丹後の地名 若狭版

若狭

旧・名田庄村(なたしょうむら)
福井県大飯郡おおい町名田庄


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福井県大飯郡おおい町名田庄

福井県遠敷郡名田庄村







旧・名田庄村の概要




《旧・名田庄村の概要》
なたしょう、なたのしょう、と呼ぶのが正式、しかしフツーは なたんしょ と呼んでいるよう。福井県南西端、遠敷郡の村。南川の上流域を占め、京都府と滋賀県に隣接する。南端に頭巾山・八ケ峰・三国岳など700~800mの山々がそびえる。久田川・染ケ谷川・坂本川などの支流を集め、南川が中央部を流れる。
村名は平安時代に設けられた名田荘(なたのしょう)にちなむ。山林が村域の89%を占める。国道162号がほぼ南川沿いに通り、県道名田庄-綾部線、坂本-高浜線、染ヶ谷-小倉線、久坂・中の畑・小浜線が支線として各地と連結する。
明治22年町村制施行により9ヵ村が南名田村、7ヵ村が奥名田村となった。南名田村は同24年知三村と改称。昭和30年奥名田村・知三村が合併して名田庄村となり、平成18年福井県大飯郡大飯町と合併しておおい町となる。

岩の鼻遺跡と坪の内古墳群
岩の鼻遺跡は昭和29年10月の13号台風により石器・土器片が露出したことから調査が始まった。南川左岸の河岸段丘上に位置し、石鏃・石錘・打製石器・磨製石器・蝋石ケツ状耳飾片などが出土している。時代は縄文前期・中期・後期のものであり、住居跡は発見されていないが、山猟・川猟による生活をしていたことが推定できる。また、尾の内遺跡からは高杯・鉢などと思われる破片が出土したが、土地改良により遺跡が消滅したため詳細は不明という。
古墳については、若狭地方では北川流域において、編年的な古墳群も存在するが、南川流域では調査が不完全なこともあり、現在発見されているのは坪の内古墳群(下)だけである。2号墳までは確認されており、6世紀後半の造営であろうとされている。

名田庄の成立
名田の名称は永暦2年(1161)11月20日の文書に左衛門尉盛信の私領「名田村」とあるのが初見である。やがてこの地は名田郷と称され、仁安3年(1168)に、伊与内侍は自分のもっていた摂津国野間荘と交換してこの郷を獲得した。成立期の名田郷は、納田終付近より南川水系の平地、和多田・小屋付近までの範囲であったと思われる。その後、この地域は領主がめまぐるしく変化する。
安元元年(1175)には伊与内侍から娘の大姫御前へと譲られる。この時初めて、「名田の庄」という文言が使用されており、おそらく、以前の伊与内侍領時代に荘園化したものと思われる。建保3年(1215)には大姫御前から子の藤原実忠へと譲られる。この時、「名田の庄上下」という文言があり、上下に分かれていたことがわかる。おそらく南川水系で上下に分かれていたものであろう。承永3年(1221)には、承永の乱で京方についた名田庄の地頭季行が北条義時により、地頭職を剥奪され、正嘉2年(1258)から本家は蓮華王院と記載されるようになる。文永2年(1265)に作成された若狭国惣田数帳案には、「名田庄五十七丁六反二百歩」と記されている。
建治3年(1277)実忠が娘(尼信解)の子の藤原実盛に与えた譲状では、名田庄内が上・坂本・下・中・田・三重・知見の7か村に分かれていたことがわかる。ただし、実忠はこれ以前に田村内4名を子の聖丸に、孫の別当典侍に知見村を譲っており、また上村・三重村は実盛一期ののちは嫡子禅師丸に譲ることとされている。荘内はそのほかにも分与されており、以後分割相続者の間で数々の譲渡・押領・訴訟を繰り返す。名田荘は嘉元元年(1303)権大納言三位局に譲られ、さらに延慶3年(1310)に田村・下村を譲られた藤原兼信のもとで領有権の安定をみたと思われる。その後、兼信は文和2年(1353)田村・下村を大徳寺下の徳禅寺へ寄進する。こののち南北朝期末にかけて徳禅寺は知見村・井上村・須恵野村の領家職を獲得していった。しかし一色氏に継いで若狭守護となった武田氏は、名田庄を押領する。このような武田氏の戦国大名化のなかで徳禅寺の支配力は徐々に後退していったと思われ、16世紀に徳禅寺が収納しうる年貢は5貫文であった。
名田庄の名は史料上に現れるものだけでもかなりの数にのぼる。田村では延吉・重延・貞遠・守房・国房・守延・時清・国友・貞房・友延・貞守・国次・時久・延貞・為延・行宗・別所・岸・善海・別納深谷・和多田村では政所、須恵野村須恵野・窪谷・伊加谷・日阿、知見村では地蔵・新井田・上野・広瀬野、下村では正利・別納御、井上村では守綱の各名であり、すべてが13~14世紀の史料に現れる。
名田庄では、太閤検地が終ったあとも各編成が実態として存在していた。慶長18年(1613)の土地目録には、大野・小向・内谷・たなはし・仁井・こち谷・おこと・小和田・ねりかい・とりい・大井・ほきの各名が年貢・諸役の収取単位として存在している。1名としても最高で3反程度であり、年貢のほかに種々の懸物が書き込まれ、山間の零細な田地に生きる農民にとって厳しい収奪が行われた。

