丹後の地名 若狭版

若狭

関屋(せきや)
福井県大飯郡高浜町関屋


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福井県大飯郡高浜町関屋

福井県大飯郡青郷村関屋






関屋の概要




《関屋の概要》

東北流する関屋川の上流域の農業地域。下関屋・向谷・横田地・大江地などの小字がある。北部をJR小浜線の高架堤が通り、集落は南北に二分される。中央には源力山城の遺跡があり、そのふもとに臨済宗相国寺派円福寺がある。
文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案に「関屋二郎、同三郎」の名が見える(京府東寺百合文書ユ)。円福寺裏山に円墳跡があり、源氏木山山頂は石和氏旗上げの場とされている。
関屋村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。
産物には若狭絹とつづらがある。「若狭郡県志」などに関屋村に絹織家があり、京都へ販売と見える。当村は交通の要路にあたり、天保9年の幕府巡見使への報告控帳にも高浜村と当村間の里数や人馬駄賃が記される。「稚狭考」は「大飯郡関屋村の長、士官の者を一瀬氏と称す、此郡に此氏を称する者おほし、熊川のこなたに一の瀬村あり、いつれも関の転したるにやとおもはる」と記す。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年青郷村の大字となる。
関屋は、明治22年~現在の大字名。はじめ青郷村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西8町・南北4町、戸数65、人口は男186 ・ 女197、学校1。


《関屋の人口・世帯数》 206・71


臨済宗相国寺派指月山円福寺

『高浜町誌』
臨済宗相国寺派 指月山圓福寺
一 所在地 高浜町関屋寺ノ上
一 開 創 明治二十年九月二日
一 開 基 獨園禅師
一 本 尊 釈迦牟尼仏
一 檀家数 八九戸
一 由緒沿革 日置郷大成寺第八世景盧西堂和尚の隠居寺として関屋に一寺を創立して、『石雲寺』と称した。(天正二年、一五七四)以来十数代にわたり臨済宗建仁寺派の寺として栄えてきたが一時中絶したことがある。
 明治二〇年臨済宗総管長獨園禅師は当寺の復興を志し、偶々高浜町薗部区にあった円福庵の寺号を継承して関屋石雲寺跡にこの寺を再興し「指月山圓福寺」と称し、相国寺派となった。


『大飯郡志』
圓福庵 同(臨済宗) 相國寺派 関屋字寺の上に在り 寺地千九百廿五坪 境外取有地八反三畝十四歩 檀徒七十五人 本尊阿彌陀如来 建物本堂五間半三間半 庫裡 土蔵 門 由緒元祿元戊辰年高濱町薗部に創立明治二十年九月二日現地へ移轉(管長独園を開山とす)
〔元禄五年改帳〕 開基平等由東座元元龜年中示寂建立者諸檀那中  名寄貳斗五升年貢地也。
〔天保十四年無住改帳〕 天保八年八月より無往云々。


石雲寺
『大飯郡志』
石雲寺 関屋字寺の上に在り(寺地二百六十一坪 境外取有地壹町二反八畝廿八歩 信徒三人 本尊聖観音 本堂 庫裏土蔵門 由緒天正二年大成寺三世景廬西堂創立六世義本首座再建十一世雍山首座造立せり)しに明治十九年一月十八日本寺日置大成寺に合併せり。


源力木山(げんりきさん)城
尾根を利用しているため幅は狭いが、小郭が18連続する。伝承では鎌倉時代に石和五郎が築城し、以後関屋二郎・三郎、一瀬備前守が継承したとするが、遺構の調査から室町時代末期の築城とされる。


『高浜町誌』
源力木山城

関屋の西側山頂にあり、当町の最西端に位置する山城である。尾根を利用しているため最大幅一五メートルと狭いが、全長一八〇メートルとかなりの延長がみられる。主郭は海抜二〇七・三メートルの頂上に東西二〇メートル、輻一〇メートルを計る。西側には巨岩があって地元では旗立て岩と呼んでいる。伝説によると、一朝ことあればこの岩に白旗を立てて、敵の来襲を知らせたという。城郭は主郭より東ヘー八の小郭が連らなる。西端には見事な空堀と竪堀が設けられ、小郭の中段北側斜面にも竪堀がみられる。城主については鎌倉時代に石和五郎が築城し、関屋二郎・同三郎が継承したとするが真疑不明。戦国時代には一瀬備前守が城主と伝えられるが、城は室町末期のものと考えられる。

