丹後の地名 若狭版

若狭

若狭高浜城(たかはまじょう)
福井県大飯郡高浜町事代


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福井県大飯郡高浜町事代

福井県大飯郡高浜村事代






高浜城の概要




《高浜城の概要》

高浜城は有名な景勝地「明鏡洞」の西側の山(城山)にある。宿泊施設「城山荘」の裏山である↑。

立派な道がある。高くはなく、すぐに頂上で、そこに浜見神社のホコラがある。このあたりから本丸になる。

神社の裏にこんな石柱と案内板がある。本丸跡である。
城山公園として整備され過ぎたか、当時の状況がつかみにくい。当時の物なのか最近の整備によるものなのか見分けにくい、規模的にはかわいらしいが、立地している所が中世的山城は卒業した近世的城郭の初期状態の思想を秘めていそうな城のようである。舞鶴の市場の城主も彼だが、経済を押さえるという当時の一般レベルからは頭一つ抜け出した先進感覚を持った逸見駿河守昌経とはどんな人物だったのだろう。
整備するのはいいが土木屋まかせでなく歴史家や山城専門家の意見もよく聞いて整備するべきであろう。

アー!

アーアー!
将来の子孫へも残すべき大事な文化財をブっ壊してはおりませぬか…
そうしたやり方は開発とかいうようなものでなく、破壊行為でしかありますまい。

高浜城は、中世末期~近世初頭の平山城。若狭湾に面して東西に延びる町並みの中央部に位置し、海に向かって突出する2つの小半島を含む地域高浜町事代に所在する。西側半島は城山と称し当城の主郭が置かれた天守台と思われる石垣積みの遺構を残している。城の規模は小浜城に匹敵するものであったと推測される。永禄8年(1565)の築城とされるが事実は不明。築城者は若狭守護武田氏支族逸見駿河守昌経。同氏は守護武田氏の被官であったが、しばしば反乱を起こし、永禄4年にも砕導山城に拠って丹波守護代松永長頼と結び反乱。この反乱は越前朝倉氏の応援を得た守護方の勝利に終るり、没落した逸見氏はそれ以後当城を築きこれに拠った。したがって当城は永禄4年以降の築城と推定される。城は城山を主郭とし、二の丸・三の丸・藪の丸合せた約6万2,400㎡の範囲で現事代区域まで含む。西側は堀によって防備されていた。逸見昌経は築城後永禄9年にも反乱を起こすがこれも敗退。しかし,その後は織田信長に与力し、天正元年の朝倉攻めをはじめ各地を転戦した、その軍功によって信長より旧領5千石を安堵され、新知分として武藤・粟屋跡3千石を加えられている。天正9年病没し嗣子なしとの理由で領地は没収された。
「信長公記」は
  四月十六日若州逸見駿河病死仕る、彼領中八千石、此内新知分武藤上野跡、粟屋右京亮跡三千石、武田孫八郎へ遣はさる、相残て逸見本知分五千石、惟住五郎左衛門幼少より召使候溝口竹と申者召出され、逸見駿河跡一職進退に五千石下され、其上、国の目付として仰付らるゝの間、若州に在国仕り、善悪を聞立見及び申上ぐべきの旨、恭くも御朱印なし下され頂戴、
以後は溝口秀勝、天正11年堀尾吉晴、同13年山内一豊、同15年浅野久三郎、文禄2年木下利房、慶長5年京極高次家臣津川一義が城主として推移した。寛永11年酒井忠勝の入部と同時に廃城となったが、同年城内の二・三の丸に藩庫4棟が設置された当城は中世の形態を示しながら近世的な城郭であり、徐々に整備されたと考えられるものの、若狭国における平城の初現として注目される。
高浜記録(常田家文書)に、
  逸見信濃守高浜御取被成、今ノ砕導山ニ御在城、逸見駿河守八穴山ニ城御築、天王山御座候ヲ今ノ砕導へ入替相成候、永禄八丑年ナリ、天正九年巳迄十七年居城、山内対馬守、寺西治郎太夫、溝口伯耆守、堀尾茂助、浅野久三郎、木下宮内少輔、佐々加賀守、此時高浜城モ小浜へ引申候、
とあり、砕導山城落城後の永禄八年(一五六五)逸見駿河守昌経によって築城され、以降京極氏の時代まで存続したことを伝える。



高浜城跡


『高浜町誌』
城山公園 (高浜城趾)
 城山は、高浜市街の中心部から、両岐の岬が海に出ていて、奇岩と、八穴、碧波の中に小島が散在する。東を天王山、西を城山といい絶景、明鏡洞をへだて相対している。
 江戸時代の、国文学者伴信友は、次のように詠んでいる。
   八汐路の島の八穴洞いくよへて
     おきつ白波たちやくぐれる
高浜城は、永禄八年(一五六五)逸見駿河守昌経が築城し、城山の天守台の跡は五間×六間(九メートルX一〇・八メートル)で、本丸は東西一〇間、南北三四間(一八メートル、六一メートル)の広さがあり、天王山は北の丸(東西六五間、南北六三間、一一七メートル、一一三メートル)で砕導明神が祀ってあった。二の丸は稲荷の祠の東側(東西六五間、南北三九間、一一七メートル、一一三メートル)であった。
 その後溝口伯耆守秀勝(後に加賀大聖寺城書、堀尾茂助吉晴(後に出雲松江城主)、寺西次郎太郎、山内対馬守一豊(後に土佐高知城主)、浅野久三郎、木下宮内少輔(後に備中城主)と伝承したが、寛永一一年(一六三四)佐々加賀守義勝の時廃城となった。
 従来酒井家の所有であったが、昭和二四年高浜町に譲渡されて城山公園となっている。
 その西北側稲荷山麓には、昭和三五年に国民宿舎城山荘が建設された。


『新わかさ探訪』
高浜城と逸見昌経  若狭のふれあい第55号掲載(昭和63年11月30日発行)
若狭で最初のの平城 小浜城に匹敵する規模
 城山公園は、高浜町事代の海岸に突き出た岬にあり、西側の城山(海抜・35m)が高浜城の天主台跡、東が天王山(38m)で、その間に小さな入り江と、明鏡洞と呼ばれる海蝕洞穴があります。
 高浜城は、戦国末期の永禄8年(1565)、若狭守護武田氏の重臣逸見駿河守昌経によって築かれ、以後拡充が図られました。現在の城山公園のぼぼすべてが城域であったとみられ、その規模は小浜城に匹敵するほど。従来の城は、天然の要害を利用した山城が主でしたが、高浜城は若狭で最初の平城(平地に築いた城)で、その築城は全国的にみても早い時期にあたります。昌経の先進的な感覚を示すものであるとともに、水軍を編成して軍備を拡充する思惑もあったようです。
 昌経は、織田信長に味方して戦い、勢力を伸ばしますが、天正9年(1581)、その病死によって逸見家は没落。以後めまぐるしく城主が入れ替わり、山内一豊(信長、秀吉に仕えた武将。妻がへそくりで名馬を買い、夫の立身に尽くした話で有名。のちに土佐高知城主)も一時期、高浜城主となっています。しかし、江戸初期の寛永11年(1634)、酒井忠勝の小浜入部により、高浜城は廃城となります。昌経が築城してから70年目でした。
 廃城とともに、その建造物の一部は、小浜にある常高寺の本堂に使われましたが、それも焼失してすでにありません。ただ、石垣の一部が、城跡に近い佐伎治神社の石垣に使われ、コケのついた大石に城の名残をとどめています。
 天主台が置かれた城山の上には、現在、城跡を示す石柱と、昌経をまつる濱見神社が建てられています。高浜の「濱」と逸見氏の「見」から濱見神社と名づけられたもので、昭和56年に昌経没後400年を記念して、その慰霊と顕彰のために建てられました。
 昌経については、次のような話も伝えられています。
 越前朝倉方についていた佐分利の石山城主武藤上野介を昌経が攻めようとしたとき、裏をかかれて逆に手薄の高浜城に攻め込まれそうになり、このとき高浜の漁師たちは、上野介の軍を浜で迎え撃ち、大いに戦って防ぎました。昌経はそれをほめたとえ、漁師の地子銭(領主が土地にかけた年貢)を免除。以来、明治維新まで継承されたといいます。また、子生の奥山を漁師の山とし、船の中で使う薪を自由に取らせました。昭和初期まで、お盆になると各家では軒先に灯籠をつるし、昌経の遺徳をしのんだとのことです。


高浜城の主な歴史記録


『大日本地名辞書』
高浜城址。郡県志云、高浜天王山の傍に一丘あり、之を高浜城跡とす、逸見駿河守源昌経之に拠り此辺を領すと、城跡今竹林と為る、相伝ふ、一年丹後の兵蜂起本郡に入る、駿河守吉坂山に向ふて相会戦す、武田と逸見と本同種族、而して駿河守初め武田義統の麾下の勇士なり、武藤氏を滅して佐分利郷を併領す、天正九年駿河守病死す、相続すべき者なし、故に信長公其の領地を分ち、三千石を武田孫八郎元明に賜はり、五千石を溝口竹の賜はる、(竹諱は秀勝、丹波長秀の麾下たり、伯耆守と称す、後越後へ移封)溝口氏乃高浜城主となる、其後秀吉公堀尾吉晴をして此城を守らしむ、又山内一豊浅野久三郎之を守る、久三郎は浅野長吉の家臣なり、其後木下宮内少輔利房茲に居る、二万石を領す、勝俊の弟なり、死後封除かれ城廃す。(沢村才八吉重は逸見昌経の遺臣たり、天正十年出でて細川忠興に仕へ、大学助と称し、武勇の名を遺せり、島原天草の乱にも従軍しぬ)

