丹後の地名 若狭版

若狭

小倉(おぐら)
福井県大飯郡おおい町名田庄小倉


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福井県大飯郡おおい町名田庄小倉

福井県遠敷郡名田庄村小倉

福井県遠敷郡知三村小倉






小倉の概要




《小倉の概要》
国道162号の「小倉トンネル」があるあたりで、南川の両岸に開けた地域。左岸を小倉、右岸を片内と呼ぶ。旧村合併による名田庄村発足以来文教地区となり、名田庄中学校・名田庄小学校などの教育機関が置かれている。
小倉村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年南名田村の大字となる。
小倉は、明治22年~現在の大字名。はじめ南名田村、明治24年知三村、昭和30年からは名田庄村、平成18年からはおおい町の大字。明治24年の幅員は東西5町・南北3町、戸数34、人口は男99・女98。


《小倉の人口・世帯数》 134・43


《小倉の主な社寺など》

苅田比古神社(式内社)

「若狭国神階記」に「遠敷郡従三位苅田彦明神」とあり、2月3日と9月3日が例祭。今の国道162号の小倉トンネルを通らずに旧国道沿い、「名田庄こども園」の向かい、「名田庄あきない館」の後ろ側になる。式内社とされる。知見郷6か村(久坂・堂本・挙野・小倉畑・染ヶ谷・小倉)の産土神で、知見の宮とも呼ばれていた。
『名田庄村誌』
苅田彦(比古)神社
所在地 小倉
創 建 大同元年(八〇六)
祭 神 苅田比古明神
 稚狭考によれば、知見に苅田彦大明神(祭日一月三日・九月三日)があり、申楽が行なわれるとする。知見の中心は小倉であったらしく、この地に苅田彦社があったこというまでもない。なおこの書によれば三重にも苅田彦社があるとする。郡県志にも苅田彦社が三重と小倉畑二村にある旨みえる。これらは小倉の同社よりの分祀であろう。下の苅田比売社とともに陰陽神であり、延喜式の式内社として、古来その神格が高い。恐らく名田庄谷から佐分利谷にかけて、古社として篤信されていたものと思う。
 史料編にあげた天保五年(一八三四)の棟札によってもわかるように、知見六カ村すなわち久坂・堂本・挙野・小倉畑・染ヶ谷・小倉の各村の立合いによる社で、知見の宮ともいわれる。国中高附によれば、秋は江戸風の祭りが行なわれ、能が演ぜられるという。恐らく能役者を招いて行なったのであろう。伴信友の神名帳考証によれば、この社は穀霊を祀るとされる。神名からうなずかれる。なお江戸末期知見宮を再建した時の詳細な記録が、小倉区下中治太夫氏に伝わる。


『遠敷郡誌』
苅田比古神社 村社にして同村小倉畑字宮ノ谷にあり、舊時苅田彦大明神と稱し、堂本・擧野・久坂・小倉畑・志見ケ谷・槇谷・小倉の各村を氏子とせり、大同元年建立すと謂ふ、延喜式に苅田比古神社神名帳考證に苅田比古神社穀霊とあり、本國神階記に從三位苅田彦明神あり、祭神不詳、境内神社祭神不詳は文明年間創立すと謂ひ明治四十四年移転す。.


曹洞宗萬照山円福寺

『名田庄村誌』
円福寺
宗 派 曹洞宗
所在地 小倉区第二十五号字寺の上第五番地
 慶長十六年(一六一一)現在の小浜市青井妙徳寺第七世玄要の開創と伝えられている。
 本尊は木造聖観世音菩薩立像で、江戸時代初期の作と考えられる。本堂は文化九年(一八一二)の建立といわれる。今日、相当いたみもはげしい。
 三世太山龍山は、法話説教で有名な宇野玄機について、修学叢林行脚証明を得、また、曹詞宗宗門第一番目の階位といわれる立職の階位を得た。
 また六世良价は、最後を大本山永平寺の役寮に終っている。


『遠敷郡誌』
圓福寺 右同寺(見性寺)末にして本尊は観世音なり、同村小倉字寺ノ上に在り、元龜元年(一本慶長十六年)妙徳寺第七世三哲和尚開創す。


東光院

たぶんここであろう。それらしき所はここしかなさそうである。
名からしても当地周辺では最古の寺院と思われる、真言宗以前からの寺院であろうが、さしたる記録はなく、今はこうした状態である。
『名田庄村誌』
東光院
宗 派 曹洞宗
所在地 小倉区第十三号堂の本三番地
 本尊は木造薬師如来立像。かつて真言宗寺院らしく、その由緒は、古いと伝えられているが、明らかでない。
 宝亀年間(七七〇-七八〇)の創建といわれている。応保元年(一一六一)兵火にあい、建長三年(一一九二)再建された。元亀元年(一五七〇)妙徳寺第七世玄要が改宗した。現在は無住で、円福寺住職が兼務している。


