丹後の地名 若狭版

若狭

鹿野(しかの)
福井県大飯郡おおい町鹿野


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福井県大飯郡おおい町鹿野

福井県大飯郡大飯町鹿野

福井県大飯郡佐分利村鹿野


鹿野の概要




《鹿野の概要》
佐分利川中流域の右岸側、佐分利小学校の裏側の集落。
鹿野村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年佐分利村の大字となる。
鹿野は、明治22年~現在の大字名。はじめ佐分利村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西4町余・南北3町余、戸数40、人口は男103 ・女111。


《鹿野の人口・世帯数》 170・54


《鹿野の主な社寺など》

鹿野古墳群
11基かになる。1号墳からは須恵器・土師器とともに町内唯一の例である馬具・轡・鐙・汢金具などがまとまって出土し、6世紀末の当地域における政治的地位を持った被葬者の存在を物語るものとして注目されている。
『若狭大飯』
鹿野1号墳
この古墳の調査によって明らかにされた事実のうち特に注目に値するのは、その副葬品の中に馬具のセットが存在することであろう。大飯町内で発掘調査を行なった13基の古墳のうち、確実な馬具の出土をみたのは、この古墳のみであった。しかも普通この時期になると馬具の副葬といっても単に辻金具のようなものだけを象徴的におさめる場合が多くなるが、本墳では、轡,鐙,辻金具と実用的なセット一組で出土しているのである。
 馬具の有無がタダちに被葬者の身分を反映していると単純に考えることは危険であるが、この鹿野古墳群の古墳からはすでに以前にも馬具の出土したことが知られており、やはりこの古墳群をのこした集団には、この地域においても特殊な政治的地位をもった被葬者群を想定できるのではなかろうか。この問題については後章であらためて検討を加えたい。


『大飯町誌』
古墳
 佐分利谷の古墳はこの集落を頂点として集中していたのである。専門的な調査がなされたのは昭和三十六年(一九六一)のことで、それまでに破壊潰滅したものがかなりたくさんあったという。そのときの調査で、ぐじょ一(現存)、ぐじょの下一、神社正面一(跡なし)、神社後ろ一、新助畑二(現存)、石倉治郎兵衛家裏一(跡なし)、谷口新左家一、長右衛門後ろ一、今谷一(現存)、寺奥一、計一一基が確認されている。そのほか数基が学校の敷地の下になったと聞くし、明治十八年(一八八五)ごろ一基破壊されている。記録や口碑には伝えられないものも幾らかはあったらしい。『大飯郡誌』には、「鹿野に多数の古墳ありしも発掘今は多く其跡を止めず」と簡単に記し、その詳細を伝えていない。
 佐分利地区の王座を占めるこの集落は、古墳時代の民居もまたここに多く集まっていたと考えられるのである。多く破壊された一つの理由は、ここが緩傾斜地で民家を構築するのに適していたからであろう。現に残っているものの多くは民居の中又はその付近である。明治十八年ごろ発掘した時の出土品が、幸いに『本郷湊』に記録されているので再録すると、「……明治十八年の頃鹿野区石倉金蔵なるもの自家所有の地籍内にある石室(横一間径一五間高五尺)掘返したるに、其の構造人の住みし如く、剣、覇、馬鞍等と、頭、頸、手、足、又衣服子等の装飾用に用いたという瑪瑙質勾玉、翡翠に似たる管玉、水晶と思ぼしき丸玉多数を出せり、中にも剣の如き武器類は腐錆して形体を存せず……此の外同種の石室数個あり、土地の豪農谷口氏の地籍内にもありと云う」とあるように、武器・馬具・装身具を副葬されるような有力者が、この地にたむろしていたことが十分に想像されるのである。
 昭和三十六年発掘の報告書(『若狭大飯』)には、「この古墳(鹿野第一号古墳最も東にあるもの)の調査によって明らかにされた事実のうち特に注目に値するのは、その副葬品の中に馬具セッ卜が存在することであろう。大飯町内で発掘調査を行なった一三基の古墳のうち、確実な馬具の出土をみたのは、この古墳のみであった。しかも普通この時期(六世紀末か七世紀初)になると馬具の副葬品といっても単に辻金具のようなものだけを象徴的におさめる場合が多くなるが、本墳では轡、鐙、辻金具と実用的なセットー組で出土しているのである。馬具の有無がただちに被葬者の身分を反映していると単純に考えることは危険であるが、この鹿野古墳群の古墳からはすでに以前にも馬具の出土したことが知られており、やはりこの古墳群をのこした集団には、この地域においても特殊な政治的地位をもった被葬者群を想定できるのではなかろうか……」(石部正志)と注意をひく記事が載っている。



