丹後の地名 若狭版

若狭

塩土(しおど)
福井県大飯郡高浜町塩土


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福井県大飯郡高浜町塩土

福井県大飯郡高浜村塩土






塩土の概要




《塩土の概要》
JR「若狭高浜駅」前の道を北ヘ突き当たりの「高浜漁港」がある一帯。高浜漁港に面し東西に細長く延びる漁業地域である。歴史は古く、神功皇后の三韓出兵の当時からとの伝承があり、宮中との関わりも深い。古代からの慣例として歴代天皇の大典挙行の際には、大嘗祭庭積机代物として乾鯛を献上したという。近年では昭和3年の即位式にも漁業組合に用命があったそうである。
塩土町は、明治14~22年の町名。高浜村を構成する5町の1つ、もとは高浜村の浦方の一部。高浜村の海岸沿いは漁業の地で、幕末頃の高浜村町方絵図によれば、村の北部海岸沿いと子生川河口左岸に「猟師町」とある。このうち当町域は北部地域にあたり北町・北浦町などと呼ばれていた。明治22年高浜村の大字となる。
塩土は、明治22年~現在の大字名。はじめ高浜村、明治45年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北1町。


《塩土の人口・世帯数》 267・119


《塩土の主な社寺など》

鷹島・稲島

高浜漁港より。
正面は青葉山、その手前の島で、大きなものは二つある。島か岩か、どのあたりで区別つけるのか知らないが、岩礁もたくさんあるが、比較的大きな島が二つ、ここからだとひっついて一つに見えるが、奥が鷹島、手前が稲島、橋や防波堤でみな繋がっている。

東隣の城山にしてもそうだろうが、高浜沖合にこうした島々や岩礁があったために海流が妨げられ、この辺りでは特に砂州が発達して、今のような塩土や事代の土地もできたものだろう。国生みの島々である。
『高浜町誌』
鷹島・稲島
 塩土の沖合い約二〇〇メートルに二つの島がある。大きな島を鷹島、小さく烏帽子形の島を、稲島という。鷹島は天然林で樹木鬱蒼としていて、天然記念物のナタオレの樹幹回りニメートル以上の大木が多い。
 中腹に弁財天が祀られ、その波打際に弁天堂があり、烏が多くその塒があったので烏山ともいわれたが、最近白さぎが多くなった。
 稲島は、烏帽子の形に似ているため烏帽子島ともいわれる。
   八条宮智仁親王御詠
     高浜乃磯爾有天下烏帽子巌
      浪乃緒掛天風也来羅武



浄土宗萬年山浄国寺

『高浜町誌』
浄土宗 萬年山浄国寺
一 所在地 高浜町塩土(浦町)
一 開 創 天文十三年五月 日(一五四四)
一 開 基 天蓮社暁誉上人弘阿廊然悟真大和尚
一 開 山 見蓮社星誉上人呑瑞和尚
一 本 尊 阿弥陀如来(脇士)観音菩薩勢至菩薩
一 檀信徒数 一七〇戸
一 由緒沿革 開基暁誉上人は上総の人、東国足利、北条の乱をいとい、若州小浜に巡化の際、後瀬山城主武田五代大膳太夫元光(剃髪して宗勝)の帰依を得、天文五年三月浄安寺を建立し、上人示寂後百年、小浜心光寺二代星誉上人此の寺に住して中興の業を成した。依って同上人を開山と仰いだ。
 昔は妙見山北麓に在ったが、いつの頃かこの地に移った。
 元禄元年と宝永年間二度の類焼、宝物その他一切烏有に帰し、その後規模を縮小して重建したのが現在の堂宇である。
 境内に観音堂がある。本尊は聖観世音菩薩、天文年間高浜の城主逸見駿河守の守り本尊であったが、駿河守没後一五〇年、貞享年間魚住九平、一夜の夢の告げにより古城跡に是の像を得、当寺に奉納したものである。
 京、南禅寺第三十五世鼈山和尚は当寺檀家富田安右衛門家の出身で、仏画をよくし、寺宝十六善神の図は特に優れている。
 ふる里の風光を愛し、立石地蔵尊脇に建てた『蓬双青羽山』の碑はそれを物語っている。
 (大飯郡誌)観音堂一〔二間四間元禄元年文間創立〕
由緒(明細帳)天文十三年五月悟真創立


