丹後の地名 若狭版

若狭

安川(やすかわ)
福井県大飯郡おおい町安川


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福井県大飯郡おおい町安川

福井県大飯郡大飯町安川

福井県大飯郡佐分利村安川






安川の概要




《安川の概要》
佐分利川上流左岸の山裾に位置する。当地は2地域からなる。

安川村は、明治8~22年の村。同8年安井村(上流側)と川関村(下流側)が合併して成立した。敦賀県、滋賀県を経て、明治14年福井県に所属。同22年佐分利村の大字となる。
安川は、明治22年~現在の大字名。はじめ佐分利村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西6町余・南北2町余、戸数17、人口は男56・女54。


《安川の人口・世帯数》 67・23


《安川の主な社寺など》

安井にも川関にも八幡神社、若宮八幡宮と同一祭神の神社が、前者は字東奥谷に後者は字北関川原に祀られてきたが、その由緒は伝わっていない。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


安川の主な歴史記録


『大飯町誌』
安川
福谷の南方丘陵を挟んで元安井と川関の両集落があったが、明治八年(一八七五)十一月十八日。ときの滋賀県知事から合併を認可された。安井は一一戸、川関七戸で、役場からI〇・五キロメートル、佐分利川の左岸に位置している。
 この集落はその昔を探る手掛かりがほとんど何もない。安井にも川関にも八幡神社、若宮八幡宮と同一祭神の神社が、前者は字東奥谷に後者は字北関川原に祀られてきたが、その由緒は伝わっていない。
浅野長政の条々
 この集落については、天正十五年(一五八七)十月の「浅野長政の制状」で、「安井村」と明記してある。
   条々   大飯郡内安井村
一、隣国より年貢うせこし候はば相かかへまじき事
一、盗賊人又はたよりもなく一切しれざる者かかへ置間敷事
一、給人代官百姓にたいし不謂やから申かけ人夫等むざとつかひ候事手引まじく候。がうきに仕るにおいては直訴すべき事
一、ありやうの年貢相さだめ候枡を以てはかり申べく候。年貢を無沙汰いたし未進仕候はば百姓可レ為レ曲事一事
一、前々よりはしり候百姓よびかへし田地あれざるやうに可二申付一候あれ地は半納、年々荒は来年の儀百姓にとらせ候。立かへり候百姓来年夫役可レ令二用捨てる一候、あれ地をひらき又ぬしなしの田地作毛付候はばさいばんすべき事
一、おとな百姓として下作に申付作あいを取候儀無用に候。今まで作仕候百姓直納に可仕候事
一、地下のおとな百姓又はしやうくわんなどに一時もひらの百姓つかはれまじき事
  右所二定置一如件。
   天正十五年十月四日  弾正弼(花押)
この文書は石山の浄土寺に保管されていたのであるが、現在は所在不明になって『大飯郡誌』に写真だけが残っている。
胴欲川原
安川には胴欲川原の伝説があって『本郷湊』には次のように伝えている。「石山城が落城した時、上野介が姫をしばらく頼むと言って、家臣の仲と坊の両人に託し、自分は京都の向川へ落ち延びた。ところが、仲と坊の二人は、もしもこのことが敵に知られたら自分らの身が危ないと考え、その娘が持っていた沢山の財宝をかすめ取り、安川川原で姫を殺したという。それでこの川原を「胴欲川原」と言うようになったという。天はどうしてこの無残な行いを見逃そう。たちまち祟りあって、ほどなく両家とも廃絶してしまった(原文を読みやすく直した)。」
 この集落の大火は、明治以後に川関六戸全焼という記録がある。

安川の伝説




安川の小字一覧


安川  西村奥 北村奥 西奥ノ谷 奥ノ谷 西ノ上 井根口 村上 東奥ノ谷 北村下 村下 川向 清水前 清水下 村中 北関河原 中島 下川原 西毛 梨本 川尻 祭神 袋口 袋 大谷 小袋 西ノ谷 西谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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