丹後の地名 若狭版

若狭

六路谷(ろくろだに)
福井県大飯郡高浜町六路谷


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福井県大飯郡高浜町六路谷

福井県大飯郡青郷村六路谷






六路谷の概要




《六路谷の概要》
丹後舞鶴側からなら吉坂トンネルを抜けて高浜町へ入ると最初の集落になる。JR小浜線と国道27号がそれぞれほぼ東西に通る。
六路谷村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。六路谷の地名は轆轤師(木地師)がかつて居住したと考えられている。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年青郷村の大字となる。
六路谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ青郷村、昭和30年からは高浜町の大字。

《六路谷の人口・世帯数》 56・22


《六路谷の主な社寺など》

吉坂峠
峠道は、トンネルができてさびれたが、近世までは盛んに利用された。杉森神社のすぐ前の道が古道かと思える。
国境の要衝としてしばしば戦場になったと伝え、「若狭郡県志」の「高浜城趾」の項は「丹後国兵士蜂起而入于大飯郡、駿河守発-向吉坂山而合戦」と記す。永禄九年(一五六六)の丹後・若狭諸勢力の抗争時のことである。「若狭国志」は「高浜ヨリ至犬石、坂下有石、其形如犬故曰犬石、以此石丹後若狭二州界」と記す。


杉森神社とオハツキイチョウ

国道27号(丹後街道)の吉坂トンネルの東側、国道沿いに西面して鎮座する。祭神は伊奘冊尊。旧村社。享禄5年(1532)の神名帳写(小野寺文書)にみえる「無位杉社明神」に比定される。「若州管内社寺由緒記」には「杉森大明神 御神体阿弥陀如来」とある。社額には「杦森神社」とある。境内の杉および菩提樹の巨木のほか、国指定天然記念物の御葉付銀杏が2株あり、国天然記念物。

『高浜町誌』
元村社
杉森神社
伊奘冊尊 六路谷
字宮ノ前
一〇月一七日 社殿、拝殿
鳥居
    御葉付銀杏
(国指定天然記念物)
杉森神社
 六路谷の北部、丹後街道(国道二七号線)沿いに西面して鎮座する。祭神は伊奘冊尊。旧村社。「若州管内社寺由緒記」には「杉森大明神、御神体阿弥陀如来」とある。国指定天然記念物の御葉付銀杏、及び杉、菩提樹の巨木がある。


『大飯郡志』
村社 杉森神社 祭神伊奘冊尊 六路谷字宮ノ前に在り 社地三百七歩 氏子二十九戸 社殿二間一尺四寸二間四寸 拜殿  同上假屋 鳥居 由緒不詳

上の写真の一番手前の木が「オハツキイチョウ」(国の天然記念物)で、もう1株は写真でいえばこの社殿の裏側にある。
あまり知られていないが、オハツキイチョウは全国に20本くらいしかないそうで、その2本がここにある。
境内の案内板
オハツキイチョウ(二株)
 イチョウは日本全国のほとんどの地域で見ることかできる最もポピュラーな樹木の代表ともいえますが、一方では「生きている化石」ともいわれ、地球上にたった一族一種の貴重な樹木であることはあまり知られていません。それは、原生の裸子植物の中でも最も起源が古く、古生代ペルム紀に最初の化石が知られており、中生代には様々な種類が現れ大繁栄しましたが、現在までに1種類を残してすべてが絶滅しました。このため、イチョウか「生きている化石」と呼ばれるゆえんで、過去の地球環境やその変化の歴史の手がかりを知ることができる“生き証人”と考えられています。

 イチョウには雌株と雄株とがあり、正常の種子(銀杏)がなるものと葉の上に種子がなる「オハツキイチョウ」と呼ばれる変種があります。「オハツキイチョウ」は全国に約二十株が知られており、うち七株が植物学上貴重な植物として「国指定天然記念物」に指定されています。
 杉森神社に自生するイチョウの中雌株の二株が「オハツキイチョウ」で、共に学術上有益なものとして「国指定天然記念物」に指定されています。本殿手前西側と東側山腹に一株ずつあり、葉の上に結実する割合はその年によって増減します。
 「オハツキイチョウ」がなぜ植物学上貴重なものであるかというと、単に葉に実がなるという奇樹というだけでなく、一種の「先祖返り」であり、植物の発生進化系統上から見ると、シダ植物、特にソテツシダに似た葉に実がつく原始的な性質を有しているからです。つまり「オハツキイチョウ」は、種子ができる植物でありなかせら、葉の上に胞子をつくるシダ植物に似ていることから植物系統学上きわめて重視されています。一説には「オハツキイチョウ」は雄株に多く発生し雌株には少ないといわれていることから杉森神社の「オハツキイチョウ」はきわめて貴重な植物なのです。
指定 国指定天然記念物
指定年月日 昭和10年8月27日
分類 イチョウ科イチョウ属
幹周囲①3.40m ②3.50m
樹高 ①約36m ②約39m
樹齢 ①②共、不明


