丹後の地名 若狭版

若狭

大島の考古遺跡
福井県大飯郡おおい町大島


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


福井県大飯郡おおい町大島

福井県大飯郡大飯町大島

福井県大飯郡大島村






大島の考古遺跡の概要


先土器時代の遺跡は知られていない。
縄文遺跡は、
青法遺跡(土器片(早期末~中期初))
寺内川遺蹟(土器片(前期~中期))
脇の前遺跡(土器片(後期))
宮留遺跡(土器片など(後期初))
浜禰遺跡(土器片(土器片(後期末))

青法遺跡は本郷の方から来れば、大島集落の入口であり、そこから北ヘ縄文人たちは広がっていったように見える。ずいぶん長い期間を一まとめにするが、そのあいだには海面の高さの変化もあった。
『郷土誌大飯』
第一節 縄文遺跡
 昭和四十二年正月泉大津鳳高校教諭の石部正志氏が来町調査の結果次の通り「風」第十六号誌上(短歌雑誌)に報告された。その中縄文関係の分を抜書すると
  「大飯町における最も古い人類の足跡は縄文時代にさかのぽる。
一九六〇年初秋のころ大島の小泉常次郎翁から、宮留で最近発見されたという数片の土器を送って頂いた……土器は粗砂粒を多く含んだ焼きの良くない類のものであるが、縄文時代後期はじめ頃の特徴のうかがわれるものである。宮留縄文遺跡からは、漁網用に使用されたと推定される石錘も一個採集されておりおそらく海幸山幸に恵まれた大島半島は狩猟、漁撈を生業とした縄文人にはまことに好適な生活環境にちがいなかったと推定される。
 それを裏書するごとき発見が、最近また若松さん等によってなされた。日角浜の寺内川という幅二米ばかりの小川の河口から二〇米ばかりさかのぼった右岸の石垣が、昨年夏の豪雨で決潰し、三、四米にわたって水田の一部が深く削りとられた……。崩壊した断面の上郡には、古墳時代末から奈良時代の須恵器、土師器片が挟まっているが、改修工事で深く掘られた底の方からは、全く異質の土器とクルミの殼などを発見する事ができた。本年正月早々に大島をお訪ねして、はじめて接したこれらの暗褐色薄手の土器片は数年前、三方町で確認し、立教大学と協力して発掘した鳥浜貝塚の出土品と同じく縄文前期の遺品にまちがいないものであった。
 若狭の縄文遺跡は、三方町鳥浜貝塚の早期~前期に始り、名田庄村三重、小浜市阿納、高浜町立石などに中-後期の遺物が発見されている。山海湖沼に恵まれた若狭地方は、自然の動植物を採集していた未開時代の日本人には生活に適した環境であったろう。なかでも大島に前期、後期、晩期の土器が知られることは、とくにその環境が縄文人に喜ばれたのであろう……以下略」
 その後また大島宮留で身体障害者収容の学園を建てるため基礎工事を進めている中、大島小学校の城谷義視氏によって縄文中~後期の土器等が多数発見されている。最近吉見でも出上したという。




弥生時代
宮留・浜禰・吉見浜の各遺跡から弥生時代前期末の遠賀川式土器片が出土し、宮留・青法の各遺跡から中期の土器片が、島山神社遺跡・吉見浜遺跡からそれぞれ後期の土器片が出土している。
遠賀川式土器は、北九州から東へ伝わり太平洋側は瀬戸内海をつらぬいて名古屋付近まで、日本海側は若狭地方の当大島や小浜市の丸山(北川)河床遺跡や阿納遺跡で出土している。一般にこの土器とともに稲作が急速に(土器の形が変化する間もないくらいの期間に)西日本に広がっていっただろうと考えられている。
遺跡がある場所は稲作ができる低湿地耕地と魚介類の採れる河川と内海や潟湖が目の前にある所であり、半農半漁の生活スタイルが土器類とともに伝わってきたものと思われる。
宮留出土の磨製石斧は遠賀川文化に特徴的な朝鮮半島に起源のある磨製石器であるし、弥生文化は金属器も伴うので、渡来系の文化であるが、遺跡の場所は縄文人のいる所でもあって、混淆の文化が作られていったのであろう。
彼らは渡来人と言えば渡来人であるし、倭人とか倭の水人と言えばそうである。朝鮮半島の海辺からの渡来人がやがて倭人となっていったのであろう。そうして今の日本人のベースとなっていったものと考えられる

土器製塩の遺跡

県の遺跡地図
34001鋸崎砲台跡
34002吉見浜古墳群(原発により失われた)
34003吉見浜遺跡(原発により失われた)
34005浜禰遺跡
34010宮留遺跡
34004ヒガンジョ古墳群16基
34008神田古墳群15基

浜禰製塩遺跡

赤礁崎の島と繋がった陸繋砂州でなかろうかと考えるが、その北側の外海に向いた浜で、「袖ヶ浜海水浴場」の名で知られる。200メートルくらいの弧を描いた砂浜があり、背後の浜堤までは50メートルくらいか、ここのその全部が浜禰製塩遺跡である。
浜堤は自然にできたものだろう自然の木々がある、高さ10メートルほどか。その西側続きに浜禰の杜というニソの杜があり、遺跡名はそこから命名された。写真の後にある高い山の向う側に大飯原発がある。高い山の手前側麓の一帯はヒガンジョ古墳群(後期石室古墳)で16基がある。当遺跡付近に人家はない。

