丹後の地名 若狭版

若狭

口坂本(くちさかもと)
福井県大飯郡おおい町名田庄口坂本


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福井県大飯郡おおい町名田庄口坂本

福井県遠敷郡名田庄村口坂本

福井県遠敷郡奥名田村口坂本






口坂本の概要




《口坂本の概要》
国道162号(周山街道)と、県道16号(坂本高浜線・高浜街道・鯖街道)の合流点にある集落で京都ヘ通じる交通の要所。東から朝比、黒瀬、森町、坂尻、横折、小谷の集落に分かれる。
口坂本村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。文政9年山の入会権をめぐる訴訟で、坂本村が口坂本村・奥坂本村に分かれて成立した。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年奥名田村の大字となる。
口坂本は、明治22年~現在の大字名。はじめ奥名田村、昭和30年からは名田庄村の大字、平成18年からはおおい町の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北40間、戸数43、人口は男113・女123。奥名田村で上村と呼ばれた納田終と下流の下村との中間地にあたる。


《口坂本の人口・世帯数》 144・57


《口坂本の主な社寺など》

末多徒神社
末多徒は地名でなかろうか。又所の意味で川か道が二又になっている所の意味であろうか。合流点で市場の地に祀られた社であろうか。

『名田庄村誌』
末多徒(またと)神社
所在地 口坂本字森ノ鼻
創 建 康正二年(一四五六)
祭 神 不詳
 若狭郡県志によれば、祭日は正月十八日・九月十八日の二回、祭神不明、神階記には、遠敷郡正五位坂本明神とみえるとしている。

『遠敷郡誌』
末多徒神社 村社にして同村口坂本字森鼻にあり、舊時末多徒坂本明神社末多戸坂本神社又は末多明神とも稱せり、本國神階記には正五位坂本明神あり、康正二年建立と傳ふ祭神不詳なり。.


曹洞宗常英寺

『名田庄村誌』
常英寺
宗 派 曹洞宗
所在地 口坂本第六十号二番の二
 元禄二年(一六九〇)現小浜市東相生興禅寺三世門鉄の建立と伝える。
 最初口坂本字黒瀬の地に、文禄元年(一五九二)真言宗の寺院として、建立され永蔵主が居る。延宝四年(一六七六)興禅寺五世白巌龍積が曹洞宗に改宗、後昭和八年に四世源海和尚が黒瀬の地より、現在の小谷の地に移し、本堂を改築した。昭和三十五年十二月、五世道海和尚が木皮葺の本堂を銅板葺に改め、内外共に整備した。


『遠敷郡誌』
常英寺 右同寺(興禪寺)末にして本尊は観世音なり、同村口坂本字黒瀬に在り、文禄元年真言宗永蔵主の居る所延寶四年興禪寺第五世龍積今の寺に改む。


馬頭観音堂

国道162号添い、「朝比」バス停の近く。右が馬頭観音堂、左にもホコラがあるが、何かわからない(天満宮らしい)。朝比はもと浅井で、鎌倉期の朝夷三郎義秀の霊を祀ったといわれる堂で、応永2年銘の鰐口が残る。過去に馬頭観音を本尊とする密教系の寺院があり、その遺仏ないかと一応推測するが、記録はない。
『名田庄村誌』
馬頭観音堂(口坂本)
本尊は馬頭観音菩薩坐像で像高二十センチの小像。鎌倉期から室町期の作らしいが、後世金箔を施している。嘉永七年(一八五四)再建の棟札がある現在の堂は、さらにのちに建てかえられたらしい。本村で、馬頭観音を祀っているのは、この堂だけである。当堂にある鰐口の銘によれば、応永七年とあるがこの鰐口は横の天満宮のものらしい。天満宮は、創立年月日は不明であるが、棟札により貞亨二年(一六八六)再建されたことがわかる。



坂本城
常英寺があるあたりだろうが、山ばかりなのでどこか不明だが、権現山に坂本城址があり、武田義統の配下渋谷遠江守が築城したものという。
「若狭守護代記」に天文-永禄年中(一五三二-七〇)、渋谷遠江が当地に築城したことが記され、「若狭郡県志」に「下中郡坂本村小谷之山上有城趾、伝称渋谷氏之所築也、未実否」。渋谷氏については詳細不明。


