丹後の地名 若狭版

若狭

三松(みつまつ)
福井県大飯郡高浜町東三松・西三松


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福井県大飯郡高浜町東三松・西三松

福井県大飯郡青郷村東三松・西三松






三松の概要




《三松の概要》
JR「三松駅」があるあたりから西側へ海岸沿いの集落。ワタシらの子供の頃に三松駅ができて、海水浴客でその時期は賑わった。明治15年関屋川を境に東三松、西三松に分かれているが、元々は同じ三松村だったので一緒に取り上げる。
日置(へき)ノ坪・青ノ坪・田中坪・坪ノ内・関屋ノ坪など古代条里制の遺構を思わせる字名があり、青海神社の西側一帯は「三宅田(みやけだ)」の小字となっていてかなりの地域を占有するが、このことは神社周辺が六世紀中ごろに集中して設置された屯倉の一つであったと推測されている。
地内の字名に細工保(さいくほ)があり、文永2年(1265)の若狭国惣田数帳に青郷の内として出る「細工保三町三反三百五十歩」の遺称と見られている。
応永25年(1418)2月23日付左近大夫他2名連署大般若田寄進状(中山寺文書)に「三松東いちは」の地名がみえ、享徳2年(1453)12月29日付の寄進状(同文書)には「東市場祝」ともみえる。丹後街道沿いに現在も東市場(といちば)という地名が残り、立地からみて青海神社の門前市場的要素が強かったと考えられる。立地条件は遠敷市庭に類似している。西三松には西市場があったものと推定されている。
正保郷帳によれば田方四八○石余・畠方一五三石余、「右之所年ニヨリ五分一日損」とある。高のうち四八石余は御茶屋掃除・かわや高役引となっている。

「細工」は、手先を使って細かい小道具、調度などを作ること、あるいはその職人を指す語で、奈良時代以前から存在した、木工、鋳工、鍛冶工、漆工などいろいろあった。若狭国細工所の所領細工保には番匠、鍛冶、檜物などの給田がみえ、元々は国衙に属した小工場であったと思われる。古くは奴婢(奴隷)の身分で一般の農民のように班田はもらえなかったが、何らかの報酬はもらえたのあろう、後にその報酬の代わりに給田になったもので、それが田数帳に記録されたものであろうか。奴隷制時代からの誠に由緒深い日本史があるのかも知れない。
細工といえば後の江戸期になれば皮細工を言うようになる。「かわや」とあるのがそれであろう。動物の皮を扱うので、穢れているとか、とくにひどい卑賤視と社会差別を受けた。動物の肉を食って生きねばならぬ者がよくぞそんな天理に反するネゴトが言えたものだが、そのリクツなら己こそ一番穢れているではないか。「かわや」を好き好んでしているのでない、封建制に職業の自由はなく、先祖がやっていたから否応なく引き継ぎやっているというものである。
権力者ばかりでなく宗教者から、一般民からそうした不条理な迫害を受けた。民主主義と人権の今でもやはり受け続けているという。差別があるような国はどうのぼせようともクソ国だ、低品位国である、文明国とかましてや先進国とかはいいようもない、ましてや「先進科学原発立国」のコバンなど外国へ説明できるだろう。
カゴヤとかイモジとかは、ちょっと前まではゆるやかな差別があったで、今はもうそんなことは知らない人の方が多いやろな、とか聞くが、カワヤはきつそうである。しかし彼らは最も情けがあると言われる、キミが倒れかかっているときに救ってくれるのは彼らかも知れない。「負の歴史民俗文化財」、そうした概念があるのか知らないが、早く過去の遺産となさねばなるまい。詳しいことは不明で、聞いてみることもできず、あくまでも一般に言われていることである。

東三松村は、明治15~22年の村。三松村が東三松村・西三松村に分村して成立。明治22年青郷村の大字となる。
東三松は、明治22年~現在の大字名。はじめ青郷村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西7町余・南北2町余、戸数97、人口は男285 ・女293、学校1、小船2。
西三松村は、明治15~22年の村。三松村が西三松村・東三松村に分村して成立。同22年青郷村の大字となる。


