丹後の地名 若狭版

若狭

野尻(のじり)
福井県大飯郡おおい町野尻


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福井県大飯郡おおい町野尻

福井県大飯郡大飯町野尻

福井県大飯郡本郷村野尻






野尻の概要




《野尻の概要》
大飯中学校の向かい側の谷で、野尻川沿いに集落がある農業地域。
野尻村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年本郷村の大字となる。
野尻は、明治22年~現在の大字名。はじめ本郷村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北3町余、戸数76、人口は男203・女211、学校1。


《野尻の人口・世帯数》 339・88


《野尻の主な社寺など》

滝見(たきび)古墳群
野尻川に沿った集落の東側の山というか丘というか、その山裾に点々と古墳32基が分布する。いずれも横穴の円墳とみられ、封土が失われて天井石や側壁の一部が露出しているものも多い。どれが盟主墳ななのか、どれが古いのか、もうよくわからないよう。全体に古墳だらけの地だが、「王家の谷」とかの感じはない。盟主なき群集の時代であったのだろうか。すでに仏教が伝わっていて間もなく寺院の時代に入り、古墳時代は終わる。
昭和34年、第10号・11号・16号墳の発掘調査が実施された。第16号墳が前記3古墳のなかでは最も古く、豊富な玉類・須恵器・鉄製品・銅製の鈴などの副葬品があり、6世紀中頃の築造。第11号墳は直刀・須恵器・滑石製紡錘車などの副葬品があり、6世紀後半の築造。第10号墳は直刀・刀子などの鉄製品・須恵器・土師器・金環などの副葬品があり、6世紀後半の構築という。
←『若狭大飯』より



六社神社境内の石。これも石室古墳ではなかろうか?。

滝見千軒
伝説の「滝見千軒」の地。
『大飯町誌』
伝説地瀑樋
 瀑樋は、滝水千軒の名残であろう。滝水谷という所に、納公女権現(納公女は若王の転訛であろうか)という社の跡があって、土地の人は宮越さんといっているそうである。
 これは昔天智天皇のころに滝水姫という方が大内から御くだりになってこの滝水谷に住んでおられた。その亡くなった後貝谷村(滝水千軒の中の一村)の氏神として奉祀したのだと言い伝えている (『本郷中古伝説記』)。この辺りから芝崎方面にかけて貝谷、滝水、茶屋本、円廻り、梵王寺という五集落があった。これがいわゆる滝水千軒で、若宮千軒と並び伝えて、昔の大飯郷の主体であっただろうと推測されるのである。
 また、この五集落のいずれかの集落が遠敷郡(今は小浜市)の小屋村へ移住したといわれている。ここに通じている小屋坂を越せば四キロメートルばかりで小屋集落へ出られる。明治時代まではかなり通行があり、小屋・本郷間に物資の交流も行われていた。大正年中に郡道に編入され、郡制廃止後県道に昇格したのであった。
 納公女権現の跡には石段などそれらしい跡が残り、その前に大きな岩が露出しており側面が平らで元は鏡のように光っていたのでこれを鏡岩といっている。昔この上に滝水観音が祀ってあったが、天正十八年(一五九〇)滝水坂の改修が行われて、今の所へ付け替えられたので、牛馬も通うようになり、しぜんに不浄になったので、翌十九年に観音はどこへか飛んで行かれ、鏡岩は曇って姿が映らないようになったのだと言い伝えている(『本郷中古伝説記』)。



六社神社

『大飯町誌』
六社神社(元村社)
 祭神とその系統 気比大神(気比系)、江文大神、諏訪大神(諏訪系)、春日大神(春日系)、松尾大神(松尾系)、八坂大神(祇園系)
所在地 野尻字宮の下(一八の一六)
境内地 二、三一一・五八平方㍍
氏子 野尻七一戸
例祭日 十月八日
宮司 松田忠夫
主な建造物 本殿、拝殿、社務所兼参集所
特殊神事 神楽・翁面当・棒ふり
由緒 「大田文」により一二六五年以前の創建
〔末社〕
八幡神社
祭神 応神天皇
系統 八幡系
稲荷神社
祭神 倉稲魂命、大田命、大宮姫命
系統 稲荷系
天満神社
祭神 菅原道真
系統 北野系
〔合祀社〕
広嶺神社
祭神 素盞嗚尊
由緒・系統 一七六七年以前の創建 広峰系


六社神社
 宮の下所在。六社の名が示すとおり祭神は諏訪大神、気比大神、松尾大神、春日大神、八坂大神、江文大神(不詳江尻又は江島大神の誤写か)の六社の神々である。また、大正三年(一九一四)に広嶺神社を合祀した。
 創建は明らかではないが、文永二年(一二六五)の『若狭国惣田数帳』には、野後宮として四反の社領があるから、そのとき既に社があったことは間違いない。これだけの神田の与えられているのは郡内でも大社の方である。延徳三年(一四九一)九月十五日、貞享二年(一六八五)九月二十八日、慶応三年(一八六七)九月二十八日の三回社殿再建の記録が残っている。
道祖神
 六社神社の前の辻に道祖神の石碑がある。正治元年(一一九九)の年号が刻まれているが、碑面が風化したので藩末ごろ再建したものだという。元からこの位置だとすると、ここが村境で佐分利方面へ通ずる街道もここを通っていたのであろう。


六社とか六所というのは総社みたいなもので東西南北天地の六箇所の神を祀ったものと思われる。
誰が祀ったのか。このあたりの六つの神社を当地に集めて一気に祀ろうとした中心権力があったということであろうが、何も記録は残っていない。


曹洞宗発心寺末嶺松山西広寺

『大飯町誌』
嶺松山西廣寺
宗派 曹洞宗(発心寺末)
本尊 阿弥陀如来
所在地 野尻字寺の下(二七の一八)
主な建物 本堂、庫裡、開山堂、鐘楼、倉庫、本堂は明治八年(一八七五)建立
境内地その他 境内一、九五〇平方㍍、畑三九〇平方㍍、山林七、七九八平方㍍
住職 小川宏昭
檀徒数 八五戸
創建年代 明応二年(一四九三)、また、宝暦十年(一七六〇)
開山 没巌覚智大和尚