高浜城の伝説

『若狭高浜のむかしばなし』
小浦八兵衛と殿様
 今でも城山には、小浦という小さな入江がある。この小浦にむかし、たちの悪いキツネが住みついていた。里の人たちは皆、〝小浦の八兵衛狐〟と呼んで恐れていた。
 「また、あの古狐にだまされたわい」
 「今日も人間に化けて、いたずらしおった」小浦では、その悪キツネにだまされて、ぶつぶつ文句を言う人がいつも絶えなかった。
 小浜の武田氏と、高浜の逸見氏はもともと同じ一族だったと言うが、常に双方仲がよくなかった。そして悪キツネは常に、逸見の殿様と意見が合わなかった。
 そんなことでこじれているときのことである。たまたま悪キツネは逸見の殿様の謀叛のあることを知った。
 「逸見の殿様よ、思い知るがよい」
悪キツネはここぞとばかりに後瀬山城主武田氏へ内通した。それを聞いた武田氏は、さっそく軍を整え、逸見軍にむかえ打って出た。
 この合戦で高浜城主逸見氏は、愛馬にまたがって長柄の槍を引っさげ、城をあとに真っ向う勢いをつけて小浜方に突きかかった。
 「やあ-」と
ところが行く手には、大きな松の大木が立ちふさがっていた。勢い余った逸見氏は、その松の木に激突してあえなく落馬してしまった。それがもとで逸見氏は、その後長わずらいにつくことになった。ついに逸見軍は敗れ去ったのである。
 佐伎治神社の絵馬堂には、騎馬武者が槍を持って敵と一騎打ちしている絵馬がかかっている。それは逸見、武田両将の合戦図と言われている。

和田沖で逸見氏溺死
 今の城山の高浜城を築いた武将の逸見駿河守昌経の死にまつわる話である。
 逸見氏は住民の心をつかむことに、たいへん勝れていた人物らしい。その勇ましさは近隣に鳴り響いていた。丹後国設楽郷、余部までも進出し、天正八年(一五八〇)ごろには市場(舞鶴市)の城主にもなった。この武将逸見昌経は天正九年三月二十六日に急病で亡くなったとされているが、どうもそうではないらしいという話も伝えられている。
 天正四年(一五七六)、武田元明か織田信長に反旗をひるがえしたので、信長は高浜城主の逸見昌経に後瀬山城を攻めるよう命じた。昌経は、日頃から信長には忠誠を誓っていたが、元明に対しては、常に気を許さなかった。そこで、昌経は、信長に命ぜられるやいなや、すぐ行動に移した。全員を率いて後瀬山城へと向かうことになった。しかし、それが海賊の桑村謙庵に知れてしまった。謙庵は昌経を襲い、船に乗せて沖までいって、昌経を海の中へと投げ込んだ。謙庵の策略によって昌経は溺死、無念な最後を遂げた。
 そして、この話には後日談がある。昌経が溺死した後、海賊の謙庵船が高浜湾へ入ろうとすると、必ず暴風雨に襲われるので、このあたりに近寄らないようになったという。




逸見氏


逸見というのはヘビと思うが、古くは蛇をトーテムとした氏族でなかろうか。
『高浜町誌』
逸見駿河守昌経
 国守武田氏四老の一人、永禄八年(一五六六)今の城山に高浜城を築いた武将である。
 地区民心を把握するに勝けていたといい、その武名は近隣を圧し、丹後の国設楽郷、余部までも進出し天正八年(一五八〇)ごろには市場(舞鶴市)の城主でもあった。
 一方においては、佐分利石山の城主武藤上野介友益と常に雌雄を争っていた。永禄九年(一五六六)昌経は遂に意を決し、雨中夜陰に乗じて上野介に奇襲をかけたが、上野介いち早くこれを察知して逆に手薄となっている高浜城を攻略せんものと一軍を間道より東三ツ松大谷山にある己れの出城に向かわしめそこより一気に攻め寄せにかかった。これを知った高浜の漁民・商人・百姓等は手に手に有り合せの漁具農具など手当たり次第に持ち出し、日ごろよりの我が殿様の恩顧に酬わんはこの時ばかりなりと波多期(今の畑区)浜に武藤軍を迎え討ちこれを追い退けた。帰陣した昌経はこれを聞き大いに喜び、城下邑人たちの迪子錢を永代免租とした。このことは以来明治新政まで続いていた。天正四年(一五七六)小浜城主武田〈右京亮義頼〉病床にありと聞いた織田信長は、逸見駿河守昌経に命じて小浜城攻略を仕かけた。折しも城主昌経病にあり子息信濃守を大将として中津海左京、魚住市正、沢村大学等の三〇〇余騎を従え砂けむりをあげ、小浜城めざして進撃していた。
 佐分利石山の城主武藤上野介はこれを知り途中に待ち伏せ側面から鉄砲を以て仕かけ、双方混戦の裡に信濃守は惜しくも陣中において没したという(明智軍記より)。
 昌経は天正九年(一五八一)三月二六日病をえて没し、宮崎昌福寺(今の園松寺)に葬った。同寺にはその墳墓五輪塔があり、なお昌経公在りし日を偲ぶ坐像を伝えている。…わかさ高浜史話…
 その他に逸見系図など貴重な資料多数を伝えている。