案内板はおろか石柱1つた立ってはいないが、こんな航空写真があった。写真は北向きでないが、下側の浜が「袖ヶ浜海水浴場」である。
当遺跡からは若狭では最も古い製塩土器(4世紀末~6世紀初頭)が出土した。

昭和33年から35年にわたり発掘され(同志社大学)、また同44年・45年(若狭考古学研究会)にも発掘がなされた遺跡で。若狭で初めて古代土器製塩遺跡の存在を明らかにした重要な遺跡であるとともに、製塩土器の編年についても古墳時代の標準遺跡となっている。
製塩遺跡に伴って多量の土師器・祭祀遺物・須恵器・自然遺物・中世人骨などが出土し注目された。また若狭で最初の弥生前期遠賀川式土器の発見もあった。
同志社大学の調査によって倒杯型底部を持つグラス状の土器が、4世紀末~5世紀初頭の若狭最古の製塩土器と位置づけされ、さらに上層では5世紀~6世紀初め頃と比定されたコップ状の白色を呈するうすい土器が発見、前者は浜禰Ⅰ式、後者は同Ⅱ式と名づけられた(のち新形式が発見されⅡA式に改められる)。昭和45年の調査では凹レンズ状の粘土敷炉跡が発見され底部が埋まったままの状態でⅠ式炉の実態が明らかとなった。浜禰I式炉は当所以外発見されておらず、同製塩土器も小浜市阿納と2か所のみである。製塩土器の形は瀬戸内海地方とほぼ同様で、同地方からの技術導入をうかがわせる。またⅡA式炉は玉砂利を敷きつめた形跡があったものの明確にされなかったが,、昭和60年の緊急調査で、反対側の南西部で1.1m x 0.9mの不整楕円形玉石炉が検出されている。
土師器では壺・甕など生活用具とともに、小型丸底坩・器台・高坏や勾玉・有孔円板など玉類の祭祀用と思われるものが出土している。
漁業集落跡的要素もうかがわれ、漁労活動もかなり行われたようで、骨製のやす・銛や多量の魚骨が出土。これは製塩が季節的な制約のなかで行われ、それ以外の時期は、とった魚を中心に塩を利用した水産物加工がなされたことが考えられるという。

