丹後の地名 若狭版

若狭

青(あお)
福井県大飯郡高浜町青


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福井県大飯郡高浜町青

福井県大飯郡青郷村青






青の概要




《青の概要》
国道27号沿いで、JR「青郷駅」↓があるあたりから、青海神社のあたりまで、道の両側に集落があり、青郷小学校のあたりになる。

国道の南側に並行してJR小浜線が通る。大正8年の小浜線開通工事で、清水・雉谷の古墳群が一部が破壊されたという。
「和名抄」の阿遠(あお)郷(青郷)の遺称地。青郷は中世にも存続し、文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写には「国領」として青郷が記される。
青村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。神社は青海明神社、日置村との境に鎮座するため、地元では日置の大森さんと呼ぶ。また、「若狭郡県誌」に若狭国三十三か所観音第23番札所として青郷金林寺が見え、今の公民館が金林寺跡地にあたるという。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属、同22年青郷村の大字となった。
青は、明治22年~現在の大字名。はじめ青郷村、昭和30年からは高浜町の大字。

《青の人口・世帯数》 242・98

《青の主な社寺など》

清水谷古墳群と雉谷古墳群の青古墳群
『高浜町誌』
青古墳群
 清水谷支群は跡かたもなく完全に破壊されているが、上田三平氏の報文によって清水谷の山角に三基ほどの円墳が存在し、清水谷の一は、内部巨石造りで礫を敷いていたことがわかる。清水谷の民家近くで明治四二年に発掘されたものは、須恵器多数、鉄斧、直刀数口、銀環(口絵参照)等であり、現在東京国立博物館が所蔵している。
 雉谷支群は、ちょうど国鉄小浜線青郷駅の背後に位置し、今なお数基の横穴式石室が残存している。上田三平氏の報文によると、雉谷の一は南に開口する無袖の長い石室で側壁は巨大な自然石であったという。


『大飯郡志』
清水谷の古墳 大字青の低き山角を利用して築造したるものにて、其民家に近き物は明治四十二年に発掘され、多数の祝部土器 鐵鎖破片鐵斧直刀数口銀環五ヶ綜磨石等を出し、次で大正六年其附近にて復た銀環一ケを得たりと云ふ、石室は巨石より成り底部には礫を敷き且圓塚と認ひ可き物ありしと云ふ。現鉄道小濱線路に屬せしもの故壞了され原形状を見るに由無し。
雉谷の古墳群 同大字の依丘腰に群在し、其一ケは開掘されて桑葉貯蔵に利用さる、石宝は南に向ひ玄室羨道の別無く側壁は大自然石を重ね封土は圓形なり。大正八年鉄道小濱線工事中附近の地下より坏と提瓶数ヶを発掘せりと云ふ。其他大字日置及び小和田にも石室存在せり。


青海神社

金林寺廃寺
「若狭郡県志」に、若狭国三十三か所観音第23番札所として青郷金林寺が見え、現公民館が金林寺跡にあたるという。

国道27号沿いの青郷公民館



青城

日置の大成寺↑。この裏山に青城があったという。
大成寺(だいじょうじ)裏山の主嶺より北へ張出す枝峰山頂(253メートル)に主郭を配し、それより北へ張出した山頂(136メートル)に下城があるという。
「若狭郡県志」に「青太郎城趾」として「伝言昔青太郎云者拠之、而領青郷故土人称青殿矣」とあり、青氏の城跡と伝えている。
青氏は、建久7年(1196)六月日付の若狭国御家人注進案(東寺百合文書)に「青六郎兼長・同七郎兼綱・同九郎盛時」と名がみえる青郷の豪族で、文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写に青郷の地頭として「青七郎」、また重国名領主として「青左衛門尉跡同源次」とみえる有力豪族で、在地で勢力を伸長していたものと推測されている。応安4年(1371)5月の国一揆には若狭守護一色氏の被官として出陣しており(若狭国守護職次第)、天文8年(1539)5月16日付等仙知行安堵状(西福寺文書)に「青左近将監」の名がみえるので、鎌倉時代より存続したことが知られる。築城の時期は明確にできないが、城の形態からすると戦国期に通常みられる遺構という。城の廃絶は天正12年丹羽長秀の破却によるという。