園松寺↑「逸見駿河守昌経公菩提所」とある。

逸見氏は大族で、辞書によれば、
逸見氏は、中世甲斐の豪族。甲斐源氏義清の長子清光(1110‐68)が逸見の若神子(わかみこ)(現・山梨県須玉町)に住んで逸見冠者と称し、長男光長が逸見を姓としたことにはじまる。光長は源平争乱に源頼朝に従い、逸見氏は幕府御家人となった。その後も逸見氏は甲斐に勢力を張り同族の武田氏と争った。1416年(応永23)有直のとき、上杉禅秀の乱で武田信満が敗死すると、足利持氏にくみして甲斐守護になろうとした。幕府の許可は得られなかったが、甲斐は事実上逸見氏の支配するところとなった。その後武田信長が勢力を持ったが持氏の逸見氏救援により26年(応永33)信長は降参した。こうして甲斐に大きな力を持った逸見氏であったが、39年(永享11)永享の乱で足利持氏が敗れた折運命をともにする者が多く、衰退していった。なお一族の又太郎義重は承久の乱の功により美濃大桑郷を得、美濃逸見氏の祖となった。また若狭や丹波等の逸見氏も甲斐逸見氏から分かれたものである。
という。
『高浜町誌』
逸見一族の盛衰
 逸見氏の出自について  当町宮崎園松寺に元禄一一年(一六九八)八月に宮津城主奥平昌春家中、逸見久長が奉納した逸見氏系図がある。園松寺本系図には、若狭逸見氏の祖を逸見貞長(又三郎後越中守)とし、当初大飯町大島へ入部のち高浜へ移ったと記す。永正年中(一五〇四~二〇)とあるが、山城逸見氏についてはその出自は明らかにされておらず、また系譜もよく知られていない。『姓氏大系』によれば、『翁草』に「一万八千町山城の内・逸見三郎」とあるのみで、真疑不明とされている。逸見氏系譜の中で貞長なる人物は『束鑑』治承四年(一一八〇)一〇月一三日の条に記される甲斐源氏武田太郎信義の一族、安田三郎義定の四男、逸見孫四郎貞長しか見当らず、年代に大きな相違がある。
 逸見姓は右の他、武蔵(北条氏邦の臣逸見若狭守)・奥州(結城家臣・逸見主膳正)・相模(鎌倉初期三浦党の逸見太郎・次郎・五郎)・美濃(甲斐逸見氏支族、のち武蔵へ移り北条氏・徳川家に仕え禄高三百三十石、逸見大桑氏という)・三河(幡豆郡細井村、逸見源兵衛)・紀伊(日高郡矢田荘、逸見清重)・阿波(故城記に美好郡、逸見殿、源氏、破菱ニ引龍とあり、阿波細川氏重臣、三好山城守に属していた)・讃岐(逸見源左衛門)など数多く分播しており、各地にその存在がみられる。また、藤原姓・平姓を名乗る逸見氏族もいる(以上、前出姓氏大系による)。
 逸見氏の本流は、清和源氏武田の支流であり、甲斐国巨麻郡逸見郷から起こったとされている。『尊婢分脈』に「武田冠者義清-黒源大清光(号逸見冠者)」とあってその出自を記す。逸見氏は平治物語や、源平盛衰記にも記録があり、早くから甲斐の名族として名高い一族であった。甲斐国の西郡を領し武田氏との確執もあって一時は甲斐国を制圧するなどの力を持っていたらしいが、のち武田氏に押され小領主として存続したのである。
  『東鑑』には逸見冠者光長が記され、建暦三年(一二一三)和田合戦のとき、和田義盛に与したらしく、和田方討死の中に逸見太郎五郎がみられる。南北朝争乱期にも逸見三郎・美濃入道がいて、逸見一族の活発な動きがわかる。さらに『太平記』正平二年(貞和三年・一三四七)一二月一四日の条に「武田甲斐守(信成)・逸見孫六入道・長井丹後入道・以下略」とあって、甲斐守護武田信成と並んで記されており、かなり大きな勢力であったことが知られよう。
 一方、若狭逸見氏の源流は、甲斐逸見氏と同族であり、承久の変(一二二一)以後、武田氏五代信光が安芸守護を兼ねると(寛喜三年三月八日付関東御教書『熊谷文書』)同時に安芸国へ配属されたらしく、南北朝期には安芸国安木町村の地頭職として存在している(建武三年五月七日付逸見有朝軍忠状写『小早川文書(2)』)。ただし、この段階では武田支族とはいうものの果して被官人であったかどうか。いずれにしても武田信武・氏信(安芸武田氏祖)に付属して各地を転戦、以後武田氏被官人中一門衆として存続した。
 園松寺本にいう逸見氏は、おそらく同族と考えられるが、若狭逸見氏の本流ではない。高浜逸見氏の支流は逸見昌経没後、丹後宮津城主細川藤孝(幽斉)に仕えており(後述)、奥平氏に抱えられたとは考えられないのである。
 南北朝期の逸見氏  建武二年(一三三五)一一月、足利尊氏は建武新政府に叛き、後醍醐天皇方新田義貞の討伐を諸国武士に命じたが、安芸国にも通達が出され、同年一二月二日逸見有朝はいち早く守護武田信武のもとに参陣している(同年月日付逸見有朝着到状写『小早川文書(2)』)。このとき安芸国人衆波多野景氏・周防親家・吉川師平・毛利元春・三戸頼顕・吉川実経代官須藤景成らがかけつけ武田軍は大きな勢力を構成した(宮川昭一『安芸武田氏』)。いざ上洛というとき、熊谷一族の四郎三郎入道蓮覚・直村親子らが後醍醐方と称し矢野城(広島市安芸区矢野町)に立籠り武田軍と対抗したのである。
 武田軍は、同年一二月二三日より矢野城を攻撃、逸見・周防・吉川らは東側大手筋より攻入り、西側(搦手)から三戸・熊谷、北側から波多野らが攻めている。しかし、城方の抵抗はきびしく、先陣吉川師平が討死するなど、大きな被害をうけた(『前同』)。このとき逸見有朝の旗差し八郎二郎は大手木戸脇において左肩を射抜かれている(建武三年五月一〇日付逸見有朝軍忠状)。はげしい抵抗はあったものの同月二六日、熊谷蓮覚の討死によって矢野城は落城し、翌建武三年正月武田軍は大挙して上洛した。建武二年より観応の争乱にいたる一七年間、逸見有朝ら逸見一党は近畿各地において戦っており、しばしば戦功をたててぃる。その足跡を追ってみよう。
 建武二年(一三三五)一二月二日 新田義貞誅伐軍として安芸守護武田信武のもとに参陣(同年月日付逸見有朝着到状『小早川文書』)。
 建武三(一三三六)年正月一三日 上洛・供御瀬へ発向。
 同   正月一六日 粟田口合戦、このとき十禅師法勝寺西門に
おいて有朝の旗差、彦三郎が右足を射られる。同日夜、中御門河原口を警固。
 同   正月一七日 西坂本へ発向、警固。
 同   正月一九日 八幡山にたてこもる(以上、建武三年五月七日付逸見有朝軍忠状写『前同』)。
 同   正月二二日 武田信武の命により八幡山を警固す(同日付武田信武警固役催促状写『小早川文書』)。
 同   六月 八日 摂津国水田城に向かう。
     六月 九日 毛利備前弥四郎・田門十郎らと水田城を攻め落城させる。
     六月一九日 今在家作道の合戦において有朝先懸けをし太刀打の上、頸を分捕る(以上、同年六月二五日付逸見有朝軍忠状写)。
 同   七月二三日 醍醐へ発向、大日山に陣取り、同二五日木 幡山に向う。
 同   八月 七日 岡屋城に押寄せ、周防親家・管生彦四郎らと北城戸口より責入り合戦(同年八月一六日付周防親家軍忠状『吉川文書』)。
 建武五(一三三八)年三月一三日 逸見有朝・柏原与三・同孫四郎ら八幡に向い洞塔下において合戦、敵方を追散らす。
 同   三月一六日 天王寺・安倍野において合戦、敵軍を敗走させる(同年三月二六日付逸見有朝軍忠状写『小早川文書』)。
 同   五月二二日 和泉国堺浜へ出陣、逸見有朝・周防親家・柏村孫四郎ら高瀬浜で合戦(同年七月一三日付周防親家軍忠状『吉川文書』)。
 同   六月 一日 八幡善法寺に合戦。
 同   六月一八日 八幡城鰯手口を責める。
     七月 五日 同城木戸口より責める。
     七月一一日 同城没落。
右で明らかなように、建武年中には畿内周辺での戦斗が多く逸見氏を始めとする安芸軍団はよく働いている。暦応四年(一三四一)には石見国(島根県)に転戦、七月二六日には大多和城の都野保通・邑智宗連を攻めて降参させ、同二九日河上城を落している。さらに、九月一日、福尾城を攻めたが、このとき舎弟六郎有経は左鼻先を射通され右の口脇へ抜けるという傷をうけている。
 翌五年二月一七日、敵方惣大将新田左馬助義氏のたてこもる小石見城を攻め周布城主井村兼氏ともども降参させるなど活発な動きがみられる。さらに、同二二日、大多和城・鳥屋尾城・矢原城を攻め、三月一七日には鳥屋尾城を、そのあと大多和城の外城に籠っていた高津原・波多野・河越・徳屋の諸将を降伏させた。石見国での戦斗は一一ヶ月にもおよんでいる(暦応五年六月一八日付逸見大阿子息有朝軍忠状写『小早川文書』)。この他に、貞和四年には河内国(大阪府)・大和国(奈良県)へも出陣した。
 こうしたなかに翌貞和五年(一三四九)尊氏の弟直義と執事高師直の確執が表面化し、結局尊氏・直義の対立となった。観応元年(一三五〇)直義は南朝方に降ったが養子直冬は西国の武士を糾合して反幕の兵を挙げたのである。逸見有朝の居住する安芸にも波及し西条一族・吉岡小五郎・同九郎・山形又六為継・北条治部権少輔・毛利親衡・寺原時親・壬生道忠らが呼応、寺原・与谷城に立籠った。信武の弟氏信(伊豆守)に属した逸見有朝らは、同年五月より七月まで直冬方と合戦、七月八日には寺原・与谷城を落し、同一一日には猿喰山城を落居させるなど活発な動きをみせている(観応元年七月日付逸見大阿子息有朝軍忠状写『小早川文書(2)』)。
 安芸の国内情勢はこの後も乱れ、観応二年五月~六月頃、熊谷直平・三戸頼顕らが南朝帝後村上天皇の誘いに応じ、小早川貞平ら有力国人も誘いをうけている。この頃の安芸は、尊氏方・直冬方・南朝方と三ッ巴の様相をみせており、混乱の極に達していた。文和元年(一三五二)三月には反尊氏勢力が挙兵、これらは毛利親衡・元春親子が主力であり、逸見有朝はかつての戦友と相戦うこととなった。延文元年(一三五六)直冬は安芸国に入り以後六年間武田氏信の尊氏方と戦っている。しかし、貞治六年・応安元年(一三六八)毛利親子・吉川経任・寺原ら南朝方国人衆は幕府方に帰順し、一応の安定をみたらしい(河村昭一『安芸武田氏』)。
 南北朝期安芸における逸見氏は、親父沙弥大阿(五郎次郎入道・有信)の代理として出陣しているが、逸見氏の安芸所領はさほど大きいものではなかった。有朝は父大阿より建武三年(一三三六)に所職を譲りうけているが、左の譲状に
    ゆつりわたす
     あきのくにミ里のしやう(三入庄)のうち、あきまちのむらのちとうしき(地頭職)、そうついふくしき(惣追捕職)の事
     ちやくしみなもとのありともかところ
  右ちとうしきとう(等)ハ、大阿さうてん(相伝)くわんれい(管領)の地として、とうちきやうさうゐなきところなり、しかるを、くわんしうあんとの御くたしふミ、御けちいけのてつきしやうをあいそへて、ちやくしありともにゑいたいをかきりてゆっりわたすところし
ちなり、たのさまたけあるへからす、もし大阿かしそんとかう
して、このゆつりしやうをそむいて、いさゝかもいらんわつら
いを申ともからあらむ、ふきうのしんたるへき物なり、よてこ
日のためにゆつりしやう如件
    けんふ三ねん七月十四日   しやみ大河(花押)
                (『小早川文書(2)』)
とあって、承久の変以来安芸へ入部、安木町村地頭職として存続したことをうかがわせている。
 甲斐・安芸・若狭逸見氏の祖は確定はできないものの武田信義の三男兵衛尉有義と考えられよう。有義は逸見四郎・逸見冠者を名乗っており『曽我物語』・『源平盛衰記』・『平家物語』などにも記されている(『姓氏家系大系』)。この子孫の一派が安芸国の前記地頭となり、南北朝期には逸見四郎源有朝がはなばなしく登場するのである。しかし、若狭国とかかわりを持つ逸見宗見まで殆んど文献にみられず、有朝のあと有綱-有政-有直があって、応永年中(一三九四~一四二七)には中務丞有直がみられるという(『前同』)。したがって正確な逸見氏の系譜を求めることはできず、部分的に登場する人物を捕らえるより方法はない。

