それまでは妙見山と通称していた。その由来は、明治の初めごろ村松兵助、時岡武左衛門をはじめ法華教信者の諸氏が、旧城主並びにその家臣の諸霊を祀ることを企て、明治十三年五月十五日に山頂に一宇を建立、妙見大菩薩を勧請して本尊に祀ったことに始まる。それから妙見山という名がついたのであって、昔は「小城(こぶしろ)」といっていたのである。
 その後、檀家信徒も増え寺号が必要となったので、遠敷郡西津湊の日蓮宗長源寺末長応寺(廃寺)を再興することになって、山号を常住山としていたが、昭和二十七年六月一日寺則改定に当たって妙見山と改めたものである。



本郷踊り
『大飯町誌』
本郷踊り
 県無形文化財(芸能)、昭和三七・五二五指定。
沿革 各種の文献伝承から、創始は天保・嘉永の間と推定される。「この踊は今(明治四十三年)より七十余年前初めて本郷にて工夫し作りたるものなるが……」(『本郷村誌稿本』)とあるのは、当時の生存者(初めて習ったという人)の年齢から逆算して推定したものらしい。「この振付けと音頭を立案して教授した元祖は本郷今本助右衛門と云って、丁度本年(大正二年)から一〇〇年前に逝かれた人である……」(『本郷湊』)。これも大差ないようである。
創案 本郷は、もと上下、市場、下薗の三村に分かれていた。今本は上下の百姓で芸事が好きであった。その子の菊という人が、浄瑠璃を語ったり三味線を弾いたりしていた。
 言い伝えによると、創案の当時、長年にわたって上下・市場両村間に盆踊りや虫送りにからむ競争又は紛争が絶えなかったという。争いといっても互いに踊っていて、踊りのはずんだとき一村方が急に引き揚げて興をさます合法的な手段であったり、虫送りのはやしの太鼓の撥が当たったとかいうようなことで、村役人も取り締まるわけにはいかなかったらしい。けれども年々繰り返されるのでついに代官所へ訴えることにまで発展してしまった。
 今本はこの両村の融和を図る一手段として、盆踊りの改善を考えたのであった。同士と語らって各地の踊りを見て歩き、新しい工夫による踊りを編み出したのである。そしてこれを普及するために伝授したり説き回ったり、苦心に苦心を重ねてとうとうものにしたというのである。
 長い伝統を切り替えて新しいものを普及させるということは、よほどの推進力のある人でないと、その功を収めることは難しい。青年の心理をよく知っていた今本らが考えついたのは、初めは変装踊りであったと伝えている人がある。これで庶民の好奇心をとらえることができたらしい。一度人気に投じたら、あとは風をなして興るものである。これも今本の芸能的信用と機智と努力があって、初めて成し遂げることを得たものと信ずる。
 殊に旧来の踊り(ションガイナ)が粗野でやや卑猥にわたる嫌いがあったのにかえて、本郷踊りの方は女性的で優美に工夫されていたことは、当時の風俗矯正の上に大きな力となり、殺伐・闘争的な風潮は次第に改まってきたのであった。
 また、上下と市場とに音頭と手振りの差異をわずかに残して、両村の誇りを保たせる一方、大局的には一致できるような考慮が払われていることは、創案者の人物もしのばれて敬服のほかない。
経過 創始当時に伝習を受けたという人が、明治三十年(一八九七)ごろにもうかなりの老人であった。人々の話では手先の動かし方、目のつけ方、体のこなし、足のさばきなど、現在のよりは一層繊細巧緻であったということであった。今日も大体の振りには変わりはないが、細かい動きに至っては、とうてい及びもつかないものになっているという評であった。
実施時期 毎年盆の十四、十五、十六日とんで二十三、二十四日の夜間に実施する。年によって豊年などを祝う意味で日数を増やしたり、また、人気の悪い年には日数を減じ、全然踊らない年も幾回かはあったが、以上五日間のほかに二十五日の夜をも加えることが例となっている。これは、二百十日の風害を避けるための祈願が行われる当日でもあるからである。開始の時刻は盆の念仏などの関係もあって、午後九時よりも遅くなる日が多い。
 祖霊を慰めるのが本旨であるから、盆以外にはほとんど行われない。ただし、最盛時には八朔などにも豊年踊りとして踊ったことがある。
実施者 主催者というか、世話役というか、この踊りと氏神の祭礼とだけを実施する特別な団体がある。これを従来本郷青年義団と言っている。昔の若者組の系統を引いてはいるが、青年団とは別個の組織で、現在は満三〇歳以下の青年男子である。
踊り子 踊る者は老若男女を問わず何人でも自由であるが、近来はとかく青年男女が遠去かる気味があって、従前のように弾まない…



