丹後の地名 若狭版

若狭

中津海(なかつみ)
福井県大飯郡高浜町中津海


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


福井県大飯郡高浜町中寄中津海

福井県大飯郡高浜村中津海






中津海の概要




《中津海の概要》
国道27号が最も海岸ぶちによって走る辺りの南側(山側)に位置する。JR小浜線と、国道27号が東西に通る。県道149(音海中津海線)との三叉路があるあたり。
南に牧(まき)山がそびえる。かつて当村は上蝓蜊(かみゆり)と称したという伝承がある。

右が国道27号、東向き。集落は右手(南側)にある。

中津海村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。近隣と同様に製塩業が盛んであったという。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年高浜村の大字となる。
中津海は、明治22年~現在の大字名。はじめ高浜村、明治45年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北50間、戸数15、人口は男44 ・ 女48。


『大飯郡誌』
鐘寄と中津海の區名
 鐘寄と中津海は昔時連続し、上蝓蜊下蝓蜊と稱せしが、同地の蝓蜊神社縁起に據れば、
 延元元年丙子八月十一日一風壽の爲め一鐘兩字境に打寄す之を曳揚蝓蜊社に納めしに鐘樓の釣木折れし故神告を請ひしに此鐘は雌なれば佐一彦(男即佐伎治社神)へ納めよとの神示を得永和元年三月三日之を納む又云延元の風壽に村民疲弊困憊せしかば神告を乞ひしに社名を村名とするに由ると依で上司に願ひ鐘の寄りし地下蝓蜊を鐘寄と改め風壽の爲め中海となりし地上蝓蜊は中津海と改稱せしなりと(按にヨリとユリ何か関聯あらむ)

延元は南朝年号で、北朝側では建武3年(1336)になる。


《中津海の人口・世帯数》 (鐘寄との合計)95・38


《中津海の主な社寺など》

上の山古墳、山の神古墳
『高浜町誌』
上の山古墳(別記)
 山の神一号墳に対峙する東丘陵中腹に単独で所在している。墳丘の残りもよく、現在見学することができる最も保存のよい横穴式石室である。出土遺物も豊富で、後期古墳から出土する一般的な遺物を揃えている。調査所見によると、少なくとも三段階の埋葬があったことが知られている。
 副葬された須恵器の形態から判断すると、六世紀第Ⅰ四半期~第Ⅱ四半期にかけてのころ築造され、六〇〇年を前後するころまで三次にわたって追葬が行われたと判断される。

『高浜町誌』
山の神古墳群(実測図20・21・写真1・2)
 中津海集落の背後に小さな谷があるが、この谷の西側山麓の平地との境に築かれている。土石採取によって破壊されたが、石室の基底部の一部を残している。小ぶりの石材を使用しているところから古式な様相がうかがわれる。この古墳の西側の山を上りつめたところにも古墳が存在する。
 一号墳からは計一一個の須恵器と土師杯、直刀片などが出土している。いずれも同一石室内から出土した一括資料といわれるが、杯類に若干の型式差がうかがわれるので追葬を行っていたことが予想される。杯身立ち上がり部分に段を残さずに杯蓋内面に段をなしていること、提瓶の形態、ハソウ・台付長頸壺の波状文などから判断すると、六世紀の第Ⅱ四半期ごろの築造と判断される。

蝓蜊神社



臨済宗相国寺派月峰山常津寺(じょうしんじ)

本尊は聖観世音菩薩。文禄年間恵岳智公の開山。境内に医王堂があり、本尊の薬師如来には火除け薬師の伝承がある。
『高浜町誌』
臨済宗相国寺派 月峰山常津寺
一 所在地 高浜町中津海(中寄)
一 開 創 文禄 年 月 日(一五九二~)
一 開 基 恵嶽智公座元
一 本 尊 聖観世音菩薩
一 檀家数 三二戸
一 由緒沿革 当寺の草創に関しては、文禄年間(一五九二)と伝えるが詳細についてはわからない。
 昭和六〇年三月旧堂宇を改めて新しく本堂(一部庫裡)を建立した。
 境内に医王殿と称する仏堂があって、本尊薬師如来を安置して、附近の人々から『火除の薬師』として信仰をあつめている。
 縁起によれば、「昔、槙尾山一乗寺の勧請仏であったが、霊元天皇の頃、寛文二年六月八日当寺第二世杜翁和尚が中津海谷間の水辺で発見して、此処にお堂を建て安置した。ある夜、一人の旅人が、折からの風雪を避けて此の堂に籠り、寒さ凌ぎに、次々と堂壁を破って暖をとっていたが、ついに燃すものがなくなってこの尊像を火中に投げ込んだ。尊像はたちまち火中に一大光明を放った。これを見た旅人は驚き、且、懼れて逃げ去った」と伝えている。
 現在は無住で、世代についても明治初年以来、老僧の隠居寺として正住を欠いていたので不明である。
(大飯郡誌)
 薬師堂〔二間二間半〕由緒(明細帳)寛文八癸巳年六月慧嶽和尚創立