『高浜町誌』
関屋城址
 関屋城址は関屋西側の源力木山(標高二〇四メートル)の山頂にあり八メートル四方の台地や旗立岩、乾壕がある。
 鎌倉時代(一一九五年ごろ)石和五郎が築造し、関屋二郎、関屋三郎、一瀬備前守と伝承した。頂上の大きな旗立岩には有事の際その上に源氏の白旗を立てるよう村民に指示されていた。青の城主と関屋源力木山の城主とは二、三回関屋河原等において攻防を繰り返したという。


関所跡

地蔵堂。右の道が丹後街道、左の道を行くと丹波街道で奥上林に出るという。両街道が交わるここに鎌倉時代には関所が置かれていたという。地名の起源となった関屋である。背後の山が源力木山。
『高浜町誌』
関屋関所址
 丹後道及び丹波道の分岐点である関屋の入口に地蔵堂がある。鎌倉時代(一一九六)関所のあった所といわれる。伴信友故郷百首
  里の名にのこる関屋の跡だにも
    そことも知らぬ秋風ぞふく


『大飯郡志』
関屋 名の如く関門ありしが、鎌倉時代に関屋氏の事見ゆ。
〔故郷百首〕 里の名にのこる関屋の跡だにもそことち知らぬ秋風ぞ吹く。 件信友



《交通》
『郷土誌青』
上林峠(猪森峠)  標高四〇〇mのところにあり青葉山が正面に見える。関屋から樋地(ひぢ)谷を通って奥上林老富へ行く道のり約六キロの若狭と丹波の間にある峠である。昔の丹波街道であり、若狭から京都への街道の一つである。上林の人が鉄道を利用して旅行する時は、この道を通って青郷の駅から汽車に乗った。また、上林の子ども達が海水浴に来るのにもこの道を利用した。
 若狭からは、海産物が行商人に背負われてこの道を通ったし、綾部の製糸工場へ働きに出る娘もこの道を越えていった。
 また、市茅野の神社には杉の大木が二本あり市茅野の神木として大切にされていたが、台風によってほぼ根元から倒れ、現在は、僅かに根元から出たわき芽が、面影をとどめている。これを親とした杉は、青郷の山林に受継がれて大きく成長している。
 また、明治維新の鳥羽伏見の戦いで幕府方について破れた小浜藩の兵士がこの道を通って三々五々疲れた体をひきずるようにして帰ってきたと言うことである。その時に兵士たちが身に纏っていたのが赤ケット(毛布)であった。この時、関屋の人が初めて目にした西洋の毛布であった。