西広寺
 字寺の下にある。曹洞宗総持寺派発心寺末で、本尊は阿弥陀如来である。創建は明応二年(一四九三)龍的和尚の代である。
 慶長九年(一六○四)玄心和尚再建、宝暦十年(一七六〇)覚知和尚のときになると、銅山も前年から開発されたためであろう、寺運は大いに盛んとなり寺内もすこぶる整った。明治八年(一八七五)高峰徳隣和尚が、また再建した。境外字天王に附属の地蔵堂がある(以上寺院明細帳による)。
 また、字四良田に延命地蔵と弘法大師を祀る仏堂がある、この地蔵は元滝水坂の傾(ゆり)という所に安置してあっだので、村人は傾地蔵と呼んでいる。明治三十八年ごろ武永藤次郎が背負って山を降り庭内に安置して礼拝していた。その後付近の村有地に堂を建てて祀ったのである。
 御詠歌は、「ゆり地蔵いまは麓の娑婆に出で難病人を救ひたまはん」である。弘法大師像はその昔浦松儀右衛門家と城谷孫右衛門家の祖先が相はかって祀っていたのであるが、像を盗まれたので武永太郎助が石像を作らせて代わりとしたのである。


『大飯郡誌』
西廣寺 曹洞宗総持寺派発心寺末 野尻字寺ノ下に在り 寺地一反二畝十一歩 境外所有地一町三反二畝二十三歩 檀徒四百六十三人 本尊阿彌陀如来 堂宇〔〕門〔〕 由緒〔明細帳〕明應二年龍的和尚創建慶長九年玄心和尚再建寶暦十年覚智和尚に至て隆盛整頓明治八年高峰徳隣再建
境外附属の地蔵堂あり。



野尻銅山


六社神社の脇から野尻川をさかのぼって、人家もはずれ、高速が見える所までくると道脇にこんな光景があらわれる。鉱滓捨場のよう、持つとズシっと重いものもある。ここはベンガラ工場(今は資材置場か、車が留まっている)があった所らしいから、このカラミは銅山と関係あるものかは不明だが、鉱山があり、精錬が行われていたらしいという証拠としては、これだろうか。
足尾銅山と同じで精錬すれば鉱毒問題が発生する、佐分利川の鮭やイサザが採れなくなった等々の負の経済も発生して廃鉱となっている。今の原発も同じか。

『大飯町誌』の写真→
「当時」はいつかわからないが、鉱山ありし当時のことか。

野尻鉱山は、天日槍時代にさかのぼる古い来歴を持つ銅やベンガラや銀も採れた鉱山と思われるが、古い時代の記録はいっさい残されていない。
銅山といっても最近のことしかわからないが、それは江戸後期から明治初年にかけて稼行された銅山で三光(さんこう)銅山ともいう。最初に掘られた、銅山の基幹となった鉱坑三光間歩(さんこうまぶ)にちなむものと考えられ、三幸銅山とも記されている。
明和8年(1771)、問屋新介が記した野尻銅山覚(荒木家文書)に「宝暦十辰年ヨリ初リ候由」とあり、「稚狭考」には、宝暦9年(1759)に開かれ、今は男女200人余も銅山に住むとある。小浜藩主酒井忠与は藩直営の銅山とした。藩から命ぜられた奉行・下奉行が管理に当たり、生野(いくの)銀山(兵庫県朝来郡生野町)から招かれた山師らが実際面を担当したであろうが、煙害および銅水による被害のために明和8年(1771)5月に休山となった。採掘された荒銅は野尻から本郷まで駄送し、本郷から小浜津まで船積み、さらに小浜から今津-大津-大坂へ馬と舟で運ばれた。大坂へ送り糺吹の結果は銅100斤につき出灰吹銀2匁7分5五厘であった。この程度の出銀では灰吹銀製錬費も出ず、当時大坂では出銀7匁以下の銅は間吹物と称し、銀絞りの対象とならなかったという。
天保11年(1840)、住友の支配人泉屋源兵衛が小浜に出張して当銅山は再開される。これに先立って文化6年(1809)、住友から当銅山稼方の願書が京都小浜藩留守居役へ差出されている。小浜藩は再開を拒絶したが、住友への借財がかさみ、国内では一揆が続発して藩の財政は窮迫していたので、再開されることになる。天保12年に銅山の詳密な絵図が作成されて正式に再開され、初め住友の経営、のち藩営下に住友の使用人が稼行を担当し、明治3年(1870)3月、採算がとれないため廃止されるまで続けられた。ちなみに弘化三年-嘉永元年(1846-48)までの年平均産銅高は11万4491・5斤。嘉永ー安政年間(1848-60)には30万斤に近い年もあり、産銅高では全国屈指であったこともある。

『大飯郡誌』
徳川時代に酒井侯宝暦九年野尻三光銅山 本郷村 を開きしも、一盛一衰を免かれざりしが如く、現今は此銅山も体鉱し居れり。
近年大島に精鉱所を設けしも鉱毒激甚の爲め廃たれ、唯本郷の石灰と紅殻の盛を見るのみ。