《交通》


《産業》
水晶を産したという(若狭郡県志)。

《姓氏・人物》


口坂本の主な歴史記録


『名田庄村誌』
坂本
 口坂本は石山峠への入り口で、渋谷遠江守が居城したという山城址もある。
 朝比奈三郎の霊を祀ったといわれる観音堂のある現在の朝比部落までを口坂本と称し、古沼の大蛇射殺の伝説がある蛇頭地籍より、白滝・ゴロ池の伝説を秘める大滝・切明までの地域を奥坂本とする。この二小区をあわせ、坂本区とする。これは江戸中期頃からであるといわれる。
 かつて武田氏四家老の一人土屋氏が西谷城に居住し名田庄一帯を支配していた頃、家臣渋谷氏が小谷に築城し、この地を管掌したとも伝えられている。納田終と異なり行政的には小浜方面とのつながりが強い。生活面においても高浜方面との関係が深い。物資交流は全くこの方面に限られていたらしい。県道高浜道は今も坦々として往時を偲ばせている。
このように政経複雑な中で、人々は主としで四囲の山林に生活源を求めた。一帯の山林は肥沃な土地で樹木の成育に適し、古来木炭の生産額は極めて多い。かつ今日まで地元民の共有私有山林が多い。
 明治九年、郵便制度の普及とともに、この地にも郵便局が設けられた。高浜より棚坂(現在の堀越峠)を越え、周山-京都を結ぶ逓送と、本村全域の郵便集配を管掌し、通信文化の普及発展に大きく貢献してきた。
 坂本橋を挾んで農協支所・口坂木駅・小学校・保育所および郵便局を集め文字どおりこの地点は当区の中心地である。
 大正三年の戸数八十六戸、人口四百五十七人、昭和四十三年の戸数八十八戸、人口三百六十六人であった。区内に次の地籍を有する。


『名田庄村誌』
坂本城跡
坂本城跡については、古くは若狭国守護代記に、天文年中より永禄年中までの「若州所々山城」のうち、坂本に渋谷遠江が築城していた旨みえる。奥名田村誌稿には「坂本小谷、権現山の山頂に城跡あり。これは若狭国守護武田大膳大大義統より配任された渋谷遠江守金王丸が築いた城跡である」と記している。若狭郡県志には、「下中郡坂本村小谷之山上有二城址一、伝称二渋谷氏之所一レ築也、未レ詳二実否一」とみえる。
 知三村誌によると、西谷城跡のところで記したように。渋谷氏は武田信栄の治国下で、土屋六郎左衛門の家臣とされる。武田義絖の頃とするのとは約百年の開きがある。いずれが正しいか、研究を要する。
 渋谷氏のことについては、西谷城跡の項でふれたので省略したいが、同氏についてその後どうなったかは不詳である。坂本の古老の語る伝承によれば、京都の兵乱が収まっだので、京都へ帰ったとされる。
 小谷権現山の山麓、細川頼三郎氏宅近くに渋谷金王丸の小碑がある。五輪様のもので、梵字が刻まれているが風化して読みとれない。細川頼三郎氏の語られるところによると、これが金王丸の墓であり、その墓守の武士が長く住みついていた。その遺品に烏帽子その他のものがあったが、たたりがあるといって、その谷奥の地に埋め、その上に山の神を祀っていた。それが昭和二十八年の十三号台風の増水で流されてしまったとのことである。
 現在もこの墓のおまつりは続けられている。現在の細川頼三郎氏宅はもとは渋谷治左衛門(現渋谷軍太郎)氏の宅であったとのことである。渋谷金王丸と同姓であり、金王丸に関係ある家かと考えたが全く無関係のようである。後代に因んでつけられた姓かも知れない。山城跡には現在石が少し残されその跡を留めている。ともあれ城というよりは見張所・砦であったというほりが適当のように考えられる。城もしくは屋敷そのものは、現在の細川頼三郎氏宅の辺に構えられていたのではないかと推察される。

口坂本の伝説


朝夷三郎義秀
 美好氏の奥名田村誌稿には、「口碑に曰く、源平の大乱に際し、落武者朝比奈三郎某将軍、京師より高浜街道を棚野坂に辿り逃れ来て、口坂本段の山より小浜街道に追跡され、血坂(知井坂)峠に登り、愛馬に友呼ぶ嘶きをせしめたるところ、朝比奈の愛馬は、我味方の馬なりと相信し、直ちに答え嘶きをしたる由、此時朝比奈は最早之にて武運は決せりと決意し背後、一つ谷に下り、其の拠城の中央にある瀑布の深渕に、鎗を手にして乗馬のまゝ乗入れ自殺を遂げたりと云う。因に記す、段の山城址にはその愛馬が食したる笹の葉先きは今尚喰いちぎりたる形を存し、一つ谷の瀑布の真下にある大深渕を鎗の渕と言ふ。正月三日には鎗の光りが見えると今も尚口碑せり。段の山の麓より約五丁下手向ひに朝比と袮せる部落あり。その部落の路傍小山の裾に堂宇を建て、馬頭観音を祠り、その傍に大磐石をもって覆ふ塚あり。馬頭観背は朝比奈将軍の愛馬の霊を祭りしものにして、大磐石にて覆ひたるものは、朝比余将軍の所蔵品を納めたる塚なりと伝えたり」とみえる。朝比奈将軍が京師より逃れきたり段の山に居を構えていたが、京師よりの追手に追われ知井坂に逃げてきたといわれる。高浜街道はその昔京都街道とも通称され、京都から坂本棚野坂を越し、奥坂本を経て高浜に至る街道である。
 朝比奈三郎の伝説は今なお語り伝えられ周知のところである。段の山の城址は、現在の坂本小学校下、向いの山で、通称小林山の台地で段になっているので段の山と呼ばれ、現在は杉の植林がなされている。朝比奈の滝は現在土砂で埋められ、また砂防工事により、滝と称することができない有様となっている。筆者少年時代にはなお深渕があり、夏季水浴をしたことの記憶が残っている。
 小山地籍は岩方といい、昔はこの小山の周囲は川が流れ大きな渕となっていたといわれる。兜の渕と称せられていたとその部落の古老は語っている。朝比奈三郎の死後、その後を慕って朝比奈三郎の妻がこの渕へ入水自殺したともいい伝えられている。朝比奈三郎の遺品が納められているという塚は、大正十二年頃道路(国道162号線)の改修工事が施行された際、拡幅のため、小山を切りたったところ、その岩板の一部に穴があり大磐石で覆われていた。その穴の中から約二尺五寸位いの錆び朽ちた刀様のものが出てきた。当時は埋蔵文化財について関心が持たれなかった頃であったので打ち砕いてしまった。その当時の道路改修に当られた糀谷重一氏はこう語っている。恐らく古墳であったと思われる。古墳でないとすれば、朝比余か誰かの遺品を収めたのであろう。
 現在観音堂につるされている鰐口(金鼓)は応永二年(一三九五)吾すなわち室町時代の初期に造られたものである。貴重な文化財である。
 ところで、朝夷三郎というのはいかなる人物であろうか。その人物像について、大日本史には、義秀は、和田義盛の三男、安房国(千菓県朝夷郡)に成長した。故に朝夷三郎といった。勇武多力無双と称せられた。将軍頼家(鎌倉二代将軍)かつて小坪浜に遊んだ時、義秀
よく泳ぐを聞き召して其技を見ようとした。義秀游泳数回、忽ち没して見えなかった。暫くして巨大な三鰐を挾んで出た。見る者その猛勇におどろいた。建保元年(一二一三)父義盛、北条氏の積悪を憤り、兵を挙げて幕府に迫った際、義秀直ちに進み、門より南庭に入り力戦最も激しく向ふ所敵がなかった。既にして義盛以下兄弟宗族敗死した。義秀五百の残兵を将て安房に走る。その終わる所を知らずとしている。
 この朝夷三郎の伝説と史実を考えあわす時、鎌倉で敗北した朝夷三郎が、この地まで逃げのびてきたとは常識では考えられないが、その終わる所を知らずといわれるので京都を頼り(安房に敗走と見せかけて)、さらにこの地へ敗走してきたとしても不自然ではない。安房に敗走した義秀を北条氏が追わないわけはない。追ってもその姿が見出されなかったのではなかろうか。故にその終わる所不明とされているものと思う。
 ともあれ、彼本人か、また朝比奈将軍と称する何者か、朝夷三郎のにせ者か、または全くの別人か、時代を異にした源・平氏系の落武者か、いずれにしでも何者かが一つ谷の滝で相果てたことはつくり話ではないのではなかろうか。ちなみに朝夷三郎の毋は、有名な巴御前である。巴御前は、中原兼遠の女であって、勇烈をもって知られている。木曽義仲の妻となって寵愛をうけ、義仲に従って戦場でも離れず戦功があった。義仲の死後和田義盛(鎌倉幕府侍所初代長官)の妻となった。



口坂本の小字一覧


『名田庄村誌』
口坂本地域
 横道 山ノ神、日尻 五輪鼻 細通り 林下 小谷 上山奥 上山 中島 大木 新山 中新山 堂ノ下 算無 笹折 横折 奥ノ谷 上ノ谷 勘定 上畑 馬ケ瀬 上大面 大面 坂尻 段 尻森鼻 番当田 赤岩 門口 三平 上黒瀬 黒瀬 黒瀬奥 黒瀬前 寺の下 天神 風呂谷 石切 砂子 奥畑 口畑 朝井 岩形 倉谷 下河原  大東 向大東 中東 岩袮 向束 奥畠 小林 茶木 寺ノ上 三平 小谷奥 東山 向尻 新ノ山 尻 段 横折 上畠

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』各巻
その他たくさん



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