《産業》


《姓氏・人物》


関屋の主な歴史記録


『新わかさ探訪』
上林峠越えの道  若狭のふれあい第117号掲載(平成12年1月30日発行)
青郷と綾部を結ぶ最短路 かつては盛んな往来
 稜線のブナ林が紅葉を舞い散らせるころ、高浜町青郷と綾部市奥上林の府県境にある上林峠を訪ねました。
 高浜町関屋から関屋川沿いにさかのぼり、標高400mほどの上林峠を経て奥上林の市茅野(京都府綾部市老富町)に通じる上林峠越えの道は、かつて若狭青郷から綾部に向かう最短路で、大正年間には『大飯郡道』として盛んな行き来がありました。高浜から、この峠を越えて綾部方面へ海産物などを行商したり、若い娘さんたちが綾部の製糸工場へ働きに出たようです。大正12年(1923)の郡制廃止とともに廃道になりましたが、昭和40年(1965)ころまで、奥上林の人たちは、この市茅野-関屋間約6㎞の峠道を歩いて、小浜線の青郷駅から汽車に乗ったり、高浜へ海水浴に来たりしていました。また、市茅野は「市茅野杉」の杉苗産地として知られ、以前は関屋から峠を越えて杉苗を買いにいったそうです。
 関屋からは林道が峠の近くまで延びていますが、取材(平成11年11月)の際は先日の大雨で寸断されていて通れなかったため、車で京都府側に回って、市茅野から上林峠に向かいました。集落の一番奥にある山の神さんの社前を過ぎると、しばらくで林道は行き止まりとなり、そこから20分ほど山道を歩くと、上林峠にたどり着きます。市茅野から峠までは約1㎞と目と鼻の先です。
 峠からは、ふたこぶの青葉山が正面に見え、眼下には関屋川の谷が若狭湾へと向かっています。峠から関屋までは約5㎞の下り。峠から1㎞ほど(関屋からの林道終点まで)は、やや急傾斜です。
 取材のとき、市茅野に住むおばあさんから聞いた面白い話-。「昔、舞鶴での用事が長引いてしまい、青郷駅から歩き始めたころには、日が暮れてしまった。山道を一人で峠に向かって歩いていると、上手のほうから、おーいと亭主の呼ぶ声がするが、いつまでたっても出会えない。峠を越えて家に帰り着くと、亭主はその日、具合いが悪くて一日中寝込んでいたという。私か背中に、いなり寿司の折り詰めをしょっていたから、それがほしくて狐が化かそうとしたのだろう。もし、峠でひと休みしていたら、どこぞへ連れ去られてしまったに違いない。今どきの人は、そんな話はウソだと思うだろうが、狐にかどわかされるってことは本当にあるんだよ」
 関屋から峠に至る途中に「貝坂」と呼ばれる場所かおり、そこの土からはたくさんの貝殻が出るそうです。関屋の隣には横津海という集落があり、そうした地名からも、かつてはその辺りまで海が迫っていたのではないかと思われます。
 「昔、丹波の人が壺に汐水を入れて持ち帰ろうとしたとき、貝坂でつまずいて倒れ、壺を割ってしまい、そのときあたり一帯に汐水があふれて、しばし海のようになった」-。これは貝坂から貝殻が出るわけを説明する伝説ですが、若狭から勝手に塩を持ち出さないようにさせるためにつくられた話のようでもあります。
 また、明治元年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは、幕府方について敗れ、傷ついた小浜藩の兵士たちが、赤い毛布(ケット)をかぶり、三々五々この峠道を歩いて戻りました。今、家庭で使われている毛布は、わが国には幕末にもたらされ、当初は各藩の兵士が防寒用にまといました。関屋の人たちは、そのとき初めて舶来の毛布を目にしました。峠越えをする人もいなくなり、そうした歴史や伝説も忘れ去られ上うとしています。


関屋の伝説・民俗


『若狭高浜むかしばなし』
百尺の滝
関屋(せきや)の山の奥に、百尺の滝と呼ばれる滝がある。
 この滝の近くには、一人の目の見えない女が住んでいた。突然見えなくなったこの人の目は、どんな医者にも治すことができなかった。
 ある日、女の人はいつものように目医者の待合室で診察の順番を待っていた。見えない目でじっと座っていると、可愛らしい子供の声がかすかに聞こえる。
「おばちゃんな、お大師さんにお参りしはらしまへんか。わたしも目が悪うて、お大師さんをお参りしたら、見えるようになりましたん」空耳ではなかった。
「わたしは、目が見えないので行けませんのや」
女の人は、そうこたえた。
「よう行けますよって、おいでやす」
一人では歩けないはずなのに、不思議と女の子の後からどんどん歩くことができる。
「ここですえ」
そういいながら、女の子は大きな家の角を曲がった。女の人もそれに続いて曲がると、そこには大きな大きなお大師さんが現われた。
「南無大師遍照金剛と一日三回唱えたら、わたしの目をあげよう」
というのだ。
 と、そのとき、
「もう、時間ですで」
若い男の人の声が聞こえた。
「おばさん、ぐっすり眠ってはったなぁ」
どうやら、女の人は待合室で居眠りをしていたようだった。
 家に帰ってからも、女の人は飯台にひじをつき、ずっと今日の不思議な出来事に思いをめぐらしていた。
「目が見えるようになるのなら、何度でも唱えるのに…」
そう考えていると、またお大師さんが目の前に現われた。
「お大師さん、さっきのことは本当でしょうか」
女の人は勇気を出して尋ねた。
 それから、どれほど長い時間がたったのだろうか。あるいは、とても短い時間だったのだろうか。気が付くと、目の前はいつもの暗闇ではなかった。辺りのものが、はっきりと見えるのだ。ただ、おかしなことに飯台の前にいたはずなのに、そこは家の中ではなかった。女の人は、知らないうちに百尺の滝の前に立っていた。
 清らかな滝の流れが、いつまでも山の中に響いていた。)


