丹後の地名 若狭版

若狭

尾内(おない)
福井県大飯郡おおい町尾内


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福井県大飯郡おおい町尾内

福井県大飯郡大飯町尾内

福井県大飯郡本郷村尾内






尾内の概要




《尾内の概要》

佐分利川河口の東側で、古くは川崎村ともいった。JR小浜線・国道27号が走り、旧国道沿いに人家が集まる。今の国道27号海側が埋め立てられて、「道の駅うみんぴあ」や「エルガイア」などが立っている。
尾内村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。安政年間からは尾内焼と称して瓦やたこ壺などが焼かれ、村内を流れる尾内川の水は達城の用水として利用されたといい、上流に池がある。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て,同14年福井県に所属。同22年本郷村の大字となる。
尾内は、明治22年~現在の大字名。はじめ本郷村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北1町余、戸数31、人口は男88 ・ 女83、大船2・小船13。


《尾内の人口・世帯数》 198・105


《尾内の主な社寺など》

黒駒神社

『大飯町誌』
黒駒神社
祭神 素盞嗚尊
所在地 尾内字上ノ山(三九の四四)
境内地 共有地三九九・三平方㍍
氏子 尾内三三戸
例祭日 三月八日
宮司 松田忠夫
主な建造物 本殿、上屋
特殊神事 宮当祭、持立行事
由緒・系統 昭和二十一年(一九四六)長井の黒駒神社から分かれて独立する。黒駒系).


黒駒神社
永藺(長井)保が本郷氏の所領となっていたころは、尾内も長井保の中であったのであろう。太平洋戦争後は独立して黒駒神社を祀ることになり、集落の共有地三九号四四番地を鎮座の地と定めた。祭神は素盞嗚尊である。創立は昭和二十一年(一九四六)六月三十日。社殿は元の遥拝所の施設をそのまま使用している。



臨済宗南禅寺派海岸山浄眼寺

『大飯町誌』
海岸山浄眼寺
宗派 臨済宗(南禅寺派、高成寺末)
本尊 延命地蔵菩薩
所在地 尾内字門口(三八の一三)
主な建物 本堂、庫裡、金毘羅社、稲荷社、本堂は昭和五十三年(一九七八)再建
境内地その他 境内八二六平方㍍、宅地四一三平方㍍、山林七、三三八平方㍍ 墓地一六五平方㍍
住職 中西禅活
檀徒数 四〇戸
創建年代 天正十年(一五八二)、又は慶長十七年(一六一二)の両説あり
開山 梅岩保公和尚
寺宝 涅槃像(小浜藩小林老人)、十六善神三尊仏、なお、慶長十三年の過去帳あり


浄眼寺
字門口所在、山号は海岸山、宗派は臨済宗南禅寺派、本尊は延命地蔵菩薩、創建不詳。『若州管内社寺由緒記』には「慶竹山周公座元禅師天正十年開基なり、浄眼寺住持宗□(祐か)」とあり。寺伝とほぼ合致する。
 寺伝によると開基は梅岩保公和尚で、この人は尾内出身であった。慶長十七年(一六一二)六月二十四日遷化。この寺は寛政八年(一八〇〇)の大火に類焼。再建は寛政十二年となっている。当時は、小院であったが逐次面目を改めて、一二世玉山禅光和尚は明治四十五年(一九一二)に瓦葺とし大修繕を加えた。昭和十五年宗温和尚代に位牌堂と庫裏を新築し境内を拡張した。また、これに先立って昭和十一年に寺斑四等に昇格した。五十三年本堂を再建。
 寺内の神祠、寺外の仏堂に、金比羅祠(祭神大物主神崇徳天皇、嘉永六年(一六二九)十二月九日安鎮)、稲荷天満神祠(祭神宇賀魂神菅原道真、稲荷神祠は慶応元年(一八六五)七月安鎮。天満祠(不詳)、東江胡(えご)所在の地蔵堂(本尊延命地蔵菩薩、創建不詳)がある。