『高浜町誌』
オハツキイチョウ 二本 六路谷杉森神社 目通り三・四〇m
                              三・五〇m
 杉森神社境内に所在する二本で、樹高はいずれも約三二メートル。一本は社殿東側山腹にあり、目通り周囲三・五メートル。他の一本は社殿西側にあり、目通り三・四メートルを計測する。両本共に結実良好なオハツキイチョウで、種実は奇形、葉はやや小型で変形しており、二本共に自生の雌樹で学術上極めて注目すべきものである。
 若狭湾国定公園昭和三〇年六月一日若狭湾一帯が国定公園に指定された



阿弥陀堂
中央部の薬師堂にある木造阿弥陀如来坐像は県文化財。当地に伝わる大刀振およびお田植は県無形民俗文化財。


六路谷砲台(吉坂堡塁)

何ともアンティークな武器(推測模型)が展示されている(青郷公民館)。左が9糎臼砲、右は12糎加農砲か。機関銃座があるから機関銃もあったものか。説明パネルの置き方が間違えている様子である。
杉森神社の裏山に舞鶴鎮守府防衛のための堡塁が築かれた、日清戦争と日露戦争の間である。幸いにも役に立つことは一度もなかったが、戦後占領軍によって破壊されたという、砲など武器類は何もないが、今もその陣地の跡が残されている。明治の軍国日本の遺産である。

『高浜町誌』
六路谷砲台
 蒜畠西側山上(二四ニメートル)にある。舞鶴軍港の東方防衛のために明治三三年より明治三六年にわたり日露戦争に対応するため昼夜兼行で築造された。砲台は本砲塁と附属砲塁とに別れていて、本砲台には一二センチカノン砲、六門(初めは九センチ臼砲六門)が高浜海岸及び内浦海岸に上陸し舞鶴に進攻する敵を迎撃して舞鶴に至る道路を制圧するよう配置された。砲坐の後方には弾薬庫、地下掩蔽部、火薬庫、弾薬調製所、平家建の兵舎、監守舎、貯水槽等があった。
 附属砲塁は六路谷杉森神社東側高地(一八三メートル)でクルップ式一二センチカノン砲二門、掩蔽部、弾薬庫等があった。
 太平洋戦争においては高射砲陣地となり、昭和二〇年舞鶴軍港を米軍が空襲した際には応戦した。
 吉坂峠頂上附近より車道があり吉坂堡塁ともよばれたが道路は昭和二八年の災害により破壊した。

『舞鶴市史(中)』(図も)
吉坂堡塁
 舞鶴市市場から高浜町に至る国道に、吉坂峠がある。峠の東北方約一○○メートル、標高一八三メートルの高地に、吉坂付属堡塁が、さらに付属堡塁の北方約五○○メートル、標高二四二メートルの高地に、吉坂本堡塁がある。築造工事は明治三十三年七月着工、同三十五年十一月竣工した。本堡塁砲台の備砲は、一二センチカノン砲六門(初め鋼製九センチ臼砲六門)、付属堡塁砲台の備砲は、クルップ式三五口径中心軸一二センチカノン砲二門で、三十四年十二月、火砲の据え付けに着手し、三十五年七月完了した。本堡塁の目的は、内浦湾・高浜湾に上陸し、舞鶴に侵攻する敵を迎撃するための陸正面防御にあって、両湾より舞鶴に至る通路を制扼するように、堡塁を配置した。
 一二カノン砲台は、二門を一砲座とし、砲座中心間隔を二○メートルとして、三砲座を構え、首線方向はSE六二度、射界一二○度である。各砲座間に横墻を設けて、その下部に砲側庫を構築した。更に第三砲座左側に、翼墻を設けて、その下を砲側庫とした。コンクリート胸墻の前庭は、下り傾斜となっており、二五メートル先は空壕である。空壕の左端からは、機関銃射撃ができるように、側防施設が作られてある。砲台長位置は、側防施設と、第三砲座のほぼ中間に設けてある。第一および第二砲座の後方約二○メートルに、地下掩蔽部の入口がある。掩蔽部の大きさは幅二四メートル、奥行一○メートルである。
 本堡塁の付属建造物として、砲兵庫・弾廠・兵舎二棟・監守衛舎・火薬支庫・掩蔽部・貯水所・倉庫二棟・厠が設けられ、また付属堡塁には、番人舎・砲兵庫・弾廠・砲側庫・掩蔽部・貯水所・厠が設けられた。糧食庫・炊事場・浴室・調理所。天然貯水所は戦備工事として、各その建設位置を予定しおき、日露戦争突入の明治三十七年六月これを実施した。
 付属塗塁砲台の一二カノン砲二門は、一門一砲座とし、中間に横墻を置き、横墻の下は地下砲側庫である。胸墻はコンクリート造で、高さは一・四メートルである。首線方向SE七二度、射界は一二○度である。胸墻前庭は下り傾斜をなし、標高一八二メートルの一線に、側防機関を配置するように作ってある。第二砲座の左後方に、地下掩蔽部と貯水所を設け、その他番人舎・砲具庫・弾廠・厠を配置し、糧食庫・炊事場・浴室・調理所・天然貯水所を戦備工事として実施した。

