丹後の地名 若狭版

若狭

虫鹿野(むしがの)
福井県大飯郡おおい町名田庄虫鹿野


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福井県大飯郡おおい町名田庄虫鹿野

福井県遠敷郡名田庄村虫鹿野

福井県遠敷郡奥名田村虫鹿野


虫鹿野の概要




《虫鹿野の概要》
久田川沿いの東西に延びる集落、小倉畑の一つ奥。中央を県道久坂中ノ畑小浜線が通じる。
久田川は古くは久多川とも書き、この流域一帯の山間部を久多河内(来田河内)と呼んだ。久多河内一帯の小村はすべて奥深い山間にあり、丹波・近江・若狭にまたがる三国岳を中心に木地師の集団が活躍した集落で、氏子駈帳の中に「若狭むし谷山木地屋」「若州永谷山杓子屋」「若狭下中郡出合山木地屋」「若州下中郡上原山」など多数の木地屋集団が記録される。久多河内からは針畑越や杉尾坂など近江や丹波に通じる間道があり、隣国との交渉も盛んであったという。
中世のむしか野村は、戦国期に見える村。弘治2年6月22日明通寺鐘鋳勧進算用状に「弐百五十文 むしか野村」と見える。
近世の虫鹿野村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「正保郷帳」では「虫賀野村」とある。当村より久田川上流域の村々は当村の枝郷とされ、「若狭郡県志」「若狭国志」とも虫鹿野村一村にまとめる。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治初年、行政的には、各枝郷は虫鹿野村のうちとして扱われた。同22年本村・枝郷とも南名田村大字虫鹿野・虫谷・木谷・出合・永谷・挙原となる。
村域のほとんどは山林原野で、耕地はわずかに河川の流域や山裾段丘にみられるのみである。したがって生業は山林業や製炭業が主であった。
虫鹿野は、明治22年~現在の大字名。はじめ南名田村、明治24年知三村、昭和30年名田庄村、平成18年からはおおい町の大字。明治24年の幅員は東西1里10町・南北2里3町、戸数77、人口は男242 ・ 女185。


《虫鹿野の人口・世帯数》 71・27


《虫鹿野の主な社寺など》

皇王神社

町天然記念物のカゴノキは本殿の隣にある。
『名田庄村誌』
皇王神社
所在地 虫鹿野字宮ノ下
創 建 永長元年(一〇九六)
祭 神 不詳
 稚狭考や国中高附などは、光王大明神(祭、九月七日・十一月七日)としている。創建年は若狭神社明細帳(明治初年のもの)によった。一説に祭神は、市辺押磐皇子とされる。境内社に神明社あり天照大神を祀る。明治四十一年木谷南宮神社、同四十三年虫谷の高槻神社を合祀した。合祀された南宮神社は、郡県志によれば、南宮高岡明神社とされ、金山彦・金山姫両神を祭り、祭日は正月五日・十一月五日とする。美濃の南宮神社系の鉱山神であったことがわかる。高槻神社は郡県志では、高月明神社とし、神明ともいう。祭日は十一月十一日とする。


『遠敷郡誌』
皇王神社 村社にして知三村蟲鹿野字宮上下にあり永長元年勧請すと傳へ文化年中迄高明神と稱せり、祭神不詳なり、境内神社神明社祭神天照皇太神は天保十二年造立にして、山神神社祭神大山祗神は明治四十二年挙野字瀧谷より合併南宮神社祭神不詳は享保十七年勧請明治四十一年木谷より合併元南宮高岡明神と稱し産神たりき、高槻神社祭神不詳は元高月明神社或は單に明神と稱し元攝津高槻城主太田祐安を祀ると云ふ、明治四十三年虫谷字宮ノ下より合併す。


曹洞宗栖園寺


『名田庄村誌』
栖園寺
宗 派 曹洞宗
所在地 虫鹿野区第十六号三十九番地
 本尊は、木造十一面観世音立像。創建は寛文七年(一六六七)で開基は現在の小浜市松福寺第二世梅葉玄松という。その後松福寺の末寺であったが、明治十二年伝法和続を得て、当寺の本寺である松福寺住職月峯笑応を第一世に拝請した。
 寺域四百七十一平方メートル、この間に本堂・庫裡・開山堂等の堂宇がある。現在の庫裡の二階建は昭和七年、住職不在中(すなわち性山寺住職水上褝龍兼務の時)に建てられていることは、当寺の檀中の仏心を物語るものである。
 寺の後方は、通称片山という柴山で東北方に谷がある。前方には久田川が流れ、その西南には当地の産土神である皇王神社のうつそうたる森林を望むことができる。門の右に地蔵菩薩の石像が安置され。その後方に愛宕大神の小社が建てられている。

『遠敷郡誌』
栖園寺 曹洞宗松福寺末にして本尊は十一面観世音なり、同村蟲鹿野字小和田に在り、元寓福寺と稱する真言寺の廢寺ありしが、寛文七年松福寺第二世玄松再興して今の寺を建つ。