『大飯町誌』
製塩遺跡、浜禰
浜禰遺跡で製塩土器による製塩が始められたのは、今からおよそ一六〇〇年以前のことであり、古墳時代の初期から後期に至る約五〇〇年の間、ここで製塩が行われていたことが、同志社大学・若狭考古学研究会・福井県立若狭歴史民俗資料館等の発掘調査によって明らかにされている。
 最下層の第七層は古墳時代前期のものとされ、製塩土器と共に、多数の土師器、日用器物の破片が発見されていることから、住居跡で製塩が行われ始めたことを物語る。このころ当町ではまだ古墳は築かれていなかった。
 六、五、四、三層とも、製塩土器のみがそれぞれ発見され、生活関係の土器が見られないことから、製塩だけがここで行われていたと考えられる。第三層は古墳時代後期のもので、当町の古墳とも関係が深い。第六層から第三層までの土器の形態には大きな差異が認められず、浜禰式土器と称されるものである。
 最上層の一、二層は耕土層に当たり、時代を区分することが困難であるが、土器が大形、かつ祖雑になっていて、製塩の規模が大きくなったことがうかがわれる。
浜禰Ⅰ式
伴出物で須恵器は全く見られず、すべて土師器であり、小型丸底坩・器台・高坏などの伴出遺物から、四世紀末から五世紀初頭に属するものである。若狭では古墳造成の初現期であり、これ以降前方後円墳が造成されてくる。
 製塩炉は、東西四・六㍍、南北三・四㍍の不整円形のプランを形成し、深さ四〇センチメートル内外に掘り込んで、凹レンズ状をしていることが確認される。底面はほぼ平らに均され、全面に粘土が張り敷かれ、その部分に一定の間隔をおいて製塩土器が底部を埋めて並んでいた。
 製塩土器は、いわゆる倒杯型の台脚が付いたカップ状で、上部にかけてやや広がり、胴部から口縁部にかけて、直行ないし内反する傾向にあり、大きさに大小かなりの変容が見られるが、容量は三〇〇立方センチメートル程度である。
浜禰ⅡA式
五世紀末から六世紀中ごろまでに属するもので、六世紀初頭最も盛んに試みられた特殊な祭祀をもつ製塩法である。大島半島では、神田四号墳などが造成され、その後やや大型化する傾向にある時、群集墳の発生を見ることになる。製塩炉が完全に近い形で確認されたのは、昭和六十年(一九八五)で、当時大飯原子力発電所三、四号機増設に伴う宿舎建設予定地の事前発掘調査が急がれて、当町教育委員会では若狭歴史民俗資料館の協力により発掘を実施したものである。
 製塩炉跡は浜禰遺跡の砂浜に、長径一・一㍍、短径〇・九㍍の不正楕円形のプランを形成、二~一〇センチメートルの円礫をブロック状に敷いて固められ、製塩土器は、いわゆる第Ⅱ型式の薄手丸底式で、浜禰Ⅰ式とは全く異なる「卵の殼」とか「ポテトチップ」と表現されるような極めて薄いコップ型で、容量三二〇立方センチメートル程度のものが使用されている。
 このような第Ⅰ型式から第Ⅱ型式への移行は、若狭独自の発展形態ではなく、近畿・瀬戸内と広く連動したものが見られ、土器の底部内面にヘラ状工具で板なでした跡痕のものが多く存在し、土器づくりに熟練した技術を見ることができる。昭和三十五年同志社大学考古学研究会調査当時から、このようなⅡA式炉の指摘がされていたもので、当町では「まぼろしの製塩炉」と名付け、剥ぎ取り標本を作って石敷炉の萌芽期を知る重要な資料として保存している。
浜禰ⅡB式
 炉床面から出土する須恵器から六世紀後半から七世紀に属するものである。吉見浜遺跡や宮留遺跡に炉址の代表的なものが見られる。宮留遺跡は昭和五十九年大飯町教育委員会(調査担当=若狭考古学研究会・若狭歴史民俗資料館)によって発掘調査を行ったもので、八七・七五平方㍍(三㍍×三㍍のグリッド八箇所)の調査区から一号炉から八号炉までの極めて大規模な製塩炉群が検出され、一号炉の規模は、東西二・五㍍、南北二㍍のほぼ長方形プランで、石材は長径二〇センチメートル内外の比較的扁平な自然石が使用され、平らな面を上にして密に並べられていたようである。二~七号炉は東西二㍍、南北一・五㍍内外の長方形プランで、石材は三〇センチメートル以上ある河原石を根巻き石状に配して、その上に径一〇センチメートル内外の細かい栗石を敷き並べている。
 石材は一号炉では軟質な砂岩なども含まれ、火熱のため赤変や赤紫色に変色して砕けているものも存在するが、二~七号炉では軟質材は除外されて、砕けたものはほとんどなかった。すべての炉がほぼ東西方向に長くつくられ、元の海岸線に沿ってつくられていた。
 製塩土器は、古墳時代後期を代表する第Ⅲ型式を備え、焼成も色調も厚みも須恵器様で、大型化されたブランデーダラス型丸底土器であるが、極めて粗製されたためか、おびただしい細片化が見られた。容器は器壁が薄く、口径一二センチメートル、高さ一三センチメートルほどで、底部はやや平底風の丸型で、粘土は精選されて、器面にひび割れなど生じていないものと、器形も大きく口径一九・五センチメートル、高さ二〇センチメートルもあり、焼成時の状態によるものか、つくりが雑で土師質を感じさせるものと、須恵質を示すもの等、二類に分類することができる。


今の宮留↑。海岸が埋め立てられたようで、当時の様子はわからない。


吉見浜製塩遺跡
大島の突端で、今は大飯原発の冷却水取水溝となって、遺跡は完全に消滅している。

1、2号炉の海側にあったという。
上は私の写真だが、右のは誰のものかわからなくなった、勝手に使ってごめんなさい。
東側から海水を取り入れて、西北へ放出する仕組みだが、その大きな溝のためになくなっている。3.11後世論に挑戦するかのように最初に再稼働した原発がコイツらで、3、4再稼働に反対して20万人が首相官邸前に押しかけている、この頃の大規模デモは原発関連がほとんどである。
長く関電の稼ぎ頭、若狭原発銀座のヌシであった。しかし津波と断層がたいへんにヤバイ所に立地している。今の防潮堤は8メートルで、若狭湾で想定されている津波の高さには達していない、県推定でも浜禰では最大9メートルであるが、そのすぐ隣の当地は8㍍防潮堤は越えないようにソンタク(あるいはコバン)、8メートルよりも低く見積もられている、断層は見ただけでも断層だられの震えるような地で断層に抱かれてあるような原発である。また地元住民の反対運動がある所でナメタことができない。特殊な炉の構造上、もしもの場合に安全を保つための対策方法がないの理由で1、2は廃炉となっている、それは日本の全原発の泣き所、政治判断的神話的「ゼッタイ安全で~す」の特殊な空想に基づいた建造された、実際は現実環境では欠陥品であり、M9クラスとか40メートル津波に耐えられる物は一つもない、しかしごまかして3、4は動かす気でいるようである。「日本は神国、神風が吹いて大和魂でゼッタイ勝つ」の神話と政治が信じられ、その非科学的根拠を元に原発が建設されてきた、共犯者グルーブのソンタク「裁判」と癒着「自治体」、コバンなどで何とか当面は逃れているみたいであるが、現実環境のなかでイカサマ流がいつまで続けられるか。災害はいつどんなものが発生するかは誰にも予測はつかない、過去にあれば将来にもあるだろうし、今までなかったからと言っても将来もないとは言えない、コロナを見ればわかることである、諸外国と比べるとPCR検査数が圧倒的に少ない、諸外国が自動小銃なら、ニッポンはタケヤリ程度の装備したない、敵がどこにどれだけいるのかがわからない、これではまともに対応できない、腐った神話とそれに基づく腐った政治の国の大欠陥で、医療に力を入れてこなかった、どころか舞鶴などでは病院ツブシをやってきたのである、病院も検査機関もなく、タケヤリ国でありながらスンバラシイ国と信じ呆けてきたのである。実際に巨大地震が発生すれば耐えられそうでなく、そうなれば地球滅亡で、一刻も早く3、4も廃炉、使用済燃料も持ち出してもらおう。これら原発の過去も現在も将来も真っ暗闇である。
『大飯町誌』
伝説地 吉見地区
 大飯原子力発電所の基地として開発された鋸崎岬の浜地から山あいに入り込んだ地区で、昭和四十五年(一九七〇)若狭考古学研究会が主体となって遺跡の発掘調査を行った結果、縄文晩期から弥生・古墳後期・奈良・平安の各時代にわたる生活址や古代製塩遺跡・後期円墳が発見された。昔醍醐天皇のとき(八九七~九三〇)に、菅原道真が来島しこの吉見に上陸されたという伝承の地で、隠し田、隠れ谷の伝えが残り、某しの宮様が閑居遊ばされた所であるとの伝えも残っている。
 明治から昭和の初めごろツバキの美林が茂って裏日本のミニ大島ともてはやされ、その実は島の一特産物として教えられていた。