當村野尻に鉱山あり黄銅鉱を産す多少黄硫鉄鉱を含有すれども良質なり今より(大正十五年)凡そ二百四十餘年前小袖源蔵(何処の人たるを知らず)なる者之を発見し開鉱したりしが故あって中止したり其後天保十二年大阪町人住友甚兵術なるものの採鑛願出に依り幕府に伺出の上藩主之を許可せり爾後廃藩に至るまで酒井住友両家にて凡そ三十年間盛に採鉱、吹きみけを行へり明治初年廃藩と共に停山し明治十年野尻区の裏松六太夫借区の許可を受け之を他人に譲渡し以来借区の権利は数人の手に軽々せしが二十六年に至り鑛毒の害大なるものありとなし村内有志太阪鑛山監督所に陳情し遂に採掘を停止されたり然るに四十年十一月坂田貢なるもの再び借区採掘の特許権を得四十一年八月武田恭作氏に其の権利を売却せしが二年の後休山せり其後越中高岡の大庭氏製煉場を設け本山並に所々より残滓砿を集め製煉を営みしが約一ヶ年にして堀某氏に譲り堀氏は亦大正元年に至りて廃場し大島村大浦谷に移場せしが大正六年閉場せり目下野尻区の数名は昔日の残鑛を以て瓦の原料たる「ベニガラ」を製造し年額三千圓内外の収得を挙げつゝあり。
 石灰 父子及野尻山の一部に石次岩を産す、文政年中父子の人猿本吉坂卜朱谷に石灰竃を築き石灰を製造せり。是れ本村石灰製造業の始めなり。猿木吉坂は幾何もなく休業せしが、同区の人田中庄太夫、猿木甚右衛門氏等其の後を継承し、販路を加賀地方に開き漸く盛となりしが、偶々銭屋五兵衛の騒動に会し、石灰の使用を禁ぜられしかば頓に顧客を失ふの悲境に陥りたり。然るに其後当地の同業者相謀りて石灰の効果を宣傳し加賀の国禁を解かしめ、松宮清右衛門氏等の石次製造曾社の設立と相俟ちて斯業は頓に盛況を呈し、一ヶ年の製議は実に四十寓俵乃至六十萬俵に達し其価格五六萬圓の多額に上り、地方産業の随一たるに至れり然れども時代の変遷と共に地方の需用漸く少く、製産費の多きに比し収益之れに件はず遂に今日の衰頽を見るに至りしは惜しむべきなり。



《交通》


《産業》
ベンガラ
石灰

野尻鉱泉
野尻川沿いにあったという。昭和7年、野尻銅山の廃坑から湧出するのを、先代村松藤助氏が発見し、大阪府衛生試験所の鑑定を受けたところ温泉法に該当する優れた成分・効能の鉱泉であることがわかった。泉質は弱緑礬泉、泉温14℃。浴用として胃腸病・皮膚病など、飲用として貧血・神経痛などに効能がある。かつては温泉宿もあったという。

《姓氏・人物》


野尻の主な歴史記録


『大飯町誌』
野尻
 古代の遺跡としては滝水(たきび)古墳群をはじめ、その他数力所に古墳が確認され、また、弥生遺跡もあって、滝水伝説とともに村の古さを証している。その後奈良・平安の歴史を欠き、鎌倉時代も明確なものがなく、近世宝暦九年(一七五九)の銅山開始以前の状態が分からぬのが遺憾である。
本郷村に入る
 明治十七年(一八八四)七月戸長官選が実施され、その戸長の所管区域が改められたとき、本郷村ほか六力村の中に、今まで佐分利組であった野尻、父子が、本郷、芝崎、山田、小堀、岡田と共に包含された(このとき尾内、犬見は加わっていない)。いまだ連合組織で本郷村という村名はかぶせられていなかったが、この後同じグループとして本郷組と一つになるのが例になり、二十二年から正式に本郷村野尻ということになったわけである。
 この集落は南の一面が山岳で、他は開けて見晴らしのよい所である。役場から二・七キロメートル佐分利川及びその支流野尻川に沿ってさかのぼった所にある。区域内の小名は志木野、瀑樋(たきび)、宮の脇等である。
 『雲浜鑑』時代(文化四年=一八〇七)には上町、中町、下町、敷野町となっている。
出合の森
 この集落と芝崎とにわたって出合の森という大きな森があった。今は切り開かれて屋敷や耕地となってその姿を消し、わずかにタモの大木が一本残っているに過ぎない。戦国時代には本郷治部少輔と石山の武藤上野介とが、度々ここで合戦をしたり談判をしたりした所だと伝えている。
 今残っているタモの木は目通り七・四㍍もある大木で、根元にはこぶが多くついているので、こぶダモと呼んでいる。明治三十五年(一九〇二)ごろこの森を伐採して、理性小学校の敷地を広げ校舎を増築したのであった。
 そのとき、今残っているタモの木も切ろうとしたのであるが、枝の茂みに度々大入道が姿を見せた。それは昔戦で死んだ亡霊のしわざだという怪談が評判になって、木挽が切るのを嫌ったのでついにこの木が残されたという。また、その際の村長が、出合の森の本郷、武藤の両軍の戦死者の霊を慰め、大法要を厳修して人心を鎮静させ、学校問題を解決したとも伝えている。
大堂
こぶダモの傍らに尼寺があって大堂寺という。本尊は阿弥陀如来の石の半面彫像(石全長二尺余、像高一尺二寸五分正徳五乙未八月時正し日念仏講中の銘あり)で、まことに姿のよい仏様である。今は庵主が不在で付近住民が管理している。
 御詠歌に、「かみしものながめ妙なる大堂寺阿弥陀の光あらたなりけり」とある。念仏講があって時々法会が行われている。堂の側に石碑が数基あるが、その一基は六方仏である。納公女権現の跡地からここに移して祀ったのだという。
野尻又次郎
 昔、野尻又次郎という刀鍛冶がいたという。『若狭郡県志』に「野尻又次郎の刀」として、「伝え云う大飯郡野尻村に鍛冶有りて刀を製す。野尻又次郎の字を刀心に雕る、或は又康吉の二字を雕ると云う。」とあり、『稚狭考』には「九州道の記」にある「脇指の価をとえば安吉のなかこただしきめいの浜かな」(細川幽斎)を挙げて「……此鍛冶大飯郡野尻村又次郎康吉なり、文字違えり」としている。戦国時代のことであろう。集落の奥に鍛冶屋谷という所がある。あるいは又次郎に関係があったかもしれない。
広右衛門
 若狭の義民松木庄左衛門長操の請願事件に、大飯郡からは笠原の藤助、広岡の七太夫、野尻村の広右衛門が加わり、同じく捕らわれて獄につながれた。広右衛門は庄左衛門と共に節を曲げず、他の者は放免されたが、両人は許されず、九年後の元和二年(一六一六)二月に広右衛門は獄死した。
 松木事件については事が藩政に関することであったから、藩をはばかって詳細な記録を残さなかったうらみがあり、年代にも食い違いがあるが、今は伝承によるよりほかはないのである。
銅山
 宝暦九年(一七五九)から小浜藩の手によって採鉱された。鉱脈に断続があったため事業に消長があり、天保に及んで大阪の住友の手を借りて再開したが思わしくなく、明治・大正・昭和にかけても同じく消長が続いた(第四編第三章第三節鉱業参照)。


『大飯町誌』
鉱業
野尻銅山と大浦精錬場
発見されたのは今から三〇〇年ほど前のことだという。細手源蔵(『本郷村誌稿本』による。『本郷湊』には小袖源蔵と改めてある)が発見して採鉱を試みた。これを野尻の金山(かな山)と言っていた。伝わるところでは八間四面の黒箔(最良の鉱石)に当たった。ところが藩主(忠隆時代か)が鉱山は国禁だといって差し止めたので、源蔵はそのありかをくらましてしまったのだという。この伝説の真偽は分からぬが、ともかく金山という名称はあったらしい。
藩営
その後宝暦九年(一七五九)になって、小浜藩の手で採鉱が経営されることになった。当時の藩主は忠興であるが、前藩主忠用が同年七月二十九日本郷まで出張して新輔方で中食をとっている。銅山見聞の意味かもしれない。いよいよ着手されたのは翌十年らしい。「野尻銅山宝暦十辰年より初り候由、其砌は郷方御役所より御両人御成りの方何角と差図これ有り候」(荒木新輔家文書)とある。恐らくこれは試掘程度のことであっただろう。初めは石一〇〇〆目につき銅が四五〆目ばかりであったが、それが七八〆目ばかりとなり、今は三四・五〆目ばかり出る、と永谷家の旧記に載っていたという。今というのがいつのことか明らかでない。
 三五㌫もの銅が出たことになる。これは本格的に発掘が進んだときのことだろう。「其後中絶いたし、二、三年は相止み候処、宝暦十四申年より大催に相成り御用人鹿野勘助様、銅山世話人には佐々木久平衛様□□段々御世話遊ばされ候、其砌久平衛様□□(申されか)候は、段々御山も御繁昌に付銅も□□(野尻か)本郷に然るべき問屋申付候様にと仰せられ」(荒木新輔家文書)とあるのは、このときの中絶が大仕掛けに経営するための準備期間であったことを指しているらしい。段々御山も繁昌とは先の見通しが立ったことを指しているように思える。野尻、本郷の問屋は野尻の六郎右衛門と新輔になった。宝暦十四年(一七六四)の五月のことである。「同月に野尻銅山へ鹿野勘助様御出成され候て今日より銅山用立世話致すべしと仰付けられ候。
 其節本郷舟岡山の西方の松御伐り成され候て、右の板木の世話仕り侯。枝葉は新介へ下置かれ候」(同上書)これが新輔の問屋役の手初めであったらしい。銅山の採鉱は「一但州生野銀山より柏村理兵衛と申す仁、外□□(に某と中す)仁参られ候、新介方御宿にて□□(御座候)尤も造作代は御上より遊ばされ候」(同上書)の通り指導者として生野鉱山の経験者を入れた。
 これで本格的な採鉱ができるはずになった。藩側の役人も任命された。「右の節銅山役人の覚-御奉行土田安左衛門様、武藤嘉十郎様、下奉行衆中黒瀬徳助殿、宮川太右衛門殿、水橋和七殿、中西藤兵衛殿」(同書)とある。
 同年九月になると「……銅山へ御召成され候て、銅山荷物……杯舟積店賃、舟賃仰付られ候、一、野尻より本郷迄籠先壱駄に付銭壱厘、一本郷より小浜迄舟賃壱駄に付同一厘……右の通り仰付けられ候。同九月和田村御林にて松木八拾本御伐成され候。則和田村庄屋吉坂手代参り候。新介請取銅山へ持運申候。舟は和田村権右衛門舟にて御座候。其刻外面(そとも)御林にても御伐成され候。是も本郷浜へ参候。舟は小浜金屋三船に御座候、名田庄長谷村与作と申者請合候て世話仕候。小浜御用六、七人参り申候。」おいおい仕事が増えてくるし、本郷港は銅山の杭木などの荷揚げで活気づいてきた。『稚狭考』に「……今は男女二百人余り是がために居住す」とある。『稚狭考』は明和四年(一七六七)に出来ているから当時の盛況を伝えたものである。
 「明和二年十月に銅山へ御召成され候て、銅荷物伝馬拵え申候様に仰付られ候。馬は新介野尻六郎右衛門両人に御座候。食拝借として御蔵米拾五俵御借成され、五年になし利なしに御座候」。
 開業以来五、六年で漸く銅荷が野尻から本郷へ、伝馬の背で運び出されることになり、夫食料として米一五俵を借用したのであろう。「一、大坂岡橋平右衛門町大椽屋甚右衛門と申す銅問屋参られ、則ち甚右衛門伜新介へ参られ候。手代一人荷物二人上下四人鹿野勘介様御同道にて御座候。則新介方に御休み成され候て銅山へ御越成され候、御中食御持参に御座候。其後造作代として一人前五十文一厘あてに銭丁七百文下置かれ候。」大阪の銅問屋が乗り出してきた。これから藩の台所へお金が入り始めたのであろう。野尻までは今日のように楽々とは行けない、中食持参で歩かねばならぬし、道のべの渡しも渡らねばならなかった。
 宝暦九年から明和六年まで小浜藩は米手形を通用させている。(米六万石を見当としていた。)これは色々な社会情勢にもよろうが、この銅山経営という大事業に注ぎ込む資金づくりの一手段であっただろう。
 「一、明和四年夏黒瀬徳介殿御成にて大飯郡中納り縄、和田村御蔵より小浜納め舟積の義仰付られ、則右七月初より右の舟積仕り候。ただし小浜は御作屋縄蔵に御坐候。船参り候節は親子の内一人宛上乗り致し罷越し申候。併本郷蔵の繩も一所に積み申候事」、この黒瀬徳介は銅山下奉行であるし、新介も銅山の仕事をやっていて船も持っている。この記録も「明和八歳卯五月日銅山覚、問屋新輔」と表書のある帳簿であるからこの繩も銅山関係用のものとして作事屋に格納したものらしい。銅山作業は相当順調に進んでいたように思われる。
 「一、銅山小屋屋根板葺替に付屋根屋神宮寺村太兵衛と申すひわだし参られ、新介方にて仕事致され候。尤板は松板にて外面御山にて御伐成され腕木に御坐候。尤へぎくず抔は新介へ下置かれ候」小屋の板屋根を葺き換えて、仕事を更に継続する意向が見られる。
 『本郷湊』に「三光銅山(野尻銅山のこと)は著名の銅山で伊予の別子銅山などと名を等しくしていた。此の鉱山は〝ポケット式〟(鉱質は黄銅鉱)に属するも彼の世俗の評する如き絶対に鉱脈がないとは云われぬ、或る間隔を置いて一大団塊をなす……」と説明しているように、鉱脈に断続があったらしく、「野尻は近来大抵余計有て国の利もあり、明和七年までに地道を掘ゆく事凡一八〇町といえり。さざゐからに灯を置て、岩穴に在てあやまりて灯を失ひては、声を張て匐るとも他に聞ゆる事なく、ただ胸を叩けば其響を人しりて灯を出すといへり。胸は表裏ありて效のこときものなれば響くなり。灯はささゐ貝に油をいれて、藺を組て蓋とす。上下相照して油こぼれず」と、『稚狭考』にある通り、随分坑道をのばして探しているようである。
休山
ここで銅山覚書が切れて、天保六年(一八三五)にうつるのである。銅の採掘がいったん中絶していることがわかる。
 本郷渡邉源右衛門家文書中、明和六年本郷大火後の処理のところに「野尻に御銅山有り不思議に右の年(明和六年)五月七日に御休山、吹屋小屋を買ひ三間二尺、六間立申候、村中の者我も我もと銅山小屋買取り小屋掛けいたし候」とある。休山が思いがけなく大火後の小屋掛けに利用されるということもあった。
 同書にはまた「一、野尻にて御銅始り甚だ盛に御座候処、凡かなほり二、三百人、諸役人中、日雇大工人数三、四百人も人入込候処……」とある。誠に惜しい時の休山で、モの理由がのみこめないのである。
 丁度、明和七年(一七七〇)に米手形も廃止されている。何か藩自体に大きな事情を蔵していたのかもしれない。『稚狭考』に幕府から銅山の事情を取り調べにきた時、銅山を取り上げられる恐れがあったので、鉱山カラミを仏谷へ移し、ここで他地方から鉱石を取り寄せて作業しているように見せかけて、幕府役人をごまかしたのだということが出ているということだが、(『稚狭考』を探してみても、ちょっと見当たらない)そうした伝説があったとすると、あるいは幕府の監視を恐れて一時休山の処置に出たものか、渡邉源右衛門家の御巡見記録の中に、答弁要領案を次のように記したところがある。
 「野尻村銅山の義御尋ねなされ候はば、先年宝暦十三の比、暫の間掘り仕り候処出方宜しからず、雑用引合申さず、其迄村方にて甚害のみ出来仕り候に付、其後明和八年休山に相成申候。右害は銅山に付煙かかり、並に銅気の水かかるにて一四ヶ村程田畑病念作合宜しき所に寄り一向種を蒔き候ても生え申さず、或は悪水流出植付難儀なる場所も多く候へば、堀の内は遠近の山々より焼釜入用の板木、炭、縄出等にて、夥敷く山を荒し候、第一右一四ヶ村の畑にこれ有る油木夥敷く枯れ、植継仕候ても育ち悪敷く、将又毎年献上の 鈔も此川へ登り申さず不猟仕り近辺の浦々までも魚猟宜しからず、右体の差支夥しく御座侯に付休山に相成候様に承り申候由、程よく申上ぐべく侯事」とある。公害か貧鉱か幕府を避けてか、明和休山の真相はわからない。
再開
以来七〇年の空白時代を隔てて、天保十二年(一八四一)五月に大阪商人住友甚兵衛が銅山再興のことを出願してきた。藩主忠義は同六月幕府に伺いを立て、幕府勝手掛水野忠邦がこれに許可を与えたのである。(これに先立って天保七年中二月十七日鉱石盗出しの事件で数人の者が入牢又は所払いの処分を受けている。その申渡しの文中に「:…在国者右金石夜分追々盗取……」とある。留山中に起こった盗掘事件であった。)
 天保十三年に試掘精錬の結果良好の成績を見たので、さらにこれを大阪の銅座へ移出することを願出、これも併せて許可されたのである。その後廃藩になるまで酒井家と住友の合弁の形で事業が進められていたが、その間一振一衰の状態であったらしい。
 当時坑夫のことを金子(かなこ)と呼び、三人一組になって働き、一人は松松(又は灯火)、他の一人は鉱石を入れる器を持ち、もう一人は鉄槌でコツコツ鉱石を打ち欠いていた。そのほかに鉱石を運び出す者、湧き水をはかすものなどがあって、通風の悪い中で大きな苦辛をなめていたのである。そして、その掘り出した鉱石の一〇分の五は幕府、一〇分の四は酒井家住友、一〇分の一が坑夫等への分け前となるのが当時鉱山経営の一般方式であったようであるから、野尻においても多分同様であっただろう。
 銅山再開に当たっての地方人の心情には複雑なものがあった。再開を喜んで色々の思惑を願い出る者が続々あるかと思うと、煙害を理由に反対陳情を一一力村庄屋百姓連判で差し出すという風であった。反対運動は第二編第四章第十三節災害と鉱害で説明してあるが、ここには銅山あての開業風景を諸願書中から抽出して見よう。

   恐れながら願上げ奉る口上の覚(十通)
一、此度野尻村銅山の儀に付近々仰出されも御座有るべく哉の旨承知し奉り候。弥々右銅山御開き始り候はば諸色御入用の品々多く御座候由、
兼て承知仕候。其外右に付ての御用掛りに付
 一、馬釈(借)先年新助御用相勤居申候。
 一、川運送に相成候はば川舟支配人、
 一、肴問屋並に煮売共是分別家由兵衛方へ、
右等の類私へ仰付させられ度願上奉り候。御用向の儀都て大切に相心得、納物の儀は品物吟味仕り成丈け下直に相働き納め奉り度存じ奉り候。何卒御慈悲を以て前文の御用仰付けさせられ下され度願上奉り候。
 右の通り仰付けさせられ下され候はば冥加至極有り難き仕合に存じ奉り候以上
    天保十二年辛丑六月    願主  上下村新助 ○
                     同 由兵衛 ○
                       (庄屋組頭加判)
   沢田源五右衛門 様
   三浦 又右衛門 様
   針谷 連左衛門 様
 これと大同小異の願文で願い出た業種願主は、およそ次のとおりである。
 (村松喜太夫家文書の分だけ) 一、髪月代(上下村政右衛門)、一、薪類一切、一、麺類一切、草履草鞋(上下村庄左衛門)、一、肴屋一式(上下村又市)(同右衛門)(同安兵衛)、一、瀬戸物類一式(同善兵衛)、一、茶、一、菓子一式(同喜平次)一、馬借(同安右衛門)(同孫右衛門)、
 これは上下村だけで、このほかの市場、野尻村あたりからも出たであろう。どれだけ実現したかは分からないが、銅山のために当地方の賑わいは十分察することができるであろう。殊に銅の回漕には渡邉源右衛門家が当たり、また、銅熔解用の木炭の調達には同家と時岡又左衛門家が共同で当たっていた。
 弘化嘉永のころになると、煙害補償の陳情が続々出ている。これは第二編に譲って、嘉永六年(一八五三)八月に藩は大砲増鋳のために、野尻銅山の出銅五ヵ年を充てたいと願い出たが、幕府はこれに許可を与えなかった。
 住友家の番頭秦與平の墓碑が野尻西広寺内に建っている。現場へ出張中死亡したものと伝えられている。また、同じ番頭の一人は、出張中詳しい銅山関係の書類を持ち去って、九州のある炭鉱を経営したということもあったという。こうした大事業には色々な事故が伴うもので、なかなか順調にはいかないらしい。
明治以後
 廃藩によって停山したのであるが、その際の処理方等について記録したものがない。また、それについての伝承も残っていないのは不思議だと思う。もう衰廃してしまっていたのかもしれない。
 明治十年(一八七七)に野尻の浦松六太夫が借区の許可を受けて、同十三年に彦根の杉村次郎に譲渡し、以来借区権は数人の手に転々と移っていたが、同二十六年に浦松勇太郎が鉱毒等公益に害があるというので、本郷の時岡又左衛門、渡辺源次郎、芝崎の吉岡四郎右衛門、父子の田中京蔵等本郷村内の有志を説いて、大阪鉱山監督所に陳情させて、とうとう採掘を停止されることになった。
 しかし、明治四十年十一月になって、坂田貢なる大が再び借区採掘の特許権を得て、翌年八月武田恭作に二二万円をもってその権利を売却した。
 武田は、資金二〇万円を投じて、三光銅山と称し近代的な大規模な施設(特に武田式炉機を据えて)をもって昼夜作業を進め、坑道も縦横数力所を掘り、鉱石・資材搬入出のため現場から本郷瀬崎の海岸まで一直線の鉄索を通じ、毎日間断なく運搬した。
 当時の鉱区坪数八八万五、四六九坪、一ヵ年の産額四十一年度八三九円、四十二年度二万八、七七〇円に達し、一時非常に盛大に行われたが、これも経営二ヵ年で四十二年の十月にまたまた休山してしまったのである。
大浦精錬所
『本郷湊』には、精錬所について次の意味のことを記している。
 「越中高岡の大庭庄左衛門が資本金十万円で経営していた。その鉱石は主として長門の於福、播磨の入角(いりつの)、宮前、能登の赤住、越前の坂井郡竹田、若狭小山(泊)の各鉱山から輸送して来た。月に五千貫目、一万円の生産額をあげ、銅塊一個は八、九貫目で時価十五、六円である。この銅柱中純銅九七%を含んでいる。一定の数量に達する毎にさらに大阪精錬所に送るのであったが、大きなルツボの中から灼熱された銅の熔液が流し出される様子、煙突から噴き出す亜硫酸ガスの臭い匂いが今でも眼底や鼻先にまざまざと再現するのである。
 明治四十三年(一九一〇)林平蔵の質権を執行し、約一ヵ年間この地に経営し、同四十四年九月島根県宝満山礦業主堀藤十郎がこれを譲り受け、支配人板垣仁吉指揮の下に同年十一月から事業を開始し、翌年五月さらに二倍の鎔鉱炉を据付けて事業の進捗に努めたが、大正元年(一九二一)十二月に至り認可期限が満了したので、煙毒被害地として目せられた大島村へ向う五ヵ年間の契約で、賠償金一千五百円の内一千円を提供し、大正二年一月から尾内の前田喜代蔵の名義を以て認可を得て、大島の一角大浦に工場を移し、野尻銅山のカラミは本郷軌道会社の軌道によって本郷港に出し、船で大浦に積出していた。
 輸入鉱石と共用し爾来昼夜不断硫煙を揚げて作業に従事している。目下これに使役している人夫は男女合して二百余人で鎔解量は一日五〇万貫、銅の産額一ヵ月約二〇万斤に上る。これを金額に積算すると実に1ヵ月四万円の収入であるという。」
 しかし、これも大正六年(一九一七)に廃場されるに至った。
ボーリング試掘
 その後、昭和八年(一九三三)に日本鉱業会社が改めて三光銅山を試掘することになり、ダイアボーリングで探鉱を続け、十三年から昔の竪坑によって、一〇〇メートルの底深く掘り下げ六〇~七〇%の良質鉱脈を発見し、一五〇馬力の大排水ポンプを装備し、将来有望であるとの風評であったが、企業化しないうちに戦時態勢となって時勢が激変したので、全く沙汰やみとなったのである(『本郷村郷土読本』参照)。
ベンガラ製造
 野尻銅山の副次的事業としてベンガラ製造が行われていた。越前瓦の原料その他塗料として、越前、加賀、越後方面に年々一万円内外(昭和初期)の移出をしてきた。その沿革は明らかでないが、銅山と共に開発されたものであろう。原料は銅山の古い残鉱(酸化鉄鉱)である。その生産額は明治四十三年末四、八〇〇貫・三〇〇円、四十四年末一、〇〇〇貫・五、〇〇〇円、昭和二十六年度末一五〇トン・一〇二万円、同三十四年一一一万トン・二、〇〇〇円、経営者は明治のころ一〇人ばかりいたが、その後は万願寺の木村治だけとなり、現在それも休業状態が続いている。
ベンガラの製法
 採掘した赤鉄鉱(カラミがなくなってからはこの原石を用いている)を蒸し焼きにする。まず穴窯(径三㍍・深さ一㍍)底に松丸太を並べ、その上に原石を三〇センチメートルほどのかさに積み込み、その上にまた松丸太を並べる。これを交互に繰り返して上を覆って点火する。火は原石の硫黄分に燃え移るから次第に蒸し焼きとなる。すっかり焼けるのに七~一〇日間はかかる。この分量が一回に一五トンぐらいである。
 この焼き上がった石を水車で交互に落ちる竪杵を用いて水中で搗き砕く。赤濁りの水が流れて沈澱池に入り、ここで沈澱する。上水は流れ去り、沈澱物は乾燥される。よく乾燥したものを袋(四〇キログラム)に入れて出荷する。昭和四十四年(一九六九)当時は月産二〇〇袋ほどで、一袋八〇〇円ぐらいである。
 初めは個人経営であったが、大正~昭和の初期には同業者が一一人、水車二一台にもなって、一時生産過剰を来すこともあった。
窯業
町内にあった窯業は次のようである。
  名 称 一 所在 一 経営者 一  年代製品等

 以上のほか本郷犬間・小堀で瓦を焼いたというが詳細不明である。
石灰業
 石灰岩の埋蔵地区は、父子及び野尻山を主とし佐分利地区にも所々あるようである。埋蔵量は明らかでないが、父子山などはほとんど無尽蔵に近いといわれてきた。今から約一六〇年前の文政年中に、父子村の猿木吉坂が、同地の小朱谷に石灰窯を築いて、これを採掘製造したのが初めだといわれている。
 しかし、これを経営することわずか数年で休業したので、同村の田中庄太夫、猿木甚左衛門が小朱谷、小屋坂口に更に窯を設けてこれを続けた。
 当時は小規模で、この地方の肥料として供給する程度のものであったが、追い追いに業務を拡張して、販路を加賀方面に広めるに至った。それも、交通不便の当時のことでもあり、また、設備も不完全なものであったため、いたずらに費用ばかりがかさんで収支相償わず、しばしば企業者も替わって次第に衰退していった。
 しかし、明治の初めごろから本郷石灰の価値が認められるようになり、石川県方面の販路も拡大の一途をたどり、同三十年ごろには製造業者も十指を超え、尾内八ヶ崎、里ヶ前、本郷絵郷、小堀丸山、車持田尻地区の海岸近くには大小一八基の焼き立て窯が築造されるまでに発展したのである。
 越えて大正元年(一九二一)個人経営の石灰窯を統合して、新たに本郷石灰製造株式会社が組織され、翌年二月から営業を開始した。当時社長は松宮清右衛門、取締役に荒木三太夫、荒木伍市郎、北野喜兵衛、時岡八兵衛、中村源蔵、磯野八蔵の七人が就任した。
 一方原石運搬については明治二十年(一八八七)に父子の田中京蔵、猿木友次郎が採石場から父子出口に至る間に県道を開通した。同三十年には時岡又左衛門ほか数名が合資会社を組織して、たもの木峠から父子出口まで軌道を敷設した。この会社は同三十九年二月に名義を変えて、猿木友次郎ほか数名の合資会社となったが、同四十四年松宮清右衛門がこれを譲り受けた。
 しかし、父子出口から本郷までは旧来どおり川舟や車力による搬出に頼っていたので、経費もかさみ原石の不足をも来すようになった。村松己之助ほか数名が発起人となり、父子出口から佐分利川の川口まで佐分利川右岸堤防使用の許可を得て、本郷軌道株式会社を設立、軌道を敷設したので、川舟や車力に代わってトロッコによる原石の搬出となった。
 大正十年(一九二一)小浜線が開通すると、本郷駅構内に引込線敷設の許可を得て同年末敷設を完了したので、製品も従来の船舶輸送から鉄道輸送に切り替えられたのである。
 こうして工程も燃料、窯の構造等進歩改善され、とみに活況を呈し、一時は販路も加賀、能登、越前、山陰、九州地方にまで伸びていったのであるが、いかにせん化学肥料の発達とともに逐年需要が減少して、大正中期ついに本郷石灰製造株式会社も解散のやむなきに至った。一時は松宮清右衛門の個人経営となっていたこともあるが、昭和初年焼き立て窯二基を残し、そのほかを全部破壊して、新たに本郷石灰商会が時岡繁次、磯野八蔵、時岡敬示の三人によって発足、細々と営業を続けていたのであるが、昭和十七年(一九四二)株式の大半を日本火工(株)の森暁に移譲(会社は存続)した。
 以来生産を中止していたが、昭和二十三年十二月生産が再開された。父子~本郷間のバッテリーカーの運行、あるいは削岩機の使用等により面目を改めつつあったところ、同二十六年八月本郷軌道株式会社と本郷石灰商会の全施設と資産が売却され、施設は痕跡をとどめぬまでに撤去されて、ここに文政年間からの長い石灰生産の歴史に終止符をうったのである。
 佐分利地区の久保山にも石灰窯があり、安川の荒木の経営であったが、これも同一の運命をたどったらしい。
   石灰年産額表(旧本郷村)
   年  度    価  額     数  量
  大正三年度  四万七五〇〇円
  大正七年度  八万〇〇〇〇   四〇万〇〇〇〇俵
  大正十年度  五万九六九七   二三万一一〇〇
  大正十五年度  一万九七九五    七万七六一八〆
  昭和五年度    七四八〇    三万四〇〇〇
  昭和十五年度  二万六九六五   一三万三二九二
以下石灰に関するその他の資料を掲げる。
  一、天保七申、当年石灰切替願、両加斗、鯉川、長井、尾内、本郷三ヶ村、和田、薗部、高浜、新助売場に願。
  一、天保七年三月十三日半晴半雨出浜、石灰に付板伝掛合役所出
  一、同三月二十六日、神崎浅右衛門来、石灰三百二十俵積せ、出石へ遣す。
  一、同四月五日柏屋伝兵衛先達石灰売先の儀頼入候処、頼通りに成呉れられ候。……(以下略)……  (本郷 荒木新輔家覚書)
 この覚書によって、天保七年ごろ本郷荒木新輔が石灰焼きを行い、自分の船(船頭浅右衛門)で但馬の出石へ三二〇俵送らせたり、小浜板伝柏屋などに石灰販売の仲介を頼んだりしていることが分かる。
  一、改良石灰壱千百三拾俵(明治二十七年三月二十六日)直段八銭五厘換約、代価九拾六円○五銭
  一、肥料灰千百六拾俵(同年四月二十八日)直段八銭三厘換、代価九拾六円二十八銭
  一、肥灰壱千百俵(同年六月六日)
    直段七銭七厘五毛換代価八拾五円二拾五銭
                   (尾内-長栄丸請渡帳)
  一、御売仕切
   一、村松石灰三百五拾俵、直段十銭九厘御手取代三拾八円拾五銭
   一、喜平石灰七百六拾俵、直段壱俵二付十銭八厘御手取代八拾弐円○八銭
   一、カノ木 三拾三本
   代拾二円五拾銭
   〆百参拾弐円七拾三銭
    同四拾四銭、石灰二十二俵ぬり引
   合而百三拾弐円弐拾九銭
   右の通り売払代金相渡し表出入無く相済申候也
    明治二十六年七月十九日
         美川(石川県)
                     新 次 郎 (印)
     時岡兵蔵 殿
  一、売記
   一、庄右衛門石灰 五百俵
      直段壱俵に付九銭八厘五毛 御手取代金四拾九円弐拾五銭
  一、喜平石灰 六百俵
     直段壱俵ニ付九銭六厘 御手取
    代金五拾七円六拾銭
   合計〆壱百〇六円八拾五銭
    此内四拾弐銭 川入賃
    又四拾四銭八厘、ぬれ引
     〆八拾六銭八厘
    指引、壱百〇五円九拾八銭弐厘
   右の通り売払代金相渡し此表出入無く相渡し相済候也
    明治二十七年六月十六日
       中田岩次郎(印)(加賀国安宅港)
     時岡兵蔵 殿          (長栄丸-仕切書)
 上の資料によって、村松善兵衛、喜平(北野)、庄右衛門(植田)が当時本郷で石灰を焼いていたこと、また、石灰に改良灰、肥料灰の品等をつけていたことも分かる。販売先は加賀の美川と安宅であった。このほかにもあっただろうことは分かるが、石灰と明記した分を挙げただけで、ほかは第三章第一節商業を参照されたい。