若狭の逸見氏  若狭とのかかわりは前述の永享一二年(一四四〇)武田信栄が若狭守護となった以後である。同年には代官として熊谷信直・山懸信政(下野守)・粟屋繁盛らが入部しており(『明通寺文書』)、この段階では逸見氏はまだ出典がない。安芸国で南北朝期に活躍して勢力を伸した逸見一族は室町初期には武田氏の代表的被官となっている。このことは永享一二年五月、大和の陣中において一色義貫を謀殺したとき
 ○上略左京大夫(一色義貫)尋常に腹切畢ぬ。騎馬衆各抜合せて引組引組生涯せり、此中に一番羽伏莵(はぶと)、青(粟)屋の越中と指違へたり、次に武田が中に聞えたる逸見の弾正、中山の民部に出合たり○下略   (『応仁略記』)
とあって安芸武田被官として勇名を馳せていたことが知られる。
 逸見真正・繁経  基本的には逸見氏は二流あったと考えられよう。南北朝期に有朝・有経兄弟の名が認められ(暦応五年六月一八日付逸見大阿子息有朝軍忠状写)、嫡子有朝は宗家を弟有経が別家をたてたと推測される。応仁記にいう弾正は弾正忠繁経であり、真正は駿河守のち駿河入道宗見を名乗る安芸・若狭逸見党の領袖であった。彼等は武田信栄・信賢・国信の三代に仕え国奉行人として重きをなしていた。
 若狭とのかかわりは嘉吉三年(一四四三)頃確実に持っており(『東寺百合文書に』)に守護被官奉書案として
  東寺領太良庄多田院段銭事、御免除之上者、可被止催促之由俟
  也、仍執達如件
    (嘉吉三年)三月廿一日      真正(花押)
     粟屋右京亮殿
があってその事実を示している。ところが同年一一月には安芸国入江保代官としても存在しており(同年同月一〇日付安芸国入江保年貢銭送状『壬生家文書』)逸見駿河入道真正の名がみえる。本来、入江保は安芸国人毛利弘房が四〇貫文で代官をうけおっていたもので、それを武田信賢は九〇貫文で受け、代官として逸見真正を送り込んだのである。この背景は武田氏の項で述べたが、代官を請負った嘉吉二年は、前年の若狭国一揆、京都の騒乱などの影響をうけ、年貢銭を送るどころではなかった。嘉吉二年と思われる真正書状に
  御状委細拝見仕侯了、仍入江保公用事承候、更々非無沙之儀候、
  雖然当年事ハ、若州様子も去年(嘉吉元年)の乱ニ散々式侯之間、于今遅々
  候、乍去近日可到来候、□々借用仕候涯分可致奔走之由申候、
  次国富(若狭)事も随分随御意と是に存候、仍彼公用事三千疋分、当年
  事ハ先早々致沙汰候へ、不然者年貢米を可進候之由、堅国へ申
  下候、自其も可有御催促候歟、定不可有無沙汰候、猶々処々路)
  次煩候て用脚未到候、少の事ハ可有御待候、重々可進候由を申
  候、態御音信恐悦候、恐々謹言
       極月廿一日     真正(花押)
とあり、その間の事情を説明しているが、一見丁重なようでかなりきつい文言である。年貢の催促をした壬生家に対して、国元へ申付けたから必ず来るだろう、それでもまだ催促するのか、道中も騒乱のため思うようにならないから、少しぐらいは待てというもので、守護方代官の強い姿勢を伺うことができる。この文書によれば、このとき逸見真正は在京中と考えられ、安芸・若狭そして京都とめまぐるしく動いていることがわかる。
 一方、逸見繁経も真正同様守護武田信賢の奉行人として加判に列しており、康正二年(一四五六)七月ニー日付文書には内裏造営段銭に関して粟屋繁誠(越中守)と連署している(粟屋繁誠・逸見繁経連署状案『東寺百合文書に』)。これは東寺領太良庄(現小浜市太良庄)にかかわるものだが、安芸国でも同じく馬越元親(左京亮)書状に「熊谷美濃入道信直在国候之間、先以逸見弾正忠加判候」とあって、安芸守護代であろうか、熊谷信直に替って加判しており、真正・繁経ともに安芸・若狭の領国支配の一翼をになっていた。
 両人ともに安芸・若狭を往復していたらしく、『明通寺文書』には、寛正二年(一四六一)九月一四日付粟屋長行・逸見繁経連署奉書があり、同年一二月一三日には長行・逸見宗見の連署奉書がみられる。同月には
  (端裏書)
   「入江保事寛正子二・十二・六囗」
  入江保事、任御補任之旨、以御奉書被仰下候、就其完戸駿河守
  方へ御一行を紿候て可下候、同地下人所へ、御代官御折紙を給
  候者畏入候、猶々如御成敗可去渡之通、堅被仰下候者目出候、
  尤大膳大夫可被申僕へ共、先日以使者令申候間無異儀候、旁可
  得御意候、恐ゝ謹言
    十二月六日         繁経(花押)  
    御宿所
  (札紙切封ウハ書)
   ---逸見弾正忠
  官長者殿御宿所  繁経」  (『壬生家文書』次頁写真)
があり、宗見・繁経は両国を交替していたらしい。しかし、寛正三年以降六年(一四六五)まで若狭国には繁経がかかわっており、宗見は、安芸・もしくは京師で活躍していたと推測される。
 嘉吉以来、武田氏の若狭一国支配は強化され、室町幕府の御教書による制約もあまり効果はなかった。これによって庄園は徐々に崩壊して行くが、庄園押領の推進者は逸見氏など守護被官であった。京都では文正元年(一四六六)九月徳政一揆が発生し世上はきわめて不安となっていた。こうしたときに翌応仁元年、応仁・文明の乱が発生したのである。安芸・若狭守護武田氏は細川方(東軍)に属し、信賢・国信は京都へ出陣した。
 逸見氏の若狭入国は文書でみるかぎり嘉吉三年(一四四二)頃と推察されるが、当初より大飯郡を領したかどうかはっきりしない。ただ、三方郡には熊谷氏(のち美浜粟屋・三方熊谷)、遠敷郡には山縣・内藤・香川氏、小浜市では粟屋氏、大飯郡佐分利には武藤氏が配置されていたことが考えられ、若狭の西域高浜町へは当然、大きな勢力を持った被官人が必要とされたであろう。少なくとも応仁の乱以後は確実に高浜に入っており、以後室町期を通し高浜町周辺とかかわりを持つことになる。

応仁の乱と逸見党  応仁の乱における逸見党は東軍の副将であった武田信賢の主力部隊として活躍したらしく各所にその戦跡がみられる。この頃、若狭・安芸両国被官人中、逸見・粟屋が双璧であり、かなり強大な戦闘集団を構成していた。京都合戦には武田方大将として逸見弾正忠繁経が参加しており、若狭国には駿河入道宗見(真正)が在国したらしい。『応仁記』には安芸・若狭の勢三〇〇〇騎とある。
 応仁の乱では隣国丹後守護一色氏は西軍に属していたため、逸見氏は高浜を拠点にして防備を固めていた。この頃、武田信賢は若狭国内に城郭を築いているが(『経覚私要鈔』)、その場所は明らかにされていない。一説には青井山ともいうが不明である。一方京都市街戦は応仁元年正月よりはじまり、五月に入って本格的な合戦がおこなわれた。信賢・国信・元綱三兄弟は際立った戦闘ぶりを見せている。ところが、こうしたなかに京都合戦の恩賞としてであろうか、応仁二年(一四六八)、西軍一色義直の領国丹後国が武田信賢に与えられたのである。一色氏にとってはまったく迷惑な話であったが、武田氏は直ちに軍勢をととのえ、同年四月朔日、逸見駿河入道宗見(真正)を大将として青江・貫所ら武田氏被官人らか丹後へ侵入を開始した。もっとも丹後一国を武田が与えられたのではなく、一郡は細川政元に分与され、そのため細川一族の天竺孫四郎らも同時に入国、丹後は武田・細川連合軍に攻撃され、一時はほゞ制圧されたという(『前同』)。丹後侵攻軍の総大将が逸見駿河入道宗見であった。逸見党は一軍が京都(逸見繁経)、一軍は丹後へと転戦しており、この頃、若狭最大の軍事力を持っていたことが伺える。武田軍の主力は逸見軍団であった。京都合戦では西軍越前守護斯波義廉被官朝倉孝景(弾正左衛門尉)が勇猛であり、しばしば武田軍と合戦している。若狭国は、越前・丹後の西軍勢力にはさまれており、戦力の増強が必要であった。このため各庄園に苛酷な税をかけ、これがのちに国衆一揆をひきおこす要因となったのである。
 逸見宗見ら武田軍は丹後国内において活発な動きをしているが、一色方も但馬山名氏に援助を求め、同氏被官垣屋平右衛門尉、同名出雲守らが入国、普甲山寺(宮津市小田)にたてこもり必死の反撃に転じた。普甲山は宮津より丹波へ抜ける街道の途中にあって海抜四一〇メートルの高所である。峠から北東はるかに青葉山が望見され、眼下に宮津湾が広がる眺望の見事なところで、また天然の要害でもあった。山上に広大な寺域を持つ普甲山寺が所在したらしく一色側はここを拠点とした。
 武田・細川連合軍は四方よりこれを攻撃したが落すことはできず細川方天竺孫四郎が討死し、細川政元は一宮左京亮を替りとして派遣している。これ以後、丹後戦線は各地に波及し局地戦が展開されて武田・一色宿怨の抗争か約一世紀にわたってくり返えされることとなるのである。