製塩遺跡としては浜禰よりもだいぶに新しい(10世紀平安期)。支脚の付く型式の吉見浜式製塩土器として土器分類の指標になっている。
原発ができるということで、昭和46年町教委により発掘調査が実施された。
古墳後期以降の遺跡であるが、縄文晩期、弥生前期・中期・後期、古墳前期の土器なども出土し、土器製塩以前にも集落のあったことが判明している。遺跡は海岸に沿って南北50メートル、東西15メートルほどであったという。
製塩遺跡としては6~7世紀代に比定される浜禰ⅡB式製塩土器を伴う敷石炉4面、8世紀代の船岡式製塩炉3面、当遺跡で初めて確認された10世紀代の吉見浜式製塩炉3面が発見された。吉見浜式は9世紀代の傾(かたぼこ)式(小浜市田烏)と同じく独立支脚を伴うが、10世紀末~11世紀初頭の塩浜式との間を埋めるものである。敷石炉も表面が平坦なものから10~15㎝内外の角礫が主となり、円礫はブロック状に粗に敷かれ、炉の上面はかなり凸凹となる。支脚を立てそれを保護するため必要とした配石であろう。製塩土器も傾式の厚手ではなく、やや小型化し器厚もうすく、色調は茶褐色を呈するものが多く一見土師器風である。支脚も高さ15㎝内外、頭部の径5㎝m,底、は7.3㎝が標準で、これも傾、塩浜式の中間数値となる。10世紀代では塩そのものよりも塩加工品が若狭に多く課せられ、それに対応されるのが吉見浜式であるという。土器製塩は実質的にはこれで終焉で、あとは鉄釜とかを使うようになったと推測されている。
また須恵器・土師器・施釉土器(灰釉・緑釉)・円筒土錘・鉄製銛・やすが出土している。これらの遺物から古墳時代から平安時代にかけての漁村集落の様相が知られる。なお遺跡の背後(西)には吉見古墳がある。横穴式石室をもつ古墳後期のものである。

『大飯町誌』
吉見浜式
吉見浜遺跡の調査は、昭和四十三年(一九六八)、当時大島小学校教諭であった故城谷義視ら数名によってなされたときに始まるが、同四十五年原子力発電所建設に伴う大島半島の開発が意図され、吉見地区開発委員会が発足、原子力発電所予定地である吉見地区の遺跡保存が問題になって関西電力株式会社の援助を受け、大飯町教育委員会が若狭考古学研究会に依頼して発掘調査したものである。
 今は発電所敷地となって遺跡は完全に消滅したが、発掘調査報告書『吉見浜遺跡』として永久に保存されるであろう。吉見浜遺跡の遺構は、調査の結果、浜禰ⅡB式-三基、船岡式-五基、吉見浜式-三基、その他炉状遺構として浜禰ⅡB式時代のもの一基、船岡式時代のもの一基、合計一三基を確認、当地区での土器による製塩活動は古墳時代後期から奈良時代・平安時代と続けられていたことを物語るのである。
 吉見浜式は、平安時代一〇世紀前半に属するもので炉址は五~四〇センチメートルの角礫を主にして、内に少数の円礫を用い、極めて散発的で一定の計画性を持たない。炉面には凹凸が見られ、南北に最大幅二・八㍍、東西に最大幅三・一㍍のもの一基、同じく二・三㍍、一・七㍍のもの一基、同じく一・一㍍、一・五㍍のもの一基と隅丸の長方形で、角礫の間に多量の製塩支脚が検出されている。
 吉見浜式製塩土器は、土器と支脚がセッ卜しており、土器は船岡式製塩土器に比べて丁寧に作られ、外面は荒いが巻き上げの跡も消え、指で押して整えた跡がはっきり認められ、内面もきれいに整形されている。土器には大小の変化が認められるが、口径は平均一四~二ーセンチメートルで、一六~一七センチメートル内外が一般的と推定され、口縁部がやや外反した壺形丸底で一五センチメートル前後の高さが認められる。支脚は頭部の直径で三・五~六・五センチメートルで、四~五センチメートルのものが圧倒的に多い。底部は四・五~九・三センチメートルで、支脚の多くは熱を受けてぼろぼろであり、高さは一三~一四せんち程度である。支脚は熱効率を高め製塩土器の支持安定の役割を兼ねたもので若狭における土器製塩の大革命ともいえるものであった。



古墳

ヒガンジョ4号墳↑。原発の入口門番の所から浜へ下る道の中ほど、竹藪のなかにある。
ヒガンジョ古墳群は、脇今安落の東北方、通称だんご山の山裾一帯にある6世紀後半から7世紀前半の古墳16六基。いずれも横穴式石室の円墳とみられるが、封土の消失したものも多いという。昭和35年4号墳の発掘調査を実施、早くに盗掘を受けていたらしいが須恵器坏2点が出土したという。
宮留には神田古墳群15基あるという。横穴式石室を持つ神田10号墳が有名で、出土品に優れたものがあるそう。
土器で言えば浜禰ⅡBの時代。古墳時代最後から飛鳥時代にかけての時代のもの。舞鶴市の大波古墳群とは同時代である。


木簡
平城宮跡出土木簡が2枚ある。
1、若狭国遠敷郡〔嶋郷□部□□万呂 塩一斗〕

2、遠敷郡嶋郷〔秦人子人 御調塩三斗〕


師楽式製塩土器や大阪湾南部、淡路 、紀伊などの製塩土器と似た物から発達して、若狭湾一帯で塩作りが盛んに行われていた。
この時代の解明はこれからである。


主な歴史記録

『大飯町誌』
縄文時代
このような先土器時代の文化の後をうけて登場するのが縄文時代の文化である。縄文文化の始まりは、一万二千年以上前といわれ、また、その終わりは今から二千二、三百年前とされている。縄文文化は日本列島の生い立ちと極めて関連が深く、次第に温暖化する気候とそれに伴う動物相・植物相の変化など、徐々に現在の状態に近づき、使用した就労用具も土器の発見や狩猟具の改善等画期的であったといえよう。
 当町におげる縄文遺跡の最初の発見は昭和三十六年で、これを当時の同志社大学編調査報告書『若狭大飯』から引用すると、
   大飯町における最も古い人類の足跡をたどれば、縄文時代にまでさかのぼることができる。一九六〇年度の調査が終わって間もなく、大島の小泉常次郎氏から、宮留で最近発見されたという数片の縄文土器を送っていただいた。その後不幸にも小泉氏は御病気になられたのであるが、御子息若松賀六氏らにより出土品の収集保管は続けられ。同氏の御案内で一九六一年夏には、わたくしも現地を訪ねることができた。新田造成のための床掘りで発見されたものであるが、奇しくもそれは大飯町での考古学調査の端緒となった磨製石斧の発見地点に隣接する場所であり、大島半島から石斧が発見された謎も、これでようやく解けることになったのである。
   遺跡は宮留地峡部の西から東へ緩傾斜する低い台地上に当たり、浅い表土の直下に薄い包含層があって、遺物の埋蔵状態も豊富ではないが部分的に焼土があったりして、住居遺跡であったことは明らかである。
   土器は胎土に粗砂粒を多くふくみ焼成は不良で、表面の文様も磨滅しているものが多いが主なものを第二図に示した。後期はじめのものであろう。
として、縄文後期初めの土器片が数十点と、磨製石斧一点、石錘一点が採集されている。
 その後、寺内(てうち)川遺跡から縄文時代前期の爪型文を主体とするいわゆる鳥浜Ⅱ式併行の土器片や、近畿に類型の求められる縄文中期の土器片とクルミの殼などが、脇の前遺跡では中津式に類する縄文時代後期の土器片が、吉見浜遺跡では縄文晩期土器片一点が発見されている。
 また、五十八年の秋、青法(あおのり)遺跡において、大島在住の大谷育雄により縄文時代早期末から中期初頭にかけての土器片が発見されている。
 遺跡は、当時土地改良工事の水路造成中で床掘りのために、その断面から遺物が年代順に採集することができて、泥炭層も確認される低湿性遺跡である。そのほか、宮留遺跡では縄文中期後半から晩期終末に至る土器片が、脇の前遺跡では同中期後半、浜禰遺跡では後期末の土器片が出土している。
 以上縄文時代を総じてみると、青法遺跡はこれらの遺跡の中で最初に形成された遺跡であり、当時の縄文人は徐々にではあるが、中央部の寺内川遺跡を通じ半島先端部の狩猟、漁撈に適した地峡周辺部へと生活圏を移行していく様子がうかがえる。

弥生時代
永く続いた縄文時代に続いて、紀元前三〇〇年のころから三世紀後半にかけた数百年間が弥生時代である。弥生時代は縄文時代に比べるとその幅は極めて短いが、日本の原始社会の歴史は、大陸から伝えられた稲作や銅・鉄による金属器文化によって大きく変わっていった。
 弥生時代を一般に前期・中期(紀元前後)・後期の三段階に区分して呼んでいるが、当町における弥生時代の遺物を包含する遺跡を挙げると、宮留・浜禰・吉見浜の各遺跡から弥生時代前期末の遠賀川式の土器片が出土し、宮留・青法の各遺跡から中期の土器片が、島山神社遺跡・吉見浜遺跡・佐分利川河床遺跡・小堀船岡遺跡・野尻古墳群下の低地からそれぞれ後期の土器片が出土している。
 弥生時代前期後半を代表する遠賀川式土器は、北九州から東へ伝わり太平洋側は瀬戸内海をつらぬいて近畿地方から名古屋付近まで、日本海側は若狭地方の当町大島半島に伝播されて西日本を中心に広まった模様で、一般にこの種の土器とともに稲作が広がっていっただろうと考えられている。そして、弥生中期になると稲作の広まりは東日本にまで波及、遠く東北の南部域に達している。
 弥生時代後期に入ると、鉄器の普及が大きな力となって、農耕の生産力は急速な発展を遂げ、全国的に水田耕作が営まれるようになって、当町の原野もまたこのころから開拓の時代に入るのである。
本郷の佐分利川河床遺跡の近くで壺形土器(穀類の貯蔵に用いた)の口縁部が採集されているので、現在の大津呂川の下流域、佐分利川本流に合流する付近で弥生時代後期の集落跡があるかもしれない。
 弥生時代の住居は、径五~六㍍程度の四角か楕円形の竪穴の上に草や樹皮を覆った屋根を地面まで葺き下ろした建物で、一組の夫婦と子供が住む程度のものである。
 嶺南地方の発掘例は少ないが、最近明らかになった敦賀市の吉河遺跡は、竪穴住居跡や掘立建物跡・墓道・方形周溝墓等を備えた弥生中・後期の集落の形態を知る貴重な遺跡であろう。三世紀ごろの日本の社会情勢を伝える魏(中国)の史書『東夷伝』中の「倭人伝」によると、「倭国(日本)は暖かで、稲や麻を栽培し養蚕まで営んでいるが、牛・馬・虎などはいない。兵器としては、矛・楯・木弓などを使っている。邪馬台国は女王の国で、女王「卑弥呼」は鬼道に事へ、能く衆を惑はす……等」と記している。卑弥呼はおよそ三〇の国を統合した合衆国の長で、当時日本を代表して魏と外交していたのである。
 その後、謎の多い一世紀半が過ぎて、五世紀に入ると、大和国家の誕生を物語る壮大な前方後円墳が近畿を中心に各地で営まれ、若狭では上中町付近に集中、若狭一帯を統轄した首長「膳臣荒磯」が若狭国造として登場するのである。


『高浜町誌』、
土器製塩
謎の土器  瀬戸内沿岸各地で、弥生時代から古墳時代に属する遺跡から、二次的に火を受けぼろぼろに破片となった粗製土器が集積して発見された。昭和の初めにはこれらの土器が多量に見つかった遺跡の地名をとって「師楽式土器」と命名されたが、ながくこの土器の用途は謎につつまれていた。
 このベールをはがしたのは、岡山大学の近藤義郎氏のグループで、昭和二四年(一九五四)に香川県直島町喜兵衛島という無人島における調査で、この師楽式土器は実は製塩土器であることが立証されるに至った。若狭地方では、同志社大学の石部正志氏により、昭和三○年代の初めに、大飯町あるいは高浜町内でこの師楽式類似の土器があることが明らかにされるに至った。現在では、青森県から熊本県まで各地で製塩土器の存在、土器製塩遺跡が明らかとなっている。
 四方を海にかこまれ、岩塩などは産しない我が国では、塩は海に頼らざるを得ない。通常海水には三パーセントの塩分があるといわれ、水分を蒸発させれば塩のできることは、海岸の岩場などで天日に干されて塩がわずかに残っていることなどから、誰でも気付く製塩法であったであろう。
 さて、実際の塩作りの手がかりを文献に求めていくと「万葉集」や「風土記」に〝藻塩焼く〝、〝藻塩垂る〝という表現があり、このことは、海水の塩分を濃縮する作業に藻が使用されたことをうたっているのではないかといわれている。この濃縮海水をつくる作業こそ塩作りが効率よく成功するかどうかのカギであり、塩汲みともども重労働であった。藻をどのような装置で使っていくのかは、考古学的発掘ではまず立証することは不可能である。今のところ想像されているのは、スノコの上に藻を並べ、幾段にも積んで、上から海水をそそぎ、下に落ちるまでに空気と熱により水分が蒸発して、濃い海水となり、この作業の繰り返しにより、海水濃度をあげる方法である。
 次に濃い海水をさらに濃くするには、強制的に水分をにがす法、つまり煮つめることとなる。この煮つめる時に土器が使われる。製塩土器の使用である。何度も何度も濃縮海水を注ぎ足して塩の結晶を得ていく作業、これ又大変な重労働で、ここで「山淑大夫」の話が思いおこされるのである。
 要するに塩作りには、塩汲み→藻で海水濃度をあげる(採鹹)→土器により塩炊き(煎熬)といった単純な作業のようであるが、重くそして苛酷な労働がなされていたのである。私達が高浜町内の海岸で散布しているのを観察できる製塩土器片はこの際に使用されたもので、土器は火からおろすとボロボロになり、一回限りの使用で捨てられ、大量の破片が堆積状態で発見されるわけである。さらに、製塩には大量の燃料が必要であり、古代において米以上に商品価値の高いものであったであろう。

若狭地方の土器製塩  若狭地方における土器製塩遺跡の分布は、今日では五七個所を数えるに至った。しかも最近では、敦賀、三国、芦原などの越前海岸、舞鶴、丹後半島にも確認されるに至り、日本海沿岸一帯に遺跡が残されている可能性は強い。近年、本町に隣接する舞鶴市においても若狭と同一タイプの製塩土器が大浦半島一帯から発見されてきており、遺跡の数も六個所となっている。
 さて、若狭地方の遺跡は海岸線全域に土器の散布がみられるが、現在では民宿の改築、駐車場、護岸工事、開田工事などで消滅したものが多くなっており、遺跡の全容が存するものは極めて稀なものとなっている。そういう意味からも、製塩遺跡の保存は大切な課題であり、昭和五四年(一九七九)には、小浜市岡津製塩遺跡が国の史跡として指定され、小浜市では土地を公有化して史跡公園として日本海側唯一の土器製塩遺跡の史跡として公開する予定となっている。
 製塩遺跡は、その殆んどが海に面して点在する現在までの漁村集落と重複していることもひとつの特色であるが、中には、大飯町大島吉見浜遺跡、小浜市田烏傾・大浜遺跡のように、現在では集落の存在しない所にも遺跡が分布する例もある。しかしながら、これらの地には終末期の横穴式石室を有する古墳が築かれており、当時は集落を形成していたことは明白な事実である。恐らく土器製塩の衰退とともに、それらの集落も消滅したものであろう。
 若狭地方における土器製塩については、同志社大学により研究が開始され、その後若狭考古学研究会の精力的な研究によりその内容が明らかにされ、全国的にも若狭の土器製塩の研究成果が注目されている。その理由はいろいろあるが、後にとりあげる藤原宮・平城宮跡の木簡との関連が最も注目されることであろう。
 土器製塩の移り変わりを示すものとしてモノサシ(編年)を作り、その変遷を知る手だてとしている。モノサシは、その内容を良好に示す遺跡の名前から愛称をつけて呼んでいるもので、今では全国的に通用するまでになった。一連の研究に基づいて作成された編年表によって、次にその移り変わりを紹介していきたい。
(1)浜禰Ⅰ式 古墳時代前期~中期(四世紀末~五世紀初頭)に属するもので、大飯町宮留浜禰遺跡において、同志社大学により発振調査がなされ、若狭最初の製塩土器として著名である。製塩土器は、瀬戸内海地方や紀州のものに類似した倒杯型の脚部を有するグラス状の器形をもち、その容量は一三○~三○○㏄と格差はあるが、総じて小型のものである。炉は粘土敷炉と考えられ、浜禰遺跡では、四・六×三・四メートルの不整円型の平面形の凹レンズ状を呈する粘土敷炉が、砂浜の中に形成されていた。浜禰I式段階の遺跡は、あと小浜市阿納塩浜遺跡だけの二個所に限られている。
(2)浜禰ⅡA式 古墳時代中期(五世紀末~六世紀前半)に属するもので、前述の浜禰遺跡で明らかにされたものである。製塩土器は浜禰I式とは全く異なって、薄手でコップ型丸底を呈する器形のものが使用された。二ミリメートル内外で極めて薄く、ちょうど玉子のカラを連想させるような薄さで、その容量も三二○㏄程度で、この段階では土器も平均化された容量のものが製作されるようである。製塩炉については、いまひとつ明確にされていない。ただ、小浜市田烏傾遺跡の調査では、小円礫を幾重にも重ねた例が報告されているが、規模や平面形も明らかではない。高浜町においては、この浜禰ⅡA式の段階で土器製塩が開始されるようで、若宮西若宮、若宮西須賀、中津海堀、立石才ケ鼻の四遺跡でこの土器の散布が確認されている。
(3)浜禰ⅡB式 古墳時代後期(六世紀後半~七世紀)に属するもので、どうやら二ないし三に細分化が可能で、その大きな特色は、須恵質の土器という極めて個性の強い土器が製作されている。ⅡB式古は、ⅡA式に似た丸底のコップ型で須恵式、やはり薄手の土器であることが特色である。ⅡB式新は、やや厚手の土器で丸底ながら、大型化しており、その容量も二○○○㏄にも及んでいる。製塩炉は、ⅡB式新の段階のものは、長方形の平面形を有する平べったい石を敷きつめた、いわば敷石炉のものが判明しており、この段階で、いよいよ若狭式ともいうべき土器製塩が本格化してくるものと想定している。高浜町内でも、前述のⅡA式の四遺跡などに土器の散布がみられる。
(4)船岡式 大飯町本郷の船岡遺跡を標式遺跡として名付けられた本土器は、若狭の製塩土器の中でも全国的に名高いもので、奈良時代(八世紀)を中心として、土器製塩が最も隆盛した時期のものである。土器は土師質で厚手となり、小型のたらいを思わせる器形を呈し、容量も一万㏄に及ぶもの、径二尺(六○センチメート)位なものもある。本土器も極めて個性的なもので、土器製作の際の輪積みの痕跡を土器の外面に残していることで、製塩土器に共通することでもあるが、内容は丁寧に整形されている。いわば消耗品としての、一回限りしか使用不可という製塩土器、それも大量生産が要求されたことからかもしれない。
 製塩炉は、海岸線に対して直角に長方形の平面形のもので、敷石炉が群をなして構成されるのがこれまで船岡遺跡で明らかにされている。若狭地方に共通することであり、八○パーセント以上の遺跡が船岡式に属するもので、高浜町においても例外ではなく、ほとんどがこの遺跡である。
(5)傾式 小浜市田烏傾遺跡の調査で明らかにされたもので、五徳のような役割りを果たしたとされる〝支脚〝とよばれる粘土の台が出現する時期でもあり、平安時代ころのものと想定しており、八世紀後半~九世紀代にその年次を求めている。支脚は高さ一○センチメートル内外で、口径二○センチメートル内外の半円形を呈し、丸底の土器を乗せる機能を有している。炉は敷石炉であるが、敷石は支脚が間に入るべく、石が粗な並べ方になるのが特色で、小規模なものとなる。
(6)吉見浜式 大飯町大島吉見浜遺跡で明らかにされたもので、同じく支脚を伴うことが本土器の特色で、その高さも一五センチメートルと高くなっていく。土器も口縁部がやや外反する壷形を呈する丸底で、口径は一五センチメートル内外のものである。一○世紀前半にその年代を想定している。炉も吉見浜遺跡で発見されており、平面形は基本的には長方形である。石材は角礫で大小さまざまなもので、支脚を支えるためのものという感じで、敷石炉とはいえ粗な並べ方となっている。
(7)塩浜式 平安時代、 一一世紀まで年次の下る可能性のあることは、伴う土師器や須恵器により明らかで、若狭における土器製塩の終焉を示す土器でもある。遺跡も若狭地方で六個所となり、著しく数が減少する。本町では神野浦遺跡で土器と支脚が検出されている。塩炉式の支脚は二○センチメートルと細くなり、製塩土器もガラスコップ大の丸底で薄手のものである。炉は不整形のプランで、小さな角礫で粗な敷き石のもので、およそ実用的なものというより、塩作りの祭祀を想定させるようなものである。
(8)まとめ 若狭における土器製塩について述べてきたが、今日の段階では、若狭にとどまらず、舞鶴、敦賀を加えた若狭湾沿岸地方における古代土器製塩を考えざるを得ない所まできていることを感じる。それに加えて、製塩の独立支脚の技術波及を考えた場合、それが若狭から能登まで延長する可能性のあることから、日本海沿岸地方の土器製塩の展開も今後の課題となる。
 若狭の土器製塩の開始は、やはり古代史の流れの中でとらえられ、そのことについて石部正志氏は「若狭地方の首長が畿内もしくは吉備地方の首長と直接的な交渉(同盟・連合関係)をもった段階でおそらく若干の製塩技術保持者とともに製塩技術を若狭に導入」したと理解しているが、まさしくこの状況の中で開始されていくものと考えられよう。
 若狭式土器製塩の成立については、奈良時代の船岡式というまさしく釜風の土器ともいうべき大型土器の出現と整然と構築される敷石炉にあらわされており、平城宮跡出土の調塩の木簡に人々の苦しみがにじみでている。
 支脚の出現という、さらに若狭色の濃厚な土器の出現は、船岡式の土器の大型化、大量生産という方向からややはずれ、特に若狭の土器製塩の最終末の塩浜式に至ると、製塩土器の小型化という現象がみられ、この段階の主流は土器製塩以外の製塩法の導入をうかがわせる。いわば土器以外の釜の出現を考えざるを得ない。
 若狭考古学研究会による土器製塩実験の試みの中で、採鹹工程で藻を使用した場合、藻の色素がにじみでて、茶褐色の塩ができ、不純物の多いものとなることが判明してきた。一見、単純に考えてきた藻による採鹹についても今後考えていく必要を感じている。杉崎章氏による松崎貝塚のいわゆる鹹水溜遺構の発見も貴重な例として、土器製塩遺跡の調査で充分注意しなければならないものと考える。今後のこされている課題としては、前にも述べた日本海沿岸の土器製塩の展開における若狭の位置づけ、さらに製塩土器型式の細分化、生産量の問題等があると考えている。





関連情報





資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順


若狭
    市町村別
 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
三方上中郡若狭町
三方郡美浜町



丹後・丹波
 市町村別
 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市








【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2020 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved