丹後の地名 若狭版

若狭

小和田(こわだ)
福井県大飯郡高浜町小和田


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福井県大飯郡高浜町小和田

福井県大飯郡青郷村小和田






小和田の概要




《小和田の概要》
関屋川中流域の左岸に位置する。鉄道や国道27号からは離れている。
中世の小和田。戦国期に見える地名。若狭国大飯郡のうち。文明15年8月2日小畑友康は、大草三郎左衛門尉公友が「若州青郷内保小和田并難波江村」の代官職を質に置いて借銭をしながらも返済しないことを幕府に訴えている。当地が「青郷内保」に属していることは、鎌倉期に見える青保のうちにあったことを示すものと思われる。明応元年8月14日熊野那智大社の御師禅長坊良有が売却した檀那所在地のうちに「青之郷ナハイ・中山・コ輪田」が見え、この「コ輪田」とは当地のこと。なお、文永2年11月の若狭国惣田数帳案の青保除分中に金剣宮2反があるが、この金剣宮は当地の伊弉諾神社に比定されている。
小和田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年青郷村の大字となる。
小和田は、明治22年~現在の大字名。はじめ青郷村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西5町余・南北3町、戸数46、人口は男131 ・ 女131。
村域内に通称七ツ塚があり、その一の将軍塚の木は伐木すると悪疫が流行すると伝える。また割左近(わりさこん)(迫)という字名があり、中世領主の居館跡と伝承する。字堂(どう)の前(まえ)にかつて薬師堂が建っていたと伝え、現在横津海(よこつみ)の薬師堂に祀られる仏像三体はもとこの薬師堂にあったものという。


《小和田の人口・世帯数》 216・80


《小和田の主な社寺など》

小和田遺跡
弥生時代中期の石剣・石戈出土遺跡。青葉山東南麓の丘陵(ナコウジ山・若王寺山)先端の斜面に位置する。どこだかわからないが、古墳のある一帯でなかろうか。
昭和46年、採土中に出土。表土下約50cmのところで石剣を上、石戈を下にして水平に重ねて埋納されていた。石剣は全長34.5cm、剣身最大幅4・5cm、剣身最大厚1.5cm、茎長2.5cm、茎幅1.5cm、重量273gを測る。鋒から茎端まで中央を鎬がはしり、関部より4㎝の所に鎬を挟んで2孔が穿たれている。石戈は全長26.8cm、最大幅7.2cm、最大厚1.1cm、重量223gを測る。茎をもたず、関部そばの穿孔もない。ともに銅剣・銅戈を石で模造したものであるとされる。




←『高浜町誌』より
↑Web上のイラスト





剣とされているが、短いので、矛(槍)先かも知れない、戈といのは、図の武器↑の横側へ飛び出している稲を刈る鎌のような部分で、この武器があれば突いても、引いても相手を殺傷できる。
馬に引かせた戦車に乗ってこの武器を使う、特に戈はそう使うもので、馬もいなけれぱ戦車などあろうはずもない当時の日本では無用の長物、日本に存在しない武器で、中国のものであるが、恐るべき威力強い武器として日本では神格化されたものだろうか。
元々の手本とすべき本物の青銅製の「剣」や戈が手元になければ、石で模倣しようもないし、磨製石器は向こうの物なので、日本で作られたものではないのではなかろうか。朝鮮渡来の物かと推定する学者もある。物だけが当地へ来たわけではなく、朝鮮からこれを捧持して渡来した集団があったと想定される。当地に元々からいた縄文人や倭人が作ったものでなく、朝鮮直通の渡来集団と見られる。時代としては、石器だから銅鐸時代よりは古いのではなかろうか。


小和田古墳群

『高浜町誌』より↑。ずいぶん古い地図で、今となればこれでは何が何だかわかりかねるが、右の南北に通じる道が、今の「原電街道」(県道21号)で、途中にアカシカという酒屋さんがある、その西側である。県道21から西へ50メートルほどで、今は水処理施設があり、その山というか丘の一帯である。

これが3号墳で、前方後円墳という。南側より見ている。右側奥に見えるのが水処理施設に建物になる。1、2号墳はタンボになっていて、古墳らしい形跡はまったくない。
ここから西を見ると4、5号墳があるという山が見える。道が狭く車ではいけそうにない。4、5号墳の丘の上には中古地神社がある。石剣石戈の出土地はたぶんその山の下あたりである。



こんな案内板が立っている。あるだけマシだが、何ともよくわからん情報不足な案内である、何段なのか葺石や埴輪、周溝など、出土品などがない。
小和田古墳群は、1基の前方後円墳を含む12基からなる古墳群であるが、3号墳以外は未調査のようである。青郷地区に所在する他の古填群とほぼ同様の時期と考えて差しつかえないと思われ、6~7世紀の後期古墳とみられているようである。

『高浜町誌』
小和田古墳群  一基の前方後円墳を含む一二基からなる古墳群である。今のところ開口している石室もなく、個々の古墳の年代を提示することはできないが、青郷地区に所在する他の古填群とほぼ同様の時期と考えて差しつかえないと思われる。一、二号墳の露出している石材から判断する限り、高浜町内では比較的大ぶりな石室であったことが予想される。
 高浜町全体の群集墳のあり方を、十分踏まえたうえでないと大きな誤ちを犯すことになるがあえて述べれば、小和田古墳群を青古墳群の一支群ととらえ、青古墳群を小和田支群・清水谷支群・雉谷支群・関屋支群などが合わさって一つの古墳群を形づくっていたと考えることはできないであろうか。青古墳郡を造営した集団(氏族)が数グループ(有力家族)から成り立っていたと理解し、前方後円墳の被葬者を、ある時期(おそらく古墳群が形成され始めた六世紀前半代と考えられるが)の氏族全体の長であった人物の墓と想定したい。次代の氏族の長は、氏族を構成する有力家族から交代で出していたとするならば、雉谷支群あたりからも、氏族長クラスの古墳が発見される可能性は十分考えられる。
 以上群集墳理解の一つの方法を提示したが、あくまでも一つの仮説である。今後の問題意識をもった科学的な調査によって、高浜町の古代が明らかになるものと考えられる。

小和田古墳群
 本来は青古墳群の小和田支群ととらえるべきかもしれないが、他の古墳群とは対峙する丘陵に位置するため、今回の報告では一応独立させておくことにする。
 小和田集落内および南に向かって突出する低丘陵上に立地する古墳が一二基確認されている。集落の西側にも二基の古墳が存在するが分布図には掲載していない。これらの古墳のうち現在古墳と確認できるのは、一・二・三・四・五号墳位であり、一・二・五号墳は石室の一部が露出している。六号墳は小墳丘のみが残存しているが、九号墳は小祠が祭られて、大島半島のニソの杜に似た様相を示している。
 特筆すべきは三号墳で、ほぼ東西に主軸をもつ全長三〇メートル前後の前方後円形の墳丘形態をとっている点である。後円部には前庭部を付設しているが、現状では埴輪や葺石などは観察できなかった。
 本古墳群の築造時期を推定し得る出土遺物については確認できていない。


伊弉諾神社

小和田集落の西部、江戸時代までは金剣(かなつるぎ)神社と称したが、明治11年に現社名に改称。現在境内社に金剣神社が祀られるが、これは文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写にみえる「金劔宮」、享禄5年(1532)の神名帳写にみえる「金剣明神」に比定される。「若州管内社寺由緒記」は「金劔大明神 御神体不動 由緒相知れ不申候」と記す。

『高浜町誌』
元村社
伊弉諾神社
伊弉諾尊
伊奘冊尊
小和田
字宮     
一四三九坪
六一戸
小和田     
一〇月一七日      社殿、拝殿
神饌所
神楽殿
鳥居二     
神楽舞       
 恵比須神社 蛭子命  
 稲荷神社 倉稲魂命  
 金剣神社 国常立尊  
 青葉神社 伊弉諾尊
伊奘冊尊
菊理比メ神
 
 八所荒神神社 素戔嗚命
火産霊神
 
伊弊諾神社
 小和田の西部、青葉山麓に張出した枝峰の先端にある。
祭神伊弉諾尊・伊井冊尊。旧村社。創祀は不詳。江戸時代までは金剣神社と称したが、明治一一年(一八七八)現在境内社に金剣神社が祀られている(大飯郡誌)。


『大飯郡志』
五位金剣(カナギ)明神
〔大田文〕 青保…金剣宮二反
〔若狭郡縣志〕 在小和田村高野中山高屋今寺等爲産神
〔神社私考〕 この神號土人金剣をカナギと唱へ來れりとぞカナツルギの約なるべし舊訓にも剣字にキの仮名をさしたり…近世…土人力ネツルギと呼ぶは…さかしらときこゆ…さてその金剣は 神體をさして稱するか又神名か地名か考得ず。

指定村社 伊弉諾神社 祭神伊弉諾尊伊奘冊尊外十三神(合祀) 小和田字宮に在り 社地千四百三十九坪 氏子六十一戸 基本金千二百二十三圓 社殿三間二間 拜殿 神饌所 神樂殿 宮守舍 手洗鉢 鳥居石燈籠一對 由緒〔明細帳〕…村内金剣と唱へし所に古へ金劍明神あり建久年中當社に合し金剣神社とのみ唱來りしを明治十一年十月十七日現稱に改む金剣神社は本社に附屬す(大正元年八月二十六日指定)
〔若狭神名帳〕 正五位金剣明神 〔宝永四年國中高附〕 金剣大明神九月九日十一月三日古来能
仕候唯今は面計占但今寺高野中山都合五ヶ村なり。
 明治四十四年九月二十二日次の四社を合併せり。
     中古地神社
     熊野神社
     常勝神社
     金刀毘羅神社
境内社 恵比須神社 祭神蛭子命 社殿三尺五寸四方  稲荷神社 同倉稲魂神 社殿三尺五寸四方 金剣神社 同図常立尊 社殿四尺四尺 由緒〔明細帳〕養兵三年泰澄白山七社の内の分類を移す。
〔太田文〕 金剣宮三反當時は社領もありしなり。
〔享保十二年中山寺年譜記〕註 金剣明神本地倶利迦羅不動之王
〔神社考〕泰澄行倶利迦羅不動之法故名倶利迦羅嶽



真言御室派青葉山地蔵院

『高浜町誌』
真言宗御室派 青葉山地蔵院
一 所在地 高浜町小和田三十三-五十二
一 開 創 奈良末期神護景雲年間(七六七)
一 開 基
一 本 尊 地蔵菩薩
一 檀家数 九戸
一 由緒沿革 当寺は、曽て今寺(一乗寺谷)にあった古刹、一乗寺塔中二十五坊中の塔頭の位置にあったが、明治維新の宗教改革に当たり、当院と正寿院の二坊だけが残った。その正寿院も後年古寺「中山寺」の寺号を踏襲して、今は当院が往時を偲ぶ唯一の坊跡となった。
 初めは中山字中地にあったが、昭和九年現在地小和田字高塚に移した。
 当院所蔵『弘法大師御影』の画幅は由緒あるものと考えられる。先年当院歴世、干潟龍祥師(九州大学名誉教授)の手により修復がなされ、当院の什宝に加えられた。



『大飯郡誌』
地蔵院 真言宗仁和寺末 中山字中地に在り 寺地二反二畝三歩 境外所有地五町五反六畝十八歩内 田…畑… 檀徒百拾七人 建物客殿 庫裡 土蔵 醫王門 木類屋
〔稚狹考〕 遠敷郡小濱津八幡宮鐘銘 (略之)地蔵院主長蔭銘云 大領主三河刺史淨鎮 応永二年丁丑六月十一日大工金屋來阿銘焉 何れの地にや知らず…大社の銘を記せるなれば名ある院主なるべし。
 (按に應永の頃は中山寺即其當時の一乗寺最盛なりしは古文書之を證して餘あれば其境内に今も現存する地裁院の事も想ふ可し左れば八幡社鐘に銘せしは中山寺の地臓院主なりし事無疑)
(中山寺は 寺主なく 正壽地蔵兩院にて管理す、于瀉學士は地蔵院の出なり)



一願地蔵。地図によれば、この奥に地蔵院があるのだが、参道が見当たらない。この左手の道↑を行くのだろうか。車を駐める所がなく、行けなかった。

ナナモリ
『高浜の民俗ライブラリーvol.1』
モリさん 十一月二十三日
小和田を拓いた祖霊をまつる場所また平家落人の墓ともいわれるモリさん子々孫々大切に守られてきた聖地です。

 開拓先祖をまつったといわれる場所にその子孫が参拝し、家内安全を願う行事です。
 小利田区と高野区には「ナナモリ」と呼ばれる場所があり、それぞれを先柤代々でおまつりしています。「モリ」はタモやシイの木の根元にはこらを建てたり、御幣を立てたりしてまつられています。
 小和田の「ナナモリ」の場所についてはいくつかり意見がありますが、内谷金次氏のご記憶によれば、
 盛次庄助家のモリ(地蔵院奥の円墳)
 一瀬大町家のモリ(小字モリダケの山林)
 奥西家のモリ(青郷小学校グランド内)
 盛次孫右衛町家のモリ(小字イマキタの山林)
 井ノ上家のモリ(小字カモガワの竹やぶ)
 馬場弥平治家のモリ(小字イワハ夕の山林)
 由里田のモリ(小字ユリの田の岸)
の七ヶ所のことを「ナナモリ」と呼ぶそうです(このほかに、奥西家は小学校グランド内のモリではなく、集会所西側の先祖のイシバカがある山の下のタモの木のところを「奥西家のモリ」として代々おまつりされており、また「由里田のモリ」は「馬場家のモリ」であるともいわれています)。
 これらのモリのうち毎年参拝が行われているのは、盛次庄助家・一瀬大町家・奥西家で、その他は転宅などによりまつられていません。
 盛次庄助家でまつるモリは、地蔵院の奥にある鳥居近くの直径六~七mの円墳上に、タモの木が立ら、そばにほこらが建てられています。
 毎年十一月二十三日、家族でほこらに榊・塩・洗米・酒・果物などを供えて参拝します。盛次家では盆にも榊をヘンダラにかえて参拝します。
 モリは平家の落人の墓であるといった伝承もあり、「付近の木の枝を折るだけでたたる」とか「イヤラシイサワルトアブナイ」ところと畏れられ、大切に扱われています。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


小和田の主な歴史記録


『福井県の地名』
小和田遺跡(こわだいせき) (現)高浜町小和田
 小和田集落の東、関屋(せさや)川左岸の独立丘陵、ナコウジ山の先端にある。弥生時代に属する石剣と石戈が出土した。出土状況は銅鐸の出土とよく似ており、表土より五〇ー六〇センチの赤土層に石戈の上に重なるようにして石剣が出土した(「若狭高浜町出土の石剣・石戈」若狭考古学研究会・一九七一年)。石剣は全長三四・五センチ、最大幅四・五センチ、厚さ一・五センチ、粘板岩状の石を丁寧に磨いて製作されている。関部付近に一対の孔がうがたれている。右戈は全長二六・八センチ、最大幅七・ニセンチ、厚さ一・一センチ、石質は石剣と同一。両者がセットで出土しているのは珍しく、遺物は現在国保有。

『角川地名辞書』
こわだいせき 小和田遺跡(高浜町)
弥生時代中期の石剣・石戈出土遺跡。大飯郡高浜町小和田に所在。福井県の西端、京都府との県境にある青葉山東南麓の丘陵先端の斜面に位置する。昭和46年、採土中に出土。表土下約50cmのところで石剣を上、石戈を下にして水平に重ねて埋納されていた。石剣は全長34.5cm、剣身最大幅4・5cm、剣身最大厚1.5cm、茎長2.5cm、茎幅1.5cm、重量273gを測る。鋒から茎端まで中央を鎬がはしり、関部より4㎝の所に鎬を挟んで2孔が穿たれている。石戈は全長26.8cm、最大幅7.2cm、最大厚1.1cm、重量223gを測る。茎をもたず,関部そばの穿孔もない。とりこ銅剣・銅戈を石で模造したものである。石戈については九州の影響を受けたとする考えがある。