『大飯郡誌』
常津庵 同  中津海字掛所に在り 寺地百十四坪 境外所有地一反四畝五歩 檀徒百六十一人
本尊聖観音 堂宇〔…〕 藥師堂〔…〕 由緒〔明細帳〕寛文八癸己年六月慧嶽和尚創立
〔同前〕 開基慧巍智公座元天正年中示寂 建立者諸檀那中 名寄五斗年貢地也。


山城跡
東三松との地境山頂には武藤氏の出城があった


高浜隕石
3、400年ばかり前に、この辺りの海岸松林に200貫(750㎏)もある隕石が落下した。隕石や人工衛星、航空機やミサイルなどが原発に命中するということも予想して対策して臨まねばなるまいが、会社幹部への賄賂に小判が使われて、「いやぁぁ断っても持ってきてんですわ、困ったお人で、仕方ないので金庫にしまっておきましたがね、あたしらは被害者ですで」と言い訳したとか、それなら警察へ被害届をだしたら…、
どうせ官界へも政界へも流れてるだろ、みなグルなんだろ、国策不捜査でみなヤミからヤミなんだろ、全世界が泣いて笑いこけた原発だから、ココロから安心していようではないか、全世界の皆の衆。元はといえばみなワレラの電気料金や税金ではないか、払い戻してくれよ。グルどもはまじめにやろうとしないどころか喰い物にしている。原発はすべて廃炉にするしかないことを彼ら自身の堕落と腐敗が強く示したことになる。もううんざりだ、こんなことばかり、こんな世の中は早く終わらせよう、日本が亡ぶぞ。

『高浜町誌』
高浜隕石
今から約四〇〇年程前中津海の海岸の松並木の枝を折って大きな石が落下してきた。それを中津海の共同墓地の祭壇用石として使用されていた。赤尾町専能寺の住職宮崎最勝師が同寺庭にシベリア出征軍戦没者の碑を立てる際これの寄贈を受けて碑前に据え庭石に使用されていたが、隕石らしいとのこと大正一三年八月京都大学の地質学教室近重真澄博士の鑑定を受けた。石はやや扁平で長さ四尺五寸(一メートル四〇センチ)、幅広二尺五寸(七六センチ)、幅狭一尺五寸(五〇センチ)、重量二百貫余(一・二トン)、橄欖石を主体としニッケルクロム鉱を含有した全国最大の隕石に間違いなしとのこと、伝説と学説が一致し京都大学に寄贈された。同寺にはその隕石の模型石がある。


『大飯郡誌』
高濱隕石 現今京都帝國大学の研究室に在る日本第一の大隕石にして形稍扁平なるが大きさ〔最大の處にて〕四尺五寸幅〔最廣の處〕二尺五寸〔狭き所は一尺五寸〕厚み〔平均〕一尺二寸比重二、七八総重量二百除貫あり、約三百年前高濱町西端〔丹後街道〕の松並木の上に落ち來りしを葬儀場の供養石となしありしが大正六年伊藤嘉次郎〔同姓徴の遺志にて〕真宗専能寺に寄附し同十三年四月同寺住職宮崎最勝近重博士の「物庵雜筆」の隕石研究を讀みて同博士の鑑定をうけ六月末大阪毎日新聞社長本山彦一に贈りしを翌月大學研究室に搬入八月八日寄附の手続を了せるなりとぞ〔サンデー毎日参照〕(成分)一面は分解極度に達し暗褐色を呈せるが橄欖石を本體とし同質より成る球粒子、二ツケル、鐵鑛クローム鐵鑛を混有し或は橄欖石の變質して成りし蛇紋石かと考へらるゝ線状の青緑色結晶性の鑛物斜に並行し諸所に無晶贅の褐鐵鉱風化酸化のために生じて點在せり〔近重博士「珍しい大隕石〕より拔抄〕
 〔科學畫報〕 支那では最初の記録は西暦前六百四十四年…日本の現在發見六十…其重量四十六貫…最重の隕鐵…〔取意〕
以で此隕石が本邦最大の物たるを知る可し。


