丹後の地名 若狭版

若狭

馬居寺(まごじ)
福井県大飯郡高浜町馬居寺


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福井県大飯郡高浜町馬居寺

福井県大飯郡和田村馬居寺






馬居寺の概要




《馬居寺の概要》
古刹馬居寺のある集落。「若狭和田駅」裏側あたり、老人ホームがあるが、その奥の細長く南へ入る谷にある農業地域。西部にある北へ突出した山に白石城趾がある。
馬居寺村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年和田村の大字となる。
馬居寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ和田村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北2町、戸数10、人口は男33 ・ 女31。


《馬居寺の人口・世帯数》 34・12


《馬居寺の主な社寺など》

塚ノ元に古墳がある。


熊野神社

馬居寺本堂の脇に鎮座。馬居寺の鎮守社であろう。
『高浜町誌』
元村社
熊野神社

伊奘冊尊
速玉男命
事解く男命

馬居寺
上屋敷  

一七三坪
八戸
馬居寺  
 
社殿
鳥居  
神楽
引山  
 
 稲荷神社 倉稲魂命    
 馬立明神 宇都志国玉命    

『大飯郡志』
村社熊野神社 〔祭神伊奘冊尊速玉男命事解男尊外一神(合祀)〕 馬居寺字上屋敷に在り 社地百七十三坪 氏子拾戸 社殿〔〕仮屋〔〕鳥居一基(〔村誌稿〕延宝五丁巳年霜月十一日高森山の木材にて四ケ村合同社殿造営)。
(同鳥居は二十五年毎に改築、所有財産田三反一畝八歩畑四反歩山林三町三反四畝三歩宅地二百四十三坪)。
境内社 稲荷神社 〔祭神倉稲魂命〕 社殿〔〕由緒〔明細帳〕
 天明七丁未年二月御樋代奉遷。
大正三年三月三十日左の社を合祀せり。
非公認社 正五位馬立明神 祭神宇都志國玉命 馬居寺 字上屋敷。
〔若狭國神名帳〕 正五位馬立明神(全郡誌神社章参照)。


馬立明神社
『大飯郡誌』
正五位馬立明神
〔若狭郡縣志〕 未知其處
〔神社私考〕 今社詳かならす(注)しひて考るに…馬居寺小き…神祠あり…此神名の立の字もしくは居の誤寫にて馬居にあらぬかと立と居の草書…混ひもす可きなり〔之の拠としてか近時馬居寺熊野神社へ此名の神を合祀す〕
(按に加斗村飯盛の荒木に小字名馬立あり近に權ノ下中ノ森等もあり或は此社名の名残乎)
郡域の変更あるものと仮定すれば尚或は本郡内にありし乎と覺ゆるもの無きにあらず〔既に論ぜしもあり〕


合祀されている馬立明神は不詳のようである。舞鶴田井の水ケ浦の沖合に馬立島があるが、何か関係あるかも…


高野山真言宗正智院末本光山馬居寺

馬居寺村の一番奥にある。これは本堂(観音堂)↑ 林道で車で近くまで登れる、それを使わないと、かなりキツイ坂道を登らねばならず、古刹は皆そうだが、年寄りだけの自力参拝はムリ。

正面石段を登ると庫裏(納経所)。本堂は左の急坂を登る。林道が続いているので、それを少し行けば本堂の脇まで行ける。

馬居寺の本尊は馬頭観音(座像、国重文)。「東寺百合文書」の文安6年5月2日付若狭国西光寺東寺修造料足奉加人数注進状に、「若狭国大飯郡和田庄馬居山西光寺」とあり、14名の僧侶が2貫文を東寺に寄進している、当寺はその東寺配下の西光寺の後身と考えられているが詳細は未詳。
馬居寺の草創・来歴について延宝3年(1675)の「若州管内社寺由緒記」は「聖徳大子為御建立、天喜五丁酉年御造営五間四面の本堂本尊は馬頭観音・三間四面の阿弥陀堂・鎮守・経堂・鐘楼・堂坊数六坊・此寺領百拾四石有之処大閤御検地に被召上候、本堂は小浜長源寺へ二王門二王共に参り、阿弥陀堂本尊共高浜西福寺へ参り、其外朽損申候、観音は柴の小□餝麿(堂ヘカ)入置申候、鎮守の社は昔の形少残り申候、古に不替は本尊と大□□(般若カ)計に御座候」と記す。本尊馬頭観音は平安末期の作とされ、中山寺、松尾寺両寺の二体とともに一木で彫られたという伝承がある。
庫裏↓