安倍家と陰陽道
陰陽家として名高い安倍(土御門)家は南北朝期頃より名田庄上村を領地とし、永正年間(1504~21)より、京の戦乱を逃れて名田庄に居住した。現在、屋敷跡・墓所などが残されている。慶長5年に上洛したが、現在までその影響を色濃く残している。特に泰山府君信仰・大膳大食祭・御殿祭・御飯踏・芝走・御神楽などの祭りは陰陽道の影響下にあるものとされている。安倍家上洛後は、親縁関係にあった谷川家が泰山府君信仰の在地における担い手となった。谷川家には現在、中世以来の多数の文書が残されている。

江戸期の村々
江戸期の当村域は小浜藩領であった。当村域における江戸期の村々は、「元禄郷帳」に納田終・坂本・井上・西谷・下・中・小倉・堂本・槙谷・志見ケ谷・知見挙野・知見久坂・三重・知見小倉畑・虫鹿野・虫谷・木谷・出会・永谷・挙野の20か村があげられている。「正保郷帳」「旧高旧領」などでは、知見挙野村には上野村・挙野村、知見久坂村は久坂村、知見小倉畑村は小倉畑村、虫鹿野村は虫賀野村と見える。また「旧高旧領」では坂本村は奥坂本村と口坂本村に分かれて記され、虫谷村以下5か村は記されていない。
山間部であるため、山林を利用して薪・炭などの生産が盛んで、また多くの木地師が活躍したことも注目される。しかし、洪水や山崩れなどに見舞われることも少なくなかった。

行政区画の変遷
当村域は明治4年小浜県、敦賀県、同9年滋賀県を経て、同14年福井県に所属した。明治初年志見ケ谷村が染ケ谷村と改称。同22年市町村制施行により、納田終・奥坂本・口坂本・井上・西谷・下・中の7か村が合併して奥名田村、小倉・堂本・槙谷・染ケ谷・挙野・久坂・三重・小倉畑・虫鹿野の9か村が合併して南名田村となった。同24年南名田村が知三村と改称。昭和30年奥名田村と知三村が合併して名田庄村が成立した。
通路と行商
当村域は古来若狭湾岸から京都への最短路として栄えた。特に知井坂・堀越峠を越えるコースは重要路であり、商人の通行が盛んであった。主な商品は塩・乾物・釘・蝋燭・糸などが運ばれた。村人の中にも行商にでかける人も多く、月のうち20日も行商に歩く人があったという。行先は現在の京都府美山町付近であり、知井坂を越えて8㎞ぐらいの範囲であった。今も美山町に知見・下・中などの当村と共通の地名が残るのも古来よりの通交の名残であろうという。このような行商は戦前まで続いたが、明治期~大正期に敦賀~舞鶴間に鉄道が開通すると、当村域を経る交通路は次第に寂れていった。
林業と森林組合
当村は山間の村であり、木材資源に恵まれているため、林業は古くから主要産業の1つであった。特に杉・桧・松・栗などが多い。しかし、次第に山林は売却され、並行して木炭製造が行われるようになった。木炭製造は昭和7~8年頃には年間20万俵を出荷するまでになった。このようななかで、昭和6年に染ケ谷森林組合が設立され、染ケ谷林道の整備など、林業の育成に力を注ぎはじめた。同8年虫谷施業土木森林組合が設立され、虫谷林道が建設された。同10年には両組合が統合されて奥名田森林組合となり、同40年には名田庄森林組合が設立されるに至った。組合は、苗木育苗指導、造林拡大、造林地への施肥、間伐指導、害虫防除などの指導を行い、販売では一般用材850(立方メートル)、パルプ材606(立方メートル)、チップ2,574(立方メートル)、生シイタケ13㎏を取り扱った。


地の神信仰
名田庄における地の神信仰は三重・納田終において確認されている。地の神信仰は祖霊神と地神の両方の性格をあわせもつといわれ、大飯町大島一帯のニソの杜信仰と通じるものとされている。三重区には早川・山本・吉田・林・島田・宮崎・岡田・田中・中塚・新屋・堤の11株があり、社殿り背後にはタモ・エノキなどの大木が「神様の拝み木」としてある。11月23日が祭日であり、輪番頭屋制により交代で任務を果たす。祭りの内容は当番が前夜、体を清め正装で地の神に参詣し、御弊を祠に納め、神酒・魚・大豆飯などを供える。講員が参詣したあと、当番の家で食事となる。席順は株親を上座に年齢順に座る。食後、当番順、膳の品などの書付が次の当番の者に渡される。地の神信仰の由来については、中世よりの系譜説などがあるが明確ではない。しかし、おそらく陰陽道系の守護神として、名単位に祀られ、同族結合の影響のもとに祖霊的な信仰と混合されるに至ったと思われる。

名田庄一円に分布する盆踊に文七踊がある。下区が一番よく伝統を伝えているといわれる。この地方でジョウルリクズシといわれる口説きで、京都府美山町辺りでも踊られている。県指定無形民俗文化財。




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


旧・名田庄村の主な歴史記録


米よこせに出てくだんせ
天保4年の若狭一揆
天保4年(1833)は全国的に凶作であった。この時従来より名田庄で米穀の販売を行っていた小浜の商人木綿屋伝助が、三重に住む神主左近をして名田庄の米を買い占めさせ、高値で東丹波に送った。そのため名田庄村百姓は11月13日八ツ時頃、小浜西入口清水町の御用達商人石野五郎兵衛、今道町の酒屋滝三右衛門、永三小路の酒・米穀商人木綿屋善次郎宅へと押し寄せ、さらに一揆の発端となった鵜羽小路の木綿屋伝助方へと押し寄せて打毀した。
百姓方は米の値下げ、年貢を伝助らに支払わせるなどの要求を行ったが、確約が得られなかったため再び蜂起した。そのうち一揆は近郷の百姓も結集して大勢力となり、大がかりな打毀を行った。そのため藩は、鑓・鉄砲などで攻撃して鎮圧した。そして藩は米屋仲間に蔵米を放出し、米の値下げを図るという緊急措置で一揆の再発を防止した。

