丹後の地名 若狭版

若狭

岩神(いわがみ)
福井県大飯郡高浜町岩神


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福井県大飯郡高浜町岩神

福井県大飯郡高浜村岩神






岩神の概要




《岩神の概要》
和田と薗部に挟まれた所。北は海、南は山。
岩神村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。近隣と同様製塩業が盛んであった。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年高浜村の大字となる。
岩神は、明治22年~現在の大字名。はじめ高浜村、明治45年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町、戸数12、人口は男45・女41。


《岩神の人口・世帯数》 85・32


《岩神の主な社寺など》

十念嶽古墳
『高浜町誌』
一九八五年三月一六日、高浜町岩神地籍の十念嶽(じゅうねんだけ)(八九、三)山頂で長径約四〇メートルの前方後円墳が筆者によって発見されたのである。ここは数年以前の中世山城調査のとき、粟屋氏出城として登録されており、径二〇メートルの円墳を利用した山城と考えていた。そのときは雑木が多く繁茂しており判別できなかったが現在は植林のため伐採されて全形が把握され確認したもので、前方部が低く長方形となっていて古式の形態をみせている。おそらく四世紀後半~末の時期であろう。もちろん詳細な調査を必要とするが、前方後円墳と考えてほゞ間違いない。.

岩神


地名の由来となった岩神である。背丈よりも小さいもののように見えるが、コンクリートブロック4段分は地下になっていて、1丈ほどあるのかも…。周囲はかさ上げされた土地のようである。何という岩石だろう。蛇紋岩系かと思うのだが…
『高浜町誌』
おんじく石(温石(おんじゃく))(岩神)
 和田の西の端、岩神の旧国道筋に面して、小さなお堂がある。中に高さ一丈(およそ三メートル)回り約二メートルの大きな岩が祀ってある。ある村人がこの岩の上にうずくまってうたた寝をしていると、この石が忽ち神様になって、天をつくばかりの大岩となり「われ岩神なりこの世をば打ちこわしてやる」とのお告げがあり、驚き目がさめた。それから村人たちは集まり祠を建て、この石を祀った。岩神区の地名はこのことから起こったといわれている。
 この石は温石いしで、ある時のこと、ここを通りかかった巡礼が、この石に虚空蔵菩薩のお札を張って悪霊をおいはらったところ、近郷近在から、「ごくぞうさま参り」といってお参りする人が数多くあった。数年後、伝兵衛という家の老母が、その温石をけずり取り、諸病治療に効き目があるといいふらし、人々に売り歩いていたところ、確かにその効き目があらわれた。
 巡礼が虚空蔵菩薩のお札を貼ったころは、藁屋根であったが、ある夜、夢のお告げに「藁屋根では、藁ごみが落ちてきてきたならしいし、頭の上がどんだけ伸びるやわからんさかい瓦にしてくれ」といわれたので、瓦葺きの屋根に葺き変えたそうな。


『大飯郡誌』
岩神の区名 岩神区に在る国道側の温石に一小祠存す。傳ふ昔時一村民之に踞して仮睡す、夢に此岩忽神化して告ぐ、我を祠らざれぱ、三日間に覆天の巨巌と化し世留を全滅せしめんと、驚き覚めて即ち之仮祠を営むと, 蓋し岩神区名の所由。採る可き點あるか如し 又云行旅人の立寄うて缺き持ち去るを防遏せるなりと 余りに現代的なりかくては岩神区名を奈何せむ.

『舞鶴の民話5』
岩神さん(若狭和田)
 舞鶴から東へ、吉坂峠をこえトンネルをこえると高浜につく。更に東へいくと、和田の海である。この和田の海水浴場へ家族みんなで行き、子どもたち三人共ここで泳げるようになった。遠浅の海は美しく、妻と子どもだちとボートにのって、島へもいった思い出多い海である。
 和田には、大正十一年に鉄道が舞鶴から開通した。以前には若狭丹後街道の交通の要点で、船と車馬の接合点であった。小浜及び和田間は青戸の入江を連絡船によった。永禄九年(一五六六年)小浜の桑村謙庵が武田義統の許可を受け、分捕った船を以て通航し、爾後世襲の家業となり、慶長年間更に一艘を増加し、明治大正まで続いた。小浜和田間の海上距離は二十四キロぐらいで、明治五年の船賃は次の通りであった。
 一船買切り(六十五銭)乗合(一人) 一銭五厘
 米一俵(四斗入) (七厘)酒一樽 一銭
 大正時代には日に三回、橋立丸と青嶋丸が航行した。その所要時間は一時間半から二時間であった。昭和二十八年の台風十三号には鉄道は不通となり、その一ヶ月間、小浜和田間は自衛隊の船が航行し、人及び物資を輸送した。
 和田の西端岩神部落の旧国道脇にお堂があって、中に大きな石が祀ってある。
 昔村人がこの石に腰かけ眠っていたところ、この石が神の姿となり、我を神として祭らなかったら三日間に天をおおう巨岩となり、地上の世界を全滅するとのお告げがあった。ねむりよりさめたこの男は驚き、村人等にこの事を話し、説明してお金をだしあい、祠を作ったといわれる。今日まで岩神様、病気災難、厄除けの神として信仰する人が多いという。
 この南側の温石山岩は昭和三十年頃より数年間、肥料の原料として、舞鶴に搬出されたが、現在は中止されている。