逸見繁経の討死  文明元年五月、武田信賢は北白川に城郭を構えここにたてこもったが(前述)、翌文明二年(一四七〇)七月一九日、山科(京都市)の醍醐・勧修寺あたりで東軍・西軍の大激戦がおこなわれた。『大乗院旧記』同月二〇日の条に
  昨日下醍醐并山階(山科)焼失、大将逸見自害云々、東方迷惑
  事也、云々○下略
とあり、さらに同二二日の条に
  去十九日於二山階一逸見之弟打死云々、其日上御陣合戦在之、
  近日山城木津已下隠二雑物一云々、但武田并畠山尾張守為二合
  カー馳-加二于山階○下略
が記され、弾正忠繁経の討死を伝えている。山科合戦は山階七郷の郷民が、東軍についたため西軍の侵入となったもので背後には細川勝元が動いていた。山科七郷は七郷商売人として有名でありかなり大きな経済力を持っていたらしい。また、西軍に関する情報を提供するなど活発な活動があった(飯倉睛武・山城国山科七郷と室町幕府)。
 前述の記録で明らかなように山科合戦の総大将は逸見繁経であり、彼の討死によって東軍は大きな損失をうけたことがわかる。また、逸見の弟とあって、宗見と兄弟であったことも記されている。繁経は討たれたものの逸見党はなお健在で『山科家礼記』同年八月一三日の条に「武田大膳大夫・仝治部少輔、逸見以下数千人如意寺嶽山陣也」とあり、銀閣寺の裏山大文字の奥峰にたてこもっている。
 こうしたなかで文明三年六月二日東軍の副将武田大膳大夫信賢は五二才で逝去、さらに同五年(一四七三)山名宗全・細川勝元が死去し天下の形勢は和平に向かって進んで行ったのである。翌六年四月
  東西大名可有和与之由、及其沙汰云々、於東方者、細川、同讃
  州等・武田以下可然旨連署、赤松不同心云々、前管領畠山尾張
  守可然之由申云々、於西方者、山名、土岐、斯波、大内各和与
  事可然云々、如此之間、大略無為無事也、随而自他不及合戦。
  下略『大乗院尋尊僧正記』。
とあるように東・西和睦が成立した。この和平書には武田国信も署名しており応仁元年正月一八日の御霊合戦以来八か年におよぶ大乱は一応の終結をみたのである。しかし、必ずしも双方が納得したためではなく、不平組もまた多く存在したのであった。中央での和平は各地で戦っている者にとって寝耳に水であり、大きな犠牲を払っての前線では納得できなかったらしい。
 丹後戦線にあった武田・細川連合軍も同様であった。この和平によって、武田に与えられていた丹後国は同年五月一五日、一色氏に返還されることとなり、(『大乗院寺社雑事記・親長卿記』)、細川・武田両軍の退去が要求されたのである。

逸見宗見の自害  ところが、応仁二年以来七年間丹後攻略を進めてきた逸見宗見らは承服できず、幕府の返付命令を無視してなお丹後に在陣したのであった。
  一方、一色側は好機到来とばかり俄然勢いを盛返し必死の反撃にうつった。はげしい攻防戦は四か月間も続いたが、若狭国からは援軍を送らなかったらしい。というのは、東軍代表の一人として和平に署名した国信が、幕府の命にそむいて丹後侵攻を続ける被官人に軍勢を送ることができなかったからである。細川氏も同様であり、丹後戦線の武田・細川両被官連合軍は孤立無援となった。
 文明六年(一四七四)九月、ついに武田方総大将逸見駿河入道宗見は一色方に囲まれ自害して果てたのである。おそらく無念であったと思う。守護武田国信も大きなショックをうけたらしく、『実隆公記』同年同月十六日の条に「○上略聞武田大膳夫昨日遁世□、逸見入道先日於丹後自害之儀等愁傷之余也云々。、言語道断之次第也」とあって、悲しみのあまり落髪遁世してしまった。このことは武田支族逸見宗見に対する国信の信頼が絶対的なものであったことを示すものであろう。今一つは、国信が援軍を送らなかったために敗北したこともあって結果的には宗見を見殺しにした罪の意識もあったと推察される。
 逸見宗見・繁経兄弟の時代、つまり、武田信賢若狭入部以来応仁・文明の乱頃までが逸見氏のもっとも強大なときであり、この頃は一門衆として群を抜いていた存在だったといえる。武田氏奉行人としても大いに活やくし、寛正二年(一四六一)一色氏と武田氏が丹後若狭の貿易に関して舟荷物の件で争論がおこったとき、同年四月二一日幕府政所において対決しているが、一色側は小倉氏(宮津城主・宮津市喜多)、武田氏側は逸見氏が代表として出席している(『親元日記別録』)。外交面においても武田氏の代表的人物として逸見宗見をとらえることができる。また所領についても文明四年頃には玉置庄(上中町玉置)を所管するなど、守護請代官として若狭各地に支配権を持っていたことも想定されるのである。
 宗見の自害した場所は確定的ではないが、上山田城(上段写真・京都府与謝郡野田川町上山田)と考えられている。次頁図は野田川町の塩見勝信氏が作製されたもので上山田城の縄張りがよく解る。標高一〇〇メートル程度の低い山だが、独立丘陵的な要素を持ち周囲はかなりの急勾配となっている。城の西側谷間は三戸谷を径て但馬に至る街道となり、南山麓は東西に走る貫道があって西は丹波へと通じており交通の要所でもあった。当城の南に対蹠して石川城、西側加悦町には安良山城・金屋城(一色氏被官石川氏本城)があって、四方を一色方武将によって固められていた。この状態ではまさに四面楚歌であっただろう。こうした中で逸見宗見はこの城で無念の思いを胸に秘めながら自らの命を断つだのであった。
 応仁・文明の乱で東軍方大将として京都・丹後で活やくした逸見党ではあったが、宗見・繁経の討死は逸見一族にとっては手痛い打撃であり、勢力の衰退もまた当然であった。