『大飯郡誌』
淨眼寺 臨済宗南禪寺派高成寺末 尾内字門口に在り 寺地百二十五坪 境外所有地 五反五畝十五歩檀徒二百二十八 本尊地蔵尊 堂宇〔〕 由緒〔明細帳〕創建年代不詳開基は梅岩保公和穴にして、慶長十七年七月建立寛政十二年再建。




《交通》


《産業》
窯業
尾内(長苅)にあった尾内焼(小平焼)は時岡小兵衛の経営で、明治一〇~四一、のぼり窯三基、たこつぼ、火鉢、どびん等、時岡伊右工門に茶つぼ、火ばちを残す、という。

同じ所にあった尾内瓦は、小谷助左エ門・時岡小兵エ共同経営で、安政~明治二〇製品の刻印A正があるという。

石灰業
文政年間父子村で開始された石灰業は、大正元年本郷石灰製造が設立され、父子から河口まで軌道を敷設し、地内の字八ヶ崎・里ケ前などで改良灰と呼ばれる製品名で肥料灰が生産されていた。大正7年度の生産高40万俵・8万円が最高額で、同10年国鉄小浜線が開通するまでは北陸、特に加賀へ船で回漕された。その後,昭和初年窯2基を残してその他を破壊し新たに本郷石灰商会が設立され、昭和26年資産が売却されるまで存続したという。


《姓氏・人物》


尾内の主な歴史記録


『大飯町誌』
尾内
 本郷の館に続いて、旧国道沿いに立ち並んだ家並みと、海岸通りに沿った家並みとが尾内である。耕地は達山と八ヶ崎との間と、尾内川の谷間にあり、海岸地帯は砂質壌土の良畑が大部分を占めている。この畑地は明治の中ごろまでサトウキビの畑で、尾内の黒砂糖製造の原料を耕作した。
 その後養蚕全盛時代には畑地の全面が桑園に変わり、さらに現在はタバコ畑に切り替えられたが、現在は、各種の事業所等が進出している。田地は明治四十三年(一九一〇)いち早く耕地整理に着手し、大正二年(一九一三)に完了した。
石灰の製造
 石灰製造の盛んであったころには、佐分利川川口付近に数基の石灰窯が立ち並び、お城のやぐら然としてそびえていた。八ケ崎の近くのガン坂にも二基そびえていた。
 当時石灰の製造工程は、山から原石を掘り出す者、原石を父子区から川舟や荷車で搬出する者(後には軌道を敷設、トロッコになった)、玄能でこぶし大に打ち砕く者、階段を登って窯の上まで運び上げる者、窒の中へ燃料と原石を交互に積み込む者、焼き上がった生石灰をかき出し水をかけてふかす者(この仕事は体中が白粉まみれになるので、顔は目だけ出るように覆面していた)、消石灰を俵に詰めて俵装する者、仕上がった石灰俵を天秤棒でかついで搬出する者、また、燃料の石炭を船から陸揚げする者等に分かれていたのであった。尾内から本郷の沖合いにかけては、何百石積みの石灰船(加賀船ともいった)が帆柱を林立させて停泊して見事な風景であった。
 一時は野尻銅山のカラミを大島半島の大浦精錬所へ積み出すこともあったが数年にしてやんだ。また、太平洋戦争末期犬見鉱山の盛時を迎えると、この石灰倉庫等が、徴用された朝鮮半島の人々の宿舎とされていた。
 次に、昭和二十年(一九四五)尾内浜に数反の塩田を作るため、本郷・尾内の区民は、交代でその作業に従事して村営の電気製塩場が完備し、盛んに生産されていた。一方塩不足は自家用製塩熱をも駆り立て、浜には空いた所がないほどに塩焼き小屋が建ち煙が立ちのぼっていた。
 尾内浜には古来色々な業種があった。その一つに船株がある。本郷・村松喜太夫家文書中に「元禄中舟公事の節舟持の覚書」というのがあるが、その中に上下村四、市場村三、下薗村一、尾内村一が挙げられ、その持主は九郎右衛門となっている。このころは和田・本郷・小浜間の内海を運航して旅人や巡礼や物参り客を乗せ、また、貨物商品も運んだ。当時旅人の足溜りとなるところから、茶屋・宿屋もあったらしく、後には木賃宿として明治年間に及んでいた。
尾内焼
尾内の高畑地籍に良質の粘土を埋蔵しているのを利用したものである。八ヶ崎に窯を築いて瓦を焼き始めたのが安政のころ、(一八五四~六〇)経営者は小谷助左衛門の二代目儀助という人である。得意先は地元で、遠方へは出ていなかったらしい。今でも古い家の屋根瓦には「《正」の刻印を打ったのがあるという。一時は盛んに焼いていたが、明治に入ってから廃業し、石灰製造に転業したということである。
 次に同じ粘土を用いて、達山の東山麓に三基の登窯を築き陶器を焼いたのは、時岡小平衛家の政五郎という人で、「小平衛焼」と称していた。丹波や江州などから技術者(職人)を三人余り常雇いしていた。製品は主に蛸壷で、ほかに土瓶や徳利等の日用品も幾らかは焼いた。加賀船に積み込んで石川県方面へも販路を拡張していたが、原料の粘土が枯渇したためであろうか、この人一代きりで後継者がなく、経営期間は明治十年(一八七七)ごろから日露戦争ごろまでであった。
川崎村伝説
尾内集落の成り立ちは浅いともいわれているが、東部の長井境の下坂地積に古墳が一基確認されているから、歴史が浅いと伝えられるのは西北部の現住宅地辺りのことであろう。『本郷中古伝説記』に、「川崎村はその昔延文年中迄皆海にてありけり。嘉吉年中より家立初め、それより村広がり、その後天文年中に尾内村と名づけ申すなり。」とある。
 延文は一三五六年から六ヵ年間の年号、嘉吉は一四四一年から四ヵ年間の年号で、海であったというときから家が建ち始めたというときまで約百年の隔たりがある。一方本郷のどこかの寺に川崎村と銘のある鐘があったと伝えられている(『本郷村誌』)から、佐分利川の川崎にあったからこの名が生まれたものであろう。尾内村と名のついたのが天文年中(一五三二~五五)であるという。四百三十余年前のことである。
がん坂伝説
がん坂という坂が長井境にあったが、今は削り取られて名だけが残っている。『若狭郡県志』に、「解由取坂、尾内村に小坂路あり、解由取坂と名づく、解由は国司任国の時正税公解及び雑品の貢進ことごとく之を記して勘解由(かげゆ)使に与う、時に判官、主典これを勘して又之を改書す。長官次官その改書を以って之を奏す。その後解由状を国司に授く。国司之を頂戴す。これを解由を取るという。未だこの坂何によって之を名づくか知らず」、『本郷村誌』には、「解由取坂、俗にこれをがん坂と称せり」としてある。ともかく若狭の国司が交替する時に解由状の引き継ぎをした古跡ではなかろうか。
達山城用水
『本郷中古伝説記』に、「尾内村より南に池あり。この池は達ヶ城へ掬上げし水なり。殊の外吉水なり。今は尾内村の用水なり。」とある。
大火
この集落は寛政八年(一七九六)二月二十三日の大火で一七軒の家が焼失した。そのほかにもいま一度大火があったという。


尾内の伝説





尾内の小字一覧


尾内  関谷 田ノ谷 椎木谷 堂屋敷 三本松 四反田 摺ケ谷 一ケ谷 六坪 荒谷 小有谷 蟻谷 上坂 大苅 大苅谷 清水谷 中嶋 下坂 矢ノ谷 長奥谷 長谷 町田 由里 八ケ崎 東浜田 西浜田 下畑 高畑 女郎谷 長苅 長町 棒十 道ノ下 東江胡 中江胡 浜江胡 西江胡 門口 上ノ山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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