『大飯郡志』
淨國寺 淨土宗鎮西派小濱心光寺末 鹽土字西鹽土にあり 寺地三百二十坪 境外所有地一反二畝二十四歩 檀徒九十九戸 本尊釋迦如来 堂宇〔〕庫裡〔〕門〔〕観音堂〔〕 由緒〔明細帳〕天文十三年五月悟真創立
 (寺寳の十六善神は當地出身敖龜和尚の筆なりと云ふ)





《交通》


《産業》
水産業
『高浜町誌』
水産業の歩み
概況
 本町は日本海岸の中央に位し、海岸線の屈曲が多く好適の魚附林を形成し、魚族のよい棲息処である。オホーツク海より南下する千島寒流と、対馬海峡を経て北上する対馬暖流との合流点をなし、寒暖二流の魚類に恵まれ、古くは石器時代から漁業が行われ栄えてきた。
 住民の動物性蛋白質の供給源として貢献するだけでなく、一部は京阪をはじめその他各地方へ出荷されている。
 若狭湾はリアス式沈降海岸で彎曲に富み、適当なる漁港に恵まれ、一本釣、磯曳、定置、小型漁船による刺網などから遠くまで出かけ大規模漁業を行い、その漁獲高は多く、大正四年(一九一五)和田漁業会に鯖巾着網が採用、翌年事代・塩土漁業会に同しく鯖巾着網が取り入れられてから日本でも一、二を争う漁場となった。小黒飯、音海でも鯖巾着網を採用した。しかし昭和二四年ごろから乱獲が原因か周期があるのか下向きになった。
 本町における昭和五七年の漁業経営体は二四七、従業者二三四人で無動力船五三隻、船外機付漁船八七隻、動力船二七八隻の総トン数七七七トンで漁獲高一二二二トン、その主なものは鯖、鰺、鰯、鯛、鰤などである。
 水産加工業としては竹輪、蒲鉾、塩鯖、するめなどの製造が行われている。尚水産教育としては小浜に明治三三年水産学校(現在福井県立小浜水産高等学校)が設立され、本町の子弟にも卒業生が多く水産業の開拓に寄与するところが少なくない。鯖巾着網漁業も同校が我が国最初の試みとして施設したのが端緒といわれている。

漁業の歴史
 応神のころ(二〇一)には神功皇后が征韓の途中、高浜沖で漁船にあい、釣った小鯛を召されたとあり、鎌倉時代(一一八六)二条家の所領であったとき漁師直接同家に献じたと伝えられ、戦国時代末期逸見昌経が高浜城主であったとき仲買い三六軒の内二人の支配を置いて以来漁村として続き現在の漁業協同組合の基を礎いたともい
 小黒飯より弘治年中(一五五五~五七)まで禁裡御用の魚を納め…とある(稚狭考)。早く宮廷に供進し、領主酒井家の幕府への献上品となった。
 明治三六年末舞鶴海軍鎮守府司令長官東郷大将(のち元帥)が若狭小鯛を賞用されたという。
 大正四年御大典の際塩土、事代漁業組合が若狭鯛を献上、昭和八年福井方面で陸軍特別大演習が行われ、天皇陛下が福井へお出でのとき塩土、事代漁業組合より若狭鯛を献上した。
 献上にあたっては漁舟や漁具は新調し、餌料は新鮮な赤エビを使用、漁夫は白衣を着用し仲買衆は奉仕のもとに精製した。
 若狭小鯛を賞美した詩に
 桜さく頃にしもなと
   魚の名に
 はなをれとたかおほせ
   そめけむ   伴  信 友
  里ならば花かと
   もみて手折るらむ
   若狭小鯛を高浜にきて
          与謝野礼巌
 天和三年(一六八三)正月浦和田に鯨があがる(吉坂年代記)。
 貞享四年(一六八七)四月和田に鯨が打ちよせられ捕獲された、七尋(約一〇メートル)あり一三両で売却された。大正七年(一九一八)七月二一日青戸入江に鯨があがり、現場に供養碑が建てられる(鯨塚)。
 昭和五九年七月和田釈迦浜に鯨があがる。


丹波の村々は高浜の鯖がなければ祭ができなかったという。
ここで水揚げされた鯖はこうして運ばれた。「鯖街道」の名が残る(笠原)
鯖は生きていても腐る。どこかの政権や大企業のタイショウどもも似たようなことか。人も生きていても腐る。







《姓氏・人物》


塩土の主な歴史記録


『角川地名辞書』
たかはまぎょこう 高浜漁港〈高浜町〉
大飯郡高浜町の中央部にある第2種漁港。ともに若狭湾に臨む字事代の本港と西三松の分港からなり,水域面積2.89 。港は陸繋島から西へ延びる第2防波堤(長さ200m)と護岸で固められた塩土の砂州から東へ突出する塩土岸壁(同91m ・ 水深3.5m,係船能力50t 3隻)に囲まれて人工泊地(面積8万9,140㎡・水深2m未満~6m)がある。泊地中央束よりに南から突出する突堤護岸・事代防砂堤(長さ60m・同55m)の奥に岸壁7(総延長363m ・ 水深3m,係船能力40t 3隻・30t13・20t 8隻)・物揚場・船揚場を備え,背後地に荷捌所2・氷蔵庫・漁船修理施設などが立地する。また,突堤護岸の西側にも岸壁(長さ112m ・ 水深3m,係船能力20t 6隻)と物揚場が並び,塩土岸壁に隣接して物揚場2,船揚場があり,その西に若宮突堤(長さ73m)が突出する。沖には鷹島と二岩礁を連ねる第1防波堤(同152m)が北西風を遮り,第1防波堤の内側に休・停泊用の人工泊地(面積1万8,000㎡・水深2~6m)がある。分港には西を山地,北を防波堤(長さ90m),南を防砂堤(同80m)に守られた人工泊地(面積3,700㎡・ 水深2m)があり,物揚場・船揚場を備える。 16t 1 隻はじめ地元漁船172隻が根拠地とし,小黒飯・音海・内浦の漁船も入港,漁獲物を陸揚げする。昭和61年の陸揚量l,296t,うち3tは外来船による。漁業種類別では73%は大型定置網(イワシ・ブリ類主), 10%は小型定置網,4%は刺網(ヒラメ・エソほか),各2%はアナゴ籠,延縄(タイ・タチウオほか)による。出荷先は地元12%,県内6%,県外(中京・京阪神・舞鶴)82%。タイ・ヒラメ21tは活魚出荷。干魚(カレイ)・餌料(イワシ・サバ)の加工がある。

塩土の伝説・民俗


『高浜町の民俗文化』
高浜の雄島参り
 高浜の雄島参りは、塩土区と事代区が同日に(平成四年度は六月九日に実施)参拝し、それぞれ地区ごとに船を出し、船団となって出港する。出港の際、塩土は船を高島(鷹島)の弁天さんと城山の蛭子大黒さんとの遥拝海面上で船を反時計回りに三回まわらせてから冠島へ向かう。事代も天王山(城山)の蛭子さんの遙拝海上を船で反時計回りに三回まわらせてから冠島へ向かう。また冠島に到着したときも老人嶋神社の石鳥居の地先海上を全船が反時計回りに三回まわらせてから岸に平行して横一列に停泊する。上陸には曳航されたマルキを艀として利用するが、停泊した漁船から冠島の岸辺へロープを張り渡し、そのロープを伝い艀を岸辺まで進ませて上陸する。
 老人嶋神社の境内で紅白の幟を奉納した後、拝殿にて御供を献饌し参拝する。その後は各自で船玉神社と塩土と事代の漁師達だけが姥越神社と呼ぶ蛭子神社(瀬ノ宮神社)へ参拝する。冠島を出発する際は到着したときと同様に老人嶋神社の石鳥居の地先海上で船を反時計回りに三回まわらせてから高浜港へ直行する。帰港の際、塩土は城山の蛭子大黒さんと高島(鷹島)の弁天さんを、事代は天王山(城山)の蛭子さんへそれぞれ代表者がマルキに乗り移り代参する。帰港後は事代区の集会所で塩土区参拝者も寄り合って会食をする。会食後解散し高浜の雄島参りは終了する。
 動力船が導入される以前の雄島参りは、事代には長さ一三メートルのハガセ船が一艘あり、地区が下・中・奥と三組に分かれ毎年各組交代で約四〇名が乗って行った。塩土にはハガセ船が三艘あり、ここも地区が東之丁・中之丁・西之丁と三組に分かれ、三艘の船に毎年各組二〇名が乗って行った。このときは笛と太鼓の囃子で手漕ぎし冠島に向かって競漕した。勝った船に乗り込んだ漁師には一年間の豊漁が約束されたという。