宗見以後の逸見党  宗見自殺以後、逸見宗家は子息三郎国清か継いだらしく『親元日記別録』文明一五年(一四八三)の条に
  清式大
  一逸見三郎国清   五・廿八
   醍醐妙法院借銭事、本銭主為大徳院妙金書記之間、彼仁就御
   法令進納五分一申請御奉書之処、伝借之間不知彼書記名之由
   被申歟、然者、任亡父駿河入道宗見仁契約之旨、本銭廿百卅
   三貫文本利相当之分、以質券丹波国朝来村上方、若納東野村
   年貢内可給委細者、院家被官筑後令存知云々
とあってその存在を明らかにしている。さらに同年六月二七日、足利義政が銀閣寺に移るとき、国信が若狭に在国中のため代理として伺候しており「雑掌逸見三郎、御太刀(末行)千疋、同治部少輔(信親)御太刀(信国)○下略」(『親元日記』)との記録がある。
 この頃まで逸見氏は武田の重鎮として存続していたらしいが、延徳二年(一四九〇)六月二一日、武田国信は卒去し(『実隆公記』)、跡職をその子元信がっぐと、逸見氏に替って粟屋党の左衛門尉親栄が実権を握るようになる。武断派の逸見氏と違って粟屋親栄は当時最高の文化人権大納言三条西実隆らと交流を持ち、文芸面では中央に知られた存在であった。しかも、元信が貴族趣味、文芸志向の強い人物であっただけに粟屋親栄に対する親近感はより深いものであったと推測され、これ以後、粟屋党が大きく勢力を伸ばすこととなるのである。
 粟屋党との権力争いは武田氏の衰退期まで続くが、明応元年(一四九二)に早くもその片鱗がみられる。粟屋党に対する逸見党の怨念は、元信にまで波及し、同年三月、近江の六角牢人蜂起のとき武田軍総大将として出陣しているが、好んで参陣したのではないらしい・逸見弾正は二七日、織田大和守(敏定)らと堅田より琵琶湖を渡り湖東へ着陣したが(『蔭涼軒日録』)、前同資料四月朔日の条に
  去月廿九日、於二江州愛智河原一有二大合戦一、六角牢人凡四千人計
  出張、安富筑後守之合力勢、武衛(斯波氏)以二織田大和守敏定二為大
  将一も赤松以二浦上美作守則宗一為二一大将一、武田以二逸見弾正一為二大
  将一、三家衆合千人計有レ之云々、○中略○北房云、去月廿九日
  大合戦有之、浦上高名無二比類一、織和同心合戦、敵勢四千人計
  有レ之織・浦両勢纔七八百許有レ之、逸見弾正者取二-上山上一見物
  云々○下略
と記され、四〇〇〇対七、八〇〇という苦戦にもかかわらず山の上でのんびりと観戦していたことを伝えている。元信の面目は丸つぶれであった。この資料にいう逸見弾正は繁経の子と思われるが、彼の軍勢は、二、三〇〇人であったことも知ることができよう。さらに同年九月四日、草津(滋賀県草津市)の陣において粟屋党と逸見党が喧嘩し、粟屋方数大が死亡、逸見方も一〇大内外が斬死し双方で一七人が討死、逸見は二か所の傷を負って危いところを半沢某に助けられるなど(『前同日録』)、その確執はますますエスカレートして行った。
 これらは粟屋党の台頭に対する逸見一族の巻返えしと考えられるが、このことによって元信はより粟屋親栄を登用したと推測されるのである。逸見党は若狭武田を武力で支えて来たという自負心を持っており、文人肌の粟屋親栄を重要視する元信への反発がさきの不参戦であり、また抗争となったのであろう。
 こうした逸見氏の不満は、永正三年に始まった元信の丹後攻略にも影響を与えており、大きな戦力とはならなかったようである。武田軍団で勇名を馳せた逸見氏は、丹後合戦にはほとんどみられず白井清胤(石見守)らが戦力の中心になっている(『白井家文書』)。この頃逸見一族のうっぷんは頂点に達したらしく、永正一四年(一五一七)丹後守護代延永修理進春信に呼応、ついに叛乱を起こしたのである。

永正の叛乱  永正年中の丹後守護は一色義清であったが、永正一四年守護代延永春信は一色一族同九郎を擁立して義清に対抗、その力を持って義清と同一味被官石川直経(与謝郡加悦町加悦城主)を追放してしまったのである。永正の始め丹後を攻めていた元信はこのときは義清の応援をしており、幕府は朽木稙広・朝倉孝景を動員し丹後の内紛を押えようとした。
 ところが、武田氏の内部では逸見一党が離反、一色九郎・延永側に味方したのであった。丹後一色氏の内紛と若狭武田氏の内部分裂がともに結びついてこの様な状況をつくり出したのである。戦線は丹後・若狭両国にひろがり、同年五月には延永春信が軍勢をひきいて若狭へ入国したらしく『御内書案』に
  延永修理進事、至二若州和田一着陣、然者不レ移二時日一、令合二-力武
  田大膳大夫一、別而抽二戦功一者、可レ為二神妙一候也
    六月二日
           朝倉弾正左衛門尉とのへ
とある。丹後守護代延永春信は逸見支配地の和田に陣を構え、逸見氏ともども小浜を窺ったのであった。元信は逸見氏に不穏の動きがあることを早くから察知しており、四月には隣国近江の朽木稙広に対して友好関係を画策していた(『朽木家文書』)。幕府は朽木・朝倉氏に対して、一色義清・武田元信への合力を命じており、延永氏和田着陣のときも、いち早く出陣、延永・逸見連合軍を若狭国内から追い出し、丹後倉橋城(舞鶴市行永)まで退去させている。朝倉軍は同年八月二日丹後倉橋城を攻撃しこれを落城させたのである(『御内書案』)。
 この叛乱は幕府の後立てによって丹後延永・若狭逸見ともに敗北し、逸見氏はおそらく全面降伏したのであろう。そののちもそのまゝ存続しているのである。もっとも、この叛乱にどの程度力を入れたのか明らかにできないが、いずれにしても、この敗北によってかつての強大な権力は失墜し、以後においては武田氏奉行人としてまったく出現せず、わずかに大永五年(一五二五)八月二七日付逸見高清(美作守)・六郎連署田地寄進状(『明通寺文書』)が認められるにすぎない。これは、逸見高清が守護武田元光(大膳大夫)の証判を得て明通寺本堂へ田地二反を寄進したもので、これによると東郷四郎丸の田地となっており、逸見氏私領が松永庄にも存在したことを示している。
 永正の判乱の背景には、やはり粟屋氏がからんでおり、左衛門尉親栄が永正四年六月二七日丹後戦線で討死したあと(『実隆公記』)、粟屋党の領袖となった右京亮元隆の勢力がもっとも拡大された時期にあたる。元隆もまた文化人であり、かつ強大な軍事力を持つ武将であった。のちに元隆は逸見氏に助力を求め叛乱を起すことになる。

天文七年の叛乱  逸見氏が再び大きな力を得るのにはかなりの年月を要し、天文~永禄の駿河守昌経の出現を待たねばならなかった。天文六年(一五三七)の冬、若狭の各所で盗人蜂起するという前代未聞の事件が起こり、守護武田元光の威信はまったく地に落ちていた。この頃、嫡子信豊と一族中務少輔信孝との家督争いが起こり、粟屋元隆・逸見某らは信豊に対抗、信孝を擁立して叛乱を起こしたのである。天文七年二月二七日元隆は丹波へ出奔、同六月一四日逸見党の謀反が発覚、元隆らは丹波から名田庄へ入り小浜を攻めようとした。七月一四日信豊は谷田寺へ出張り二七日に名田庄を攻めている(『羽賀寺年中行事』)。この合戦で粟屋元隆は敗れ丹波へ没落するが以後、幕府の説得で断念し、翌天文八年には信豊か家督を継いだのである。この叛乱では逸見氏のフルネームは出て来ずまたさほどの動きもしていないが、天文末年頃には駿河守昌経が存在したものと思われる。

砕導山城の築城  高浜町中央部の宮崎地区に位置し、国鉄小浜線高浜駅の東南にあたる。国道二七号線に面して式内社佐岐治神社があり、その裏山一帯に山城跡がひろがっている。当初、砕導山城は前頁見取図の①・②・③郭しか判明しておらず『若狭郡県志』にみられる逸見氏出城跡という記述をうのみにした調査だったため、その部分しか見なかったのである。
 ところが、当町在住の杉本泰俊氏の確認によって広範囲におよぶ城郭の存在が明らかになり、再調査をおこなった結果、八五〇メートル×六五〇メートルの全容が知られることとなった。勿論これほど大規模な山城は若狭では他に認められず、若狭守護武田氏の本城後瀬山城よりはるかに大きい。この城にみられる通り、逸見氏の強大な勢力拡張の背景には、武田と同族という一面もあるが、武田氏若狭入部以来、初期の軍事力が逸見氏を中心としたものであることもその理由の一つとなろう。
 武田氏四代元信以降、粟屋党の台頭によって次第に武力集団が均衡化し、逸見党の主力的地位が順次衰退するなかで、一門衆逸見党の横暴さに批判勢力が対抗するようになつたと推察される。その結果、守護にうとんじられた逸見党は永正・天文・永禄二回計四回にわたって叛乱を起こすことになった。
 砕導山城は、さほど古い時代のものではなく、おそらく天文年中(一五三二~五四)頃に築城されたと考えられるものである。もとはこれほど広い範囲ではなく、永禄四年(一五六一)の大叛乱に際して拡張されたらしく、未完成の部分が多く見られる。
 城は砕導山を中心とするもの、千丈ケ嶽を主郭とするもの、天王山を主として枝張りを見せるものの三つからなり、逆三角形を形成する全山が要塞となっている。砕導山では①~③郭がっくられ、一部削平されているものの旧態をよくとどめており、堀切り・竪堀もみられる。③郭は北東へ二~三メートルの段切りをして一一郭が連続し最下段は海抜七五メートルのところに位置する。主郭との比高差は七〇メートル余りである。これらの郭はいずれも小郭で、長方形、方形、三角形などに調整され、最先端郭は街道に向かって半円形につくられ、その先は急傾斜面となる。先端郭は稜線の張出した突端に位置するため、眼下に町並みがみられ、さらに和田・高浜町西部市街地が一望される。
 ④郭は千丈ヶ嶽の突出した山頂に主郭を配するが、ここでは北稜線と西側稜線上に見事な掘切り・竪堀(前頁写真)が残されており、この延長が⑤・⑥・⑦となる。今一つは、天王山⑧郭を中心として⑨・⑩郭を形成するもので、⑨郭の先端は現国鉄小浜線に、⑩郭は子生川に接し大飯町佐分利谷への道路に面している。さらに⑪郭はこれら山嶽からやや離れた南側山嶺に築かれており見張台的な要素を持った一郭と考えられよう。砕導山の中段郭②から尾根上に千丈ヶ嶽へは連絡路がっけられており、堀切に接して土橋(上写真)もみとめられ、山城としての典型的な形態をとどめている。砕導山城は以上のような結果を得たが、城の要図は見取図的なものであって正確ではないことを記しておきたい。とくに、腰曲輪については、後世に削平されたことも考えられ、さらに検討を要するであろう。