関屋川
 関屋の坪谷(つぼたに)・樋地谷(ひぢたに)から三松の海へと流れる、関屋川という川がある。
 この川には関屋河原と呼ばれる場所があるのだが、どうしてかそこだけ川が地中を通り、雨が降らないかぎり水が流れない。なぜ、地面の上を水が流れないのか。それには、こんな言い伝えが残っている。
 昔、若い嫁さんがこの川で洗濯をしておった。すると、そこヘー人の旅の僧がやってきた。ぼろぼろの身なりをし、身体もすっかり汚れた僧だった。
 「わたしは、しばらく何も食べておりません。すまないが、洗濯に使っているその杓を貸して水を飲ませてくれませんか」
その旅の僧は、嫁さんに向かって丁寧にいった。ところが、
 「お前さんに飲ます水は、ここにはないよ」
嫁さんは振り向きもせず、冷たくそういったのだ。
 するととたんに、今までたっぷりとあった川の水が、みるみる地面にしみ込んでしまうではないか。
 「どうしたことや……」
驚いた嫁さんが大声で叫んだとき、旅の僧はもうそこにはいなかった。その身なりの汚い旅の僧こそ、実は弘法大師だった。
 それ以来、川は地中を通るようになり、水のない関屋河原ができたといわれている。

貝坂
 上林峠は若狭国と丹波国との国境で、昔は関屋より丹波に通ずる最短の道であった。その峠に貝坂がある。
 今からずいぶん前のことである。丹波の国の人が汐水を汲んで壷に入れ、この峠を歩いていた。その時、何かにつまずいて壷ごと倒れてしまった。ドッスーン、ガッシャーン。壷は見事に割れて、汐水がザザーツと流れ出してしまった。
 「ああ、せっかく汲んで来だのに」
 その汐水は、見るみるうちに付近一帯にあふれ、白浪を立てて押し寄せ、一瞬にして一面は海と化したのである。丹波の国の人はびっくりして、家へ逃げ帰ってしまった。それからというもの、汐水を持ってここを通ることはなくなったと言う。
 今でも、土中からたくさんの貝殻が出るため、ここを貝坂と呼ぶようになったと言う。
 昔は、他国への塩の持ち出しを堅く禁じていたので、このような話ができたのだろう。


『森の神々と民俗』
悪口祭り
 災厄を一身に具現した悪獣とされる狐を村境いへと追放する(ボイヤル)際に、鉦・太鼓を打ちならしてキツネガリの唱言を大声でわめきつつ、その勢いにまかせて村のハネアガリ者を思いきりこきおろすことも時には行われた。いわば小正月の悪口祭りの要素も、たぶんにキツネガリ行事にはうけっがれていると考えられる。
 たとえば、青葉山の秀峰をのぞむ京都府と県境いの集落、高浜町関屋では、一月十四日のケツネガエリの夜をかつては戦々恐々の面持ちですごしたといわれている。なぜなら、とりわけ日頃素行の悪い者はむろんのこと、身におぼえのない者もいつ誰からねたみやひがみ心をさしむけられ、世間話として悪いうわさが伝えられているやも知れないからである。
 夕刻、十六歳から三〇歳までの若衆が関屋の上地にある荒神さんに集合し、かつて庄屋をつとめていた高橋勘右ヱ門家で、一年間の人の出入りやその他もろもろの用件をうかがうことが習わしとなっていた。そのあと、十四日夜から十五日の未明にかけて、村の上手から下手へと太鼓をたたき、先刻庄屋から聞かされた旧年の一切合財の出来事を大声でふれ回った。藤倉うの(明治三十三年生)からの聞書きの口調をそのまま写せば、次のようなやりとりがされたことになる。….




関屋の小字一覧


関屋
大苅(おゝかり) 下鎌定(しもけんじょう) 大荷(おおに) 椿ヶ鼻(つばきがはな) 六路佐古(ろくろさこ)  上楮(かみかご) 野短谷(のたんたん) 新谷(しんたに) 下楮(しもかご) 樋地(ひじ) 中島(なかじま)妙見(みょうけん) 又場佐古(またばさこ) 平山(ひらやま) 的岩(まどいわ) 細尾(ほそを) 説法ヶ谷(せっぽうがたに) 市場谷(いちばたに) 隠谷(かくれだに) 下足谷(しましだに) 比門谷(ひもんだん) 小山(こやま) 柳谷(やなぎたに) 梨佐古(なしさこ) 梅佐古(うめさこ) 狸ヶ京(たぬきがきょう) 上波佐(かみはざ) 中波佐(なかはさ) 足場谷(あしばだん) 滝ヶ平(たきがだいら) 箱坪(はこつぼ) 滝ノ本(たきのもと) 広道(ひろみち) 石佐古(いしさこ) 由里田(ゆりだ) 坪(つぼ) 大江地(おえじ) 下ヶ谷(しもがたに) 五合山(ごごうやま) 堂ノ上(どうのうえ) 井上(いのうえ) 横田前(よこたまえ) 滝(たき) 横田地(よこたじ) 普賢堂(ふげんどう) 細畑ケ(ほそばたけ) 向谷(むくだん) 寺山(てらやま) 安ノ段(あんのだん) 薮ノ本(やぶのもと) 楮田(こうぞだ) 堀(ほり) 出合(であい) オフセ 横塚(よこづか) 鍵畑(かぎはたけ) 寺ノ上(てらのうえ) 壱丁田(いっちょうだ) 大野(おゝの) 横手(よこて) 上安井(かみやすい) 下安井(しもやすい) 矢ナ垣(やながき) 中ノ坪(なかのつぼ) 行戸(ゆきと) ノケ 行戸山(ゆきとやま) 三反田(さんだんだ) 夏目(なつめ) 下岸本(しもきしもと) 上岸本(かみきしもと) 波佐(はさ) 柏ヶ谷(かしわだに) 大岩(おおいわ) 黒谷(くろだに) 長町(ながまち) 橋ノ本(はしのもと) 平野(ひらの) 坪ノ内(つぼのうち) 狭佐古(せばさこ) 黒部谷(くろぶだん) 上鎌定(かみけんじょう) 長坪(ながつぼ) 本御林(ほんごはやし) 猿林(さるはやし) 猪森ヶ嶽(いもりがだけ) 猪鼻峠(いのはなとうげ) 三谷場(みたんば) 才柏(さいがし)


上津
サブ峠(さぶとうげ) 奧大茅谷(おくおがりたに) 大茅谷(おがりたに) 中ノ谷(なかのたに) 場所(ばしょ) 霜ヶ谷(しもがたに) 川田(かわた) 地尾(ちのを) 田代(たしろ) 畠田(はただ) 牛ヶ尾(うしのお) スノコ 堅尾(かたを) 坂向(さかむき) 長通(ながとうり) 林谷(はやしたに) 茶畠(ちゃばた) 村中(むらなか) 坂(さか) 早田(そーうだ) シモ 右門田(えもんだ) ヌマ 大畠(おゝばたけ) ウエ ヒガシ 堂屋舗(どやしき) 芦葉谷(あしばたに) 峠尻(とうげじり)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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