『若狭高浜のむかしばなし』
明鏡洞でとったサザエ
 むかし昔、浄国寺に偉いお上人様がおられた。このお上人様が山門を一歩出られると、お上人様のお経がほしくて待ち構えていた亡者や無縁仏に取りすがれたという。
 お盆前のある夏の暑い日中のこと、お上人様が山門を出られると、海から迷い出た亡者がそばに寄ってきたのだった。
 「お上人様、どうされたのでございますか。そのようなところに立ち止られて、合掌などなされるとは」
 「お前たちには見えぬであろうが、いまここに海から無縁仏が上がってきて、わたしの経がほしいと、ひざまずいているのじゃよ」
 「そのようなご冗談をいわれて、わたしどもをからかわないでくださいまし」
 「いやいや、ほんとうじや。今、かれらはわたしの衣にすがりついたところだ」
お供のひとや近所のひとが、見るとお上人様の袖の下の方やら、ケサの下の方がじゅくじゅくと濡れてきはじめた。しずくまで落ちているではないか。みんなは腰をぬかさんばかりにびっくりするやら、ぞっとするやら。
 「ヒャ?、ほんとに死びとがお上人様にすがっているのだ?」
 「おそろしい」
無気味な出来事を目のあたりにして、みんなは髪の毛が逆立つ思いで、逃げかえってしまった。亡者たちまでが寄ってくるくらいだから、余程お上人様のお経はすばらしかったのだろう。
 このような聖者のようなお上人様のもとへお盆の前日、北浦の漁師が小浦(明鏡洞付近)で採ったというサザエを持って現われた。
 「お上人様のに召し上がっていただこうと思ってき、持参いたしたわけでございます」
黙ってじっとサザエを見ていたお上人様は、突然お経を上げられた。そしてあっけにとられている漁師にいわれるのだった。
 「お前には分からぬだろうが、この中の一つのサザエは死者の亡霊である。海の底にいたのだが、わたしのお経ほしさにサザエになって、わたしのもとへとやって来たのだよ。さあ、このサザエを小浦に返しなさい」
 「お上人様のいわれるとおりにいたします」
 「きょう、お前の小舟は仏を拾ってきたのでこれからは大漁になるぞ。亡者はいまわたしの経を受けて浮かばれたと大喜びしておる。いい供養をしたのう」
 「これもみんなお上人様のおかげです」
漁師は一つのサザエを小船にのせ、採った場所の海底に沈めた。
 翌日朝、小浦に水死体が浮かんだ。お上人様のありがたい経をいただいて海の底にあった死者が、初めて姿を見せたのだった。みんなはまたしても、お上人様の偉さについてほめたたえあった。水死体はさっそく引上げられて、お上人様の手厚いお経を得た後、浄国寺の無縁仏の墓地に葬られたそうである。
 後になって、この無縁仏の墓地に旅館が建てられたものの、怪しげなことが続いたこともあって、いつのまにかつぶれてなくなったということである。).