八幡神社

『大飯町誌』
八幡神社(元村社)
祭神 応神天皇
所在地 鹿野字宮の下(二四の三)
境内地 一、三八二・七平方㍍
氏子 鹿野四〇戸
例祭日 十月十五日
宮司 上原善太郎
主な建造物 本殿
特殊神事 豊年祭、太刀舞、宮当祭
由緒・系統 文亀二年(一五〇二)の勧請 八幡系


八幡神社
 字宮下に鎮座、文亀二年(一五〇二)の勧請という。文亀二年は守護武田信親の時代で、戦国時代である。このとき八幡神社を勧請することは故ありそうなことである。
 この神社にも宮当祭りが永く続いてきている。元禄二年(一六八九)の帳簿に座衆三三戸とあって、現在の座衆と同数であるという。古い座を守って新規加入を認めないのであろう。十月十五日の祭日に昼講は一斗五升、晩講は当家の親類だけ、当渡し式には謡があって二献、当屋三人に相当二人その年中神社の守りをするという規約が伝承されている。また、祭りには太刀振りが行われていた。社宝として古い鈴の緒がある。元禄二年のものだろうといっている。


『大飯郡誌』
村社八幡神社 祭神應神天皇 鹿野字宮下に在り 社地三百七十七坪 氏子三十八戸 社殿〔〕由緒〔明細帳〕文龜二壬戊年勧請 〔郡縣志〕 〔國中高附〕に見ゆ。


曹洞宗竺王山仏灯寺

『大飯町誌』
竺王山佛燈寺
宗派 曹洞宗(海元寺末)
本尊 聖観世音菩薩
所在地 鹿野字村中(三〇の二)
主な建物 本堂、庫裡、玄関、開山堂、平和ひめゆり観音像、本堂は明治二十三年(一八九〇)落成
境内地その他 境内二、五三五平方㍍、境外九、六三六平方㍍
住職 大鶴直道
檀徒数 三六戸
創建年代 寛永十五年(一六三八)
開山 海元五世、月月+岑祖澤大和尚


佛燈寺
 字村中にある。曹洞宗永平寺派で父子の海元寺末である。本尊聖観世音菩薩、開山堂、庫裡を備え庭も整っている。寛永十五年(一六三八)に海元寺五世の月月+岑祖澤和尚が創立し、当時は字鹿野谷にあった。寺号も鹿野寺といっていたが、明治十二年(一八七九)老朽大破したためこれを再建した。ところが同二十年十二月十六日に類焼の災に遭い、翌二十一年九月に現称の仏燈寺と改め、寺地を変更して同二十三年現地に建物その他の完成をみたのである。
 由緒によると、「元は京都相国寺派の禅寺で慶正庵と称していた。開基は長志しはと申す妙古大姉で、その木像もあった。ただし開山は分らない。寺屋敷が五畝一七歩御赦免地。二度火災にあって由緒は知れなくなった。本尊は月光の観音であった」と、住持知見が報告している。
 また『若狭郡県志』には、「鹿野寺、始め慶松寺と称し近世故あってこれを改む。古この村に鹿野寺があり、本尊は千手観音であった。若狭の国中の三十三所順礼の札所の一つである。それから廃絶して年久しい。今その古い名を用いるものである。」、また別に「西国三十三所札所の二十番山城国善峰寺に準じたもの」とある。『本郷湊』には、「或人の研究に依ると寺の号に鹿野王山鹿野王寺とあり……」とある。鹿野庵の跡は現在学校の敷地となっている。


『大飯郡誌』
佛灯寺 曹洞宗永平寺派父子海元寺末 鹿野字村中に在り 寺地七百六十七坪 境外所有地也九反七畝五歩 檀徒三十二戸 本尊聖観音 開堂〔〕玄関〔〕本堂〔〕庫裏〔〕 由緒〔明細帳〕(取草稿意)
寛永十五戊寅年海元寺五世月岑祖澤創立字鹿野谷に在り鹿野寺と稱せしが明治十二年大破に付再建二十年十二月十六日類焼二十一年九月現稱に改め翌年寺地変更二十三年建物落成せり。
〔若狭郡縣志〕 鹿野寺 始稱慶松寺近世有故改之古斯村有鹿野寺本尊千手観音國中三十三所順禮札之一也廢絶年久今用其名也 又云二十番准山城國善峰寺。




