三明(さんめい)
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福井県大飯郡高浜町三明 福井県大飯郡高浜村三明 |
三明の概要《三明の概要》 当町の真ん中、当町きっての商店街、繁華街になる。中町通り↓ 中町・今在家・大西の3地区からなり、商店が軒を連ねる商業地域。東西に通じる県道畑若狭和田停車場線(旧丹後街道)に沿った中町商店街とJR小浜線若狭高浜駅(宮崎)から北へ延び県道と交差するあたりの大西商店街とが主な商店街である。 三明町は、明治14~22年の町名。高浜村を構成する5町の1つ。もとは高浜村の町方小名大西町・中町・今在家町。明治22年高浜村の大字となる。 三明は、明治22年~現在の大字名。はじめ高浜村、明治45年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北1町。 若狭たかはまひなまりつ第16回と書かれている、ノボリには「ひな人形ロード」と書かれている、主に旧国道・旧丹後街道沿い商店街の春らしいイベントがちょうど開催中であった。全体が昭和の感触のよう。周辺の90軒ばかりにひな人形が飾られているという。 今からおひな様になる子とか、おひな様の時代はとっくに過ぎた方だとかが見ておられた… 中町コミュニティー広場に若干駐車できる。 《三明の人口・世帯数》 (大西+中町+今在家) 571・261 《三明の主な社寺など》 臨済宗相国寺派豊春山元興寺 『高浜町誌』 臨済宗相国寺派 豊春山元興寺 一 所在地 高浜町三明(今在家) 一 開 創 天正 年 月 日(一五七三~) 一 開 山 章嵌玉首座 一 本 尊 聖観世音菩薩 一 檀信徒数 五九戸 一 由緒沿革 当寺は初め寿福寺と称していたが、天正年間替地して今の寺地に移った。開基は逸見公家臣浅野久太郎殿、章嵌玉首座を開山に仰いでいる。 元内浦村鎌倉の寿福寺住持江印伝和尚、今の地に伽藍を修造し、師匠章嵌禅師を拝請して開山に、自らは第二世の座に就いて、寿福寺を改め。「元興寺」と称した。 開山章嵌禅師は、高浜城主逸見駿河守家老魚住氏の出身で、天正六年五月二一日に示寂。 寛政年間第十世提尚和尚代に現在の伽藍を再建し、次いで大正二年瓦葺きに改め今日に至っている。 境内仏堂に観音堂がある。第六世詼堂和尚が槙山寺の遺什白衣観音像を奉じて観音堂を建立安置したが、十二世関海和尚文政七年八月一四日再建、降って明治二十六年災火のため惜しくも焼失した。明治四年四月第十六世容堂和尚が現在のお堂を建てて今に伝えている。御本尊白衣観世音菩薩の御開帳は三三年目毎に行われる。 観音堂に並んで地蔵堂がある。〝詼堂さん〟の名で通り庶民の信仰篤く毎夕、日参する人々が多い。詼堂和尚ここにおいて入定と伝えられ、地蔵尊が祀られている。 (註)若州管内社寺由緒記=禅宗京相国寺末寿福寺の由来は先年寺地詰候故二致替地一今の寺地へ引越申候其時の住持を玉首座と申候遷化は天正八辰年九十六年以来也在世の時分浅野久三郎殿折紙にて米壱石拝領有之候へども太閤御代被召上候玉首座弟子に祖伝後は号二伝長老一又寿福寺を元興寺と改申候慶長九辰年其身為二二十五歳一伝西堂と号して依下為出世の望無上仏故長老の状頂戴有之候前住円覚位にて鎌倉に寿福寺依有之当?へ寿福寺を豊春山元興寺と改名有之候就中前住円覚南江国印祖伝大和尚当開山と仕候 祖益 『大飯郡誌』 元興寺 同 三明字中三明に在り 寺地四百四拾貳坪 境外所有地四反三畝三歩 檀徒五十五戸 本尊正觀音 堂宇〔〕庫裡〔〕鐘楼〔〕観音堂〔四間三間白衣観音 正徳二年自小和田移〕地蔵堂〔〕由緒〔明細帳〕天正年間高濱城主逸見駿河守家臣淺野久三郎創立〔郡沿革章参照〕 〔同前〕 豊春山元興寺 開基章篏玉公座元天正年中示寂 浅野久三郎殿天正年中建立并境内御赦免 名寄三石二斗六升四勺三才年貢地 (六世詼堂徳望高く、堂側には其入定地を儼存し、寺藏に遺墨不尠。十四世雪潮歌を能くせり(人物條参照) 境内觀音堂は詼堂創建、十二世關海西堂〔〕再建、寺蔵の白衣〔或傳牧山寺の遺汁〕を別に安置しもの、靈驗著く賽者不断。其棟札の銘に曰く。 我普門殿 傾倒多年 發心再造 旦夕勉旃 誘檀喜捨 金銀米錢 一茶艸上 瓊樓忽然 此功徳海 無際無限 更所 皇風化遍 佛日光圓 一回和樂 四民安全 于時文政七甲申閠八月十四日現住關海周説謹書 真宗大谷派白雲山西恩寺 『高浜町誌』 浄土真宗 白雲山西恩寺 一 所在地 高浜町三明(中町) 一 開 創 永正年月日(一五○四~) 一 開 基 堅覚上人 一 本 尊 阿弥陀如来 一 檀信徒数 四〇戸 一 由緒沿革 当寺は大谷派本願寺に属し、本尊は立像阿弥陀如来である。開創年代は詳かでないが、永正年間と伝えられ、僧堅覚上人の創建である。 住職堀尾家は、堀尾吉晴の一族である。 (註)若州管内社寺由緒記=東本願寺末西恩寺永正年間開闢也開基了妙其後天正十二年堀尾茂助殿より山林竹木諸役御赦免の御状有之 住持 祐伝 『大飯郡誌』 西恩寺 真宗東本願寺派 三明字中三明に在り、寺地百三十坪 境外所有地二十七歩 檀徒三十六戸 堂宇〔〕庫裡〔〕物置〔〕由緒〔明細帳〕永牙年間竪覺創立 〔住職は堀尾吉晴の裔、現在の祖母は学信贈正五位東條義門の女、寺寶に維明の高濱盛夏の手稿国語青羽残雪-全郡誌写出しあり〕 日蓮宗興正山妙光寺 『高浜町誌』 日蓮宗 興正山妙光寺 一 所在地 高浜町三明(大西) 一 開 創 大永五年三月二十日(一五二五) 一 開 基 円教院日真上人 一 本 尊 一塔両尊宗祖奠定大曼荼羅 一 檀信徒数 一三〇戸 一 由緒沿革 当寺は円教院日真上人によって開かれ、大永五年(一五二五)三月二十日の奥書ある上人筆法華大曼荼羅本尊を所蔵している。 降って第七世に、仏乗院日賢上人あり、僧位権僧都、地方稀の高僧といわれ、若丹に足跡偏く、郡誌にも「若丹に九宇を創建し大いに宗風を揚げしと云う。」と誌しているように、若狭及び両丹にまたがりその足跡が多い。当寺は上人を中興開山と仰ぎ、その遺徳を継承している。 建物については、享保一二辛末年(一七二七)一一月二四日と、そのほかになお一度類焼した記録がある。現在の本堂は天保一三年(一八四二)庫裡は明治一七年の建立で、本尊は延宝八年六月の奉安になり、宗祖日蓮上人像は宗門史上由緒あるものといわれる。 境内建物中、番神堂が最も古く、享保二乙丑年(一七一七)九月建立の土蔵造りである。 堂内には菊・桐の紋章入り厨子扉付総漆入母屋造りの宮殿(巾二四八センチメートル・奥行一八〇センチメートル)を据え、本尊は天照大神、八幡大菩薩を初め国神三十躰の木像である。その両脇厨子内には妙見大菩薩、七面大天女が併せ祀られてある。 当寺本堂内にある千仏厨子像は、町指定(五二・九・三〇)文化財である。 『大飯郡誌』 妙光寺 日蓮宗妙興寺末 三明字中三明に在り 寺地二百九十七坪 境外所有地六畝二十三歩 檀徒九十四戸 堂宇〔〕庫裡〔〕廊下〔〕妙見堂〔〕由緒〔明細帳〕元元龜年間日興創輿立(中興の住持日賢、若丹に九宇を創建し、大に宗風を揚げしと云ふ 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 三明の主な歴史記録三明の伝説『若狭高浜のむかしばなし』 中町のお化けイチョウ 高さ十メートル、幹の太さ六メートルほどもある大きなイチョウの話である。 そのイチョウの木は、中町通りの西恩寺の墓場にあった。あまりに大きいので、町から遠く離れたところからでも、イチョウの木を眺めることができるくらいだった。ところが人びとは口々にうわさした。 「うす気味悪い木だ」 「だれか知らないが、墓の中に葬られたおんなの怨霊じゃないか」 「恨めしげに、立っている」などといって、木を恐れていた。それというのも、木のかたちがまるでおんなの髪型にそっくりだったからである。木全体が昔の女性が結っていた丸まげに見える。葉がおちて新しい芽が出ても、やっぱり丸まげの姿になっていた。墓場におんなの髪型をした木が立っていたものだから、みんなが気味悪がるのも無理はない。 それでも、明るい昼間は葉の色が太陽の光に映えて美しく輝いているので、イチョウの木はそれほど恐ろしくは見えなかった。人びとがぞっとしたのは夜のイチョウの姿だった。 「まるで大女の丸まげのようじゃ」 「わたしは夜はあそこの近くは、よう通らんよ。こわくて、こわくて」 「あの近くを通るときは、ぱっと走って通るようにしとるよ」 不思議なことで、人が東の方から来ても、西の方から来てもイチョウの木はおんなの頭のように見えるのだった。真っ暗な夜空に、にゅうっと頭が突き出ている様子には、みんながぶるっと身震いをした。 いつのころからか、近所の人たちは、だれいうともなく〝お化けイチョウ〟と呼んだ。 〝お化けイチョウ〟のうわさは近所だけでなく、となり村まで伝わっていった。それを聞いた怖がりの人は、昼間でも中町の西恩寺のそばを通るのを嫌がったという。 その〝お化けイチョウ〟の姿は現在はもう見られない。墓地が整備されたときに、切り倒されたのだった。人びとを怖がらせた大イチョウのことを現在も知っているのは、その近所に住んでいた明治か大正生まれの人くらいだそうだ。女性の丸まげ姿が見られた時代の話である。 中町通りに面する西恩寺、松があるところが山門だが、オバケイチョウはどこにあったものか。 三明の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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