『郷土誌青』
石剣・石戈
 本資料は昭和四六(一九七一)年二月二六日、小和田四三号五番地、通称「中王子山(ナコウジヤマ)」で発見された。発見者は小和田区在住の井上菅雄氏であり、苗代の床土を採土中の出来事であった。
 中王子山は伊弉諾神社所有地で山というより小高い段丘土といったところであるが、頂上には祠がまつられ、さらに背後には二基の円墳が所在している。出土場所を含む青葉山麓の低丘陵地帯は、小和田古墳群として周知されている地域であるが、それまで弥生時代の遺物・遺構の出土は認知されていない。
 さて、石剣・石戈は中王子山の南西部先端から出土した。表土より五〇~六〇㎝の深さの赤土層に、石剣が上、石戈を下にして重なり、鋒を北へ三○度東へ向けて、いずれも平面を水平にして発見されたということである。このようにセットで出土した例は全国的にも稀なケースである。
 石剣は中央に鎬が通り、菱形の断面、関に接して二孔あり、その上に未貫孔が二つ確認できる。茎は短いが全長二四・五㎝を計り、鋒、刃は入念に製作された見事な石剣である。また、弥生時代の石剣は通常血流しの樋を持つものが多いが、本資料は樋の無い少数派に属する。重量は二七三・四六gを量る。石戈は全体が扁平でほぼ中央に鎬がとおり、茎は無いが関の両端を切断して研磨し柄に取り付けたものと思われ、全長二六・八㎝を計る。重量は二二二・五四gである。石剣・石戈とともに粘板岩製で入念かつ丁寧な製作である。また両者ともに刃こぼれが確認できるが、その出土状況や材質等から青銅製の武器をモデルとする祭祀具であると思われる。おそらく、これらの武器形祭器は祭祀の場で演じられる「模擬戦」に使用されたのではないだろうか。製作年代は他の類例から考えて、弥生Ⅳ期前半(弥生時代を先I期・I期~Ⅳ期と区分した場合)=前一世紀後半頃と思われる。
 昭和四九(一九七四)年、石剣・石戈は国保有文化財となる。文化庁は発見当初から本資料の重要性を認め国の所有権を主張し、国立博物館への収蔵を要望していたが、地元では神社地からの出土であり信仰の対象であるとして地元での保管を希望していた。両者の言い分は長らく平行線を辿ったが、最後は半ば強硬に地元が説得された形になったようである。
 現在は京都国立博物館に収蔵されており、平成五(一九九二)年四月には高浜町郷土資料館の開館記念として二ヶ月間の里帰りを果たしている。また、石剣・石戈の複製品(レプリカ)は、県立若狭歴史民俗資料館、高浜町郷土資料館に所在するが、他に小和田区伊弉諾神社にも奉納されていると伝えられている。
 なお、石剣・石戈が出土した際、関係者によって採取された土壌の中に残余の遺物などはないかとの確認調査、また併行して五日間をかけて一帯の踏査も行われたということであるが、新たな発見には結びつかなかったようである。現在、出土地付近は「小和田遺跡」の名で福井県遺跡台帳に登録され、周知の埋蔵文化財包蔵地として保護されている。

『郷土誌青』
二子山3号墳
 大飯郡で最初に発見された前方後円墳である二子山3号墳は、高浜町小和田三六号二一番地に所在する。青葉山の東麓丘陵より派生した尾根の最先端部、後円部を南東方向に向けて位置している。そこから北へ六〇〇mの地点には本古墳に引き続き調査されることになる行峠古墳、また南に隣接する尾根先端には前述の小和田遺跡がある。これら重要遺跡を包蔵する青葉山麓一帯は低丘陵地域であり。一旦開発の波が押し寄せると瞬く間に破壊が進む惧れのある場所である。本前方後円墳が発掘調査された理由も、小和田古墳群周辺の開発が進み、土地造成、耕地整理等で遺跡の保存が極めて困難な状況であるため。将来の開発に対する保存の資料としたいとの狙いがあったのである。
 なお、本古墳は長く円墳と考えられていたが、高浜町誌(昭和六〇年発行)編纂に関連しての分布調査で前方後円墳であることが判明したということである。
 昭和六三(一九八八)年一〇月、墳形および外表施設の確認を目的として第一次調査が着手された。調査主体は高浜町教育委員会。調査担当は福井県立若狭歴史民俗資料館である。墳丘の南側の前方部コーナー、くびれ部分、後円部にそれぞれトレンチが入れられた結果、全長約二六mの前方後円墳である事が確定した。また、後円部トレンチより横穴式石室羨道部が検出された。遺物としては杯蓋、甕の須恵器が出土したが、墳丘表面を飾る葺石や埴輪は出土せず段築もなかった。
 平成元(一九八九)年七月二〇日より埋葬施設の調査を目的とし第二次訓査が実施された。後円部墳頂に発掘区が設定され、埋葬施設である横穴式石室の調査が行われた。石室は後円部後方つまり、ほぼ南東方向に向けて開口しており、両袖式で玄室長三・七m、奥壁幅二・〇m、前壁幅一・八m、推定高一・七m、羨道部は長さ四・四m、幅〇・八mを計測した。玄室は天井石と側壁石積み上部とが崩壊して室内に倒れこんでいたが、奥壁は完全に残っていた。玄室床には整地土をいれ玉砂利を敷きつめ、入口には二本の棒を立てかけ、これに木板をあてて塞ぎ、更に割石を一重に積み上げている。
 本古墳では盗掘をうけた形跡はなく、副葬品の位置や床面の状況から埋葬遺体の数や配置が判明している。奥から順に四遺体が埋葬され、多様かつ多量の副葬品から第二遺体が首長ではないかと推測されている。
 副葬品であるが、須恵器、土師器、鉄器(武器・馬具・農工具)、装身具などが出土したが、なかでも第四遺体に供えられた鹿首飾付ハソウ(はそう)は、全国でも数例しか出土例のない珍品である。
 築造は六世紀初め頃と思われ、六世紀中頃まで追葬が行われた。ただ、墳頂から出土の須恵器から、この古墳に対する祭祀そのものは六世紀後半まで続いたものと思われる。
 発掘調査後、本墳は埋め戻された。その後土地所有者の善意により町有地となり、平成八(一九九六)年には町内唯一の指定史跡となっている。

『郷土誌青』
行峠古墳
 青葉山麓南東に位置する小和出古墳群に含まれる本古墳は、平成元(一九八九)年に土砂採取をきっかけとして確認調査が行われ前方後円墳であることが判明した。前方後円墳では二子山3号墳に続いて大飯郡で二例目の発見であった。二子山3号墳より北へ約六〇〇mの尾根上に所在。当時既に消滅の危機に瀕していたため、高浜町教育委員会では記録化し保存方法の模索を目的として調査事業を起こした。実際に発掘を担当したのは福井県立若狭歴史民俗資料館である。
 平成二(一九九〇)年秋、墳丘測量が行われ東西に墳丘主軸をとる全長三四mの前方後円墳であることが判明。後円部に設定されたトレンチにより横穴式石室が検出された。なお、地方の首長クラスの古墳であり、段築、埴輪、葺石は確認されていない。また電・磁気探査法による埋葬施設の調査により、発掘調査前の情報収集も行われた。
 平成三(一九九一)年には埋葬施設の調査が実施された。天井石、側壁上部は崩落していたが未盗掘であった。右片袖式で畿内型の横穴式石室の入口はくびれ部に開口、玄室長は三・八m、奧壁幅二・〇m、高さ一・九m。羨道長一・七m、幅〇・九m、高さ一・二m、~一・八mを計測した。続いて長さ五mの墓道が墳丘裾へと延びる。石室の閉塞は羨道入口(羨門)を木板のみで塞いでいる。築造は六世紀中頃、埋葬遺体は五~八体程度で七世紀頃まで使用されたと思われる。
 本墳は二子山3号墳につぐ首長墓と推測され、副葬品も須恵器、土師器、鉄器(武器、馬具、農工具)、装身具など同質のものが多く出土している。ただ、最終埋葬と思われる遺体にはほとんど副葬品が認められず、また、最終追葬時には閉塞板の前で火を焚いた痕跡も認められ、死者に対する儀礼や葬送観念の変化の時期にあたるのではと推測される。



小和田の伝説


『若狭高浜むかしばなし』

小和田の七森
 小和田には七森という不思議な森がある。この森の中に〝大将軍塚〟がある。大将軍塚と書いてダイジョコと呼ぶ。むかしから、ここの木を切ると悪い病気がはやるといわれて、だれも切りにいかない。
 村人の間では、この塚は平家の落人の墓、もしかしたら平清盛の親の墓ではないかという伝えもある。古くから、小和田には平家の落人がいたといわれており、大将軍塚が前方後円墳のようでもあるところから、昔のえらい人の墓として大切に守られてきたのかもしれない。
 しかし、ダイジョコとは祖霊崇拝、地神、山の神、田の神などをおまつりする民俗信仰の一つであり、古い形の神事とされている。これに陰陽道の星の神である大将軍がいつのまにか合わさったのではないか。大将軍という神は三年ごとにめぐってきて、その方位に当たると三年ふさがりとされ、人びとにたいへん恐れられた凶神である。地の神、山の神への敬いと凶神への恐れがからんでいるようである。さらにその上に、小和田では平家の落人伝説が重なったのかもしれない。
 七森の塚のあるところの木をさわると、たたりがあるということで、その結果、地の神を守り続けたのではなかろうか。

鳩の湯
 むかし、小和田の堂の前というところに温泉が涌き出していた。その温泉は鳩の湯と呼ばれ、小和田の人々からたいへん親しまれていた。
 しかしある時、どういうわけか、その鳩の湯から突然湯が出なくなったのである。
 「はて、どうしたのだろうか」
 「あれほどの湯が出ていたのに」
皆は心配そうに言った。
 「もしかすると、また突然湯が出てくるかもしれないぞ」
 「もう少し待ってみよう」
村人たちは、鳩の湯から再び湯が出ることを祈りつつ、しばらくの間様子を見てみることにした。
 一日、一日と月日は過ぎていった。しかし、鳩の湯には何の変化もおこらない。村人たちは、だんだん不安な気持ちをおさえることができなくなってきた。
 そこでとうとう、村の長老が、
 「よし、わしがお薬師様のところへ行って、なぜ湯が出なくなったのかたずねてこようではないか」
と言って、お薬師様をまつる寺へと出かけて行った。
 さて、長老はお薬師様に鳩の湯の件をたずねようとするのだが、肝心の仏像が見当たらない。
 「はて、確かにこの位置にあったはずじゃが」
寺中の隅から隅まで必死になって捜したが、やはりどこにも見当たらない。
 「もしや、盗まれたのでは」
やっと、そのことに気付いた長老はもう、悲しいやら悔しいやら。
 「お薬師様は温泉と一緒に、どこかへ行ってしまわれたのだ」
 長老は、とぼとぼと鳩の湯に戻って行った。そしてお薬師様が盗まれたことを村人たちに話すと、皆悲観に暮れてしまった。
 「お薬師様の仏像を捜し出してみせるぞ」
という声もあがったが、結局見つけ出した者はいなかった。
 月日が過ぎ、人々が鳩の湯のことを忘れかけた頃のこと。ここよりずっと西、城の崎というところで湯が出始めたという話が、この村にも伝わってきたのである。お薬師様も城の崎へ行ってしまわれたのだろうか。いまだに謎めいた、何とも不思議な温泉の話である。

.白いカラス
 むかし小和田に、ひとりの男が住んでいた。その男はとても欲張りで、そこらじゅうから何でもかんでも拾い集めてきては、自分の物にしてしまうのだった。そんなわけでこの男の家の蔵は、いつもいろいろな物で溢れかえっていた。
 この男は、いまだに人に物をあげたこともなければ、たとえ人から何かをもらっても、お返しなどしたこともなかった。そんなケチな性分だったので、とうとう村人たちはあきれ果てて、いつのまにか近所付き合いもなくなってしまったのだった。
 そんなある日の夕暮れのことである。
 「カアーッ、カアーッ」
無気味な鳴き声が聞こえたかと思うと、男の家に一羽の白いカラスが飛びこんできた。
 「白いカラスとは珍しい。さっそくうちの物にしてしまおう」
またしても欲が出たその男は、逃げるカラスを無理やり押さえこんで、箱の中に閉じ込めた。バタバタバタ、バタバタバタ。狭い箱の中で、カラスは必死にもがいている。しかし男は、そんなことはおかまいなしといった様子で、
 「またひとつ、物がふえたぞ」
といって、にんまりとしているのだった。
 そのうち、箱の中で十分なエサも与えられていない白いカラスは、だんだんと弱りはじめてきた。
 「いっそのこと、はく製にでもしてみるかな」男がそうつぶやいたとたん、白いカラスは最後の力をふりしぼって、くちばしで箱を突き破り、蔵の屋根へと飛んでいった。そして、からだの油を瓦にこすりつけて火をおこしたのである。
 「ああ、わしの大事な蔵よ、燃えないでおくれ」
ほとんど泣き出しそうになった男は、あわてて何杯も水をかけたが、ほとんど火まで届かなかった。そうして火の手はますます広がっていき、蔵とその中にあった物は、すべて燃え尽きてしまった。
 その後、その欲張り男がどうなったかを知る者は誰もいない。ただ、白いカラスが飛んでくると、その家に何か不幸が起きるという噂だけが広まったのだった。.




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小和田
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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