何ともわかりにくいが、先の公民館には下の案内図がある。砲は地下弾薬庫の上に置かれていた。



『京都の戦争遺跡をめぐる』
吉坂堡塁砲台
 国道27号線を福井県高浜に向かって進みJRの松尾寺駅を過ぎると、吉坂トンネルがあります。この峠の北東に丘があり、この頂上付近に堡塁砲台がありました。この堡塁は高浜湾に上陸して舞鶴に侵攻する敵軍を迎え撃ち、高浜から舞鶴にいたる道路を制圧するためのものでした。戦後は占領軍によって破壊されましたが、今でも施設跡を見ることができます。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


六路谷の主な歴史記録




六路谷の伝説


『若狭高浜むかしばなし』
犬石
むかしむかし、若狭国と丹後国は互いに仲が悪く、いつも国境の争いをしていた。両方の国の人たちが集まっては、いろいろ話し合いをしたのだが、どうもなかなか納まらない。
 そのうち誰が言い出したのか、どちらからも犬を一匹ずつ出して、その二匹を喧嘩させ、その勝ち負けで国境を決めようということになった。
 やがて犬の決戦の日がやって来た。選ばれた犬は、どちらも強そうな白犬である。ところが両方の国の人たちは、お互いに自分の国の犬の方が優秀だと信じ込み、
 「この勝負はいただきだ」
と心の中でほくそ笑んでいた。
 「ウーウー」
犬たちはしばらくにらみあい、うなっていたが、やがて激しい組み討ちとなった。
 見ている人たちは、それぞれ自分の国の犬を応援していたが、どうやら若狭の犬の方が、優勢のようである。そのうち丹後の犬は、すきを見て逃げ出してしまった。若狭の犬は逃がしてなるものかとそのあとを追いかけ、とうとう坂の峠のあたりで丹後の犬を組み伏せた。こうして、国境は、若狭の国の言うとおりに決まったのである。
 それからというもの、この犬の勝負のあった坂は、〝吉坂〟と呼ばれるようになった。これは若狭にとって良いことがあった坂なので、こんな名が付いたのだと言われている。
 六路谷に近い吉坂の坂がしらには、道をはさんで左と右に、犬の形に似た大きな石が並んでいる。ここがちょうど若狭と丹後の国境にあたり、左の方は若狭犬、右の方は丹後犬と呼ばれている。今でもここを通る人は、この犬石を見て、むかしの国境争いの話を思い出すのである。


堂屋舗
 むかし、六路谷から上津(うわづ)へ行く道中に、堂屋舗と呼ばれるお堂があった。そこには阿弥陀さんがまつってあったとも言われており、六路谷から歩いて山を越える旅人にとっては、絶好の休憩場所となっていた。
 「やれやれ、上津ももうすぐだ。このあたりでちょっと一服しよう」
ここを通る旅人は、必ずと言っていいほど堂屋舗に立ち寄っていった。
 堂屋舗のそばには、山からの透き通ったきれいな水が流れており、小さな池に注いでいた。この山の水を一杯いただき、お堂でゆっくりと休むのが昔の人の習わしであったようである。
 「ああ、生き返ったような気がするなあ」
「この水なしでは、山を越えられんわ」
この水のおいしさは、人から人へと広まっていき、はるばる遠くから水を飲みに来る人もいた。また、お客さまにおいしいお茶をたてるために、わざわざ水を汲みに来た人もいたと言う。
 「堂屋舗の水でたてたお茶です」
と言ってお客さまに給するのは、最高のもてなしであったようだ。
 今では、その小さな池も形こそは残っているが、山からの水はもうそこには流れてこない。堂屋舗のあたり一面は、うっそうとした山となっており、直径三メートルほどのタモの木だけが当時の面影を残している。






六路谷の小字一覧




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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