《交通》


《産業》
きのこの森
佐分利川の対岸になるが「きのこの森」が地内にある。

きのこの森


《姓氏・人物》


鹿野の主な歴史記録


『大飯町誌』
鹿野
 鹿野の民居は笹谷の対岸、山裾に広がって集まっている。浅い峡谷を登ってゆく鹿野坂は、名田庄村奥坂本へ越すのである。佐分利地区の中央に位置し、役場から六・五キロメートルである。


鹿野の伝説、民俗など


六斎念仏
『大飯町誌』
六斎念仏
 昭和三十九年(一九六四)六月五日、当県の無形民俗文化財として指定を受けている。集落全戸(五九戸)が義務的に加入している。正月十六日は佛燈寺で四遍と白昧を、盆の十六日には早朝から夜半ごろまで通しで集落の全戸を回り、家々の庭園から六斎(幡幢)を打ち最後に観音堂でおさめをするのである。以前には葬儀にも希望により四遍と幡幢を打った(埋葬地と喪家へ帰ってからと二回)。これらの行事は元禄二年ごろから行われてきたと言われている。
 集落の東北の山腹に、稚岩(ちごいわ)という岩石の露出した所がある。昔ある姫をここから突き落としたところからその名が残ったともいい、またその姫は武藤上野介の息女であったともいう。

鹿野の六斎念仏
  県指定
  昭和三九・六・五
①所 在 大飯町鹿野
②管理者 鹿野区長
③組 員 鹿野区全員(五九世帯)
④器 具 太鼓六、鉦二、寺保管
⑤曲 目 四遍、白昧、六斎(幡幢)
⑥時 期 正月十六日(仏燈寺で四遍、白昧)盆十四日午前八時~夜一二時全戸を回り最後に観音堂で上げる。
⑦行 事 各家々の庭前から盆棚に向かって六斎を打つ。葬儀の場合は従前は希望に応じて埋葬時と喪家へ帰った時とに四遍と六斎とを打っていたが、現在は四遍曲を打つ者が少なくなったのでほとんど行っていない。
⑧練 習 正月十六日~二月十五日まで毎晩、八月一日~十三日ごろまで毎晩行っている。
⑨経 費 各戸から布施として納める。
⑩由 来 創始は明らかでないが、元禄二年(一六八九)ごろから行われていたように伝えている。
⑩参 考
  和讃(念仏のあとにつける)
 (一)南無阿弥陀仏なんまいだあぶうなんまいだあぶう
 せん修者の光明はあんのん(観音)念ずる所を照し給ふ七十が
よい(う)ほへ咲す花は、散れどもしゃばのつき知らぬ時は変
らぬおいろなれば春とも秋ともこの上づんばいしょ
 南無阿弥陀仏
 (二)南無阿弥陀仏 せんかる(然るに)みだの浄土は
 あんのんけいりゃくふたりか所して 寿命が無明に長ければ楽
しむつきする事もなし釈迦のようほへ西入りやるみろくのあさ
日はまだ見えぬそのまのじょうやのくらきよはあみだの光りで
照し給ふ今こそ(の)しゃばの花の春もみじのあきの其のもと
は観音をんごうくらくにのうおうぢおうばいかでなるかやこの
上づんばいしょ 南無阿弥陀仏
 (三)一回の場合(盆棚に向かって一回だけ念仏を打った場合の意
味) 「願くはこの功徳は」あんのんあまねく衆生に施して同じ
く所をこしぞく安楽国にをりをん生
 二回の場合(新仏などがあって二回くり返し念仏を所望された場合)
 あさまの露のふかきにはし袖うちさらって花つめば仏の(も)
うれしくおもしろし安楽国にをうをん生(大往生)願二施功徳
みょうろんしさいろんをつもらいをんしょう(往生)安楽国
発願文
 願弟子等、臨命終時、心、不顛倒心不錯乱、心不失念身心無
 諸苦痛、身心快楽、如入禅定、聖衆現、前、乗仏本願、上品往
 生、阿弥陀仏国、到彼国己、得六神通、入手方界、救摂若衆
 生、虚空法界尽、我願亦如是、発願巳至、心帰阿弥陀仏