永禄四年の叛乱  天文七年(一五三八)以後、体制を立直しこのような城郭を築いて若狭国西方の一大勢力として存在したのは、好戦的な駿河守昌経の出現によるものである。彼はまた野心家でもあった。しかし、天文二〇年の武田信豊田辺(舞鶴市)陣立には同行しており、翌二一年春には信豊か逸見の城に入城するなど(『羽賀寺年中行事』)、武田信豊の段階ではきわめて友好的な関係が保たれていた。ところが、弘治二年(一五五六)武田氏家督をめぐって国内争乱が起こり、信豊の弟宮川新保山城主、宮内少輔信高が討死、信豊は隠居させられるという事態が発生した。信豊と子息義統の争いであった。信豊は隠居したもののその隠居料をめぐって再び争いが起こり、一時信豊は近江へ退出するというところまで行った。義統には、朝倉義景がっいており、この争乱は永禄四年までつづいたらしい。逸見昌経は信豊に与したものか『続群書類従』武田系図には「○上略或記曰、信豊永禄元年巳未十月廿三日逸見謀反、同十一月七日与二義統一父子合戦、辰刻信豊方千賀左京亮以下卅余人討死〔此説有疑〕○下略」とあって、永禄合戦と記している。ここでは此説に疑ありとするが、信豊・義統の合戦は事実で、近江へ出国した信豊は同国より義統を攻めようとして熊川に着陣している。このときは近江守護佐々木氏の仲介で事なきを得たのであった(『羽賀寺年中行事』)。
 この期を利用したのが守護方に不満を持っていた粟屋勝久・逸見昌経ではなかったか。両者は信豊方に属したため敗北し国外へ退去していたことも考えられるが、砕導山城の規模からみるとこの城を拠点にして虎視眈眈と機会を狙っていたことが伺える。『厳助往年記』下(東大影写本)に
  (一五六一)
  永禄四年
   入月 日 若州江法雲・粟屋本入国、自旧冬及合戦、自越前
        武田合力入衆一万千斗罷上云々、仍法雲・粟屋・
        逸見本入衆悉引退所々城数ヶ所落居、逸見城取廻
        也、責之。
と記録され、朝倉義景軍が応援として一万一千の入軍を送りこんだことを示している。ここに記される法雲とは、丹波八木城主松永甚介長頼(蓬雲軒宗勝)のことで、悪名高い松永弾正入秀の弟である。この頃、丹波から丹後へ侵入、加佐郡にも勢力を伸ばしており、その人物と逸見・粟屋が手を結び、武田氏を攻撃したのであった。
 この合戦は右の文に旧冬よりとあるように、永禄四年正月早々からおこなわれており『白井家文書』に
   (正月一日)         (被)
  去朔日、於和田合戦之刻、同名与力披官入?或打入刀突鑓・或
  分射分捕以下、各蒙疵剰討死在之、無比類忠節候、別而依申付
  如此之働神妙候、弥相勇可抽粉骨状□如件
   永禄四       (武田義統)
    正月廿八日     義元(花押)
         白井民部丞殿
とあってその事実を証明することができる。
 蓬雲軒宗勝の軍勢は田辺より若狭へ入っており、一方その支配下にあった川勝光照(豊後守・京都府北桑田郡美山町今宮城々主)も、六月八日北桑田郡野々村衆を動員し若狭へと迫って来た。名田庄谷・舞鶴側の二面作戦がとられたらしい。六月の合戦は二度おこなわれており『大成寺文書』逸見維貴書状に「其内両度合戦候へ共、何も当国被得勝利候」と記され武田義統の勝利を伝えている。『厳助往年記』に云う六月の合戦とは、一九日のことである。丹波勢は天田郡と桑田郡の軍勢を集結。一方、逸見方も一族を動員しており『前同文書』に  此方之衆一番ニ者右馬允、同筑後父子・甚介・与七・与力衆中津海此衆ニ入数相添被立候、其後、六月一九日より河内父子ニ入数相加、重而相立申候とあって、総力を結集してこの一戦に立向かったことが知られる。一九日合戦は『御湯殿上日記』永禄四年入月二二日の条に「若狭の事ほううん十九日の合戦、若狭よくて、八里こなたへほううんのきて国静かなるよし、武家へちうしんの由沙汰あり」と記されており、丹波・逸見・粟屋連合軍と、武田・朝倉連合軍の一大決戦は永禄四年六月一九日であったことがわかる。『厳助往年記』にいう逸見の城は砕導山城と考えられ、落城した日も伺うことができよう。ここに逸見河内がみられ、この頃すでに逸見軍団の指揮者として存在したことが知られる。
 永禄四年の叛乱は、叛乱というより下剋上と云った方がより適当かも知れない。若狭守護武田信豊・義統父子の相剋を利用した守護被官人らの国取り合戦であり、結果は朝倉軍の強力な軍事援助によって排除されたのであった。丹波・若狭連合叛乱軍がどのくらいの軍勢であったかを知ることはできないが、砕導山城の規模からはかなりの人数であったことが推察されよう。もっとも、逸見氏はこの合戦でも主役にはなり得なかったのである。

逸見昌経の高浜築城  高浜城は『常田文書』高浜記録に「逸見信濃守高浜御取被成、今ノ砕導山ニ御在城、逸見駿河守ハ穴山ニ城御築。中略永禄八年丑年ナリ、天正九年巳迄十七年居城○下略」とあって、永禄八年(一五六五)逸見昌経によって築城されたことを伝える。
 城は上の写真でみられるように、若狭湾に面して東西に伸びる高浜町の中央部に位置し、海へ向かって突出する二つの小半島を囲む地域をいう。城山と総称しているが、現在は公園化され旧態はほとんどとどめていない。城地は北・東・西の三方を海に囲まれ、南側に平地を持つ平山城の形態を示すが、立地的には海城としての要素も備えている。左方海へ突出したところが主郭となる。しかし、公園造成のため殆んど削平されており、主郭の中心部は道路で切断されるなど、城郭としての面影は残されていない。
 現存する遺構は一部石垣積みをした城台と、その中央部に痕跡をとどめる櫓台跡しか見当らず、最高所には城跡の標識が寒々と海風をうけていた。
 本来の高浜城は、現在公園化されているところ全てと考えられ、かなり規模の入きいものであったと推定される。この当時、若狭国内の城郭がすべて山城であるのに平山城であったことが注目される。若狭では勿論初めてであり、全国的にみても早い時期にあたる。このことは逸見昌経が非常に先進的な感覚を持った武将であることを証明し、また、この地に城地を選定したことは水軍編成にも利のあるところからと推察されるのである。
 永禄四年の叛乱は前述のような結果となったが、逸見一族はその時落城した砕導山城を放棄し、前記の海浜部に城郭を築き本城とした。義統の守護権力が確立したのは、この叛乱を押えてのちと思われ、背後に強入な朝倉義景の存在を国中に知らしめたことにより、義統に反抗する勢力への政治的圧力を加えることとなった。しかし、自主制のない守護職は被官人らにとって無意味な存在でしかなかった。一応義統政権は平穏無事であったが、永禄六年(一五六三)若狭東部の美浜町佐柿国吉城で粟屋勝入(越中守)が蜂起したらしく、朝倉軍が包囲し攻撃を開始した。これはおそらく義統の要請による粟屋征伐であっただろう。この戦いは以後元亀元年(一五七〇)織田信長の若狭入国まで続き落城しなかった城として後世に名を残した。

