丹後の地名 若狭版

若狭

旧・知三村(ちみ)
福井県大飯郡おおい町名田庄
久坂・挙野・小倉畑・虫鹿野・三重・堂本
・染ヶ谷・小倉・槙谷


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福井県大飯郡おおい町名田庄久坂・挙野・小倉畑・虫鹿野・三重・堂本・染ヶ谷・小倉・槙谷

福井県遠敷郡名田庄村久坂・挙野・小倉畑・虫鹿野・三重・堂本・染ヶ谷・小倉・槙谷

福井県遠敷郡知三村






旧・知三村の概要




《旧・知三村の概要》
南川中流域の平野部と山間部を含む地に位置し、地内を久田川が流れ広大な面積がある。
中世の知見村は、鎌倉期~戦国期に見える村名で、若狭国遠敷郡名田荘のうち。平安期に3町ばかりの土地があったと記される「弘瀬野」は、中世では知見村内の「広瀬野名」として見え、現在の兵瀬に比定され、南川中流の久坂・挙野・小倉畑・兵瀬地域を中世では知見村と称していたと推測されている。
三重村・田村とともに名田下荘に属していた。文永4年12月26日安居院実忠譲状案に「若狭国名田庄内知見村」領家職を実忠一期の後に実忠の孫の別当典侍局に譲るとあるのが初見。
以降「大徳寺文書」に散見するところによれば、建治3年8月には当村を含めた名田荘7か村を外孫実盛に譲るとする実忠の譲状が認められ、当村の知行に関しては別当典侍局と実盛との間で争いとなったが、正応2年10月13日に実盛が去状を出して、別当典侍の知行を承認している。
別当典侍局は実忠の孫の公員に譲与していたが彼が死去したため、正和5年正月20日に公員の子の実綱に譲与することとして文書は「かすかまち」の土倉に預けていた。しかし別当典侍局が召使っていた行寛はこの文書を取り出して浄土寺に質入れしてしまったという。行寛の主張によれば、この地は別当典侍局が行寛の父の守寛に譲与したところだとしている。他方で名田荘惣荘の支配権を主張する実盛の娘権大納言典侍も訴えを起とし元応2年9月別当典侍死後は権大納言典侍の知行とするという判決を得ているが、元亨元年5月13日には権大納言典侍の権利は否定された。
この相論の中で別当典侍局は一部の文書を取り返すことができたが、なお他の文書は行寛と浄土寺が保持していたとみられる。
大炊御門実綱は所領回復に成功し元亨4年2月2日には実綱の後室(にしむきの御方、藤原氏女)に譲与した。その後この後室は子の季綱・季光とともに南北朝期にも支配権を保持した。
行寛より当村を買得した浄土寺も権利を主張し康永2年9月には浄土寺慈勝も北朝に訴えている。さらに貞和2年11月19日行寛は惣荘支配を主張する権大納言典侍の子花山院兼信と「合体」し知見村のうち西山法華山寺寄進分・新井田・上野名・広瀬野名を除いた半分を兼信に引き渡し残る分は法華山寺に寄進するが、兼信分の預所に任じてほしいという契状を作成している。しかしこの「合体」勢力も大炊御門家の知行権を奪うには至らなかった。
貞和3年当村は延暦寺の十乗坊・光明坊らによる濫妨狼藉を受け、貞治3年には新名繁氏の違乱を受けるが、その際藤原氏女から訴訟が出されている。貞治3年12月23日当村の領家職は藤原氏女から徳禅寺に寄進され、翌年には徳禅寺の知行を認める後光厳院綸旨が出されている。
一方当村は本家職を有する蓮華王院の支配も受けており元徳2年12月27日当村から蓮華王院金堂修理用途として600文を供出しているのをはじめ毎年正月18日には修正会料として菓子9合・松9把を、4月には寺兵士布として4丈布2反を、8月には香料として750文を「知見村役」として負担している。
当村が徳禅寺へ寄進されて以降蓮華王院の支配は徐々にその実を失ったものと思われる。
守護一色氏、武田氏の領国支配の中で徳禅寺の支配は戦国期の文明年間まで確認される。天文15年9月6日の三重熊野神社の上葺の際には当村から200文を施入しており、弘治2年6月22日明通寺鐘鋳勧進算用状には「四百文 ちミ村」と見える。なお中世に知見郷を領した知見出雲守の宅地跡が小倉村にあると伝える。