『高浜町誌』は、
青城  当町の西端、青郷地区字青の南側、日置大成寺裏山に位置し、主嶺より北へ張出した海抜一三六・九メートルの山頂に一城をつくり、それより一たん南へ嶺が下って上昇する稜線の二五三・三メートルの山頂にも一郭を配置している。
 記述の都合上、前者を下城、後者を上城と呼ぶが、この間は約四○○メートルのへだたりがあり、したがってこの城の総延長は五五〇メートルにもおよぶ。
 下城は大成寺山の山頂を削平して造成され、主嶺より北西に伸びる朶峰山頂部にあたる。全長一五〇メートル、最大幅一二メートルと小規模だが城としての機能はととのえている。主郭は最高所におかれ、全長五〇メートルを計るもので三段の郭を連結してつくられている。この東南端では南と西に土塁を配して一郭となり、一メートルの段切りをして中段郭をつくる。これはほゞ方形の平場のみで防備施設はみられない。それよりまた段切りをして主郭の先端郭となる。この北西先端にはL字型の土塁を配し、それに近接して小方形の櫓台を持つ。L字型土塁の先は空堀をつくり、さらにほぼ自然な状態の一郭を形成する。この先端には空堀があって、その先にも一郭が認められる。
 一方、上城は全長七〇メートル、最大幅二〇メートルを計るが主要部分は一〇メートルにも満たずきわめて狭小な小郭である。しかし一部には土塁もあって明らかに城の形態を見せており、或いは下城に対する詰の城かも知れない。
 上城・下城ともに両側面は急斜面となっていて要害の地となる。また眺望も非常によい。青郷地区、横津海・関屋もみられ見張所として絶好の場所といえよう。
 『若狭郡県志』には「青太郎城址」とあって城主は青氏と伝えている。青一族は建久七年(一一九六)の鎌倉殿御家人交名帳にも記載される青郷の在地豪族として存在しており、古くからの名族であった。
 ところがこれ以後においては殆んど名の出て来ない氏族であり、在地性は考えられるものの、武士として活動があったかどうか。
 青氏が戦乱の中で出現するのは、先の源平争乱期と今一つは南北朝動乱にその動きがみられるのみである。このことは本誌で述べているため省略するが、それには青氏が国一揆に守護方として出陣したことが記され、ときの若狭守護一色氏に与力し守護方主力の一員として合戦に参加した。
 南北朝期には守護方として存在したものの、永享一二年(一四四〇)武田氏入部以後も守護被官とはならず、また幕府奉公人の中にも見当たらない。一応、在地豪族として青を本貫としたものの御料所青郷の中でどれはどの力を持っていたものか。室町期においてもまったくの出典はなく、国内争乱にまきこまれるほどの武力もなかったと推測されよう。ただ、(天文八年(一五三九)五月一六日付等仙知行安堵状『西福寺文書』)に青左近将監の名が認められる。
 以上のことからは青城の造成年代を押しはかることはできず、いつ頃の築城になるものか判断しがたい。しかし、城の形態は戦国期に通常みられる遺構であり、おそらく室町末期に求められることもできよう。結局、青氏は守護方として活動しながら以後はまったく関係をもたず、在地に密着して土豪化したと考えられ。その終焉もまた明らかでない。

青太郎の城址
 青の南端より十善寺山(大成寺裏山標高二五三メートル)を本城とし、それより北に張り出した寺迫に下城があり、青郷駅の南側の山(一三四メートル)に出城がある。青殿は安賀高傔仗国政(遠敷郡安賀里)の子鳥羽右兵衛青太郎が建久七年(一一七六)ごろ築造し天文八年(一五三九)ごろまで栄えた。
若狭郡県誌には、
  伝言昔青太郎之者拠レ之
    而領二青郷一故土人称二青殿一矣



青郷小学校

『郷土誌青』
弁当検査 またこの時分になると青郷のような田舎でも食糧事情が悪化し始め、闇物資も横行するなかで「米穀搗精等制限令」施行中で白米に精米することが禁じられ七分搗きの黄色っぼい御飯が栄養価値が高いといって勧められた。
 ある日、学校へ青の駐在所から警察官がやってきて児童の弁当検査が行われた。警察官は制帽をかむり、立派な髭をはやし腰にサーベルをさげて教室に入り、子ども達ひとりひとりの弁当を検査し帳面に記入していった。おかずの貧弱な弁当を持つ子は恥ずかしく白米の弁当を持つ子は怖い一瞬であった。
学童疎開 昭和一八年一二月、文部省は「学童の緑故疎開促進」を発表。県はそれを受けて「疎開に伴う生徒・児童の取扱に関する件」を通牒した。この前後から青郷へも都会から食糧確保のため、空襲の危険を避けるため、親類緑者や知人を頼ってやってきて家の納屋や小屋に住み、その子弟が転入学してきた。
 なお朝鮮から強制労働で日本に慟きにこさされた人々の子弟も転入学してきた。従来、青郷校の在席児童生徒数は三〇〇人前後だったが、この当時は三五〇人前後となり。学年によっては鮨詰の教室もでき学校に活気が漲っていた。