本堂脇の石仏群↑。訪れるなら秋がいいよう…

『高浜町誌』
古代寺院の伝承と仏教文化  若狭国の古代寺院は七世紀代に興道寺廃寺(美浜町興道寺)、太興寺廃寺(小浜市太興寺)が建立されているが、これらは中央に直結した豪族の氏寺として造営されたと考えられている。奈良時代(八世紀)には聖武天皇の発願によって諸国に国分寺が建立され、若狭も小浜市国分にその遺跡が残る(国史跡指定)。
 当町においても古い伝承を持つ寺院がある。馬居寺は聖徳太子の創建と伝えられる古寺で本尊は平安末期の馬頭観音(重文)である。若狭と聖徳太子は深いかかわりを持つ。若狭を領したという膳臣加太夫古の女、菩狭岐美郎女が太子の妃となっているのである。また中山寺(本尊馬頭観音・重文)は泰澄大師の開山とあって『若州管内社寺由緒記』同じく平安末期の阿弥陀如来座像(県指定)を保存する。その他、青葉山周辺では、高野阿弥陀堂(高浜町高野)に一一世紀代の阿弥陀如来像、今寺観音堂(同町今寺)には如来立像・菩薩立像が残されている。
 また、日引の正楽寺(同町日引)は永享三年(一四三一)三月付『普門山正楽寺縁起』に行基の創建と記されるなど、青葉山を中心にして、丹後松尾寺を含めて多くの古代寺院が所在したことを伺わせており、とくに正楽寺には次に示した配列で平安時代末期の古仏群が二三体も保存されている(次頁配列略図は芝田寿郎氏による)。
 これらはいずれも二 世紀~一二世紀に造像されており、この地域の人々がいかに深い信仰心を持っていたかを知ることができる。もっともこれらは末法思想によるものと思われるが、庄園の発達と信仰の普遍化など当時の社会情勢の影響も考えねばならない。仏像に托して願いをする風潮は一つの流行としておこなわれたことも推測されるが、このことは『更科日記』(著者は菅原孝標の女)に一三才のとき源氏物語を読みたいため等身大の仏像を父に造ってもらい願いをこめたとあることで伺われよう。
 今一つは高浜中央部の南側に牧山・宝尾と称する山嶺があり、そこには、弘法大師が高野山へ赴く以前に真言寺院を創立したとの伝承を持つ。かっては壮大な伽らんがあったとし、高野山との勢力争いの結果焼打ちされ消滅したという。弘法大師云こは別としても山頂で平安期と思われる須恵器も出土していることから何らかの遺構が残存すると推察され、加えて、牧山に所在したとする仏像が牧山・宝尾の山裾集落に点在することも合せて考えねばならない。牧山がどの年代まで持続したか明らかでないが、北側山麓の坂田(高浜町坂田)金蔵寺には平安末期の地蔵菩薩立像があり、西側の畑(同町畑)に鎌倉未の毘沙門天、北東の笠原に阿弥陀如来がある。また、牧山の尾根続きの南に位置する宝尾山裾の川上(大飯町川上)では阿弥陀如来、懸仏があって牧山伝説を裏付ける資料が数多く残されている。牧山山上の寺院は一乗寺或いは福願寺とも称され、松尾寺金剛院(舞鶴市)とともに大きな勢力を持っていたというが定かでない。現中山寺は一乗寺の後身とするが、享禄三年(一五三○)一一月一五日付一乗寺本堂修覆勧進帳『飯盛寺文書』にはもともと中山寺であったものを再興して一乗寺に改めたと記す。
 以上のように、当町の仏教文化は青葉山を中心にする地域と、牧山・宝尾を中心とする地域の二つに分播されるが、青葉山は青郷、牧山は木津郷の範囲に求められ、原始・古代を通してこの区分が存続したと推考されるのである。