知見村は、江戸期の村。久坂村・挙野村・小倉畑村の総称。これら3か村は,「元禄郷帳」「天保郷帳」ではともに知見を冠称して記される。「稚狭考」は知見村として村高255石余とあり。この高は先の3か村の合計高にあたる。
知三村は、明治24年~昭和29年の自治体。南名田村が改称して成立。同村の14大字を継承。新村名は江戸期の知見村の知と三重村の三を組み合わせたもの。
昭和30年1月1日名田庄村の一部となり、当村の14大字は名田庄村の大字に継承された。





旧・知三村の主な歴史記録


『遠敷郡誌』
知三村
 東は三國岳を以て滋賀縣に境し、南は八ヶ峰一帶の山嶺を以で丹波に、西は奥名田村に、北は中名田村に接す、南川は奥名田村より東流して本村に入り、堂本川・來多川を併せて水量を増し小濱迄川舟を通ず。
 丹波街通は南川に沿ひて本村に入り、西端を貫通して知井坂に至り、京都府に通ず、久坂にて丹波通より分れたる南川に沿へる郡道は坂本道と稱し、奥名田村に通ず、南川の支流に沿ひて谿谷の部落を通過する村里道は兵瀬より虫鹿野・木谷・出合・永谷を經て近江針畑に通ずる来多道及堂本より染ヶ谷を經て丹波國に通ずる染ヶ谷道等あり。
 久坂 南川及丹波街道に沿ひ役場小學枚等あり、奥名田村及丹波道の要路に當り、古来交通上主要の地點たり、久坂山の上に大田祐安の城址ありと云ふ。
 三重 本村北端の耕地を占め山田・尾内・下三重・兵瀬の四部落に分れ、藩政時代に於ては中名田村深野区を合せて三重村と稱せり、彌勒堂境内に明治三十七八年戰役忠魂碑あり、兵瀬に一里塚と稱するものあり、小野知山の上に三重城址あり、初め大田祐安の拠りし所にして後武田の家臣曾我氏の居りし所と傳ふ、字觀音前に観音堂あり、大田祐安の菩提寺東蓮寺の本尊なりといふ、字秋葉谷に不動堂あり、本尊は享和年中一修験者の齎す所なりと云ふ、字砂畑に彌勒堂あり。
 小倉畑 南川の支流来多川の下流を占め三重區の東にあり。
 挙野 南川を距てて久坂と相對す。
 堂本 丹波道に沿ひ堂本の外廣畑・突上所・上所の小部落あり、堂本川に沿ひて散在す、知井坂は此區より初まる。
 槇谷 堂本川上流の山村にして耕地少なし、古家住民は木曾義仲の末孫なりと傳へ左近・刑部・治郎太夫三家は元祖にして木太刀、鎗の柄を造るを本業とせしと傳ふ、一つ谷は朝比奈三郎の古城址なりと傳へ、知井坂には駒立・馬崩・死人谷等の口碑地あり、國境に石碑あり、新田義貞の建設せしものと傳ふ。
 染ヶ谷 八ヶ峰の麓なる谿間の小部落にして、全部炭焼を業とす、丹波に通ずる坂路あり、權藏越と稱しこなみ峠あり。
 小倉 南川に沿ひて奥名田村に接し、小倉の外方内・左近谷の小部落あり、東光院一帯の地を知見出雲守屋敷址と傳ふ。
 虫鹿野は久多川上流全部の谿間に散在せる虫鹿野・虫谷・木谷・出合・挙原・永谷の諸部落を占め、一區としての面積の大なる事本郡第一なり、然れ共耕地甚だ少く生業は主として杣及炭焼なり。
 虫鹿野 小倉畑に接し、久多川に沿ふ、久多河内或は多古木谷といふ。
 虫谷 久多川の支流虫谷川の上流にあり、藩政時代には藩主御用杣職なりしと云ふ大田祐安の邸宅の跡と傳ふる田地あり。
 木谷 久多川に沿へり、大阪杉村氏の植林七百餘町歩は主としで此区にあり。
 永谷 久多川の上流永谷川の谿間にあり、さぶ峠を越へて近江針畑に通ずる道を針畑越と云ふ、青井岳の山中不動の瀧あり。
 出合 久多川の上流永谷川と擧原川との合流點にあり。
 挙野 本村の東端にして挙原川は鬼又谷・ごしか谷・鍋窪谷等に分れ、鬼又越に依で遠敷村中ノ畑に通ず、皇子塚と稱するものあり、住民甚だ尊崇し古来尊貴の墳墓なりと傳ふ、山上の小丘に高さ約一尺七寸下石巾七寸の花崗岩の宝篋印塔あり、風化甚だしく殆んど文字を認めず、古来市邊押盤王の葬られし近江の久多の蚊屋野を以て此地に擬する學者あり。
 本村の生業は農業に林業を兼ね殊に木炭の産出多し。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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