敗色の兆し 昭和一九年になると米軍の兵力の充実と日本の軍艦軍用機、輸送船など軍備の喪失で、サイパン島・レイテ島など各地で戦況の悪化が伝えられた。一九年六月一六日 北九州にB二九が二〇機渡来して空襲を行い、以来連日のように本土空襲が繰り返されるようになった。
 各家庭では玄関付近に防火用水を備え付け、砂袋・バケツ・火たたき・はしごなどを備えるように指導された。
防空頭巾 本土各地にB二九の空襲があり、爆弾投下の爆風で人身への被害が多く、人々は綿を入れた防空頭巾をかむり頭・顔をおおい三角巾を持ち歩き、胸には本籍・住所・氏名・血液型を記した名札をつけ身を守るようになった。そして、どの学校の登下校でも全員が防空頭巾を着用するようになった。
校庭菜園 昭和一九年一月、文部省が食糧増産に学徒五〇〇万人動員を決定し、兵力増強のために徴兵や軍需工場への徴用で 働き手の中心を失い疲弊した農業生産に力を注ぎ、二月には国民学校学童給食・空地利用(食糧増産)疎開促進の三要綱を発表した。
 これをうけて各地の学校では校庭を菜園にするため、児童生徒が鍬をふるい野菜づくりが始まった。大抵の学校の校庭は薩摩芋が植えられ、青郷校もそうであったと思う。
就学義務一二歳 昭和一九年一月、文部省は国民学校教育の戦時非常措置について通牒し、二月に国民学校令等戦時特例を公布して就学義務を満一二歳まで引き上げ、八月には国民戦闘錬成要綱を制定し国民総武装を決定し竹槍訓練が行われるようになった。一〇月には陸軍特別志願兵令を改正して一七歳未満の者の志願を許可して少年兵ができてきた。この頃、一億国民総武装・一億一心・鬼畜米英・欲しがりません勝つまでは・月月火水木金金 などの言葉が流行し、同期の桜・ラバウル海軍航空隊・加藤隼戦闘隊などの歌が歌われた。
 この頃の先生も児童生徒たちも、農業実習や勤労奉仕・軍事教練的な体育や訓練に追い回され、教室でじっくり落ち着いて授業するという時間は、めっきりというより大変少なくなった。
授業停止 昭和二〇年になると米軍が硫黄島を徹底砲撃し日本軍が玉砕し、B二九重爆・二七九機による東京大空襲があり、なお、また沖縄に米軍が上陸して戦闘が始まるという事態のなかで三月「決戦教育措置要領」が決定され、国民学校初等科以外の授業を四月一日から一か年停止するという措置がとられ、高等科の生徒は食糧増産・軍需生産などの決戦に備えて緊急業務に動員されることとなった。

戦争終結 五月にはドイツが無条件降伏をしその五月、B二九が三〇機青戸の入り江に潜んでいた日本の残存艦隊周辺に機雷を投下し、七月一二日にはB二九が百機到来し敦賀市を焼夷弾攻撃をはじめ市街地の大部分が焼失。七月一九日にはB二九が百二〇機で福井市を焼夷弾攻撃し、市街地のほとんどを焼失した。
 こんな中で八月六日広島に、八月九日長崎に原爆が投下され、この二つの都市は壊滅した。
 八月一五日、戦争終結の詔書が放送され、日本は無条件降伏した。


こうした学校の過去を忘れるから、中学校の職場体験授業で機関砲の操作をさせても「問題ない」などというのであろう、苦い過去までもう一歩ではないか。当町ではなく、隣町のあきれたイカレはてた愚かな教委のハナシである。

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


青の主な歴史記録


『大日本地名辞書』
阿遠(アヲ)郷。和名抄、大飯郡阿桑郷、註阿乎、高山寺本、阿遠郷。○阿桑は阿袁の誤なるべし、今青郷(アヲノガウ)村及び内浦村にあたる、青郷に今青てふ大字も残る。

青の伝説


『若狭高浜むかしばなし』
青の観音さま
 昔むかし、ある夜のこと。青の庄屋どんの大奥さんが眠っていると、夢の中に観音さまが現れた。
 「わしは青の人々を守る観音である。円城寺の大木の下におるから、迎えにきてくれ」観音さんはそういうと、すうっと消えていった。
 大奥さんは驚いて飛び起き、となりに寝ている庄屋どんを起こすと、今見たばかりの夢を話した。
 「それはお告げや。朝になったら、村の衆にも話すとしよう」
 そしてあくる日。庄屋どんが村人たちに話すと、みんなも驚き、さっそくその観音さんを迎えにいくことになった。大奥さんを先頭に、円城寺の境内をすみからすみまで必死に探しまわった。
 「おーい、ここが光っとるぞー」
 突然、一人の村人が大木の前で叫んだ。行ってみると、なるほど木の下が明るく光っている。そこを堀り起こしてみると、土の中から後光のさした観音さまが姿を現した。
 大奥さんは、それを大切に抱きかかえて帰り、青の里にお堂を建てその観音さまをまつったという。
 現在では青区生活改善センターの仏間にまつられ、今もやさしい目で青の安泰と豊穣を守っておられる。.

『大飯郡志』
桂久庵正源庵 日置大成寺寺内、末寺〔宝永四年國中高附〕 〔正徳三年中寺號〕 〔文化四年雲濱鑑〕に見ゆ
青の圓城寺 真言宗 と共に其遺趾を存ず






青の小字一覧



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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