《交通》


《産業》
製塩

《姓氏・人物》


中津海の主な歴史記録


『高浜町誌』
上の山古墳
 調査の経緯  本古墳は、昭和三三年(一九五八)以来、石部正志氏を中心とする同志社大学の調査団による若狭地方の考古学調査の一環として発掘されたものである。調査は、昭和三六年(一九六一)八月二五日~九月二日まで同志社大学考古学研究会員の協力で石部正志・白石太一郎両氏によって精密かつ学術的な調査が実施された。本町内で初めて学術的な発掘調査が実施された古墳として知られてきている。
 町内では昭和三五年(一九六〇)、三六年と立石遺跡の調査が実施されたわけで、考古学的メスを入れた遺跡として二例目となった。石部氏らは、高浜町の古墳は群を形成するものが少なく疎に分布、散在する傾向に注意し、古墳の荒廃消滅したものが多いことを憂え、早急に古墳の内容を知り、その上でその真価を住民に訴えることの意義を考え、調査を実施したと述べている。
 多くの古墳の中で、本上の山古墳を選択したのは、地元の理解と、本古墳の内容が他の古墳とやや異質の様相を有すると直感したとも述べて、その正しい考え方が結果的に出ているようである。本古墳は、調査終了後、中寄区の人々の手で墓前供養がしめやかに行われ、石室の現状保存がなされ、現在に至っている。
 本古墳の調査結果は、翌年、「若狭高浜上の山古墳」古代学研究第三一号で、石部正志・白石太一郎両氏によって詳細な報告がなされており、若狭地方の後期古墳の基準資料のひとつとなっている。
 また出土遺物は一括して、石部正志氏より本町に返還された。次に前述の石部・白石両氏の報告書にもとづいて、本古墳の内容の紹介をすることにしたい。調査後、二五年経過しているが、石部正志氏の好意で調査時の写真を本文に収録することができた。
 位置と環境  上の山古墳は、中寄区大字中津海一四号・掛所三〇番地、通称上の山に所在する。本墳は、国鉄小浜線沿いに若狭高浜駅から西へ約一・七キロメートル、中津海区のすぐ南東にせまる山麓の中腹丘陵に所在する。古墳の付近は一帯が雑木林で、現在も発掘当時のままで石室は見学できる。
 近付には、本墳と谷を挟んで西側に当たる丘陵山麓の平地に小形の石材で築かれた横穴式石室の小古墳(山の神一号墳)の残跡かおる。過去の土木工事で破壊されたものである。ここから丘陵上端に上りつめたところにも、約四基の小円墳が存在するが、何れも大きな盗掘孔があり、もと横穴式石室であったことが推測される。大飯郡内のほとんどの後期古填が山丘の中腹~麓にかけての斜面に占地するのに対し、これらが丘陵を上りつめた上面に所在するのは珍しい。山の神二号墳~四号墳である。
 一方、上の山古墳の東北方、中寄区字鐘寄の民家の裏庭に、封土を全く失った横穴式石室が、現地表下に半ば埋もれて一基あった。この付近には、石部正志氏より紹介されている薗部古墳や城山古墳があり、東西に細長い現高浜平野を形成した海岸砂丘上に、点々と存在していた古墳の一つである。中津海村落の西北に近接する砂丘上からも提瓶一点が単独出土している。土地の人々は古墳から出たものではないと伝えているが、破損のない完形品である。
 現在の中寄集落を中心に海岸砂丘上と、その南にせまる山脚丘陵上に、もといくつかの後期古墳が存在して一つの古墳群集地となっていたようである。上の山古墳もその一つであるが、本墳が所在する斜面には他に古墳はなかったようである。
 外形  若狭地方の大部分の古墳では、封土の変形が目立つようであるが、それは天井石が他へ利用され、石材として採取される例が沢山ある。上の山古墳も、天井石は一部残っていただけでほとんど抜きとられ、もともとの封土は、現在より一メートル前後高かったと推測される。
 現形は、造り出し部のある円墳といえる。その大きさは、径が一三メートル内外で、高さは二・五メートル内外と考えられる。この造り出し部について、調査者は、中津海の集落からこの古墳に上っていく小径に注目し、この造り出し部である突起部のすぐ前面を南北に小径が横切っており、地形の観察からして、古墳造営時も現在と同じ小径をたどって登ってきたと思われる。このことから、この造り出し部は古墳の前面に当ると考えられる。
 調査者は、単独墳であること、造り出し部の存在する円墳であること、僅かに見えた羨道部の天井石が小型のものであることなど、本古墳の特色に注目し、本町における横穴式石室の様相をさぐるべく学術調査を実施したようである。