『遠敷郡誌』
天保四年七月、気候不順にして米價騰貴し此年又凶作の憂ありしを以て、小濱町奉行より米商人は勿論外商賣の者たり共他國より入津の米穀は成るだけ買入れて需要に應ぜしめ、一般に對しては食料品の貯蔵を訓令せり、八月に到りて難渋人に社倉御蔵米一人に一斗宛を下げ渡され代銀三十匁を十一月と翌年正月との二回に分納せしむ、然れ共諸國凶作にて入津米なく、米價次第に騰貴し九月上旬十匁に七升二三合位となり、難渋人多きを以て十一月上旬より町方有志者粥施行をなして一時の急を救はんとせしが、在國米に不足を来すの恐あるを以て一般に減食雑食を奨励し、葛根海草の類を貯藏せしむ、此時機に當りて小濱上小路木綿屋傳助が三重村左京の手にて名田庄三重村より坂本村迄の間に於て、米三十餘俵を買占めたる事は、端なくも空前の米騒動を惹起したら、即ち右の米を兵瀨村藤兵衛方より川舟にて小濱へ廻漕せんとせしに田茂谷、深谷、深野、和多田、三重各村の百姓等左京方へ押寄せ、右の米を横領し玄米の儘煮炊して食し、三四十人の者一團となり五十谷村酒造業小兵衛方に到り、酒造用の白米を強奪して炊ぎ食し、酒を呑み其場にて百人餘の集團となりて、小濱に出で池河内、西津、小松原等の諸村より集り來れる暴民と合して三百餘人十一月十四日の曉より木綿屋傳助を初め大津町石嶋又兵衛、宇久屋長右衛門、瀬木町井筒屋勘右衛門、同清右衛門、大蔵小路三嶋総右衛門、質屋町木綿屋伊兵衛、四十物屋庄兵衛、川縁町尾野屋治兵衛、二鳥居町米屋長兵衛の十軒を摧き町内の騒動一方ならず、役人等出張して鎮撫に向ひしも、暴民は應せざるのみか却って他村の暴民を誘致し次第に募る勢なりしかば、翌朝六り時より御家中殘らず十五歳より六十歳迄の人々鎗長刀或は弓鐵砲にて出動して鎮壓し、徒黛人として召取られし者舉野村市左衛門、小倉畑村次良右衛門、田茂谷四郎右衛門の三人にして、入牢申しつけられて鎮定せり、十二月に至り又諸國一般の米不足にて入津米は甚少なく、次第に困窮の者増加し来りしを以て、藩より米一俵四十匁の廉價を以て困窮者に払下げ、翌年正月町方在方一般極難渋人へ米手形一刄に付白米一升二合替を以て拂げらる、四月に至りで麦作佳良と共に蔬菜其他の食料を得る事により全く飢饉の状態より免かるゝ事を得たり。

『小浜市史』
天保の打毀し
天保飢饉の最中に起こった天保四年(一八三三)の打毀しについての記録は比較的多い。そのおもなものは「若狭嗷訴本」「天保太平記」「天保四年巳虫咄」「若狭凶年記事」「近世小浜厳秘録」などである。これらの記録は、筆者の立場も記事の密度もそれぞれ異なっており、多少の食い違いも見られるが、その大略をこれらの記録を中心に見ていくことにする。
 天保四年十一月十三日の夜、名田庄各村の百姓五、六〇〇人が小浜への諸口から押し寄せ、まず名田庄の米を買い込み高値で丹波筋へ売り払った木綿屋伝介を打ち毀し、大津町の西島又兵衛へと向うが、そこで藩側の役人と出会った。役人たちは一揆勢に引き取るように命じるが、一揆側は米一俵を銀二五匁に引き下げることなどを要求するとともに、それを保障する墨付を得ようとした。
 いったん百姓たちは西島を引上げ、町中の大家で飯汁をねだり、その夜は小浜で明かした。翌十四日には、池河内村・根来村の百姓、小松原の漁師、さらには佐分利谷の百姓等が一揆に加わり、その数は二〇〇〇とも三〇〇〇ともいわれるものとなった。勢いを増した一揆勢は、まず二つ鳥居町の米屋長兵衛を打ち毀して、隠していた米一〇〇俵を撤き散らしたあと、西島又兵衛へ再度向かったところ、市場の辻で米屋長兵衛のところへ向かう町奉行をはじめとする藩兵と鉢合わせになり、混乱のうちに一揆勢は人数に物を言わせ土橋まで役人たちを押し返し、西島を打毀した。ついで隣家の宇久屋長右衛門、瀬木町の井筒屋勘右衛門、川縁町尾野屋次兵衛、質屋町の木綿屋伊兵衛、同町の四十物屋庄兵衛、大蔵小路の茶屋孫右衛門をつぎっぎと打ち毀した。
 こうした一揆の動きと一揆勢が西津の古川へ向かうとの風聞に怯え、藩では鉄砲の使用を決め、土橋の門を固め、捕物から軍事へと態勢を強化し、翌十五日の朝には小浜町の四方を固めた。いっぽう、一揆勢は十四日の夜も小浜で過ごし、翌十五日には瀬木町の井筒屋清右衛門を打ち毀した。この時、町年寄組屋六郎左衛門が一揆勢の説得を試みるが成功せず、そこに出張った物頭荻山太七郎と一揆勢は対峙した。荻山は一揆勢に引き取るよう命じるが、一揆側がいっこうに応じないため鉄砲を放ち、百姓二九人を打ち倒した。これを機に一揆は四方八方へ散り散りとなり、その後藩の手のものによって町中が詮索され、数十人の百姓が召捕えられ、計八三人が牢に入れられた。十五日夕方以降、一揆勢がふたたび欠脇へ迫ったとの報や各地での一揆峰起の報が乱れ飛ぶなかで、十五日夕方から十九日まで町の各口の番所は厳重に固められた。
 こうした町での打毀しが行われた前後に、遠敷村では源介が、東市場村では孫四郎が、名田庄田村谷では小堂庄兵衛が打ち毀された。また大飯郡の佐分利でも一揆の動きが見られ、大飯郡の内浦一二か村の百姓も一揆を起こし高浜へ押し寄せんばかりの事態となり、藩から物頭を大将に一五〇人ばかりが和田村まで出張した(「永代万記書」)。
打毀し後の藩の対応
その後藩は、町の米屋に対し蔵米一〇〇〇俵を米値段一俵銀四〇匁で放出するが、難渋人の増加を抑えることはできず、裕福な町人二〇人が世話方となって施粥が始まった。施粥は、米一升に水一升の割で酒屋仲間が炊ぎ、西は極楽寺、東は正誓寺で朝から夕方までなされた。施粥を受ける人たちは、難渋人の数を書付けた木札を持参し、一人一杓ずつ、その人数分だけの粥を得た。また、米不足が深刻となるなかで米穀の津留めが実施され、酒造も禁止された。
 その後も容易に米価は下がらず、諸国でも津留めがなされた。いっぽう九州・丹波では米の出来がよく津留めもないとの情報を得た藩は、古川嘉大夫・伝右衛門に命じて九州米の買い付けにあたらせ、その米が入津すると米屋中に払い方の世話を命じ、東は瀬木町の空家、中は鵜羽小路の空家、西は石垣町の空家で白米一升を銀一匁で十一月下旬より翌年正月晦日まで売払った。町在から米を買いにきた人数は一日に一五〇〇人から二〇〇〇人を数え、一軒に三升が売り渡され、その米高は一日四、五〇石にものぼった。二月一日からは大蔵小路の木谷三郎右衛門の店で引き続き販売された。
 また藩は、丹波米の買い付けを新町の赤尾治兵衛に命じた。送られてきた米は、町年寄の支配のもとに白米一升銀一匁で一軒一升五合とし、町在とも名前を記した切手と交換に売り渡された。
 五月にはいると在方は農作業の繁忙期を迎え、買米に町へ出ることができなくなったため村々の家数に応じた米が村へ渡された。六月以降徐々に諸国の津留めも開き、米を積んだ船が入津するようになり、八月下旬にはほぼ以前の状態にまで米価も下落した。しかし、その後も難渋人は多く、藩は九月になって二〇〇〇人に米を下げ渡した(「天保四巳虫咄」)。

『名田庄のむかしばなし』
天保の飢饉、小浜の米騒動  -三重→中井→小浜-
 天保四年(一八三三)十一月十四日午前二時頃、名田庄谷の農民たち三百人がときの声をあげて青井口から小浜の町へなだれこんだ。青井口は当時名田庄から小浜の町へ入るには通らなければならない交通の要所であり、番所もおかれていたがその番所を打ち破ってなだれこんだ様を見た町の人は、青井口を鯨波(げいは)したと言い、「天保の鯨波」と称して後世に伝えたという。
 農民達はてんでに鍬や鎌をもち、大声で清水町(小浜の西の入口の町)を右往左往し、はじめに石野五郎兵衛という御用達をつとめる商人の家になだれをうって踏み込み、すわりこんで飯や酒のふるまいを待つ、そこにはもう、黙って田畑を耕す農民の様相はみじんもなかった。
 天保は天明どならんで、江戸時代における二大飢饉のおきた年間である。記録によれば若狭地方でも凶作が慢性化し、特に天保三、四年の凶作はひどく、四年の八月には、食えなくなった貧乏人はとうとう野垂れ死にするという事態になった。
 そんな折、小浜の米商、木綿屋伝助が名田庄谷三重村でせっせと米を買い集め、それを山越えして丹波の方へ高価で売りさばいていたのである。その日の食にこと欠き、あちこちで行き倒れて死ぬ者が出るというとき、地元の米を買いあさり、それを他国に流すという仕打ちに三重村の百姓たらは怒りたちあがった。打ちこわし、米騒動のきっかけはここからはじまったのである。
 ことの起りは、三重村の農民達が、木綿屋伝助の手下となって米の買いじめに働いた三重村の神主「左近」の家へ、買いじめされた米をとりかえしに行こうと相談がまとまったことからこの騒動に発展したのである。
 神主左近の家に押し入って、そこにあった米をその場で炊き出して食べてしまったのが十三日の午後六時頃であったという。その勢余って谷を下り、小浜の木綿屋伝助までおしかけ上うという衆議になり、手ごろな仕事道具を持って谷をくだりはじめたのである。
 道中近在の百姓を呼び集め、「米や、米や、米よこせに出てくだんせ。」と叫びながら谷をくだった。
 一里余り歩いて五十谷村にさしかかると、もう一度腹ごしらえをということになり、酒造業小兵衛の家に押し入って酒造米を大釜で炊いて食いつくし、さあこれからいよいよ本番だ木綿屋伝助だと威勢を張りあげて、更に仲間を誘いながら青井口に向かった。その時は既に三百人を超える大勢になっていたという。
 小浜の町に入って、一番に押し入ったのが、御用達石野五郎兵衛の家であるが、大勢の者はそこへ入りきれないために、同時に今道町の滝三右ヱ門家へ、更に永三道の木綿屋善次郎酒屋へ、次いで目標の鵜羽小路の木綿屋伝助へと向う、その頃はもう夜明け近い午前四時頃であり、この騒ぎを聞いた近在の食うに困った百姓たちが四方から集まり、その総勢は千人を超える多勢の乱入となり、小浜の町は、かつて無かった騒乱の夜明けを迎えたのである。
 こうなると、当然のこどながら町奉行は勿論のこと、小浜城大番頭の出馬となり、騒乱鎮静へとむかったが、この頃には西津村、池河内村、根来谷、遠敷村などから続々と町へ入りこんで合流するという一大動乱の町と化して制圧も及ばない様相のままに二日二夜をすごしたという。
 二日目の夜になり乱入した農民達にも疲れが見えた頃、ひときわはげしい雨降りとなるなどの事情に迫られた農民達は、ちりぢりに退散をはじめ、中には鉄砲や弓矢の傷を負って逃げまどう者もあるというさんざんな幕切れとなったといわれる。
 けれどもその後に、御上の命が下り、米問屋の蔵米が放出され、米一俵四十匁という結果がでて、農民達は不十分ながら僅かでも正月米を求め得たという。そして小浜の町の中では、やがて次のようなざれ歌がはやされた。
 『大平でよもやこぼちは伝助と 鵜羽でくらせしあとは騒動』と。




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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