臨済宗相国寺派天珠山妙祐寺

『高浜町誌』
臨済宗相国寺派 天珠山妙祐寺
一 所在地 高浜町岩神第十四号五番地
一 開 創 年月日(天文より永禄元年までの間と推定)
一 開 基 建月寅公和尚
一 本 尊 薬師如来
一 檀信徒数 一六戸
一 由緒沿革 開山は薗部正善寺開基建月寅公禅師で、その当時は念光院といっていたが、高浜城主逸見駿河守が氏寺としていた関係から高浜城主逸見公の姫様、死去にあたり、その菩提を弔うために、法名の二字を当てて妙祐庵と改め、昭和に入り寺号を公称するに至った。当時、逸見公寄進の寺領百石があったが、後年太閤検地によって寺領召上げられて、今はない。
境内に毘沙門堂がある。本堂毘沙門天は、毎年二月初寅が例祭で、前夜より参詣者が多く、境内は賑う。


『大飯郡誌
妙祐庵 同  岩神字立岩に在り 寺地百坪 境外所有地二反二畝十歩檀徒七十一人 本尊藥師如来 堂宇〔〕 由緒〔明細帳〕無之。?
〔同前〕 開基建月寅公座元永禄年中示寂 建立者諸檀那中 名寄一石七斗二升九合年貢地也。




十念嶽城
和田との境、北へ突出した標高約89メートルの山上に十念嶽(じゅうねんだけ)城跡がある。古墳を利用して造成された主郭をもち、「若狭郡県志」に「粟屋右衛門大夫出城之跡」と記される。馬居寺にあった粟屋氏の居城白石山城の出城として築城されたものであろうという。
『高浜町誌』
十念嶽城(粟屋氏出城)  高浜町岩神と和田区との境にあり、北へ張出した丘陵状の山嶺がやや盛上った海抜八九・三メートルの山頂に主郭があり、さらに西北稜線上にも一郭が認められる。北へ伸びる嶺の最先端は国道二七号線に接している。
 山頂に所在する城郭は四段からなり、この郭の最高所に円形の一郭をつくっている。これが主郭と考えられるもので、図示したとおり山頂円墳を再利用して城台を調整したらしい。円の周囲は段切りして細い帯状の郭をめぐらすが、おそらくこれはかつての古墳の周庭部であったことが推測される。
 山城跡を調査して、古墳利用の城郭はしばしば見られるが、古墳の原形をほゞ完全にとどめたものはあまり認められない。この城の場合、径二〇メートルの円墳をそのまま使用しており、古墳としての価値も十分備えたものである。
 これを主郭として北側に二郭をつくるが、この郭は周囲を若干調整し、自然斜面を残しながら造成している。また南側にも一郭をつくるが、その間に細い溝状の空堀を設けて主郭との遮断をしている。山頂城郭は全長九〇メートルを計り、最大幅二〇メートルの小規模なもので 『若狭郡県志』にいう白石山城の出城であったことが伺えよう。さらに、主郭の西北海抜四五メートルラインにも稜線を削平して平場をつくり、なだらかな北側谷間には四段にわたって帯状郭が造成されている。この城も本城と同じく良好な遺構が残されており、本城・出城をセットでとらえる絶好の資料といえよう。
 築城の主旨は、前述のとおり、逸見氏を見張る場所としては最適であり、街道に近くしかも要害である点が考えられる。
 西側には谷間いを隔てて砕導山城があり、また、ここからは高浜町方面が一望でき城山もよく見通せる。したがって逸見氏が行動を開始すれば一目瞭然であった。
 白石山城およびこの十念嶽城は、衰退しつつあった若狭武田氏の大飯郡拠点として存在し、さらに城主粟屋小次郎の存在価値の大きさを示したものとして注目されるのである。




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


岩神の主な歴史記録




岩神の伝説




『若狭高浜むかしばなし』
岩神のおんじく石
 和田の西の端、岩神(いわがみ)の旧国道筋に面して、小さなお堂がある。お堂の中には高さおよそ三メートル、周囲およそ二メートルの大きな岩がまつられている。この石にまつわる話である。
 あるとき、一人の村人が石の上にうずくまって、うたた寝していると、突然この石が天をつくばかりの大きな岩になった。そして、
「われは岩神なり。この世をぶちこわしてやる」
と、大声で告げた。びっくりして村人は目をさました。それから、村のみんなに夢のお告げを伝えた。
「あの石は神様なのじゃ、大事にせや」
「そうだ、祠をつくっておまつりしよう」
「そうすれば、たたりが起こらないだろう」
村人たちが集まって、祠を建て石をまつったのだった。そうして、このあたりに岩神という地名が付いたのだといわれる。
 ある日、ここを通りかかった巡礼者が、この石に虚空蔵菩薩のお札を張った。それからというもの、近郷近在からは“こくぞうさま参り”といってたくさんの人びとがお参りに訪れた。この石は珍しい温石(おんじく)だったので、“霊験がある”と人々は信じた。
 それからこんな話もある。伝兵衛という家の老婆が、その温石をけずり取り、いろいろの病気に効くといいふらして、人びとに売り歩いた。確かに温石の粉は効き目があったそうだ。
 その昔、巡礼者が虚空蔵菩薩のお札を石に貼ったころは、お堂の屋根はわら屋根だった。ところが村人に夢のお告げがあり、
「わら屋根では、わらのごみが落ちてきて、きたならしい」
といわれた。村人たちはさっそく屋根を瓦ぶきにふきかえたそうな。






岩神の小字一覧




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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