永禄九年の叛乱  一方、西側では逸見昌経が高浜城を築き着々と軍備をととのえていた。軍備拡充の中には水軍編成もあったと考えられ、水軍を基盤にした逸見氏の出現が、永禄九年(一五六六)の叛乱となって義統と再び一戦を交えることとなったのである。
 もっとも、この背景には義統と子息孫犬丸(武田元明)との確執があり、逸見昌経・粟屋勝久らが元明を擁立したことも考えられる。彼らは、義統をまったく恐れず、むしろ、自分達の力に絶対的な自信を持っていたと推定され、東・西相呼応して義統と対決したのであろう。ところが、義統はそれを見抜いて朝倉氏に勝久攻略を依頼して動けなくし、一方では、自己勢力を結集して逸見氏に当ったと思われる。
 この戦いは逸見方が水軍をもって海上から攻寄せたのである。義統は、加斗坂・執坂に大塩・寺井・土屋・韓神・兼田・塩見等、守護被官及び国人衆を配して防備を固め(『若狭郡県志』)、山県秀政(下野守)を将として水軍を編成、桑村九郎左衛門尉、竹長源八兵衛らが乗船して夜明頃出動、久手崎示浜市西勢か)へと向かった。『前同文書』に「○上略敵兵亦乗レ船而来、両士則移二敵船一而相戦、敵兵或自没二海中一或戦死、風浪急起而船到二海浜一敵之残党皆于陸路之陣中○下略」とあってその模様を伝える。また、『桑村文書』に
  就今度逸見駿河守叛逆、桑村九郎右衛門属其手、於曽伊表討捕
  逸見河内守、并於久手一戦之砌、舟一艘分捕、其外数度忠節無比
  類働候条、諸役数代免許候、弥被相勇抽粉骨候様司被申聞候尚
  秋山玄蕃助可申候、謹言
   六月廿一日  (武田)義統(花押)
      山県下野守殿
があり、逸見方大将河内守の討死したことを示している。曽伊表とは大島半島浦底地域と考えられ、丸山々頂には城郭があって逸見方水軍の本拠と推足される。逸見河内守は永禄四年の叛乱にもかかわっており、逸見党の有力武将として重きをなしていたらしい。いずれにしても、逸見氏はまた敗北してしまったのである。
 義統は一応の勝利は得たものの、逸見氏をさらに追撃しこれを懐滅させようとはしなかった。いや、できなかったというべきか、それはどの余力がなかったのかも知れない。逸見昌経の二度の叛逆は実力の伴わない守護職を、一門である自分がとって替っても不自然ではないとの感覚にもとづくものではなかったか。或いは文明六年以来のうらみがこうしたかたちで吐露されたのか。叛逆にいたる要因は単純ではなく複雑なからみがあると考えられるが、四度の叛乱にもっぶれず、また盛り返してくるエネルギーは信しられないくらい強烈である。逸見氏は武田一門衆として被官人らの上に重くのしかかっており、別格的存在として位置づけされていたのではなかったか。このことは武田氏が一門衆を家臣に組入れることを完全になし得なかったことにつながる。宮川武田氏を義統と同等と見なしていた被官人の考え方からもそのことは伺えるが、これは若狭だけではなく、徳川家康も一門衆の家臣化に苦慮しており、あの毛利元就ですら隠居料をめぐって家臣団からつきあげられるなど、各地でトラブルが起こっている。
 叛乱鎮圧後、義統と宮川新保山城主武田信方(彦五郎)に対して被官人らのうちには起請文を提出して忠誠を誓ったことが考えられ、『大成寺文書』に
     敬白起請文之事
  一奉対 義統様、於向後相構如在候輩雖有之、不可致一味之事
  一義統様就今度之儀、御意ニ背申侯族緑者親類同名之者、申□
   間敷之事
  一(宮川)信方様江大小事共ニ得御意、聊以不可存疎略之事
    違背此旨
   梵天帝釈四天王、惣而日本国中大小神祇、別而伊勢両宮、八
   幡大菩薩、氏神、伊豆箱根権現、三嶋大明神、天満大自在、
   天神部類眷属可蒙御罸者也、仍起請文如件
    永禄九年九月吉日  熊谷新次郎
                 統直(花押)
        河辺中務丞殿
が残されており、そのことを裏づけている。この他、大成寺文書の中には丹後陣立てや、前述の永禄四年内乱時にかかわる人物の名を示す逸見維貴書状等がある。
 大飯郡における大成寺の存在価値を充分考えねばならず、この寺の果たした役割は以外に大きいものがあったと推測される。大成寺については寺院の項で詳細に述べられると思うのでここでは記さないが、同寺四世心月和尚は中央と深いかかわりを持っていた。『蔭涼軒日録』延徳三年(一四九一)五月二八日の条に「自二若州大成寺心月和尚一状到来、副以二海松一箱」の一文がある。さらに『鹿苑記』明応二年(一四九三)二月二日の条に「崇寿院主之事、前鹿苑錦江未上請心月和上充之、而心月在若州、以状辞之」とあって銀閣寺和尚が推挙しても中央寺院へは行かなかったことを示している。これによって大成寺が足利氏と深いかかわりを持っていたことが知られるが、永禄九年の頃は景慮梵伎和尚が住職として存在した。梵伎首座の出自は寺伝によると武田姓となっており、京都建仁寺十如院に在ったが、英甫永雄(建仁寺二九二世・新保山城主武田信高の子・義統の従兄弟)の要請によって大成寺へ入ったとする。永禄九年の叛乱和解には、おそらく大成寺梵伎和尚の働きがあったと思われ、逸見一族であろう左馬維貴の書状には、その都度の状況が同和尚に報じられている。
 永禄一〇年、義統卒後子息元明(孫犬丸・孫八郎)があとを継ぐが最早守護としての実権はなく、若狭国内は旧被官人らかそれぞれの所領に立籠り独立してしまった。翌一一年八月には元明は越前へ拉致されている。この頃、若狭の武田氏被官人らはすでに織田信長と手を結んでおり、永禄一二年(一五六九)正月四日、三好長逸らとの戦いには、若狭衆として山県源内・宇野弥七らが参陣し討死するなど『信長公記』、武田被官の信長寄りが認められる。
 逸見昌経も例外ではなく、いちはやく信長と手を結んだらしい。国内での逸見氏は永禄一一年一一月三日志楽(舞鶴市)の住人粟屋右馬助と吉坂峠で合戦、粟屋方矢野要助と逸見方岡野弥助の一騎打ちがおこなわれ逸見方が勝利を得るなどの一幕もあった (『若狭国伝記・武田永禄記』)。また、同月には佐分利石山の城主、武藤友益(上野介)との合戦があり。しばしば武藤氏と攻防戦をくり返えしている。武藤氏は宮川新保山城主武田信方とともに、朝倉方につき織田信長に抗していた。
 一方、逸見昌経は、元亀元年(一五七〇)四月、京都を進発して若狭へ入った信長を、粟屋勝久・内藤勝行らと熊川まで出迎え(『国吉籠城記』、信長の先陣として朝倉攻めに参加している。天正元年朝倉氏滅亡以後は、丹羽長秀に属し、同三年八月の越前一向一揆攻めには「海上を働く人数、粟屋越中・逸見駿河・粟屋弥四郎・内藤筑前・熊谷伝左衛門・山県下野守・白井・松宮・寺井・香川・畑田」 (『信長公記』)とあって、数百艘の船を動員、越前の浦々を攻撃するなどの動きがあった。若州衆は信長の先陣として各所で戦っており天正五年(一五七七)二月には京都在陣、天正六年正月安土城、同年四月の大阪攻めなど活発な動きを見せている。
 天正九年二月二八日の織田信長馬揃えには「一番に惟住五郎左衛門長秀、并に摂州衆、若州衆、西岡の河嶋」とあって、逸見氏など若州の侍は一番衆として馬場入りをした(『前同』)。
 信長の与力として活躍した逸見昌経は、信長によって旧領五〇〇〇石と新知分武藤・粟屋跡三〇〇〇石が加えられ都合八〇〇〇石、これが昌経の所領であった。一説には大飯郡全域を領し、石高一万九〇〇〇石とされているが、実際はそうではなかった。しかし、それにしてもこの所領は旧武田氏被官人中最大であり、若狭国西端の雄逸見昌経を信長も認めたのであった。ところが、連綿として続いて来た若狭逸見氏の本流は、逸見昌経の病死によってその命脈は断たれてしまったのである。『信長公記』天正九年の条に
  四月十六日若州逸見駿河病死仕る。彼領中八千石、此内新知分
  武藤上野跡、粟屋右京亮跡三千石、武田孫八郎へ遣わされる。
  相残て逸見本知分五千石、惟住五郎左衛門幼少より召使候溝口
  竹と申者召出され、逸見跡一職、進退に五千石下され、其上、
  国の目付として仰付らるゝの間、若州に在国仕り善悪を聞立見
  及び申上ぐるべきの旨、忝くも御朱印下され頂戴、後代迄の面
  目これに過ぐるべからず。
  四月十九日、武田孫八郎・溝口金右衛門岐阜へ参り、御礼申上
とあって、昌経病死のあと所領は分割され逸見家はここに没落したのである。旧守護武田元明か新知分を拝領したのはまことに皮肉な結果であった。信長は小浜湊を持つ若狭国を自己の支配下に置くことを狙っており、第一段階が昌経の死であったといえる。したがって彼の領地を丹羽長秀に属した溝口秀勝をして所管させたのであろう。一説に昌経には子が無くそのため断絶したとするが、『若狭郡県志』には子息源太虎清の存在したことを記している。昌経の臣沢村才八吉重(のち大学助)はこれを擁して逸見家再興をはかったが、天正十年信長が本能寺において横死したため頓座したという。
 沢村吉重はのち細川忠興に仕え各地で戦い武功を挙げており(『武将感状記』)、逸見支族及び旧逸見氏与力の人々は細川家に抱えられている。逸見家取潰しは丹羽長秀のざん言によるとするが、神経のこまかい信長が昌経の家族構成をしらない筈はなく、やはり意識的に若狭の大族逸見氏の消滅をはかったと考えられよう。
 高浜城は逸見氏没落以後、溝口氏を始め大飯郡を領した諸家によってそのまま利用され、寛永一一年(一六三四)酒井忠勝入部まで存続した。このことは城の機能が近世にも通用したことを意味し、逸見昌経の近世的感覚が高く評価されるものである。築城以来六九年、戦国期に没落した氏族の城郭としては異例であったといえる。.




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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