高野山古義真言宗 本光山馬居寺
一所在地 高浜町馬居寺三-一
一開 創 推古天皇二十七年(六一九)
一開 基 聖徳太子
一本 尊 馬頭観世音菩薩
一檀家数 八戸
一由緒沿革 当寺はその昔(文安六年頃一四四九)馬居山西光寺と称し高野派正智院の末寺で白石山々麓にあったという。当寺縁起によれば、人皇三十四代推古天皇の御代(五九二~六二八)聖徳太子の御開創といわれる。「あるとき太子は摂政の御役目を帯びて御愛馬甲斐の黒駒に召され、当地方御巡行の道すがら、馬を下り海辺に歩を進めて、しばし御休息をとられた。ちょうどそのとき彼方山上に御乗馬のいななくを聞かれた。それと刻を同じくして時ならぬ一大光明がそのあたりに輝くのを見たまい、この処こそわれ日頃求めていた霊地なりとして、太子御自ら馬頭観世音菩薩像をお刻みになり、堂を建て、ここにその像を安置し、御乗馬の居たところであることと、大光明の奇異があらわれた」というゆかりによって、馬居山西光寺と称し、勅願所と定められたという。往年はこの寺に荘田二十丁歩(およそ一一四石余)が付され、坊舎棟を並べ霊山霊場として栄えた。
それから時は移り世は変わり国中騒然として兵乱打ち続き、時には回禄あり、あるいは、荘田を召し上げられ、綸旨、院宣その他御教書等のたぐいも悉く灰燼に帰してしまった。後年わずかに残った境内、門前田畑も織豊時代に及び検地制度厳しく、時の検地奉行丹羽五郎左衛門長秀、当国所領となるに及んで悉く召し上げられた。その昔百石余といわれた今の馬居地籍はその当時境内地であったという。今はわずか三間四面のお堂にすぎないが、本尊馬頭観世音菩薩の信仰はきわめて篤い。
御仏体は永年にわたり度々の修理その他で原の御尊容著しく損われていたものを、国費その他の浄資により、京都国宝修理所の手により、本来の御姿に復され昭和五五年六月六日国指定重要文化財となった。
本尊馬頭観世音菩薩御開帳法要は二五年目毎に修されるならわしになっている。
 参考として、延宝五丁巳暦霜月兼務龍蔵院の良詮法師誌るすところの縁起の一部を左に抄記する。
 『今の草堂ハ延宝五丁巳暦方々勧化シ造立セリ西光寺ハ阿弥陀堂預リノ坊舎ナリシモ後在所へ下り村ノ寺トナレリ是レ天正以後ノ事ナリ故ニ馬居寺ノ別当タリ伝へ聞く当山往古供百十四石余有り伽藍寺院軒ヲ並フト雖モ世ノ変化ニ依リ寺領廃絶堂寺供泯滅纔カニ本尊ヲ草蘆中ニ安置シ奉ツルニ至レリ鳴呼天カ命カ人々之ヲ歎カザルナシ時ニ上野中務本願ヲ生ジ和田村上車持村下車持村当村寄会ヒ相談ヲ為シ三間四面ノ本堂ヲ造立セシモノ也』云々と
  東寺文書 「真言宗古義派高野山正智院末馬居寺字上屋敷に在り、寺地百六十二坪、境外所有地五反廿九歩田畑、檀徒六十四人、本尊馬頭観音 堂宇三間三間 門一間五〇とあり。現今の堂宇は延宝五年霜月高森山の木材にて造営、大工高浜江上甚兵衛」とあり又「堂側の小池は、古の放生池にして、中央小島に弁財天を祀れり。」と、此の弁財天今尚存する。-町指定文化財
  若州管内社寺由緒記
        真言宗高浜龍蔵院末寺本光山馬居寺は聖徳太子為御建立天喜五丁酉年御造営五間四面の本堂本尊は馬頭観音三間四面の阿弥陀堂鎮守経堂鐘楼堂坊数六坊此寺領百拾四石有之也太閤御検地に被召上候本堂は小浜長源寺へ二王門二王共に参り阿弥陀堂本尊共高浜西福寺へ参り其外朽損申候(筆者註)この仁王像は京都嵯峨常寂光寺に移り重文に指定されている。観音は柴の小堂へ入置申候鎮守の社は昔の形少残り申候、古に不替は本尊と大□□(般若)計に御座侯
  延宝三年 馬居寺住持無住 龍蔵院 良詮