 内部構造  封丘のほぼ中央部分に横穴式石室が構築されている。天井石は羨道部の一個を除いて全て失われていたので、天井部の状態は不明である。
 石室は、長方形を呈する玄室の片側によせて、細長い羨道を付けて左側にのみ袖部がみられる。いわゆる左片袖式の石室で、石室は南南西に開口している。
 石室の全長は五・八メートルで、玄室の長さは三・二メートル、羨道部の長さは二・六メートル、玄室の幅は奥壁直下で一・六メートル、前方部分一・七メートルある。羨道の幅は玄室との境付近で〇・九五メートル、前方では一・一メートルとやや広がりをみせる。
 玄室の高さは、天井石が失われているため詳細は不明であるが、現側壁をみると、基底面より一・七メートルを計るため、ほぼこれ位の高さが想定されよう。羨道部の高さは、一・五メートル内外と考えられる。
 奥壁および側壁を観察すると、最下段にやや大きな石を横長に置き、その上に不整形の径二〇~七〇センチの自然石、あるいは割石を横積み、平積み、小口縦積み、小口横積みと不規則な積みあげをしている。持ち送りは奥壁部ではそれ程顕著ではないが、西側壁においては、二、三段目以上に著しく内側にせり出しており、古い様相を呈している。
 石室内には、上下二層の埋葬面を検出している。第一次床面は、石室基底面に五~一〇センチ程の粘質土を積んで形成し、敷石などの施設は認められなかった。第二次床面も、厚さ七~一五センチ程度の粘質土を積んで新しい床面を造り出している。第二次床面にも敷石は認められなかった。
 羨道部は、玄室より約一メートルの所から約三メートルの所まで径一〇~四〇センチの割石が積み上げられて閉塞されていたが、これは第二次床面上の埋葬に伴うものであった。
 遺物出土状況  第一次床面 人骨は認められていないが、多数の玉類および鉄器が床面上から検出されている。奥壁直下のほぼ中央部分に百個近くの練玉が散在、床面上に勾玉、管玉、平玉、丸玉などが検出された。石室内のほぼ全面から刀子や鉄鏃が散在した状態で発見されている。須恵器杯破片が一片だけ出土している。
 第二次床面 若干の人骨破片が出土し、玉類、鉄器、土器などが検出されている。ここで興味深いのは、この第二次床面においては二度にわたる追葬が観察され、最低三回におよぶ埋葬が想定されることである。
 出土遺物  上の山古墳の出土遺物と数量は次の通りである。
 装身具(金環二、勾玉五、平玉一、管玉一二、切子玉一、丸玉一、ガラス小玉八八、臼玉二七、練玉一二二)  農工具(鉄斧一、鎌一) 武器(刀子一一、鉄鏃三三) 土器(須恵器一六ないし一七、土師器五)
 出土遺物の中で主なものについて、その所見を石部氏の報告書の中から借用し、一覧表もそのままかかげさせていただくことにする。
  (1)装身具 金環は、銅芯に薄い金をかぶせたもので、サビがひどく、一部に金色をとどめる。玉類は一覧表であげた。
  (2)鉄器 破片も含めて四六点をかぞえる。刀子に極めて特色があり、一覧表であげた。鉄鏃は広根の有茎鏃と棘箟被長頸鏃の二種類が出土している。鎌や鉄斧などの農工具も出土している。
  (3)土器 須恵器と土師器があり、その概要は一覧表であげた。
   須恵器は、ひととおりの器形が出土しており、前述の追葬も須恵器の型式差から判明するところである。
 まとめ  本古墳の築造年代は、副葬品の中でも須恵器の編年から想定可能となっている。第一次床面の時期を六世紀前半、第二次床面を六世紀中頃とその築造された年代を考えている。石部氏らは、西暦五二〇年~五五〇年頃に営まれたものとしている。そして、埋葬については、最大三世代をこえない範囲、人数にして三体以上が葬られたことを知ることができる。
 副葬品である遺物の出土状態から復元された埋葬段階は次のようなものである。①段階 第一次床面への埋葬、②段階 第二次床面への最初の埋葬 ③段階 第二次床面への次の埋葬と三段階あったようである。
 次に本古墳の被葬者については、もちろん知る手だてもないが、この地域の里長クラスの墓地と考えられ、すべての人々が横穴式石室に葬られていたわけでもない。上の山古墳は、横穴式石室を伴う古墳が、若狭地方で盛んに造られる時期に一時期先行して営まれたものである。


中津海の伝説


『高浜町誌』
雨乞鐘(中寄)
 むかしのこと、大嵐があった。そのとき、高浜の海辺に一つの鐘が打ち上げられていた。村人たちは、この鐘を拾い上げてお宮へ納めた。
 昔、朝鮮に姉妹の鐘があった。どうしたわけでその鐘が、はるばる日本のしかも高浜の浜近く漂着したのだろう。
 その姉妹の鐘のうち、妹鐘は海嵐に乗って、今の鐘寄の浜へ打ち上げられたのだという。今も佐伎治神社の宝庫に保存されている鐘がそれである。
 伝えによると、この鐘を撞くと今でも、鏡寄の沖合に沈んでいる姉鐘をしたい「アネゴーン」と悲しい響きで鳴るそうである。そこで何とかしてこの姉鐘を引き上げようと、何度も試みたが、そのつど一天にわかにかき曇りものすごい大雨となり、大空が抜けおちたのではないかと思うばかり、しかもそのうえ群り寄って来た烏賊の大群は、海上一面墨を流して水中真っくら闇となり、どうしても引き上げることが出来なかったという。
 そういうことから久しく、旱魃が打ち続き、どうにもならなくなってきた時は、この妹鐘を海辺に運び出し、七日間海中につけると、必ず雨を呼ぶといわれている。そんなことからこの鐘を「雨乞鐘」と名付けられたのである。
 近年では、昭和一四年夏、四〇日間の大旱魃のあった時氏子中は、この「雨乞鐘」を、故事にならって七月一〇日午後二時鐘寄海岸に沈めようとした。ところが見る見る青葉山麓から紫黒のものすごい雲がわき上がり、またたく間に大粒の雨となり、その夜も雷雨がはげしく住民は恐れおののいて神徳の深いのに驚き入ったということである。
  (注)延元元年(一三三六)丙子八月十一日荒浪のため此鐘の寄りたる場所は上蝓蜊村下蝓蜊村の境なり鐘を曳揚げたる時は村中惣掛りなりし是を両村の名付神・蝓蜊の御前へ上げたる処鐘衝き堂の釣り木折れ落ちたるに付湯を上げ候処妾は女の事故佐一彦(佐伎治社)へあげ呉れよとの神口あり永和元年(一三七五)乙卯三月三日佐一彦へ納む
延元元年丙子八月十一日上下両村は浪荒の為め疲労名状し難く神様へ湯を上げ候処神名を村名に附けるを故荒れ候まだ外にむつかしき事あるとの神口あり其由を上様へ願ひ御見分の上御しかゑ下され候 一、上蝓蜊村は鐘を曳揚げたるに付鐘寄村と改む云々
     (佐伎治神社誌)
 この鐘は、昭和三一年三月一二日福井県指定文化財となり、若狭地方最古の和鐘といわれている。
 鐘の丈、九三センチ、鉢回り、一六〇センチ、そのほか、胴回りの文様などに和鐘としては珍しい特徴がある。
   月いづこ 鐘は沈める 海の底  芭蕉
                於敦賀吟.