達城
あみーしゃん大飯
「あみーしゃん大飯」の裏山で、長応寺はその一角になる。達は館のことだろう、本郷氏の拠点城であるが長くはなかった。
『大飯町誌』
一五代泰茂
度重なる武藤勢の襲撃謀略があったので高田城の危険を感じて、遠見の利く難攻不落の山砦をと、翌天文二十二年二月十日達山の山頂に本城を、小ぶしろとして妙見山の出鼻に出城を築いて移ったのである。
 「荒木家の記録」には、本郷政泰が長享年中に城を館山に移すという一説もあるので、あるいはそのころからそうした準備がなされていたのかもしれない。

 本郷氏の西の守りは、下車持の東山峰に小屋場を設けて敵の侵入をふさぎ、南は山田姥ヶ渓に山城を構えて扶泰の弟小林兵衛頭扶種を配し、本郷達ヶ峰を選んでその山頂に本城を配し、その峰続きに出城を造って南と東に備えていた。そして平素は山裾の館村に居館を設けて居住し、清水は館側と尾内側の二ヵ所を用意していた。そしてこのころは一応武田信栄の麾下に入り知行組内二七、〇〇石、このほかに京都にも知行を持っていた模様である。

この次の一六代信富の時代に本郷氏亡んだ。
『大飯町誌』
本郷の館峰城は織田信長の家臣、当時若狭国領主であった丹羽長秀に攻略され、天正十年ごろ落城、それから本郷は若狭国領主丹羽五郎左ヱ門長秀の領地となった。『本郷中古伝説記』には、「天正三年信長公より、お召しにより治部少輔上京、その後天正十年壬午春落城して、家老村松越後、荒木加賀二人して家内を預り百姓となりおり申し候。実は治部少輔妻子は信長公のところに人質となられしなり。城を落ちられしは天正十年と言う。城をこぼち申し候は天正十二年冬丹羽長秀なり。」と記されている。天正十年(一五八二)春本郷城は、無血落城して、信富の妻子は信長の人質となり、信富も信長の直属の家臣となって本郷を去ったのではなかろうか。
若狭・達城


高田城
城というか地頭の平地の館だが、日枝神社・称名寺の南側にあったという。100メートル四方くらいの微高地がその館跡で、少し以前までは残っていたというが、今は削平されていて、住宅地になっている。
『大飯町誌』(図も)高田城
高田城
当時のことを『若州本郷高田城縁起』(元和元年記)は、次のように記している。「本郷高田判官代藤原朝臣維遠は、年久しく高田城に住みしたり。此の高田と申すは、西山の前地面高くして、外堀・内堀・溝渠、北は山王大権現、西は菩提所、その峰に愛宕山大権現あり。南東は深田にて、そのまた向こう東には、深き沼地のありけるを、埋立て築き下屋敷として出城あり、これ奥方の屋敷なり。その外神社仏閣諸士の屋敷各所に建並べり、城と諸士の屋敷との間に馬場あり、西山より城の間には大川あり、東西南北すきまもなくかこひ詩歌管弦の遊びに月日を送り、判官殿より治部少輔まで治世四十二代なりしが……。」とある。
 本郷氏は、初代朝親から泰茂まで高田城にいて、同泰茂の時に達城に移った。
 本郷氏が初めて地頭として入部した当時は、長井・尾内は加斗庄のうちで、下車持・小堀・本郷三力村、岡田・芝崎・山田の八力村が本郷氏の所領であった。そこでこの地域を管理して納租を全うするには、百姓第一主義をとって、居宅を城としたので、後に高田の居館そのものを高田城と称したのである。
 高田城は、現在小字浄光寺(城高地)と称している、やや高い地所にあって、西山と城の間を流れる大川(吉田(きつた)川=佐分利川の本流)の流れを引いて外堀・内堀・溝渠で城を固め、北に山王権現(現在の日枝神社)、西に当たる長覚寺谷には、菩提所長覚寺を、その峰に愛宕山大権現を配し、出城は現在の奥島地籍で、上下(うえした)・上在家(わだけ)の辺りが下屋敷になっていたようである。現在の小字馬場縄手は馬駆け場となっていたことが容易に想像される。



きつた川と高田
佐分利川の下流域は木津であったようである。高田はタコのことであろう。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
本郷氏

本郷の主な歴史記録


『大日本地名辞書』
本郷。大飯本郷の謂なり、高浜の東一里半、佐分利川(長四里本郷川とも云ふ)の河口、西岸に居る小駅なり。
本郷氏は中世若狭の名族にして、源姓、文武の芸に秀で、隆泰、貞泰、家泰、詮泰、朝泰等各和歌集あり、作者部類にも見ゆ。尾内に城址あり、伝へ言ふ、始め山下に在るの時、本郷扶泰之に拠る、永正七年四月、恵林院義種公、大内左京大夫義興の執奏に依り、扶泰をして此の処を安堵せしむ、是れ本領たるに依てなり、其後治部少輔泰栄城を山上に移して、而して達(タテ)の城と名づく、天正年中に至つて亡滅す、土人御館と称す、云々。


『大飯町誌』(≒『郷土誌大飯』)
本郷(下薗村・市場村・上下村)
本郷の集落
 本郷という大字は、佐分利川下流の沖積地に郡内一の広い平野を抱えた地域で当町の中心をなすものである。一単位集落としては大きすぎるので、現在は二〇の小区に区分してまとまりをつけている。
 この本郷の集落は、大昔字若宮と称する地籍にあって、「若宮千軒」と誇称されていたと伝えている。今野尻地籍になっている滝水(たきび)にも同じような集落があって、これは「滝水千軒」といっていた。古文献にいう大飯郷(於保伊太)はこの両千軒に当たるように思われる。これについては第二編第一章第四節に述べたので、ここでは伝説の内容だけを記しておく。
若宮千軒
 本郷の村松喜太夫家の古記録『本郷中古伝説記』によると、若宮の畑の中に三つの辻がある。ここが昔若宮千軒といった時代、市の立った所で市小路といっていたという。そのころの町名が、若宮町、若宮小路、南町、浮橋前、北小路、中小路、観音町、鳥居町、地蔵小路、川原町の一一町で、橋は若宮橋、観音橋、滝水橋、黒田橋、溝作橋、浮橋の六つであった。
 もちろん千軒という名にこだわって、大袈裟に言い伝えられたのではあるまいかという疑いもあるが、現在の地名、橋と符合する点も多く、貝原益軒の『西北紀行』(元禄二年=一六八九)に、「本郷村は広き谷間なり、四方半里もありぬべし。若狭国に斯様の平地は稀なり。凡そ此国は横狭し、古は此辺若狭の府なりという。此南に若宮という所あり、昔は民家千軒有りし所なり。今の本郷は若宮より此所に移る……」とあることなどと考え合わすとき、既に早くこの伝説があったことは事実で、近ごろ言い広げたものでないことは信ぜられるのである。
 若宮千軒は、その後永正年中(一五〇四~二一)から天正年間(一五七三~九二)にかけて、山津波で家や耕地が埋められたか(今から八、九十年前この地にかんがい用の井戸を掘ったところ、地下十数尺のところから土器が出土したという)、あるいは戦乱のためにか、またその他の理由によるのか、ともかく漸次その居を移して、現在の各集落(下車持、小堀、山田、芝崎、岡田、本郷)等に分かれていったものと想像される(大正のころにはまだ若宮に小堀分、犬見分、尾内分という田地があったという)。
溝作森(みそさこ)
 明治のころにはまだ若宮付近に溝作の森、また源太夫森というのがあった。この森で不浄の行いをすると必ず地主にたたると言われていた。
 これはいずれ若宮に関係のある遺跡の一つだろうと思われる。伴信友の著書『神社私考』大飯神社の項に、「又この社の傍に、御正作(おしょうさく)の森といふ古木の立る森あり正作とはいかなる由の言にか、作田(たつくる)ことを俚言に、ただに作(さく)ともいへば、もしくは作田の事に霊験のありし古事に依れる由を、さとび言もて名づけたるにはあらざるか」と見え、また、一説にみそさこはみささきのなまりで高貴な人の古墳であっただろうとの説をも伝えている。昭和六十一年(一九八六)十二月氏子の有志等によってここに「御正作の森」記念碑が建てられ、参道を挟んで石木を左右対称に配した不思議な森であるといい、また、芝山や岡を開墾した神の霊験を高くたたえている。
 こうして、本郷の地域には元来の家居のほかに、ぼつぼつと家が増してきて、おのずからに三つの集落が形成されたのである。もちろん若宮分散以前にも既に相当の家並みがまとまりつつあったのであろう。
 本郷という名は、さきにも述べたとおり、大飯郡分置当時までさかのぼって考えられるので、早くからその基底は築かれていたのである。それに本郷氏の城下という条件が加わり、浜辺を持つ関係から市場的な発展も生じつつあったものと考えられる。「本郷」という総名は、地頭本郷氏の本領地の名であり、また、一面にはその城下、上下、市場、下薗三力村の大名であったのである。本郷氏の垣内の村が上下、市場、下薗ということにもなる。
下薗村
 下薗村は字名を東下薗、西下薗といっている地域を中心として居住していたものである。その始まりは知る由もないが、『大飯郡誌』には、「下薗は下薗部の略で、上古は高浜町の薗部などと同じく木材貢進の部民の居た処であっただろう」と説明してある。
 名称から考えると、いかにもそれらしく思われる。中世末ごろに一度分散したようであり、江戸時代にも次第に分散して今は旧来の家はわずかに二戸となり、その痕跡をとどめているだけである。
 古文書も古いものが残っていないので詳細は分からないが、日枝神社の棟札写の中に寛文七年(一六六七)のものがあって、当時の下薗村の宮座衆の名列が明らかになっている。「時岡孔子屋光忠、宮坐衆神主与左衛門、作左衛門、太郎兵衛、孔子屋、三郎兵衛、五郎兵衛、甚左衛門、五郎太夫、弥五郎、久五郎、弥兵衛、十二人」とある。三〇〇年前のこととて現状とは大層な相違となっている。
 『本郷中古伝説記』(元和元年記)によると、「……下薗と申し山王の傍に村あり、次第に絶えたり、其後天正年中尾内村より兄弟三人参り田地も持ち来りて百姓いたし段々隠居して下薗村という」とある。寛文より五〇年以前にこう記録しているからには、寛文の一二軒は再興後の家数である。
 また、古老の言に、「下薗村の人家は、その地内にある称名寺の檀家でなければならぬのに、一戸もその檀家になっていない。これは一旦絶えたのを再興した関係によるものであろう」という。ただし、この寺も本郷氏亡命後は、有力な後援者を失って寺勢が衰え、ついに無住となったことがあるというから、その時に檀家が宗旨替えをしたとも見られる。
 ともかく、この村はしばしば分散したことは事実らしい。衰微の理由は、水害のためであろうか、年貢が納められなくなったためか、本郷氏の庇護がなくなったためであろうか、交通路の変遷によつて便利な市場村や上下村へ移転したのであろうか。そのいずれとも決することはできない。
 その宅地跡は今下薗畑と呼ばれている一帯の地域であることは、その所有関係や井戸跡と思われる所の盛土がところどころに残っていたことによって証されるのである。なお、犬見集落の中には下薗村から移り住んだといわれる家もあり、旧石高帳にも犬見の持高が下薗村の下に犬見分として書き込まれ、現在もなお下薗地籍に犬見の人々の所有地が残っているなど、両村の密接な関係を裏付けるのである。
市場村
 市場村は今字名を東市場、西市場と称している辺りを中心として発展した集落である。小名に、みなと、みやすじとある古記録(巡検使へ差し出す文書)があり、白浜、絵郷、副ヶ裏などの小字名もあって、一つは海岸方面へ延び、一つは東の方へ延びて宮の前の方へ岐路を作って発達していった経路がよく分かるのである。
 明治時代になって、うらちょ(浦町)という俗称は本通りより浦の方へ延びた町内の呼び名であった。街路も旧国道筋は藩政時代三〇〇年間大きな変化はなかったものと思われ、巡検使の記録などを見てもそれがうかがわれる。この道路を挟んで立ち並び市場村の町家が形成されたのは藩政初期あるいはそれよりずっと以前かもしれない。つまり海陸交通の要地という立地条件がこの集落を培ったのである。
 六、七百年の歳月を生き続けたと思われる刀禰邸内の大ケヤキ(今は無い)は市場を象徴する大きな存在であった。けや木庄という伝説が残るくらいにケヤキの林が茂っていたというから、このあたりは数百年前既に海でなく、絵郷、副ヶ裏の辺りは渚ではなかったか。
 『本郷中古伝説記』や「万覚帳」(荒木新輔家文書)には、「市場には天正年中迄猟師是あり、舟元は刀禰、網元は右馬。則ち猟師の弁才天刀禰地内にあり、又市祝いのえびす今に市場の町中にあり小宮なり」と記している。弁才天祠、蛭子の神祠は今なお前述の地にある。市場は漁獲物や農産物又は他国から回って来る行商人なども加わって蛭子の縁日に市を開いた所であることは間違いないであろう。市場という名もそれに起因するものと考える。
 藩政時代になってからであるが、茶屋・宿屋の株が市場に五、六軒あったことが、その関係文書で明らかである。
 とにかく市場は、本郷の商機の動く所、物資流通の拠点として漸次発達の歩を進めてきたのである。だから一四〇年間に三回も壊滅的な大火に遭遇したのに、直ちに復興してその度ごとに町の面目を新たにし、土蔵造りの家や町屋風の店などが立ち並ぶようになった。
上下村
要害の地
 上下村は字名を本上下といっている所及びその以南の地に位置していたように思われる。小名は、館(たち)、上在家(わだけ)、中の町、殿巻と報告(巡検使記録、『雲浜鑑』)されている。上在家、在畑、中倉から追い追いに、樋の口、道の辺方面へ延び、館方面は城の移転に伴ってできたものであろう。
 『雲浜鑑』には文化四年の現状を館、上在家、中の町、殿巻として、家数すべて七十四戸人数四〇二人と書いてある。中の町、殿巻は字名ではなく通称であろう。殿巻という地区は『本郷中古伝説記』によると、元は沼地であったのを築き上げて、ここを本郷氏の奥方の居住(出城)とした所である。
 西北両面は深田であり、南東二面には小川が流れている。一小部だけは市場村に接し小溝で境している。狭い地域であるが、なるほど要害のよい所である。本郷氏退去後、その家老にあたる荒木、村松両家の居所となったのもうなずけるのである。
高田城
 『本郷中古伝説記』中に「高田城縁起」という部がある。それによると、高田城は今字名を浄光寺(城高地とも書く)という地点にあって、家臣の居所は離れて今の中の町、上在家方面にあったように受け取られる。荒木新輔家(家老)の元屋敷は在畑の通称「だいじょこ」という森の隣であった。
 現地に移されたのは天明の大風で半壊されたためである。同じ家老の村松喜太夫家の今の邸宅は市場地籍に接する所である。これもいつかの時代に屋敷替えをしたのではなかろうか。ともかく、上下村には本郷氏の家臣の主要な部分が居住して、平素は農耕に従い、事あるときに狩り集められて軍役についたものであろう。市場村が商業的地区として発達してきたのに比べ、この上下村は純農地区として旧態をしのぼせるものがある。


本郷の伝説、民俗など


『郷土誌大飯』
お日さん迎え
 彼岸の中日には「お日さん迎え」という行事をするのがこの地方の一般的な風であった。弁当を持って早朝家を出て、東方に当るお宮や寺堂に参詣してお日の出を迎え、それから太陽の進むまにまに順次西方へ移って行き、一日中太陽を追って境内や山頂、川原や海浜で過し、お日さんに背を見せずにそのお伴をして、之を迎え之を送って日と共に一日を過すという伝来のピクニックで、春の企まざる体育デーであった。
 この日本郷の渡辺源右エ門家では、その先祖からの伝統の施行として、船丘の経塚で供養を行い、赤飯の握り飯を、お日さん迎えの人々に渡して来たのであった。当時このお日さん迎えは仲々の盛況で大きな赤塗の櫃を幾つも幾つも要したのであった。これは恐らくここに宝篋印塔の建てられた、天保五年から続いていた行事であったのであろう。

卯月八日の天とう花
 元四月八日に行った釈尊降誕の日を、今は月おくれの五月八日に行っている。当地方では今もなおこの日を中心に「天とう花」を立てる風が残っている。「数日前に」山から藤、うつぎ、つつじ、松、ススキ、ひさかき(ヘンダラ)、卯の花の七色の花(必ずしも之に限らぬ)を採ってきて花束を作り、長い竹竿の先につけて家の前などに立てておく。佐分利方面では花束を二段につけて一つはお釈迦さまへ、一つは摩耶夫人へ捧げるのだといっている。こうすると今は全く仏教上の信仰行事であるが、本来の天とう花はわが民族の古い伝統で、この春の日のすがすがしい花に神霊祖霊をお迎えすることから始るといわれている。あたかもその時節が釈尊誕生の日と同じくなったため、今は花祭りの行事と合体融合してしまったものである。
 苗代作りが一段落し、植付けには少し早いという、百姓の一ぷく時であったため、松尾寺を中心として、処々の観音詣りや寺堂まいりが賑わい、汽船時代には汽船が満載、鉄道時代には臨時増結、増発という風景が見られたものである。
 今日では植付の最中になっているし、以前のような賑わいはない。けれども新仏などのある家では繰合してでも松尾詣りをして供養をして貰う風はなお根強いものがある。松尾寺では篭り堂で前夜からお通夜をつとめる善男善女があり、僧はソトバの戒名を読上げて読経をつづけ、六人の門前の百姓が古くから伝わる「仏の舞」を行なって万霊を慰める。ここに集る群衆の中には必ず死者に似た一人があるといって、真剣に人々の顔をながめるという風もある。

『越前若狭の伝説』
滝見観音  (本郷)
 滝水(たきみ)谷に納公女(なごめ)大権現と称する堂がある。大智天皇のみ世滝水(たきみ)姫という方がこの谷に住んでいて、なくなられたので、氏神として祭ったという。
 堂の前に鏡岩という巨岩があり、むかしはその上に滝見観音が祭ってあった。天正十八年(一五八五)滝水坂の道わきに移したところ、牛馬がひんぱんに通行して、ちりやくそでけがされるのをいとい、翌十九年どこかへ姿を隠した。それと同時に今まで澄んでいた鏡岩がくもって、姿が写らなくなった。(本郷湊)

 観音の参道が悪いので、道をつけかえた。すると空を飛んで、行くえ知れずになった。(若狭の伝説)

鷹繩手(たかのて)(本郷)
 慶長六年(一六〇一)京極高次が本郷の山王宮のほとりにてたか狩りを催した。ところがどうしたことか、放したたかが帰って来ない。高次はたかを惜み、神職の荒木氏にそのことを伝えた。
 高木氏はただちにお宮のとびらを開き、神楽を奏した。するとたかが帰って来たので、高次は喜んだ。帰城の後荒木氏を呼び、「なんじに男子あるか。」と問うた。「女子のみ。」と答えると、残念がり、鈴一個と鳥目三貫文を与えた。これは宝物として代々伝えている。
 一説によれば、荒木氏は今の鷹繩手(たかのて)に出て三日三晩祈念をこめたところ、満願の朝手に持っていた鈴にたかがとまった。よって鷹縄手と命名した。 (本郷湊)

慈眼庵 (本郷)
 当寺はもと慈眼堂といい、本郷区の西端にあった。天文年中までは観音堂だけであったが、長覚寺廃滅のとき、同寺の一本尊たる地蔵菩薩を谷の奥に隠しておいたが、不思議にも堂内へ飛んで来たので、寺院を建て、慈眼庵(じげんあん)と称した。(本郷湊)

経塚 (本郷)
 本郷区あざ長覚寺にある。天保五年(一八三四)渡辺源右衛門の建てた塚で、一個の石に一字ずつ法華経の文字を書いて埋めた。毎年春秋の彼岸中日に法会を執行し、通行人にあずき飯と副食物を施与した。(本郷湊)

 お経塚は本郷区の西端、国道にある。むかしこの区の富豪渡辺源右衛門の祖先が、どういうわけか多くの経書をここに埋めて塚としたものであるという。その後毎年旧盆の十五日の夜半になると、この塚から数多くの僧侶の読経の声がありありと聞えるので、渡辺家では年に一回必ず供養を行なうことになっている。(福井県の伝説)

千年松 (本郷)
 称名寺境内にある。遊行上人手植えの松である。中古枯死したので、枝ぶりの似た松を移し植えた。(本郷湊)

猿橋吉春 (本郷)
 天文十九年(一五五〇)三月十日佐分利石山城主武藤上野介が兵を率いて本郷に攻め寄せてきた。このとき松宮佐右衛門吉春は、猿橋(さるはし)というところの田で働いていた。さすがは武士で、田で野ら仕事をするにもやりをたずさえていた。武藤の軍勢が本郷をさしてきてのを見て、くわを捨てやりを持って、武藤の軍勢を待ちかまえた。
 上野介は、吉春を見つけて、何者かと尋ねた。「本郷治部少輔の家来松宮佐右衛門吉春。」と名のると、上野介は、「血祭りにしてくれる。討ちとれ。」と家来に命じた。上野介の兵は、吉春をとり囲んで、打ちかかったが、吉春はものともせず、ひとりで戦った。
 このことを吉春の同僚斎藤六助が、本郷治部少輔の城へ知らせたので、家老の荒木加賀守が七十騎の兵をつれて救援にかけつけた。吉春は救援に力をまし、なお勇ましく戦ったので、武藤の軍勢は敗退して石山城へ引きあげた。本郷治部少輔は、吉春の戦いぶりをほめ、猿橋吉春と名のるように命じた。 (若狭の伝説)

 この吉春が現在本郷で猿橋姓を名のっている人の先祖であるという。 (山口久三)



本郷の小字一覧


本郷  井根口 竹ノ腰 奥瓜生谷 東波瀬込 上若宮 下宮鼻 鍛治鼻 中若宮 杭座木 高柳 下若宮 阪松 大黒田 下黒田 上夏疲 中夏疲 溝作 下溝尻 上仲溝 西猿橋 東猿橋 犬間出口 野崎 犬間下辺 奥犬間 奥鍬 奥日尻 日尻谷 無作 前無坂 水窪田 水淘 摺ケ下 向猿橋 下向森 上階廻 下階廻 道行渕 下中溝 先智河原 窪瀬 米屋田 訛ケ渕 東具原 上雁戸 下雁戸 具原 上飯塚 下今 若今 鉢ケ坪 大籏 茶生谷 柿木谷 上石仏 奥ノ田 長田 堂田 東道部 鋳路鼻 鋳地谷 茶谷 寺南 寺奥 舘寺 城下 舘山 舘下里 鯊橋誥 舘上里 寺ノ下 桑木渕 道部 辻縄手 下長田 林ノ上 桜坪 東杉縄手 下鉢ケ坪 小豆谷 稗田鼻 留田 東留田 奥上在家 樋ノロ 薬師 欠戸 中倉 上山ノ神 山ノ神下 下里ケ前 東里ケ前 下湊 上湊 西里ケ前 古川 下中倉 本上下 在畑 中上在家 馬場縄手 奥島 堀ノ内 浄光寺 寺縄手 長覚寺 長覚寺谷 出小島 下小島 西下薗 宮の後口 東下薗 今茶屋 寺ノ脇 瀬戸田坪 東市場 白浜 絵郷 西市場 副ケ裏 西橋 西瀬崎 東瀬崎 西ケ崎 下中川 中川 上中川 南高縄手 北高縄手 天神 鴨居鼻 北階無田 南階無田 船岡 宮本谷 大津路

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    市町村別
 
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京都府与謝郡与謝野町
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京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市







【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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