『大飯郡誌』
馬居寺 真言宗古義派高野山正智院末 馬居寺字上居敷に在り 寺地百六十二坪 境外所有地 五反廿九歩〔田畑〕 檀徒六十四人 本尊馬頭観音 堂宇〔〕門〔〕(〔村誌稿〕現今の堂宇は延宝五年霜月高森山の木材にて造営、大工は江上甚兵衛、兼務(高濱龍蔵院)。
〔明細帳〕〔取意〕推古天皇御宇聖徳太子秦川勝を隨へ甲斐の黒駒に跨り巡回の際此國の海邊に憩はれしに乘馬見へず忽ち山上に嘶聲を聞き且光明嚇變たり太子是観音の霊地なりとて堂塔を建て本尊を置き勅願寺とせらる故に本光山馬居寺と稱し寺田多く香烟盛なりしに丹羽長秀検地の時境内百石餘を有租民地とす是れ今の村居にして區名の起源なりと。
〔萬治二年原本明和八年所写寺社什物帳〕 一真言宗馬居山西光寺本尊観音〔聖徳太子御作松尾観音同木之由〕草創時代不知。
〔若狭郡縣志〕 觀音三十三所 千手觀音二十六番馬居西光寺准播磨國法華寺。
此寺の草創の古さを證す可きもの不尠。
〔東寺古文書〕 文安六年五月若狭国大飯郡和田庄馬居山西光寺東寺御修理奉加人数(下に僧名を挙ぐるを常とす)。
境内老楼樹あり〔草創の際大字の手植と傳ふ〕、花時の美観遠近に聞ゆ。所蔵の木製掛佛徑一尺餘、稀覯の古物たり。
其他古佛畫兩三點を存せり。堂側の小池は古の放生池にして、中央小島に辨財天を祀れり。

馬居坂山。嘉永年中黒田某朱壷と棒金を発掘せしと傳ふ



『若狭のふれあい』
わかさ探訪102 〝厚化粧〟の下に身を隠した仏様
 馬居寺(真言宗)は、若狭で最も古く619年に聖徳太子が開いたとされる寺です。その縁起によると-
 太子が摂政として、愛馬にまたがり諸国を巡る途中、和田の浜で休息をとられた。そのとき馬が姿を消し、突然、南の山からいななきが聞こえ、光明が輝いた。太子は、その光明輝く山を「観音の霊地である」として、本光山と称し、党塔を建立。のちに仏師が馬頭観世音菩薩坐像を刻み、安置した。馬頭観音が居られる寺ということから「馬居寺」と呼ばれるようになった、とのことです。
 馬居寺は、JR小浜線の若狭和田駅から南に1㎞ほど谷奥へ入ったところにあります。観音堂(1677年建立)と、本尊馬頭観世音菩薩坐像(国指定重要文化財)が納められている収蔵庫(2002年建立)、庫裏・写経所、石仏群などがひっそりとたたずむ山あいの寺です。往年には荘田20町歩(約114石)が与えられ、本堂のほか阿弥陀堂、経堂、仁王門などがあり、6坊(坊は僧侶の住居、今でいう庫裏)を擁する一大霊場でした。京都の東寺(教王護国寺)に残る文書からも、室町時代、この地に多くの僧侶を擁する大寺院があったことを知ることができます。
 ところが、戦国期に馬居寺一帯は戦場となり、寺の由来を伝える文書や什物を焼失。そして太閤検地では荘田をことごとく召し上げられました。『若州管内社寺由緒記』には、このとき本堂と仁王門・仁王像は小浜の長源寺へ、阿弥陀堂と本尊は高浜の西福寺へ移されたとあります。その仁王像2体は、のちに京都・嵯峨の常寂光寺に移り、「仁王像は丈七尺、若狭小浜の長源寺より移せるものにて運慶の作と伝えらる」(常寂光寺のパンフ)とされ、現存しています。一方、西福寺は江戸後期(1817年)の高浜大火で諸堂とともに本尊阿弥陀仏を焼失。その像は快慶の作であったと伝えられています。
 江戸期から明治中期までの約300年間、鳥居寺は住職のいない寺(他の寺の住職が兼務)となっていました。その馬居寺にただ一つ残されていた“重要文化財“が、この馬頭観世音菩薩です。馬頭観音では数少ない平安後期の作で、頭上に馬頭をいただく三面八臂(臂は肘のこと)の像。忿怒の表情は、人間の煩悩をかみ砕き、衆生を救済するとされています。昔から秘仏として観音堂に納められ、24年ごとの午年にだけ本開帳されてきました。
 実はこの仏像、四半世紀前まで、今とはおよそ見掛けの異なる仏様でした。けばけばしい色の塗料が厚く塗られ、少々漫画的な風貌だったのです。その当時は高浜町の文化財に指定されており、右肩から下へ大きな亀裂が生じたことから、京都国宝修理所へ送り塗料をはがしたところ、中から真の姿が現れ出たとのこと。杉本隆演住職(77歳)は、「とても同じ仏様とは思えず、私自身驚きました。いつの時代になされた造作か不明ですが〝世を忍ぶ仮の姿″のまま、長年、秘仏として地元で守りつがれてきたのです」と話されています。ひょっとしたら、時の権力者から仏像を守るため、意図的に外側を塗り固め、本来の姿を内に隠したのかもしれません。非常に興味深いミステリーを秘めた仏様です。


松尾寺、中山寺、馬居寺、槙山寺の本尊は不明だが、こうした古刹の本尊がそろって馬とは何とも不思議なことである。農家は牛はいても馬は飼わない。どうした人々の寺院だったものか、馬居寺とは馬子たちの寺だったのか、しかしそうした陸路の拠点地だったとも考えられない。
北方騎馬民族の血がそうさせたものか、厩戸皇子とか聖徳太子と馬は何か関係あるのか、キリスト教と関係あるのか、何かいまだ知られていない郷土史があるようである。



白石山城
「若狭和田駅」裏山、青戸の入江に向かって南から北へ張出す高さ約185メートルの白石山頂に主郭を配する。南北に190メートル、最大幅20メートル、大飯郡に点在する山城の中では残存状態の良好な遺構の1つであり、規模も大きい。様式から戦国期の終り頃の築城と考えられている。粟屋氏の城とされる。
『高浜町誌』
白石山城  青戸の入江に面する和田区の東端に位置し、馬居寺の西側、南から北へ張出す山嶺の突出した海抜一八五、五メートルの山頂に主郭を配して所在する。城は南北に約二〇〇メートル最大幅二〇メートルを計るが、図は主郭のみを略測したものであって、この稜線の下方にも小郭が認められる。大飯郡に点在する山城の中では残存状態の良好な遺構の一つであり、また規模も大きい。
 城郭は山頂稜線の北側先端部にまず空堀を設置し、それより階段状に小郭が三段造成され上段郭へと接続する。上段郭は北側と東側の一部に石垣が認められ、郭の南側中央部には櫓台が設置されている。この郭の東側には一段下って帯状の郭がつくられ、さらに数メートル下った山腹にも小郭がみられる。
 これより長方形の小郭を径て最上段郭に到る。ここでも南側に長方形の櫓台をつくっておりここが本城郭の最高所となる。郭の南側終焉より一段下って半円形の平場を持つが、この外周は石垣が積まれている。北側の石垣はひずみの屈折を見せており、近世城郭にみられる手法の原型とも思われる手法をとっている。このことからこの城がさほどの年次を上るとは考えられず戦国末期のものと推測されよう。
 ここでも東側下段に小郭を付属させている。前述の石垣はいずれも小さな石材を使用しており、高さはニメートルに達していない。これより扇形の一郭があって南側にかなり幅広い空堀を設けて主郭との遮断をし最南郭へ接続する。この郭は当城のうちもっとも広い面積を有するもので、全長四〇メートル、幅二〇メートルを計る。
 郭の西側に幅三メートル、長さ二八メートルにもおよぶ見事な土塁があり大飯郡内では他に類例はない。郭の南側終焉は急激に落込み、馬背状の尾根となってさらに高い山嶺へと続く。一方、郭の東側先端は馬居寺の集落へ下る稜線となるため空堀をもうけて防備しその先に小郭を設置している。
 この山の東側はゆるやかな勾配となるので防備施設が顕著にみられるが、西側は急斜面を形成するためまったく認められない。もっとも、全域調査をしておらずこの他にも遺構の存在することは十分考えられよう。
 城主は『若狭郡県志』に「和田村白石山有城址、伝称粟屋右衛門大夫居焉、而領和田・上車持・下車持・馬居寺等之民村、矣』とあって、粟屋一族であったことが知られる。粟屋党は、越中守・周防守系、或は右京亮・左京亮系があって、右衛門大夫がこのいずれに属したのか不明であり、またいつ頃この白石山に城郭を構えたかもわからない。
 右衛門大夫の初見は『蔭涼軒日録』延徳二年(一四九〇)七月七日の条に「〇上略自粟屋右衛門大夫海松一俵贈之〇下略」とあるが、以後に出現する同名とのかかわりはまったく知られていない。郡県志記載の右衛門大夫は、一説に丹後国加佐郡泉源寺(舞鶴市)の高屋城々主、粟屋丹後守の嫡子同名右衛大夫・同四男中島猶衛祐が天文年中(一五三二~五四)に若州和田へ入って築城したとする。これはおそらく『梅垣文書』など丹後関係資料によるものであろうが、この文書の記載内容には不自然なところが多くにわかに信じがたい。
 これらの説話は天文年中の武田信豊加佐郡陣立にかかわるものと推定される。このときの総帥は武田信高であり、戦いの主力は粟屋光若(式部丞)であった。粟屋氏和田配置は一応このときの本拠地として光若が同名を配したとも考えられるが、この当時ここは逸見氏の領分であり、それは不可能であっただろう。
 とすれば永禄四年(一五六一)逸見氏が守護義統に抗して敗れ、そののち領地の一部が没収されて粟屋氏が入ったとしか考えられない。したがってこの城は逸見氏の動きを押さえるために築城されたと考えるべきで、これによって粟屋氏の小範囲な支配地にもかかわらず規模の大きい城を築いた訳がわかるというものである。
 右衛門大夫は弘治二年(一五五六)六月二二日付明通寺鐘鋳勧進算用状に「壱石 粟屋右衛門大夫」がみられ、里村紹巴のいう粟屋小次郎の父である可能性が強い。
 白石山城最後の城主は粟屋小次郎である。この人物は歴史的にかなり鮮明な姿をみせており、彼は文芸面では当代の第一人者連歌師里村紹巴ともかかわりを持ったらしく、紹巴の天橋立下向のときはかなりの便宜をはかっている。
 里村紹巴は永禄一二年(一五六九)六月、近江路を径て若狭へ入り、それより舟にて丹後へと行き天橋立へ向かっている。この記録は『天橋立紀行』として残されているが、同月一五日小浜から舟で和田へ着き「粟屋小次郎殿館より、北のふもとの一宅にかりの宿を定めぬ」とあり、和田海浜に近い山麓に宿を定めたことが知られる。その翌日、海へ出て粟屋小次郎の家人らがあわびやさざえを取って歓待したのであった。一七日には連歌興行をおこない小次郎は 「月を梶る行舟すゝし和田の原」と詠み、紹巴をして「今年若冠なるに此道執心も、父の魂をとゝめけるか」といわしめている。父右衛門大夫は紹巴と親交があり、小次郎もまたなかなかの文化人であった。
 一方、武人としての存在も無視できず、武田没落後は織田信長に帰順したらしい。元亀元年(一五七〇)四月、織田信長は若狭に入り越前へ侵攻したが、背後の近江浅井氏の蜂起により急拠京都へ退却した。その後若狭国内は朝倉方に与した武田信方・武藤友益らが活発に動き、信長方の山県孫三郎を攻めるなど、国内の争乱はその極に達する。若狭の国人衆の動きは本郷治部少輔泰栄が信長の家臣矢部光佳宛に情報を送っており『本郷文書』織田信長書状に
    入江・中村・粟屋小次郎無別条之由、忠節候、
  善七郎かたへ書状之旨、令披閲候、其国之体無是非題目候、雖
  然当構無異儀堅固之覚悟之通、尤忠節之儀候、近日可出馬之間
  本意案之内候、仍鮭二尺送給演、懇慮之至候、尚善七郎可申候
  恐々謹言
    十一月廿四日        信長(花押)
     本郷治部少輔殿
とあって、小次郎が信長に叛意せず別条のないことを知り非常によろこんでいる。
 白石山城の完備はおそらくこの頃になされたと推定され、したがつて、城の形態が近世的様相を示すのも当然であろう。粟屋小次郎も他の若州衆とともに織田信長方として各地を転戦したことが十分推測されるのである。若狭の小領主が大勢力に屈した一面がこの和田でもみられたのであった。
 以後、和田粟屋氏は一切文献にみられずその没落も不明である。ほんの短い期間に存在した一武人の動向であっても、その中には中央勢力とのかかわりから、日本歴史の一部分を担っていたことが知られ、無視できない存在価値を証明しているのである。しかし、遺構は完全に残されており、十分な保護が必要であろう。


白石山城址
 白石山城址は和田馬居寺の西側白石山(高さ一九二メートル)の山上にある。若狭の守護武田氏の重臣である粟屋右衛門大夫(丹後泉源寺城主、粟屋丹後守の嫡子)が天文年中(一五三二~一五五四)に築造した。粟屋小次郎(粟屋右衛門大夫の息)は連歌師里村紹巴(京都の連歌師豊臣秀吉、秀次に恩顧を受ける)と親交があった。
 若狭郡県誌には
  和田村白石山に有城址伝称粟屋右衛門大夫居焉而領和田上車持下車持馬居寺之民村矣
 馬居寺の中島茂左工門家はその後裔といわれ古文書がある。
 岩神の十念嶽には粟屋右衛門大夫の出城址がある。


『大飯郡誌』
馬居寺城趾 〔遠望と見取り画全郡誌写出〕は馬居寺白石山上に在り、其遺趾の現存する事部内に冠たり。足利及戦國時代〔享徳-寛正〕に粟屋氏長利等-武田家の重臣-の居りし所ならむ。〔沿革條参照〕
〔同郡縣志〕 和田村白石山有城趾傳稱粟屋右衛門大夫居焉而領和田上車持下車持馬居寺之民村矣。
〔東寺文書〕 享徳三年…長行、康正二年…粟屋越中守長行、寛正二年…逸見…粟屋下野長行、同月…長行。
 (馬居寺に中島茂左衛門と云ふ家あり、粟屋氏の子孫と稱す。家に戦記的記録を傳ふ、其略に曰く、 丹後泉源寺城主粟屋丹後守四子あり(長于右馬允〔右衛門大夫〕馬居寺に城づく)、天文中丹後加佐郡の領主大島但馬に加擔し、若州に攻入らむとせしに、謀漏れ逆襲せられ敗績す、四子中島猶衛祐次の一戦に奮闘し功あり、兄を助けて武藤〔上野は永禄元年二月病没五郎左衛門嗣ぐ〕氏を石山に攻めて復た功あり、粟屋氏榮えて佐分利和田莊を領す。中島家は此猶衛祐の後なりと)。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


馬居寺の主な歴史記録




馬居寺の伝説


『若狭高浜むかしばなし』
黄金千両
 今からおよそ百四十年ほど前のことである。馬居寺村の地主上羽助左衛門は、馬居寺の近くを畑にして、和田村の黒田伝右衛門に小作をさせていた。
 伝右衛門は、もう長年耕作していたが、畑のあるひとところだけが、いくら世話をしても実りが悪く、いつも不思議に思っていた。
 そんなある日、伝右衛門は思い切って地主の助左衛門に提案した。
 「このわたしがいくら耕しても、実りの悪いところがあります。一度畑地をあらためてみてはどうでしょう」
 ところが助左衛門は、伝右衛門の言うことをすげなく拒んだ。
 伝右衛門はどうしてもその謎を解きたかったので、ついに人目をしのんでひとり密かにその畑を掘りおこしてみた。すると平べったい石の下から、黒色の壷が出てきたのである。壷の中には一面朱が入っていて、その中から黄金の棒数本と、次のような歌の短冊が出てきた。
  朝日かがやく入り日をうけて
     黄金千両 有明の月
伝右衛門は、思いがけない掘り出し物に喜んだ。そして日暮れになるまで待ち、村人たちに知られないように馬居坂の海辺で壷を洗い朱を流して、黄金の棒と短冊と壷を持ち帰った。惜しいことに、この朱が千金の値打ちのあるものだったと言う。翌朝馬居坂の海辺には、一面朱の海が広がっていたのだった。
 その後、誰が言うともなく、
「伝右衛門が、馬居寺の黄金千両を掘り出したそうな」
とのうわさが立った。さっそく陣屋より調べがあり、伝右衛門はから壷だけを持って出かけた。
「なかには一面朱がありましたが、それは全部海へ洗い流してしまいました」
と申し立て、役人もそれ以上たずねることができなかった。
 それから伝右衛門は、京都の厨子屋へその壷と黄金の棒と短冊を持っていった。それらを高い値で売り払うことができたので、伝右衛門はにわかに長者となり、家を建て直し、田畑を買い集めた。そんなことから人々は、伝右衛門のことを“つぼ伝”と呼ぶようになった。
 しかしその後、伝右衛門は仏罰を受けた。家中の者が病気にかかり、やがてこの家は絶えてしまったのである。)

.馬居寺のいわれ
 むかし、推古天皇(五五四-六二八)の時代に聖徳太子が秦河勝を従えて、甲斐の黒駒にまたがって各地をおまわりになったときのことである。
 聖徳太子は若狭国の高浜の海辺で、ひととき休まれた。しばらくくつろがれているうちに、黒駒の姿が見えなくなった。
「馬がどこかへいってしまった。どうしたことだろう」
みんなは不思議に思いながら、あちらこちらを眺めて、馬の姿を探した。ずっと見渡しても砂浜には見当たらない。すると、そのとき山の上の方で、馬のいななきが聞こえた。みんながそちらの方を向くと、いななきのするあたりはまぶしいばかりに光り輝いていた。
「あれは何だ」
「後光がさしているように見える」
そこで、聖徳太子がいわれた。
「あそこは観音さまの霊地である」
光り輝くところまでいかれて、そこに塔を建て本尊をまつられた。そして、そこに寺を建てるようお命じになった。その寺が本光山馬居寺である。
 そうして、この寺のある一帯は、寺の名をとって馬居寺という、馬居寺は約千三百年前に建てられた。福井県最古の寺として知られる。ご本尊の馬頭観世音菩薩は平安時代の後期に作られたもので、現在、国の重要文化財に指定されている。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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