中津海次兵衛(中津海)
 中津海次兵衛は、中津海の出で、長じて丹後田辺城主細川忠興のもとに仕えていた。ある時細川氏が福知山城攻略のため兵を差し向けた。次兵衛もその時その軍に加わった。次兵衛は、福知山捉進城の要害蛇ヶ鼻堀柵を飛び越えて、張り番の兵一人の首級を挙げ、一番乗りの功を立てた。その後幾度かの戦功を重ね、忠興公の面目一方ならず。また、ある時は、宮津城下に能舞の宴を催されたとき、能面〝高砂三日月〟を忘れたことに気づき、近者たちのうろたえるさまをみて、自ら買うて出て宮津-舞鶴田辺間約六里(約二四キロ)の道を恰も飛鳥のように走って帰り、面をたずさえてわずか数時間で能宴に間に合わせた。その迅速ぶりに一同肝をつぶしたという。
 また、伝えによると一尺(約三〇センチ)余りの鯉を生きたまま呑むということが、城の内外に評判となっていた。殿様より試みよとの仰せに、早速御前にそれを披露して大いに喝采を拍し、おほめの言葉をいただいたという。

『若狭高浜のむかしばなし』
中津海次兵衛
 中津海生まれのたいへん有能な武士が、いた。名を中津海次兵衛といい、丹後田辺城主細川忠興のもとにつかえていた。
 あるとき、細川氏が福知山城を攻めるために、兵を出した。次兵衛もその軍に加わり、軍の先頭を行った。そして城の蛇が鼻堀のさくを飛び越えて、見張り番に立っていた兵を倒した。一番乗りして手柄を立てたかったのである。
 「見張りをやっつけたぞう」
次兵衛は討ち取った敵の首を高々と上げて、味方の兵たちに見せた。むかしは敵の首一つで階級が上がった。
「おう、でかしたぞ、次兵衛」
「おれたちも、やるぞう」
次兵衛の活躍を見て、ほかの兵たちも勇んで敵の城へと突進していった。こうして細川軍は勝利をおさめた。この戦での次兵衛の活躍は、主君の細川氏を大いに喜ばせた。その後も、次兵衛はつぎつぎと手柄を上げたため、細川氏の厚い信頼を得た。
 また、あるときは超人的な脚力で、回りのみんなをあっと驚かせたこともある。
 宮津城下で、細川氏が能の舞の宴をもよおされたときのこと、係りのものが能面〝高砂三日月〟を忘れたことに気づいた。みんながうろたえている、その様子を見て次兵衛はいった。
 「よし、わしが取ってきてあげよう」
 「ええっ、そんな。絶対に間に合わない」
みんなが心配するなか、次兵衛はさっとかけ出した。宮津から舞鶴田辺までは約六里(約二十四キロ)ある。数時間後の宴に間に合わせるのは、とうてい無理とみんなは思った。そわそわしながらみんなは待った。そうして数時間がたった。
 心配げなみんなの前に、次兵衛が能面をたずさえて戻ってきたときは、その速さに肝をつぶした。驚きながらも、一同は手を叩きながら喜んだのだった。
 「一体どのようにして、いったのか」
 「鳥のように飛んでいったのか」
 「なんの、これしきのこと。常に武芸をたしなんでいれば、たやすいこと。槍のえで杖をつき七、八間(約十二、三メートル)は苦もなく飛び越えた」
と平然として答えた。
 次兵衛の武勇伝はほかにもある。伝えによると、一尺(約三十センチ)あまりの鯉を、生きたままのむと城の内外で評判になったこともある。殿様が次兵衛にいわれた。
 「次兵衛、お前は並外れた人物のようだが、ひとつ、生きた鯉をひとのみして、わたしに見せてくれないか」
 「よろしゅうございます」
そういって、次兵衛はさっそく鯉をひとのみしてみせた。みんなは拍手喝采した。殿様は軽い冗談のつもりでいったところが、ほんとうに次兵衛がやって見せたので
 「あっぱれ、あっぱれ。ほめてとらす」と、大喜びであったという。





中津海の小字一覧




関連情報





資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順


若狭・越前
    市町村別
 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
三方上中郡若狭町
三方郡美浜町
福井県敦賀市



丹後・丹波
 市町村別
 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市





【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2020 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved