丹後の地名 若狭版

若狭

神野浦(こうのうら)
福井県大飯郡高浜町神野浦


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福井県大飯郡高浜町神野浦

福井県大飯郡内浦村神野浦






神野浦の概要




《神野浦の概要》

神野浦は県道21号から内浦湾へ下った浜辺の漁村。高浜原発のすぐ西に位置する。

3、4号炉用施設が見える。もう少し先へ行くと4号炉も見える。山の工事は、その炉用のテロ対策施設か? いまごろこんな物を作るなどはさすがにアメリカ以上の技術とかを誇る小判電力だけのことはある。これが出来ないから34号機を今年中には止めなければならなくなった、1、2号機も同様のようで、アホーアホーと山のカラスも鳴く。
カラスはそうとして、この写真を写したその日、1、2号炉用テロ対策施設工事で、工事中死亡事故が発生したという。あせるとそうなる、すでに中毒事故も発生していて、ハインリッヒの法則通りの事態に発展したものか、気をつければ事故は防げるとか言ったものではない、気をつけて稼働させて下さい、とかアホげなことを言うバカがいるが、気をつけとるに決まっているでないか、事故はそうしたものではない、これは人間にはどうにもならない法則だから、300の小さなヒヤリハットからなくして行かなければ死亡事故は防げない、大変にヤバイ工事をムリに強行している証拠である、安全第一を掲げて工事日程の全面見直しが求められることは避けようもなく、工期はさらに遅れよう。
テロ対策施設へのテロも考えられる、燃料満載の大型航空機が突っ込んでも屁でもないものでなければならない。それはムリならテロ対策施設は複数必要なのかも。テロでなくどこかの国家の水爆ミサイルが来るかも知れない、それは考えないことにしているのだろう、アホーアホー、そうこちらの希望通り都合よくに行くのか、アホーアホー、迎撃ミサイルも必要だぞ、コバン電力の安全対策のゼニでやれよ。
さらに安全対策費はピン刎ねされて小判や50万円スーツにもなるが、それを貰ったクソどもは罰を受けない。原発の「安全対策」はキリがない、おこぼれ小判もキリがない。原発とはそうしたものである、何も科学の先端を行くとか誇れるものではない。
それら負の費用はすべてわれらが電気料金や税金で支払うことになる…

別に神野浦に文句を言っているのではない。神野浦は釣り客ならよく知っている所で、ワタシも何度が来たことがある。縄文時代からの古い村で、松尾寺の発祥にもかかわる重要な村である。

神野浦は、江戸期~明治22年の浦名。神野浦村ともいう。小浜藩領。古くから漁業が行われ、慶長7年6月16日の若狭国浦々漁師船等取調帳に「かうの浦 船〆四艘一かわ、さば・いわし」と見える。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」によれば戸数13・人口59、反別25町5反余、産物には農作物のほかに、雑魚1,200貫・烏賊50貫の漁獲物がある。同22年内浦村の大字となる。
神野浦は、明治22年~現在の大字名。はじめ内浦村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北1町余、戸数13、人口は男38・女30、小船13。
明治35年神野浦漁業組合設立。昭和38年日引・上瀬・神野浦の3漁業組合が合併し内浦漁協となる。
「若狭郡県志」によれば丹後国松尾寺の本尊馬頭観音は、当浦の海中で海人の惣太夫なる者に拾上げられ、松尾寺へ安置されたという。後日、惣太夫の子孫が松尾寺に対し、観音像を若狭国へ戻せと訴えている。

《神野浦の人口・世帯数》 21・10


《神野浦の主な社寺など》

神野浦縄文遺跡


神野浦製塩遺跡


気比神社

集落入口に鎮座
『高浜町誌』
元村社
気比神社
伊奢沙別命
日本武命
仲哀天皇
神功皇后
応神天皇
玉妃命(淀姫命)
武内宿禰
神野浦
字(宮の上)
村中  
五二一坪
一一戸
神野浦  
九月二三日
一〇月一四日  
社殿
神楽殿
鳥居
境内社二
社務所  

湯立  

昭和五一年一〇月神楽殿新設
 大社神社 大国主神
須世理毘売命
杵築神社分霊
宝永四年
九月一八日湯立の記録あり 
 慶大明神 不詳 気比の意か

『大飯郡志』
村社 氣比神社 祭神同前(仲哀天皇神功皇后応神天皇) 神野浦字村中に在り 社地二百十三坪 氏子十三戸 社殿二間四方 神樂殿二間一尺四間
境内社 大社神社 祭神大國主命 社殿二尺四方
 〔若狭郡螺志〕 氣比大明神 神祭神野浦爲産神九月二十三日有祭禮(宝永四年國中高附)慶大明神 九月十八日湯立仕候



阿弥陀堂





《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


神野浦の主な歴史記録


『高浜町誌』
神野浦遺跡
 本遺跡は、後述するように、昭和三七年当時、神野小学校教諭で、若狭地方の考古学研究を地道に進めていた故城谷義視氏が発見した遺跡である。立石遺跡における石部正志氏の影響を受け、さらに昭和三七年は、三方町鳥浜区の鳥浜貝塚が最初に発掘された年でもあり、城谷氏は両遺跡の発掘をつぶさに見学し、強い印象を持ったようである。
 発掘調査がなされたわけでもないので、城谷氏の遺品として、若狭考古学研究会が保管している資料が少量あるのみで、遺跡の詳細なる内容は明らかにはされていない。遺跡は神野浦の集落の東の水田中にあり、海を臨む台地に所在している。海より約七〇メートル内陸へ入り、比高は約一〇メートル位な水はけの良好な日当りの良い地点に遺跡は形成された。この台地に恐らく竪穴式住居を構えて、集落が残されているものと想定している。遺跡の存在は、水田中、あるいは畦に散布している縄文土器の破片で確認しているのみである。
 次に、出土遺物は、縄文土器片と石器が城谷義視氏の採集品にある。縄文土器片は数十点が表面採集され、いずれも破片で細かいものが多い。時期的には縄文時代中期後半(約四〇〇〇年前)から、後期前半(約三〇〇〇年前)のもので、近畿地方と北陸地方のこの時期の縄文土器である。
 土器の文様としては、縄文地に沈線文を施したもの、無文地に沈線文を施したもの、磨消縄文をもつもの、葉脈状文のものなどがある。
 さて、本遺跡は、城谷氏の遺物採集作業以外には発掘なども行われず、その内容はあまり明らかにされていない。ただ、いえることは県内の縄文時代の遺跡としては最も西に位置し、若狭の縄文時代の遺跡として比較的古く発見されていることである。これまでの内浦地区がそうであるように、やはり「海」に根差した生活を本遺跡においても想定しなければならない。「海がもたらしたもの」がおおいにあり、海の幸、魚、貝、海藻の採取が本遺跡の縄文人の生活の基盤であった。それに加えて、背後の山の幸も考えねばならない。イノシシ、シカなどの獣類、山菜やヤマイモ類、そして木の実なども季節によっては盛んに採取していたであろう。
 高浜町における縄文時代の遺跡は、数が少なくその全容を知る資料は不足していると思われる。しかしながら、立石遺跡と本遺跡は、丸木舟を海にこぎ出し、西に東に、あるいは北に針路を向けて交流した縄文人の躍動する息吹きを感じるものである。).106(神野浦遺跡  現在の民家・駐車場などの海岸部に立地するもので、奈良時代から平安時代にかけての時期の製塩遺跡である。船岡式製塩土器と塩浜式製塩支脚が、故森下譲氏によって採集されている。遺跡は海岸の東部から船岡式土器、西部から塩浜式支脚と地点を異にして採集されており、町内でも有数の大規模な製塩遣跡であったようだ。現在は水田となっている製塩遺跡の背後の斜面からは、縄文土器が出土しており、本地区が海に根ざした生活を古くから行っていたことがわかる。.
(『高浜町誌』)

神野浦遺跡
現在の民家・駐車場などの海岸部に立地するもので、奈良時代から平安時代にかけての時期の製塩遺跡である。船岡式製塩土器と塩浜式製塩支脚が、故森下譲氏によって採集されている。遺跡は海岸の東部から船岡式土器、西部から塩浜式支脚と地点を異にして採集されており、町内でも有数の大規模な製塩遣跡であったようだ。現在は水田となっている製塩遺跡の背後の斜面からは、縄文土器が出土しており、本地区が海に根ざした生活を古くから行っていたことがわかる。
(『高浜町誌』)
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神野浦の伝説


志津海の浜
『高浜町誌』
観音岩
 観音岩は神野浦の西方、志津海の波打ち際に夫婦岩即ち観音岩がある。一説には正暦五年(九九四)神野浦の漁夫春日為光が遭難し枯木にのって、白馬に誘導されて帰り上陸した所といわれている。
 岩には馬の足跡があり白馬はこれより西国二十九番の札所松尾寺に行ったという。以後春日叟太夫(為光)が松尾寺に参詣したという叟太夫街道の基点である。



志津海の浜というのは、今の神野浦村から西側、ダンノ鼻山の裾を通り越したところにある浜である。上の写真は広瀬山からだが、中央の山の左手の浜である、木のかげになって見にくい。神野浦から道はあるがワタシは行ったことがない。当浦の聖地である。上の衛星写真の左側の弧を描いた浜である。松尾寺にとっても聖地になる。
シツミという地名が気になる、静志とか出石とか、天日槍上陸の地なのかも…
内浦のウチ、あるいはウジといった地名もこの類ではなかろうか。

『若狭高浜のむかしばなし』
観音岩
 今から千年ほど昔のことである。神野浦の漁師であった叟太夫(春日為光)は、舟に乗って沖釣りを楽しんでいた。すると、さっきまで晴れわたっていた青い空がにわかにかき曇り、大嵐となってしまった。
 叟太夫は必死になって乗り舟にしがみついたが、荒れ狂う波のすさまじいこと。とうとう乗り舟を波にさらわれてしまい、叟太夫は生死の境にあった。しかし、幸いにしてようやく嵐もおさまり、叟太夫は見知らぬ島に打ちあげられた。
「ここはいったい、どこなのだろう」
やっと意識を取り一戻した叟太夫は、あたりをきょろきょろと見まわした。すると、遠くの方から鬼のような者がこちらに近づいてくるではないか。
「こんなところにいては、殺されてしまう」
叟太夫は、あわてて砂浜を駆け出した。疲れきった足は、砂のなかで何度ももつれた。
「ああ、もうだめかもしれない」
その時である。波打ち際に大木が浮かんでいるのを見つけた。
「なんて大きな木なのだろう」
叟太夫が近づいていくと、不思議なことにその大木がこう言ったのである。
「叟太夫よ、わしの背に乗れ。神野浦の浜まで連れて帰ってやる」
大木が口をきいたのには驚かされたが、そのありがたい申し出に狂喜して、叟太夫はさっそく大木にまたがった。すると、大木が見る見る美しい白馬となり、海の上をすべるように駆け出した。
「神野浦の浜まで、何とか無事に帰れますように」
叟太夫が一心にお祈りしている間に、白馬は何千何百里をあっという間に駆けぬけて、神野浦の浜に到着した。そして、近くにあった大岩へと駆けのぼった。岩に馬の蹄のあとが二つ残されたのは、その時である。
「おかげで命が助かりました。何とお礼を言ったらいいのでしょう」
叟太夫がそう言って馬から降りるやいなや、白馬はまたもとの大木に戻ったのであった。
 神野浦の海岸には、今も観音岩と称して馬の蹄のあとを残す巨石がある。


叟太夫
 今から千年ほど前のことである。神野浦の漁夫叟太夫は沖合で突然の嵐にあった。しかし、幸いにも白馬に助けられ、無事神野浦(志ッ見)の浜にたどり着くとこができた。
 その白馬は観音岩の上で、もとの大木の姿となり、叟太夫の前に横たわっていた。
「この大木は白馬の化身だ。わたしを救ってくれた観音様だ」
叟太夫はお礼をしないではいられなかった。そしてついに、その重い大木を背負い、お参りする場所を求めて歩きだした。
 どのくらい歩いただろうか。やっと叟太夫はある丘の上で立ち止まった。
「ここは流れ尾だ。ここに観音様をおまつりするとしよう」
叟太夫がつぶやくと、どこからか声が聞こえてきた。
「なに、流れ尾だと? そんな流れるような場所は困る。もっと上の方がよい」
その声はなんと、里太夫が背負っている大木からだった。里太夫は心の中で思った。
「流れ尾はよいところなのに、もったいないなあ」
しかし、精一杯こう考えた。
「はい、かしこまりました」
 それから、どんどん青葉山を登っていくと、きれいな清水の湧いているところへ出た。
「今度こそは、気に入ってもらえるにちがいない」
そう思いつつ、おそるおそる大木にたずねた。
「白馬さま、ここは“強生水”と言いますが、いかがでございましょう」
「強生水? それはいかん。もっと上の方がよい」
叟太夫はがっかりして、さらに山を登っていくのだった。
 とうとう松尾までやって来た。そこには小さなほこらがあり、叟太夫がひと休みしていると、背負っている大木から声がした。
「叟太夫よ、ここがよい」
「さようでございますか」
叟太夫はほっとして、背から白馬の化身を降ろし、ほこらに安置した。叟太夫の額には快い汗が吹き出していた。こうしてやっと、観音様をおまつりする場所が決まったのである。
 叟太夫は、この白馬の化身の大木で馬頭観音像を二体刻んだ。そして一体は松尾寺のほこらに、もう一体は神野浦へおまつりした。
 松尾寺は、その馬頭観音が御本尊様だと伝えられている。また、叟太夫は、その後光心という名に改め、御本尊様に奉仕したと言われている。