『遠敷郡誌』
東光院 右同寺(見性寺)末にして本尊は薬師如末なり、同村小倉字堂ノ本に在り、元龜元年妙徳寺第七世三哲和尚建立す。

東光院の辺り一帯を知見出雲守屋敷跡と伝え、「若狭郡県志」に「相伝、曾知見出雲守領二知見郷一宅二於比処一而居焉、今為二耕種之地ハ所謂知見郷者、小倉・久坂・挙野・小倉畑・槙谷・志見谷・堂本等也」と記される。知見出雲守は武田信栄の部将土屋六郎左衛門の家臣。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


小倉の主な歴史記録


『名田庄村誌』
小倉
 南川沿い久坂に隣接した上流に位置する。知見出雲守の屋敷跡があり、古くより政治の一中心をなしている。曹洞宗東光院がある。宮の谷の苅田比古神社は式内社である。さらに同部落には円福寺(曹洞宗)がある。
 藩政時代以来農業を主業とし、製炭を副業としてきた。現在は第二次産業に転じ、農業は完全に副業化している。南側・北倒ともに、山裾に斜傾する扇状地的地勢に達成された小段丘に密集した集落である。
 大正三年の戸数二十八戸、人口二百九人、昭和四十三年の戸数四十八戸。人口二百三人であった。

『名田庄村誌』
知見出雲守屋敷跡
 小倉区所在の知見出雲守の屋敷跡については、知三村誌に、「小倉区東光院境内及びその附近一帯の地を里人称して、知見出雲(和泉)守屋敷跡なりと。所謂小倉平野は周辺を山脈で囲み、此処に袋状をなし、西僅かに奥名田に通じ、東堂本に開く。屋敷はその北に位し、山麓の小高き地にして、前面平野に南川の貫流するを俯瞰す。守るに好く攻むるに難き武将の屋敷としてはまことに恰好の所たり。屋敷の西奥の谷に入ること二町、石を積みて古墳とも思はしきもの二つ寂しく並びたるあり。里人伝へて殿墓と称せり。果して此の屋敷の主のものなるにや。儼めしき居宅は今何処、世の変象のかくまでに甚しき、今昔を俯仰し感慨漫ろに無量なりき」と記している。
 若狭郡県志には、「知見出雲守屋敷、在二下中郡小倉村一、相伝、曽知見出雲守領二知見郷一構二宅於此処一而居焉、今為二耕種之地一、所謂知見郷者、小倉久坂挙野小倉畑槇谷染ヶ谷堂本等也」とある。
 西谷城跡の項で記したとおり、武田信栄の家老、土屋六郎左衛門の家臣の一人である知見出雲守はここ知見に配されたのであろう。
 しかし、その時代は知ることができない。そこで、小倉畑、光久寺の寺歴から考察を試みたい。知三村誌所収の同寺の歴史のうちに、「知見郷七村ノ太守知見和泉守卜申侯下屋敷ナルヲ、カノ和泉守、
正覚坊(光久寺の開祖)へ帰附セラレ、コノ屋敷ヲ俗称ニヨツテ知見山卜号ス」とみえる。
 寺歴にみえる知見七村とは、旧知見郷の小倉・久坂・挙野・小倉畑・槇谷・染ケ谷・堂本の七村である。七村の太守とあるので、知見和泉というのは、知見郷の和泉守と称し、知見郷の領主となっていたからであろう。その和泉が出雲と変化したのであろう。光久寺の開創は、寛正二年(一四六二)であるから、先の項で記した知見出雲の年代(一四四〇頃)と符合する。若狭郡県志に、[在ニ下中郡小倉畑村一号二知見山一、寛正三年律師性覚、請二地乎此処之領主知見出雲守一而建立、性覚件名、中野新次郎河内国人也、薙髪而入二于蓮如上人之門一矣、今一向宗東本願寺流義也」とある。
 知見氏は、西谷・三重城跡のところで記したとおり、寺井兵部のために曾我・土屋氏等と共に天文三年(一五三七)の頃に攻殺されたことになっている。とすれば、永正十二年頃から約九十数年の開きがある。したがって知見氏も幾世代か小倉の地に住んでいたと考えられる。
 今日の東光院の辺りがその屋敷跡であろう。山上址の伝承はないが、砦乃至は見張所は、苅田比古神社の裏山山上にあったのではなかろうかと推察される。屋敷跡の西奥の谷に入ること約二百メートルの地点に古墳が二基あること、知三村誌の記事のとおりである。右側の墓の上には、「南無阿弥陀仏」の碑がたっている。これはおそらく後代に建てられたものであろう。墓の様相からみて武家の墓とは感じられない、おそらくは東光院の尼僧の墓ではないかと思う。西谷城跡のところで記したが、西谷の殿墓の一つに知見氏の墓があるのではないかと思う。

小倉の伝説


『名田庄のむかしばなし』
苅田比古神社のいわれ   -小倉、別称苅田彦神社-
 孝謙上皇(女帝)の権勢のもとに苦難を強いられたといわれる淳仁天皇の時代、名田庄村一帯は、近江の瀬田におかれていた国衙府に属し、藤原氏の管下におかれた荘園であった。
 この時の大政大臣、藤原仲麻呂は淳仁天皇の義理の父にあたる関係から摂政となり政権を執ってぃた。当時、孝謙上皇と結ばれていた僧「道鏡」が、淳仁天皇を廃し自分が摂政になろうとしたことから、藤原仲麻呂と孝謙上皇が鋭く対立し、遂に両派による政権争いの戦となった。
 そこで、孝謙上皇側の軍勢をひきいる坂上苅田麻呂と、淳仁天皇側の藤原仲麻呂とが戦うことになり、激戦の末、藤原仲麻呂が敗れ、淳仁天皇はその位から下ろされ、道鏡の策によって、淡路島に流されるという悲運を迎えたのである。
 戦いに勝った坂上苅田麻呂はその功績によって孝謙上皇から、それまで藤原氏の領有であった名田庄をその支配に置くことと、更に、小倉地籍に在った地美城を授かることになった。
 現在の苅田比古(彦)神社は、名田庄を管領する帝として君臨した坂上苅田麻呂を祭ったものであり、「下」の苅田比売(姫)神社はその后(きさき)を祭る社といわれる。
 ちなみに現在の本殿の左側の摂社神明神社の横に、名田庄に数少い古墳が一基あることがこの伝説に何等かの因縁を秘めるものかとも考えられる。一方、この神社はもっと東の方の小さい谷、宮の谷口に在ったものを、二百年ほと前に現在地に移されたといわれている。
 尚他の説によれば、大同元年(八〇六)、百姓達が田に出て稲を苅りとっているとき、東の方より霞がたちこめたかと思うと忽ちにして暗雲がおおい、はげしい雷とともに大雨が降り、一時は闇の世となり人びとは動く足を奪われた如くその場に伏したという。その時、あたりを輝きふるわす程の「いなびかり」が発し、その瞬間に神霊が降臨したのが現在の社地であり、その神霊を祭った社とも言い伝えられている。
 しかし、以上の伝説と、知見新助家秘蔵の古文書の内容とに相反する点があるが、それを確かめる資料もないので、伝説としてととめおく。

東光院の由来  -小倉・奥の谷ロー
 小倉区奥の谷口の東側に「瑠璃光山」と称し、薬師如来を本尊とする「東光院」という小さなお寺がある。今は茅屋の山寺で由緒をしのぶにいたらないさみしいたたずまいであるが、このお寺を管掌する知見新助家の古文書と併せ伝えられるところによれば、極めて古い歴史の重みが感じられるのである。
 それは遠く奈良時代にさかのぼる。天平宝字年間、淳仁天皇の頃、僧道鏡が自らが摂政の大権を手にしようと画策した時、淳仁天皇のもとで若狭の国司をつとめたことのある大野廣立がそれを察知し、淳仁天皇の身辺に危険が及ぶことを案じ、皇后苅田姫ど二人の皇子、皇女を先導して若狭の地にのがれさせたという。
 当時の若狭の国司は、かの日本武尊の子、高的王(美濃在)の十九世裔孫といわれる高橋人足という人であった。その長子、老、次男、仁士を含め、大野廣立の四人が申し合わせて名田庄の山中に一城を築き、これを地美城と名付け、ここに皇后と皇子、皇女をかくまい、皇子の養育に誠をつくしたのである。
 ところが翌年の二月三日、苅田姫皇后は天皇のことを心配するあまり病にかかり、二皇子女を残して亡くなられた。この時皇子苅田丸は十歳、玉姫は七歳であり、毋皇后の亡き骸にすがって泣き悲しまれた。近くに住んでいた法進禅師によって城外の林下に密葬され、蘭香大禅尼の法名をもって弔われ、皇子、皇女は仁士が護りについて引き続き地美城に住まわれたという。
 その頃父君淳仁天皇は淡路島に流されて間もなく悲運の中に崩御されたのである。
 それから数年後、光仁天皇の代に移り、宝亀三年(七七二)大野廣立が苅田姫皇后の縁続きである坂上清丸を介して、苅田丸、玉姫二人の健在であることを天皇に言上した。
 天皇はそれを聞いて大いに憐み、皇子は坂上清丸の養子とし、妹玉姫は禅尼となって一寺を建立し、母君苅田姫の菩提を弔うようとのお達しがなされた。そして帝の手から、行基作の薬師如来仏像を授けられ、「瑞璃光山東光院」の寺号を与えられたという。
 このことにより、東光院が開基され、寺領として近辺二百五十石の地を仁士にあずけられたという。
 間もなく内大臣藤原大海が勅使として高僧を伴って地美城を訪れ、姫君の剃髪式が行われ、法名を慈妙として東光院に入山されたといわれる。
 その後の宝亀九年、苅田丸二五才の時、上京して天皇に拝顔、淳仁天皇を淡路島に、苅田姫を地美にそれぞれ神廟を建立することの勅許を賜り、先に淡路大明神を祭り、つづいて地美城に来たり、仁士達にその由を伝え祭殿の建築にかかったといわれ、ここに苅田姫大明神創建をみる。(このことについては別に記す)
 このとき仁士は長年の勤めを賞されて、高橋姓を改めて「地美」氏を賜り、地美出雲守(後に知見に改まる)と名のることを天皇から伝えられたといわれる。
 それより地美家は十四世、父子相伝したが、応保元年(一一六一)清盛越中守盛国の若州攻めにあい、地美城は多勢に無勢で力尽き、城はおち東光院も兵火に焼失した。しかし、薬師如来本尊はじめ宝物一切は穴蔵にかくされていたため焼失を免がれ、建久三年に至り、地美出雲守の裔孫、知見出雲守によって穴蔵から仏像及び宝物を出して東光院を再興し、永く法灯を護りつづけたという。
 ちなみに大正の初期には、増永信妙という尼僧が住んで寺を守っていたといわれるが、今は知見新助家によって丁重に祭られ護寺されている。
 なお当院の歴史と苅田彦神社、苅田姫神社は時代因縁に通ずるものがあるが、個個の神社の由来には別説もあり、この真偽について深く追求することの困難もあり本稿は伝説の記であることから、それぞれを伝えるままに記すこととした。

知見出雲守屋敷  -小倉・地美城跡か-
 小倉・東光院の由来で記述したように、古い奈良時代の若狭国司、高橋人足の二男仁士が地美城において、淳仁帝の皇后とその二皇子(女)を護った功により、光仁天皇から、地美出雲守の名を賜ったのである。それ以来十四世、父子相伝したが応保年間、平盛国らの若狭攻めに会って敗れ、地美城は東光院とともに焼失した。この時の城主は、地美出雲守英国(十五才)であった。
 英国は数名の家臣とともに山中に隠れ住み、武芸に励み時節の到来を待ちつつ、自ら地美丹波の庄の司、源英国と名乗った二十四才の時、源頼朝が伊豆に兵を挙げた。時は治承四年(一一八〇)の春。英国は部下三十騎を従えて伊豆に馳せ参じ、頼朝に喜ばれて家臣になったという。やがて源氏は破竹の勢で平家を亡ぼし、源氏の世となった。
 その時英国は、地美を「知見」と改め、再び出雲守に任ぜられ、名田庄を本領として西津郷も支配し、後に西津城に移ったが、家臣をつかわして東光院を再興したといわれる。
 今の東光院の境内一帯を村人は知見出雲守屋敷跡といっているが、奥の方はなだらかな台地が広がり殿屋敷にふさわしい地勢にあることからも、遠いむかしに地美城落城の跡地に、知見出雲守英国が居を築いた跡であろうと思われる。
 英国の六世の孫、知見高光は幼少の頃から猿楽を好み、応永二四年(一四一七)苅田彦大明神に猿楽を奉納し、子孫繁栄、万民快楽、五穀豊穣を祈願したとも伝えられている。
 更に時は流れて永享一二年(一四四〇)武田氏が若狭国守護になるにおよんで知見出雲守は、武田四家老の一人、土屋氏(西谷城)の家臣となり、三重城の曽我、坂本城の渋谷とともに名田庄支配の座についたが、天文二年(一五三三)頃から、土屋氏と知見、曽我両氏の間か不和になり争いが続いた末の天文六年(一五三七)小屋城(中名田)の寺井氏、青井氏(小浜)松宮氏(上中)三軍勢に攻められ、土屋、知見、曽我の三氏とも敗れ去り、中名田の寺井氏が小村城に移って名田庄を支配下におくに至ったといわれる。
 このようにして、知見出雲守は、幾世代にもわたる永い間、この屋敷に在って一帯を支配していたのであろう。




小倉の小字一覧


『名田庄村誌』
小倉地区
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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