『稚狭考』
佐分里谷野尻の銅山は宝暦九年卯の夏はしめて開かれしなり。金銀の出さる地なけれとも費をつくなひかたき物と〔漢書地理志〕呉郡の註に見ゆ。しかれとも所にもよるへし。野尻は近来大抵余計有て国の利もあり、明和七年まてに地道を堀ゆく事凡百八十町といへり。ささゐからに燈を置て、岩穴に在てあやまりて燈を失ひては、声を張て匐るとも他に聞事なく、たゝ胸を叩けは其響を人しりて燈を出すといへり。胸は表裏ありて皷のこときものなれは響くなり。燈はささゐ貝に油をいれて、藺を組て蓋とす。上下相照し油こほれす。

野尻の伝説・民俗など


『郷土誌大飯』
野尻の子供山の口
 山の口行事は大人の祭事であるのに、野尻では珍らしく子供の行事となって、敷野字の子供達で行われている。小学~中学の男子だけが参加、日は十二月九日と一月九日で、午後四時頃から開始される。
 三森谷の登り道になってから、七十m位のぼった処に、山を背にした路傍に小石三ヶを並べた遥拝所(1)があり、又五十m程上った道ばたに、山に向って石を三ケ並べた遥拝所(2)があり、又五十m程上っだ処に、山を背にして石三つ並べた遥拝所(3)がある。昔は裸参りをしたが今は普通の服装で、甘酒、お白ごく(餅米粳米両方を用う)、小鯛九尾、たいまつ(麦ワラで七段に造ったものと、五段につくったものを、各一本)青竹六本。しめ縄の品々を持って、定刻に出発ずる。
 村はずれのあたりから七段のたいまつに点火し、山麓の道を一五○~二〇〇m位歩きながら、中学生が「オー」と呼ぶと、小学生が「トンコさん」と答えこれを繰返すのである。山麓の道が登りとなると、一同は沈黙を守って静かに歩き、一番上の(3)の遥拝所まで登り、タモノキの葉に甘酒白餅小鯛三尾をのせ、三つの石の上にお供し、その後方に青竹六本を立てて直線にしめ縄を張る。ここで山を背にして遥拝し、前以て準備しておいた焚火と七段のたいまつを共に燃やす。そして五段のたいまつに新に火をつけて山を降りてくる。(2)の遥拝所で又白絣甘酒小鯛三尾を三つの石の上に供えて、此度は山に向って遥拝する。ここでも焚火を焚いて山を下る。(1)の遥拝所でも同じくお供えをして、五段のたいまつを焚木と共に大いに燃やし、白絣を焼いて一人に二個宛食べる。これを終ると山を降りて講元の家へ帰る。午前六時頃講元で朝食をご馳走になるのである。講元をした子供は其年から仲間を退くきまりになっている。


野尻の小字一覧


野尻  大丸女 上茶屋本 本能寺 界谷 上七ツ岩 下七ツ岩 神舞 堂屋敷 山根 墓ノ前 大正 東奥南 西奥南 宮ノ上 宮ノ下 田良田 堂ノ下 天王小尻 堺 小尻 天王下 西ノ下 寺ノ下 次良丸 梶構 野崎 三ツ森谷 明神 野中 一本玉 上河原 下堺 明神 黒岡 西黒岡 香治屋谷 宮近 東滝見 西滝見 東宮城 宮城 小谷 四町 保木谷 足谷 愛宕山 東位屋谷 西位屋谷 小畑 牛馬谷 稲山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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