《東三松・西三松の人口・世帯数》 434・336


《三松の主な社寺など》

水ぐり
『高浜町誌』
水具里
 水具里は東三松より海上数百メートル、海中に地下水か湧出していて淡水魚が棲息している。
 江戸中期の国学者伴信友は
   わだつみの礁が中の水具里は
     潮の真中に湧きのぼるなり
最近地下水の利用によって湧出量が少なくなった。


西三松古墳
『高浜町誌』
西三松古墳(実測図25~27・写真5~7)
 関屋川の川口左岸、西三松集落の東端の海に直面する小高い畑地に立地していた。昭和三二年一一月一三日の夕刻農業用排水溝作成工事中に発見されたことが明記されているもの、西三松出土と記されたものがあるが、同じ地点出土のものといわれる。多数の須恵器が採集されており、築造の時期が推測できる。杯は非常に小形化し、杯蓋はヘラ切り未調整で簡略化されたものである。瓲・小形高杯などはさらに時期が下る形態を示す。六〇〇年を前後するころに築造され、七世紀の第1四半期まで追葬されたことが予想される。.


輸蜊東古墳
『郷土誌青』
輸蜊東古墳
 輸蜊東古墳は高浜町のほぼ中央部、東三松三字輸蜊に所在する。JR三松駅の東約四〇〇mで町道南山手線に接する山陵の尾根上、青柴山を西に若狭湾を眼前に臨む標高約六〇mの位置にある。周辺には「上ノ山古墳」や「鐘寄古墳」などが点在し、北の海岸線には「中津海遺跡」や「名寄遺跡」などの製塩遺跡も周知されている。なお、本古墳を稜線づたいに西にカーブして登っていくと、標高九〇mの地点に中世山城跡、そこから北西に向かい降りていくと同程度の規模の円墳が所在している。
 平成七(一九九五)年、民間業者により土砂採取事業が開始される。業者よりの確認調査依頼を受けて、高浜町教育委員会により現地踏査が実施され、古墳二基と中世山城跡一筒所が確認された。そのうちの一基、開発区域の最も東に位置する古墳が輸蜊東古墳であり、確認時には既に工事によって奧壁側と上部の墳丘が削られている状況であった。
 平成九(一九九七)年一一月、調査主体高浜町教育委員会、調査担当高浜町郷土資料館で発掘調査が実施された。
 遺構の中心と推測される地点を基に、十字の畦を設定し掘下げる。この時点では前方後円墳の可能性が捨て切れなかったため、墳丘の南に裾確認のトレンチも入れられたが、結果、直径一四m弱の円墳であることが判明した。埋葬施設は長さ三・五m、幅二m強の玄室と東の谷に開口する長さ約二・五m、幅一mの羨道部とから成る右片袖の横穴式石室であった。玄室と羨道の境には、四〇~五〇m大の割石による閉塞石が下段一列のみ残存していた。
 天井石は当初より二石が露出していたが、玄室内に二石落ち込んでおり。都合四石で構築されていた。側壁は崩壊の度合いが激しかったがコーナー部分の残りは良く、大井石との関係を見る限りではかなり持ち送りの顕著な構造であった。両側壁及び奥壁の最下段には横長の七〇~八〇㎝ほどの石材を腰石として使用していた。また、大きな石の間に小さな角礫を詰めたり、コーナーでは石材を互い違いに組んだりと強度を増すのに腐心していたことがわかる。玄室の床面には部分によって三~四㎝大、二~三㎝大の玉砂利が敷き詰められていたが、その種類や分布から何度かの追葬時に敷き直されたことも確認できた。
 出土遺物は予想以上に豊富で、特に追葬時に袖部に片づけられた須恵器、土師器は三〇点を超え、出土土器全体の七割を占めた。どれも六世紀前半から末頃の範囲に収まるものと見受けられ、これら須恵器と鉄剣の出土状況も複数回の追葬を裏付けている。奥壁付近では、石室崩壊時に落ち込んだと思われる甕、提瓶、横瓶が出土しており、墳頂祭祀が行われていたことを物語っている。また、玉類が勾玉、管玉で二〇個程度、ガラス・石製小玉が約二○○個出土している。東に一つ谷を隔てた山裾にある上ノ山古墳(昭和三六年・同志社大学調査)が多量の玉類を出土しているこ
ともあり、この地域の古墳の被葬者の性格を知る手がかりになるのかもしれない。鉄器では鉄斧や晨工具などが出土したが馬具は一切出土していない。全体的に先述した二基の前方後円墳に比較しても大筋では出土遺物には遜色がないと言えるであろう。被葬者は前方後円墳こそ造り得なかったが、彼らに次ぐ有力者であったと考えられる。
 袖部の石材の使用状況や玄室の閉塞方法等には、二子山3号墳の影響が感じられ、築造は六世紀半ば頃でないかと思われる。