六斎念仏は町無形文化財。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


虫鹿野の主な歴史記録


『名田庄村誌』
虫鹿野
 小倉畑と隣接し、久田川を挾んで上・下の二部落よりなる。昔は久多河内ともいった。字宮の上に皇王神社があり、小和田に曹洞宗栖園寺がある。地形は東西に細長く伸び、耕地が少ない。昔から製炭業を主とし、かたわら植林を行なってきた。狭少な耕地もヘスター台風によって、そのほとんどが流出した。狭隘な地勢のため、災害復旧工事を行なっても、再びもとの耕地にはかえしえず、生業は専ら山林業に頼る以外にない。若い人たちの都会への転出も次第に多くなってきたが、戸数は特に減少することはない。
 大正三年の戸数二十八戸、人口百六十人、昭和四十三年の戸数三十戸、人口百五十九人であった。

虫鹿野の伝説、民俗など


『名田庄村誌』
六斎念仏
 六斎念仏は若狭地方一帯に存在したものといわれているが当地では虫鹿野だけである。盆の二十四日、松上げの夜、地蔵さんで舞われる。三人の仮装した舞い手によって、猛烈な動きの踊がある。ハクマイとゲンマイの舞などに分かれていると古老はいうが、昔は他にもあったらしい。各家にも廻ったといわれている。これに鉦四個・太鼓三個が使われている。虫鹿野の六斎念仏は若狭に残るものとしては、よく保存されているといわれている。余りにも激しい舞と、鉦・太鼓の音が余りに多く、よく「六斎念仏で、合うところで合わす」などいわれたものである。しかし、その踊りを見るとなかなかの練習を経なければならないことが、よくわかる。急に跡継は養成できないらしいと思われる。時宗系の踊念仏からきていることは確かだろう。

『名田庄のむかしばなし』
上古時代 神代の遺跡  -虫鹿野・皇王神社
 その伝説は遠く五万年のむかしにはじまる。
 当時は奥羽の津軽に都があり、統治者を「アシカビ」といい、この御代が二十四代続いたどいう。ところが「黄人皇主」(ヒミイリヌシ)の御代に「氷期」おとずれ大津波により津軽の都は水没したため、次の都を山岳地帯の飛弾高山にうつされたが、海水位は更に上昇してここも安全でなくなった。
 そこで天皇は、舟で若狭の三国岳にのがれ、ここを都とし、天皇はここで亡くなって埋葬されたという。この頃海水は虫鹿野まで逆流してきたということで、虫鹿野を別名「塩野」と呼んだことがあるように、虫鹿野、木谷、出合、永谷、挙原の人びとは、浸水をおそれて三国岳周辺にあつまり、山岳民族として生き残り当時の都を形成したという。 (後世これら五地区を虫鹿野村と呼んだ)
 このようにしてむかしから、久田の高地と呼ばれた三国岳の麓の虫鹿野の地は、上古において天皇が天災をのがれて山岳朝廷をつくられた地区であり、皇王神社は其の上古の各天皇が神様と同殿同床に祭られた神社であるという。
 それから約四千年の世が移り、やがて人皇第十七代履中天皇の御代となり、地域一帯は「鹿屋野」と呼ばれて鹿や猪の住む、皇室の狩猟場になったといわれ、かの皇子塚の伝説がここに生まれるのである。市辺押盤皇子をまつられた皇子塚に詣でた顕宗天皇は、父君(市辺押盤皇子)の神霊を、三峰王、三国岳の王として皇王神社に合祀されたとも伝えられ、その頃から人は言う。虫鹿野地区の住民は、遠く縄文以前の泥海時代を神国魂で生きた山岳王朝、その宮人の生れかわりである、と。

『越前若狭の伝説』
権現社 (虫鹿野)
 二百年ほど前のこと、森下宗与門の家の前に白い雲が二つ三つ浮んだ。これはふしぎだと思い、社を建ててお祭りした。ある晩の夢に「大事があるから、ここを立ちのけ。」というお告げがあった。
それで村はずれに家を移したところ、一年ほどして村全体が火災にあい、森下家のみが焼け残った。それから権現社を祭るようになった。  (名田庄村の歴史)



虫鹿野の小字一覧


『名田庄村誌』
虫鹿野地区
 宇落シ 二ノ窪 鳥坂 下鳥坂 井根ノ尻 段ノ上 矢淵 西ノ上 大左近 虫谷口 西市ノ原 東一ノ原 比叡尾 宮ノ上 庵尾 小和田 向野 和田 二子岩 沢田 落原 上落原 落原谷口 猿田 赤岩 神ノ本 井根ノ上 赤滝 片山 奥ノ谷 寺尾 堀川 神向 浦部 押坂 上神戸本 梨木谷 砂淵 鈍子口 身打谷 樋ノ口 一ノ谷 山根

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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