山おろし
山おろしは火祭りとして町民俗文化財であり、8月16日夜火勢山で火勢をあげ、太鼓を打つという。
『大飯町誌』
山おろし 鹿野
  町指定

  おどりナーばんばの
  小砂となりテーヨーヨイサッサー
  踏れたいわの二十一じヤーヤレコリャスイナノエンヤ
  エンヤワエソヤアレワイサーエ娘ノー

  かぐ(ご)やの娘よ--組んでみせましょ花かごを(反復)
  花かごを-組んでみせましょ花かごを-
どこにも見られない独特な二つの踊りを持つ「山おろし」は、火祭りということでは福谷の「大火勢」と同じ形式のものであるが、そのルーツについても、歴史的なことについても、定かなものは何も残っていない。踊り歌の素朴な節回しを聞いていると、恐らく鹿野の祖先が生み育ててきたものと考えられる。
 八月十六日の夜、小車田との境いの竹の越地籍の火勢山で火勢を上げた後、山おろしの太鼓を打ちながら降り、平道まで来ると六つの高張の迎えを受けて、大太鼓と中太鼓の打ち合いの行列が続く。
 その後、練り込みの太鼓を打ちながら仏燈寺境内に入り、火勢上げの白装束のまま踊る。「山おろしばんば踊り」と「山おろしかぐや踊り」の二つが五分間ずつの短い時間で打ち切られる。
 これは、全員が戻っているかどうかを確かめ合うための踊りであるとも言われ、五分ずつという短い時間もその意味から定めたもののようである。いわば凱旋の雄叫びのように思われるのである。昔の火勢上げは、それほど過酷なものであったらしいが、今日では規模を縮めてモウソウ竹のさおで行っている。
 どの家からも一人以上の男子が参加するので、踊りは素朴ななかにも勇壮さがある。この踊りを最後に山おろしの行事が締めくくられる。
 山おろしは、今日では仏の供養のためとされており、その昔、今の火勢山より更に高い山の頂上(現在テレビ塔がある)で火勢を上げていたが、小浜城からその火があかあかと見えて山火事かと思われ、小浜の殿様からおしかりを受けたので、今の場所まで下りて行うようになったという逸話が残っている。
 この山の頂上には、その昔愛宕神社が勧請してあったと伝えられているから、山おろしは、火災鎮護を祈った愛宕信仰でなかったかと思われる。それを裏付けするものとして、忌みのかかっている人は山の途中の決められた場所から上へは登れず、そこで、鉦と笛を奏でることになっている。今日、祖先への供養であり、その送り火と考えられているこの火祭りも、昔の信仰の姿が残され、うまく溶け込んでいるのである。
 こうして、素朴に伝統を守り続ける信仰と連帯の力が区の安泰をも守り続けてきたのである。

『越前若狭の伝説』
稚子(ちご)岩(鹿野)
 鹿野区の福柿山のこ高い所に奇妙な形をした岩がある。むかし三森区に五右衛門という資産家があった。幼児ひとりを残して死に絶えたので親類の某が子どもとその全財産をあずかったが、財産は自分のものとしてしまい、その上は子どもがじゃまになるのでいじめぬいた。あるとき山伏にたのんで調伏を七日七夜させて、子どもをのろったので、子どもはいることができず、この岩の上まで逃げてきて、舞をしてついに死んでしまった。また、武藤上野介の姉娘が岩の上から身を投げて死んだというのもこの岩であるという。 (福井県の伝説)

 むかしやんごとなき姫君を突き起したので、この名がある。(本郷湊)
 参照 胴欲河原(大飯町石山)



鹿野の小字一覧


鹿野  嶋淵 保遠迫 山田下 高田 上高田 西ノ山+古 下高田 福柿 下川原 三反田 具丈 堂川原 大川原 向川原 一本木 堂ノ下 保遠里 宮ノ脇 宮ノ下 宮ノ上 石倉 鹿野谷 村奥 尾谷口 村中 寺本 村下 下井尻 上井尻 山崎 山根 今谷口 赤谷 奥赤谷 隠谷 今谷 奥今谷 前上谷 椎木谷 志那谷 福岩 枇杷木谷 福柿谷 滝方 安ノ谷 失谷 竹ノ腰 尾谷 志那 竹ノ王 三ツ石 足谷 朱谷 枇杷木 具丈谷 東谷 福柿谷 保遠迫谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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