日枝神社
三松駅のすぐ裏山に鎮座。

『高浜町誌』
元村社
日枝神社
大山咋神 東三松
字宮森   
二四〇坪
一四一戸
東三松
西三松   
四月三日
九月九日
一〇月一七日
一一月三日   
社殿、拝殿、
神饌所、
神楽殿、
鳥居二、   
太刀舞
神楽舞
(現在は中止)   
 
 夷神社 事代主命  
 八幡神社 応神天皇  
 愛宕神社 伊奘冊尊  
日枝神社
 元村社、東三松宮の森、祭神大山咋神外一神、建仁三年(一二〇三)滋賀県(近江国)坂本山王宮(日吉神社)より勧請して氏神とした。合祀夷神社、祭神事代主命、今の境内社山王宮は原切戸に、八幡宮(祭神応神天皇)は字八幡に、愛宕宮(祭神伊奘冊尊)は字蝓蜊に鎮座していたのを中興の際奉遷したものであるといわれている。旧社地は東三松小字古宮に所在し、南北朝期には門前に市場が開設された。


『大飯郡志』
村社日枝神社 祭神大山咋神外一神(合祀) 東三松字宮ノ本に在り 社地二百四十坪 氏子百四十一戸 社殿一丈七尺一丈二尺一寸 拝殿 絵馬堂 社務所 舞臺 鳥居一基 由緒〔明細帳〕建久五五年江國坂本山王宮より勧請天明元年八月中興
〔若狭郡縣志〕 山王社在三松村爲産神四月三日九月九日十一月三日有祭禮
〔中山寺文書〕 應永廿五年二月廿三日三松山王ノ大般若田のきしん状之事 
 寄進申東市場山王宮大般若田事。
 壹貫田一反 在所東十八で京紺屋作 在所中作市別田
 右件田は毎年春山王宮にて大般若御法樂
候間彼田村永代寄進申所也状如件。
享徳二年十二月廿九日
東市端祝        次郎五郎右近
御門三郎右近     右馬次郎左衛門
トキ屋衛門       (各華押)
 (明治四十四年五月六日指定) 同年四月二十八日次の社を合併せり 無格社夷神社 祭神事代主命 東三ツ松字蛭子。
 參考文書 中山所蔵 一應永二十五年二月二十三日三松東いちば左近大夫 外二名華押 大般若田寄進状
一 寄進申 東市場山王宮大般若田事 壹貫田一反 所在東十八で京紺作所在中作別田 右件田は毎年春山王宮にて大般若御法樂候間彼田村永代寄進申處也状如件 享徳二年二月二十九日 東市場祝華押次郎五郎右近同衛門三郎右近同右馬次郎左衛門同トキ屋衛門同。
〔宝永四年〕 山王權現四月三日九月晦日十一月三日翁面當候。
  (傳ふ、今の境内社?山王祠は原切戸に、八幡祠は字八幡に、愛宕祠は字蝓蜊に鎮座せるを、中興の際遷せるなりと。)



臨済宗建仁寺派三松山玉雲寺

『高浜町誌』
臨済宗建仁寺派三松山玉雲寺
一 所在地 高浜町東三松十八番地
一 開 創 応永二年三月
一 開 基 祝峰和尚大禅師
一 本 尊 釈迦牟尼仏
一 檀家数 一〇三戸
一 由緒沿革 応永二年三月(一三九五)大檀越武藤某。祝峰和尚の徳を慕い深く帰依するところとなり同和尚のために当山を創立し開山とした。降って、元和元年八月(一六一五)には釈迦堂を合寺して再興し、寺観を改めるに至ったが、享保九年二月(一七二四)諸堂宇炎上して過去帳ほか什宝一切を失った(大飯郡誌)。
 明治三四年三月第十七世孝道和尚代に再々建されたものが現在の建物である。
.

『大飯郡志』
玉雲寺 臨済宗建仁寺派 東三松字寺の本に在り 寺地三百六十八坪 檀徒九十二戸 本尊釋迦如来 堂宇六間七間半 由緒 応永二年喜山和尚創立應仁元年八月祝峰和尚中興享保九年二月失火徳州和尚再建
(現存の本堂は明治三十四年孝道再建、庫裡も同時に建てり)。



真宗大谷派東福山来迎寺

『高浜町誌』
浄土真宗 東福山来迎寺
一 所在地 高浜町西三松六号十番地
一 開 創 天和三年八月(一六八三)
一 開 基 源古法師
一 本 尊 阿弥陀如来
一 檀家数 七六戸
一 由緒沿革 当山は天和三年源古法師の手により『聞法道場』として創設され、附近住民の信仰道場であったが、寛延三年三月(一七五〇)本願寺十二代一如上人代に至り、恵浄上人「東福山来迎寺」と寺号を公称するに至った。依って同上人を『中興開山』とあがめ、現在に至っている。
 昭和二五年一月一七日不慮の炎焼によって本堂その他一切の諸堂宇什宝悉く烏有に帰し、詳細は不明である。
 翌、二六年四月再建復興成り旧観を凌ぐ規模となった。


『大飯郡志』
来迎寺 真宗東本願寺派 西三松字福谷に在り 寺地四百五拾四坪 境外取有地三反貳畝十二歩 檀徒四十五戸 建物本堂六間七間 庫裡 納屋 門 鐘楼 由緒〔明細帳〕和三年八月玄古創立寛延三年三月惠浄中興。


大谷山城
『高浜町誌』
大谷山城址
 東三松南側標高二三〇メートルの山頂にある。
 天正年間(一五七三~一五九一)佐分利石山の城主武藤友益が築造した。


『郷土誌青』
大谷山城 東三松の南側に標高二三〇メートルの山頂にある。天正年間(一五七三~一五九一)に佐分利石山の城主武藤友益が築造した出城と言われている。
 武藤上野介は若狭の守護武田氏重臣で高浜城主逸見氏と幾度か戦っている。永禄元年(一五五八)に病死している。




大田和廃村
『郷土誌青』
大田和
 東三松字大田和で、地形的には横津海、日置、関屋に隣接した東三松の飛地として存在して来た。
 明治一二年に作成された「大田和概略」によると、戸数五戸、山林・田畑総計一八町余(約一八ヘクタール)内大田和区の持分は、九町二反五畝、田地七反六畝八歩(約七六アール)畑地一町一反二畝二一歩(約一・二三ヘクタール)宅地一反六畝一〇歩(約一六アール)
 村の由来としては、いろいろあるが「大飯郡誌」では江戸時代製塩が重要な産業であったので、製塩用薪山として活用されたと考えられる。また、宝尾山の一乗寺と大田和の大宝寺との関係が至近距離にあることなどから古代山岳仏教との関係も研究の余地がある。
 現在、横津梅区の集落センター内の薬師堂に、大宝寺の仏像三体が祠られている。
 昭和二八年の一三号台風によって廃村となった。



《交通》
三松駅


《産業》


《姓氏・人物》


三松の主な歴史記録


『大飯郡志』
次郎坊太郎坊(高濱) 牧山の寺盛なりし頃 足利時代か 其附屬寺院なりしとて、かく地名遺り。廃堂頽庫を風吹雨打に委せ、附近に御成谷廐谷の地名存せり。

『郷土誌青』
次郎坊、太郎坊 宝尾山縁起(八〇七)によると昔、槙山に摩尼山一乗寺という大伽藍があった頃の僧坊の在ったところと思われる。今も次郎坊という地名が残っている。そして、御成谷、廐谷というところもある。当時の御門、厩のあったところと考えられる。

製鹽場趾
東三松海岸にて盛に製鹽せしは〔國中高附〕にでも明かなれど、今や其趾を難認。

三松の伝説


『若狭高浜のむかしばなし』
水礁(みずぐり)の伝説
 関屋川の河口より七、八百メートル沖の海底に、淡水が湧き出ているところがある。そこは水礁と呼ばれており、淡水魚たちが棲息している。その水礁は、全部あわせると数百ヶ所もあるといわれており、そのうち大きなものは六ヶ所ほどある。
 大きな水礁は、海底の砂が深く丸く掘られ、すり鉢をそのまま海に沈めたような形になっている。水面鏡で見ると、ちょうど上空から火山の噴火口を見ているようである。その噴火口から、ボワンボワンと不思議な音をたてながら淡水が吹き出されるのである。純度の高い時などは、なめても塩の味がしないそうである。この淡水は、関屋川の伏流水、または青葉山の地下水が海中に湧き出ているものともいわれている。
 昔、ひとりの老婆が関屋川で洗濯をしていると、旅の僧が通りがかって水を一杯要求した。しかし、けちな老婆は一滴もやらなかった。怒った旅の僧は念仏を唱え、川の水を地下へ沈めてしまった。その旅の僧こそ、諸国巡礼中の弘法大師であった。弘法大師が沈めた関屋川の水は、そうして地下を流れるようになり、やがては淡水となって、海底から湧き出てくるようになったのだろうという。

東三松沖の水具里
 東三松の浜から、約五、六百メートルばかりの海底に清らかな水がわき出る勢いで、吹き出されるように散らばっている。海の波が静かな日に見てみると、そこの水の色だけが違っていることが分かる。そこを〝水具里〟というのである。
 この地方では、岩礁のことを〝くり〟という。清水のわき出る岩礁という意味から、水具里と呼ばれるようになったといわれる。また、水がもぐるようにも見えるので、水もぐりが水くりになったという説もある。
 関屋川は、民家のあるあたりで地下へともぐり、それから数百メートルいったところで、再び地上に姿を見せる。そのとき、水の量が半分くらいに減っているので、ほかの川の水は地下にもぐって流れていき、それが海底からわきだすのではないかともいわれている。
 伴信友(一七七五~一八四六。江戸後期の国学者。若狭小浜藩士)の歌に、
  〝わたのそこいくりの中の水くりは潮のも
         なかにわきおぼるなり〟
とあるが、この水具里のことを歌ったものだそうである。






三松の小字一覧


東三松
堤谷(つゝみたに) 梨木谷(なしのきだん) 輸蜊(ゆり) 長塚(ながづか) 庄境(しょうざかい) 池田(いけだ) 八幡(はちまん) 野尻京(のじりきょう) 金田(かねだ) 輸蜊ノ下(ゆりのした) 土取場(つちとりば) 宮ノ本(みやのもと) 中川原(なかがわら) 野村堂(のむらどう) 釈迦堂(しやかどう) 北八幡(きたはちまん) 柏(かしわ) 寺ノ本(てらのもと) 坪ノ内(つぼのうち) 古宮(ふるみや) 佃(つくだ) 竹ヶ鼻(たけがはな) 向山(むかいやま) 向山奥(むかいやまおく) 置田(おきだ) 木戸口(きどぐち) 深田(ふかだ) 阿弥田(あみだ) 山子谷(やまこだん) 小森(こうもり) 大薮(おおやぶ) 毛田(もだ) 穴田(あなだ) 東ノ手(ひがしのて) 風呂屋(ふろや) 切戸(きれと) 蛭子(えびす) 達磨(だるま) 野手(のうて) 本郷(ほんごう) 川崎(かわさき) 一里塚(いちりづか) 西ノ堂(にしのどう) 柿ヶ谷(かきがだん)  池ヶ谷奥(いけがだんおく) 後谷口(ろしろたにぐち) 後谷(ろしろだん) 屋敷(やしき) 大谷口(おゝたんぐち) 東大谷(ひがしおうたに) 大谷(おうたみ) 堂屋敷(どうやしき) 峠(とうげ) 東笹尾(ひがしさゝお) 笹尾(さゝお) 西笹尾(にしさゝお) 入柴(いりしば) 嶽山(だけやま)
西三松
川尻(かわしり) 福城(ふくじょう) 北福城(きたふくじょう) 坂ノ谷(さかのたに) 脇坂(わきざか) 福谷(ふくたに) 森山(もりやま) 福尾(ふくを) 榎谷(えのきだに) 風折(はぜおれ) 湊(みなと) 鍬加(くわか) 荷入(にいれ) 下井根口(しもいねくち) 上井根口(かみいねくち)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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