ブリのお歳暮
 塩土の村が貧しかった時のことである。村人たちはほとんどが漁師だったので、朝早く漁に出て、夕方遅くに帰って来るまで、いつも一緒に過ごしていた。だから大漁の時もそうでない時も、喜びや悲しみを共に分かち合う仲間であった。
 ある年のこと、台風のような強い風が吹き、海は荒れ放題で、とても漁には出られない毎日が続いていた。
 「早く波が静まってくれんかいな」
 「このままだと、やっていけんようになるわい」
 「あしたこそは漁に出んと、そろそろ食糧も尽きてしまう」
村の人々は口々に言うのだが、その声はなかなかお天道様まで届かない。次の朝も、また次の朝も、浜に出て天を仰ぎ、高まる波を眺めては皆で嘆き悲しんでいた。
 そんなある日のこと、若宮の酒屋の主人がちょっとした商用で塩土にやって来た。ここには主人の古くからの友人がたくさんいたので、
〝挨拶でもしていこう〟
と思い立った。そして一番親しい友人の家を訪ねて行った。するとそこには、塩土の漁師たちが集まっていて、何やら困り事のようである。
 「何かあったのですかい」
酒屋の主人がたずねると、友人は涙ながらに答えた。
 「ここのところずっと、海は大荒れで漁にも出られない。皆の生活も苦しくなる一方だ。何とかならないものか」
困っている友人たちを目の前にして、主人は黙って帰るわけにはいかなかった。
 「波や風のことは、わしの力ではどうにもならん。しかし、商売で貯えた金を使ってもらうことくらいはできる。少しばかりだが、何かの足しにしてくれ」
そう言って、ふところから札袋を取り出し、畳の上にドンと置いて帰っていった。
 それから数日後、久しぶりに穏やかな天候となり、漁師たちはやっと漁に出られるようになった。村には活気が戻って来て、村人たちの生活もだんだんもとどおりになってきた。
 そうこうしているうちに、その年もだんだん終わりに近づいていった。塩土の村人たちは、自分たちを助けてくれた恩人に何かお返しをしないではいられない。そこで、漁で捕れた魚のなかでもいちばん立派なのを皆で選び、とっておきの贈り物にしたのだった。ブリのお歳暮である。いまでもその習慣は続いており、ブリの捕れないときにはわざわざよそから調達してきて贈っているという。義理がたい塩土の村の話である。)

太郎左衛門の腹痛
 今から百五十年ほど前のことである。いたずらギツネの命を助けてやった塩土の漁師太郎左衛門は、そのお礼にキツネの大切にしていた宝物をもらった。しかし初午の日以外は絶対にそれらを人に見せてはいけないこと、そしてキュウリは食べてはならないことをキツネから約束された。
 そんなある日、塩土の浄国寺で観音様のご開帳が行われたときのことである。村の人々は観音様にお参りしたあと、皆で集まって世間話をしていた。そしていつしか話題は、太郎左衛門がキツネからもらった大切な宝物のことになった。
「どんなものか、一度見てみたいもんだなあ」
「あんなにもったいぶるのだから、きっとすごい物に違いない」
太郎左衛門はその場に居合わせていたが、最初は聞いてきかぬふりをしていた。しかし、あまりに皆が見たいみたいと言うので、とうとう聞こえないふりもしていられなくなった。
 「仕方ない。ほんのちょっとだけだぞ」
そう言って太郎左衛門は、キツネからもらった宝物を家から持ってきた。
 「ほう、これがうわさの宝物かい」
 「なにしろ、逸見駿河守の遺物じゃそうな」
皆もの珍しそうに眺めていた。始めはもったいぶっていた太郎左衛門も、そのうち自慢げな態度になってきた。
 その時である。太郎左衛門の腹が突然痛み出したのである。
 「おお、腹がキリキリ痛む。こいつはどうしたことか」
それはあまりに突然だったので、村人たちは始めは冗談だと思っていた。ところが、太郎左衛門の額からは、たらたらと脂汗が吹き出している。
 「早く家の人を誰か呼んでこよう」
ひとりの村人が、太郎左衛門の家へ飛んでいった。
 一方、太郎左衛門の家では、いつも彼が大切にしている宝物がなくなっているので、家の人たちは大捜しをしていた。
 「もしや、うちの人はキツネとの約束をやぶって、宝物を持ち出したのでは」
太郎左衛門のおかみさんは、だんだん不安になってきた。
 そこへひとりの村人が、太郎左衛門の家にあわてて駆け込んできた。そして、おかみさんに事の次第を告げた。
 「やっぱり、そうだったのですか。とにかく、その宝物を早く持ち帰らねばなりません」
おかみさんは急いで寺まで行き、キツネからもらった宝物を小脇にかええ、太郎左衛門を支えながら家に帰ってきた。するとどうだろう。まもなく、太郎左衛門の腹痛は嘘のように治まったのである。
 太郎左衛門は、キツネからもらった宝物をむやみに持ち出し、皆に見せびらかした自分のうかつさを大いに恥じた。そして。
 「もう二度と、キツネとの約束はやぶらない」
と心に固く誓うのであった。







塩土の小字一覧




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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