丹後の地名 若狭版

若狭

虫谷(むしだに)
福井県大飯郡おおい町虫鹿野虫谷


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福井県大飯郡おおい町名田庄虫鹿野虫谷

福井県遠敷郡名田庄村虫谷

福井県遠敷郡知三村虫谷



虫谷の概要




《虫谷の概要》
「むしだん」ともいう。虫鹿野を母村とする久多河内と呼ばれる山間地の小村の1つ。久田川の支流無虫谷川中流の山村。耕地はほとんどなく、古くは木地師の集落。人口の流出が著しく今は1軒のみ。虫鹿野から入るのだが、見れば狭い道なので行くのはやめた。
虫谷は、鎌倉期から見える地名で、若狭国税所の国代官で正安3年9月26日に没したとされる帆足成願の書状に、遠敷郡玉置荘から召しだした葛川強盗人与党を白状させたところ、仲間の橘内男は名田荘「虫谷」に身を潜めていることがわかり守護使による探索を行ったがすでに逃亡していたとある。戦国期に入って天文15年9月、名田荘三重にある熊野神社上葺の際の棟札に「むし谷ノ五郎ノムスめ」と見える。
「雲浜鑑」によれば,家数11 ・ 人数56、寺は曹洞宗慶蔵庵、神社は高月明神が記されている。高月明神(のち高槻神社)は摂津国高槻城主であった大田祐安が虫谷に逃れ来て当地に屋敷を構えたことと関係があるといわれる。慶蔵庵は明治5年頃廃庵。住民は江戸期には藩の御用杣職も勤めていたという。
虫谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ南名田村、明治24年知三村、昭和30年名田庄村、平成18年からはおおい町の大字。もとは虫鹿野村の一部。「虫鹿野の内虫谷」ともいう。明治以後炭焼きを生業とした。高槻神社は明治43年火災により焼失、虫鹿野の皇王神社に合祀された。


《虫谷の人口・世帯数》 1・1


《虫谷の主な社寺など》



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


虫谷の主な歴史記録


『名田庄村誌』
虫谷
 久坂より約六キロ、久田川の支流の虫谷川の中流域にある。山に挾まれ耕地が少ない小地区。昔の太田祐安の屋敷跡であるという田地がある。現存する出中姓は太田祐安の家臣の子孫であるともいわれている。地区の山腹には昔、真言宗の古寺があったという廃寺跡もある。
 藩政時代、住民は藩主の御用杣に従斗していた。その後は、炭焼きを主としてきた。今では木炭の斜陽化に伴い、製炭に従事する人も著しく減少した。人口の流出が相次ぎ、特に台風等の災害により、戸数・人口とも減少した。
 大正三年当時の戸数は十一戸、人口五十九人、昭和四十三年の戸数八戸、人口二十八人であった。

虫谷の伝説・民俗など


『名田庄のむかしばなし』
殿屋敷と岩の足跡(その一)  -虫谷(高槻(月)神社、腹切岩、銭が谷、的場山)-
 伝える話は三重城主大田祐安に始まる。
 大田祐安は大阪府高槻の城主であったが、戦に敗れて京都に逃れ、丹波を経て杉尾峠を越えて虫谷に来り、ここに隠れ住んで家来に武術の鍛練を施しつつひそかに再起を図ったといい、殿様屋敷や的場の山など今にその地名を残している。多くの家来の中に、野鹿(のじか)与右衛門、畠中左衛門という大物がいたといわれ、現在も野鹿、畠中の両氏があることはその後裔ではなかろうか、といわれている。
 やがて大田祐安は三重城主になって繁栄し、菩提寺として東蓮寺を建立したが、間もなく敵に攻められて敗走、再び虫谷に逃れ住むこと、あるいは、守り本尊、聖観音菩薩のことなどについては、三重城、山田の観音さんの項にゆだねるが、再び虫谷に逃れて隠れ住んだ大田祐安は、そこで妻に先立たれ、残された病弱で不具に近い幼な子を連れ、恵まれない自らの武運なと不運つづきに日々心を沈めたという。
 そんなある日、将来一人前の男として育つ見込みのない我が子なら、親の手で命を絶つことが、生きて永世の苦を背負い、戦乱の世に辱かしめを受けるよりもしあわせと、いっそひと思いに殺してしまおうと心に決め、屋敷の少し下方にある大岩の上に子ともを遊ばせた。何もしらない子は岩の上をはい回っているところを屋敷から弓で射殺したという、思いもかけない父の弓で殺された子の無念の思いがその大岩に足跡をしるし、その岩が今も残されていると伝えられる。
 その後祐安は生きる望みを捨て、多額の金を山に埋めたと伝えられ、銭が谷と名付けた山が現存する。
 やがて祐安はすべてを捨て、岩の上に座して割腹し、大岩を赤い血で染めて果てたという、以来その岩を、腹切り岩と名付けて現存するといわれている。
 村人は祐安の亡骸を手あつく葬ったあとみんなで相談して、高貴な身分の武士にちがいない、気の毒な最後を弔う気持ちをこめて、これを産土神として祭ろうと合議の上社を建立した。これが、高槻(月)神社の創建であると伝えられる。奉祀にあたっては、大田祐安が手にしていた刀と薙刀各一振と、石一体をご神体としておまつりしたという。ちなみに寛政十年(一七九八)祐安の霊を弔う本供養が行われたことを、口名田の谷田寺の古記録にみる。
 その後の文化年間(一八〇四~)に諸国をめぐる廻国の一人が長床に宿っていて失火し、長床、社殿のすべてを焼失、同九年再建したのであるが、明治四十三年、県の訓令によって虫鹿野皇王神社に合祀されたのである。

『名田庄のむかしばなし』
殿屋敷と岩の足跡(その二)   -皇王神社奉賛会寄稿-
 昔から虫谷の人たちは、我々の祖先は殿様で、その昔戦に敗れた殿様が琵琶湖に逃れ、湖北の岸で舟を乗り捨て、三国岳をめざして逃避してこの虫谷に隠れ住んだもので、お宮さん(後に皇王神社に合祀された高月神社)の少し奥がその殿の屋敷であったと伝えられている。
 その敗戦の殿様というのは、坂上苅田麻呂に敗れた藤原仲麻呂(畤の大和藤原京太政大臣)その人であるという。
 戦に敗れた仲麻呂は(この伝説は苅田彦神社の由来伝説に通じる)自分の勢力下にあった近江にくだり、ここで体勢のたて直しをはかったが、孝謙上皇側の坂上苅田麻呂の軍勢に追撃を受けて防ぎ得ず、湖西道を北にすすみ、角郷(今の今津)の郡衛に逃げこもうとしたが、その時既に仲麻呂を朝敵とし、討伐の懸賞布告がまわされていたのである。
 これを知った仲麻呂は一たんは舟で湖上に逃れたが、高島郡の萩の浜付近で追撃軍との決戦となり、ここで決定的に敗北した。
 そこで仲麻呂は、天下人としての自分の運命はこれまでと思い、側近の者と家族を促して、丹波、近江、若狭の三国境にたつ三国岳をめざして逃走、虫谷の地に入ってかくれ住んだという。
 その後も仲麻呂は常に追手におびえなければならず、既に多くの部下と我が子をも失い、ただ一人、(男で神童と呼ばれた「刷雄」を連れていたが、この子もやがては敵の手に捕われて苦しめられるであろう、と心を痛める毎日がつづいた。
 そんなある日、虫谷の四の谷口のせせらぎの中の大岩で遊んでいる刷雄の姿をみつめ、いとしさの余り、親の慈悲の一矢でひと思いに殺してやろうと、心を鬼にして殿屋敷から弓に矢をつがえ、刷雄を射殺したという。そのあと四の谷の大岩の上に幼い児の足跡が残ったと伝えられ、このことから古人は、尊い身分の殿様親子が深いわけをかくしてこの山里に住み、後の世に無念の思いを伝えたい一念で堅い石の上に足跡を残して天に昇ったのだ、と伝えている。
 また高月神社の名は、戦いの跡、近江塩津港のある「高月」の地名にゆかるものといわれる。

『越前若狭の伝説』
岩の足跡 (虫谷)
 戦国時代のころ、戦いに敗れた武士が、この虫谷に逃れて来て住んでいた。妻は死に、子どもと暮していたが、ついに敵の追手に見つけられた。武士は子どもを岩の上に立たせて、みずからの弓で射殺し、自分も自害した。そのときの子どもの足跡が三つ今も岩の上に残っている。村の人は武士の死体を葬り、その上に小さい石碑を立てた。それも今なお残っている。 (福井県の伝説)


『森の神々と民俗』
カギ(名田庄村虫谷)
 虫谷は戸数六戸の滋賀県境の山村である。私の知るかぎりでは、当地の他にカギ掛けの習俗は県内には見られない。滋賀県にはカギの分布が散見されるところから、その影響を受けたものと思われる。
 一月二日をデソメ、ツミソメと言い、午前中一メートルぐらいのクリ・カシ・ナラ・シデの枝をステッキ状に切ってカギと称し、各戸から二本ずつ集落の上手にある山の神に供える。カギヒキの神事もなく、すでにこれといった伝承もないが、初山入りの予祝儀礼であろう。





虫谷の小字一覧


『名田庄村誌』
虫谷地区
 唐木谷 六ノ谷ロ ーカ風呂 五ノ谷口 長太郎 三無谷口 杉畑 堂ノ向 村ノ向 村ノ内 熊ノ谷口 湯里ノ下 向中村 溝ノ上 上四ノ谷 四ノ谷口 殿屋敷 三ノ谷口 宮ノ下 二ノ谷口 板橋谷口 二三ノ谷 中高 四五六ノ谷 七八谷 割小谷 唐木谷 漆谷 熊ノ谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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