『新わかさ探訪』(写真も)
春日家の馬頭観世音  若狭のふれあい第81号掲載(平成6年1月28日発行)
松尾寺の開創となった 旧家に伝わる仏像
 神野浦の旧家春日叟太夫家には、馬頭観世音像が大切に守り継がれています。像は高さ9.9㎝、8本の手と三つの顔、そして名前のとおり、頭上に冠のごとく馬の頭がのっています。この仏像には、次のような言い伝えがあります。
 春日家の祖先為光は、小舟で漁に出ていて暴風に遭い、小島に流れ着いた。その島には、鼻の高い赤鬼や目の青い鬼が住んでいたが、為光はいつも観音様を信仰していたので、一心に祈ると、鬼たちは眺めているだけで為光に近づこうとしなかった。そのとき、小舟のような枯木が島に流れてきて、それに乗ると風に吹かれて神野浦のシツミ浜に帰り着くことができた。浜に倒れていたとき、為光は夢の中で、天空から飛来した巨大な白馬が、海岸の大岩に足をかけて、はね跳び、青葉山の彼方に消えるのを見た。このことがあってから、為光は観音様を信仰する心がますます深くなり、髪を剃って名を光心と改め、自分を古里に連れ戻してくれた枯木で、自ら馬頭観音像を2体刻み、堂を建ててまつった。この寺が、西国三十三所巡礼で知られる松尾寺である-というもの。
 松尾寺(京都府舞鶴市)は、青葉山をはさんで神野浦と背中合わせの南西山麓、京都と福井の府県境に近いところあります。松尾寺は、織田信長の兵火によって焼かれた歴史かおり、為光が刻んだとされる観音像2体のうち1体は、そのときに焼失。春日家に現在もまつられているのが、残る1体というわけです。
『社寺由緒記』や『若狭郡県志』では、為光が像を彫り堂を建てたのを延喜12年(912)と伝えており、春日家の観音像は1千年を超す歳月を経てきたことになります。同家の春日ひさ子さんは、「わが家では、この馬頭観世音の由来を代々言い伝えてきました。赤鬼青鬼の話は、為光が流れ着いたのが外国で、見なれない異国の人の風貌が、そのように見えたのかもしれません」と話されています。
 神野浦のシツミ浜には、波打ち際近くに観音岩と呼ばれる二こぶの岩があり、その岩にある大きなくぼみは、白馬のひずめの跡といわれています。近年、春日家の親戚の人によって、松尾寺の観音堂に似せた小さなお堂が、観音岩の近くに建てられました。しめ縄の張られた観音岩と、背景に広がる内浦湾を眺めたとき、俗化とはおよそ無縁の入り江の景色と信仰心とにふれて、心が洗われるような思いがしました。



『若狭高浜むかしばなし』
おいべっさん
 むかし、神野浦の岩場の上に〝おいべっさん〟と呼ばれる仏像がまつってあった。その仏像は、高さが三十センチほどの小さなもので、いつも海の方を向いて、漁に出る人々の無事を見守っていた。
 村人たちは、漁に出る前に必ず〝おいべっさん〟のところへ出かけていき、お参りをすませてから船を出すのだった。
 「こうして無事でいられるのも、おいべっさんのおかげじや」
村人たちは、いつもそういって感謝していた。
 そんなある日のことである。神野浦の一帯に、突然激しい嵐がおそいかかった。その風雨はいっこうに止む気配がなく、村人たちは漁に出ている船のことが気にかかってきた。
 「もう一度〝おいべっさん〟にお祈りすれば、その船も助かるじゃろう」
ひとりの男はそういって、〝おいべっさん〟のある岩場へと出かけていった。
 ザッブーン、バッシャーン。荒れ狂ったようにたたきつける波は、何度もその男を呑みこみそうになった。それでも彼は、ずぶぬれになったからだを震わせながら、必死で岩場の上へ登っていったのだった。
 ところが、いつもの場所でお祈りしようとした時に、〝おいべっさん〟の姿はもうどこにもなかったのである。おまけに、そばにあった松の木はバッサリと倒れている。不吉な予感がした男は、〝おいべっさん〟をそこらじゅう捜し回ったが、結局見つけ出すことができなかった。
 「きっと、大波にさらわれてしまったのじゃろう」
がっかりした男は、ひたすら船の無事を祈りながら帰っていった。
 さて、その男の祈りが、大波にさらわれた〝おいべっさん〟まで届いたのだろうか。あの嵐の日に漁に出ていた船は、その後無事に神野浦まで戻ってくることができたのである。しかし〝おいべっさん〟が戻ってくることは決してなかったという。



夜のもん
 〝夜のもん〟とはおもしろい言葉だが、もともとは〝夜のまもの〟から来たものである。夜になると群をなして獲物を求める狼や野良犬のことを、昔は〝夜のもん〟と呼んでたいへん恐れていたようである。
 もうずいぶん前のことになるが、ある嵐の翌日、神野浦の海岸に遭難した船が打ち上げられていた。その船には、見馴れない文字が刻まれており、どうやら外国船のようである。村人たちは、船に乗っている人たちを助け出そうとして中に入っていった。しかし残念ながら、すでに全員が息絶えていた。とりあえず、それからの死体を船の外へ運び出し、砂浜の上に並べて寝かせておいた。外国人であるし、身元もすぐにはわからないので、引き取りに来る人もいない。一応、役場に連絡は
したものの、しばらくはそのままの状態にしてあった。
 夕暮れが近づき、あたりはだんだんと暗くなってきた。
 「ウオーウオー」
 「ワウーワウー」
狼や野良犬たちの遠吠えが聞こえてくる。気味が悪くなってきた村人たちは、遭難した人だもの死体を〝夜のもん〟から守るため、あることを考えついた。農家で使っている稲木に死体をくくりつけて、高いところに吊っておくのだ。そうすれば、〝夜のもん〟は何の手出しもできないというわけである。村人たちは、せめてそうすることによって、なくなった人たちを助けてやったのだった。
 その昔、狼や野良犬たちがたくさん住んでいた頃の話である。


神野浦の八十八地蔵
 今から六百年ほどむかし、神野浦に春日の孫兵衛さんという信仰厚い人がいた。
 あるとき、孫兵衛さんは四国の八十八ヵ所の霊場めぐりを思いたった。「私もだんだん年を取ってきた。ここらで、かねてからの念願だった四国巡礼に旅立ちたいと思う。たくさんの立派な仏様にぜひともお会いしたいものだ」
そういって孫兵衛さんは、はるばると四国巡礼への旅に出かけていった。時が流れて、やっと孫兵衛さんが神野浦へ帰ってきた。
 「鳴門、徳島、土佐、松山など、四国にある八十八ヵ所のお寺をめぐってきたが、どこのお寺もすばらしかった。ありかたい仏様のお姿をしっかりと拝ませてもらいましたよ」
 孫兵衛さんは心底からありがたそうに、いった。
 「わたしなどは行きたいと思っても、一生行けないかもしれませんね」
 「実は帰りの道中、考えたのだが、この神野浦に八十八のお地蔵さんをたてたいと思う。そうすれば、四国へ出かけられない人でも、ここでお参りすることができることになる」
 「それは良いお考えでございます。きっと村の人たちも喜ぶことでしょう」
孫兵衛さんから話を聞かされた人々は、すぐさま賛成した。
 こうして孫兵衛さんの尽力で、神野浦の山の中に八十八の地蔵がたてられたのだった。それ以来、神野浦の八十八ヵ所として、村人たちはお地蔵さんにおまいりをした。また、彼岸になると、だんごを八十八個作ってお供えしたということである。







神野浦の小字一覧




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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