丹後の地名 若狭版

若狭

旧・内浦村(うちうら)
福井県大飯郡高浜町


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福井県大飯郡高浜町内浦築

福井県大飯郡内浦村






旧・内浦村の概要




《旧・内浦村の概要》
青葉山の北にある内浦湾に面した村(一部東の高浜湾に面する)。
中世文書に「内の浦」と見える地域。若狭国大飯郡のうち。弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状に「西方内の浦」と見え, 300文を奉加している。西方とは大飯郡を指し、この場合の内の浦は現在の内浦湾岸一帯を総称したものであろうという。
内浦村は、 明治22年~昭和30年の大飯郡の自治体名。難波江・小黒飯・音海・神野・神野浦・山中・鎌倉・下・宮尾・日引・上瀬の11か村が合併して成立した。旧村名を継承した11大字を編成。昭和30年高浜町の一部となり、当村の11大字は同町の大字に継承された。

『大飯郡志』に、
大正十三年要覧に拠るに、全村に一車輛も無きは本村と大島となるが、漸次之を見るに至れり
とある。どちらも原発をかかえる地域だが、こうしたロクな道もない陸の孤島の寒村にゼニ儲け人は目をつける。安全ですよ、アメリカ以上の技術力があります、大金が落ちて村は考えられないほどに豊かになります、村は一変して近代最先端の村になりますとか言って。
そんないいものなら都会に作れよ、何でこんなド田舎ヘもってくるのだ、おかしいではないか、そんなウマイハナシがあるか、と不信をもった人もあろうが、ヨクボケ村人もあったのであろう、インチキ商法はだしの国策で原発がつくられた村である。
一車輛も無き村に、今は原発工事の10トンダンプがカンガン走りまくっている、カンドーだなー、コバンのクソ連中に占領されてしまったような村の感じを受けるのだが。
内浦湾は古青葉山のカルデラで、村全体が斜面、海岸線にも全く平地を欠く、山がそのまま海に落ち込んでいる。昭和44年内浦湾東部が開港となり、外材移入が増大し音海の南の海面が埋め立てられて製材合板工場が立地した。昭和49年関西電力高浜原子力発電所が立地、トクに原発のあるあたりは、それまでは車が通れるような道らしい道はなかった。




旧・内浦村の主な歴史記録


『大飯郡誌』
地貎 内浦灣を包みで成れる本村は、南境青葉山を関節部としたる、蟹剪形を爲し、山中神野は筋肉部、押回鼻 音海 兜崎 上瀬 は其爪端の如き觀あり。
陸地は悉く山岳、沿岸は悉く岬角灣澳群礁とも云ふ可く、河川は所謂渓流にして、難波江の小流東高濱灣に注ぐの外は、北見、五谷田、奥谷等大小悉く内浦灣に注げり。
山岳は南境の青葉山を中心として、西境には向山、桐迫、奥輸田、野丹羽、八王神の諸峯並び聳え、

東は音海半島にして、北より 笠竹、瀧谷、高片、尾田羅の諸山屏立し、白土坂を通じて、青葉山と連れり

内浦灣は舊噴火口にして、村名の原づく所、北の一角を僅に缺き、他は悉く其外輪山峰にて圍遶せらる、其東北邊は押囘鼻にて、タガ崎突出して、大小之シヤ、クスのΞ礁兜島其崎端に散在し、昔海浦と凹み 松ケ崎と凸み、長島と散り、田ノ浦と彎入し、南しては城浦鼻少凸し、壇ケ廣瀕の兩鼻双出して、山中浦を形くれり、見上山は壇ケ鼻の廣瀨山は廣瀬山の最高慮をいひ、西張鼻と傘礁は山中浦の東邉に在り。西しては、カブロ浦長崎鼻鬼礁鰺ケ濱取崎日引浦ヱラケ鼻上瀬浦を經て、正面岬又兜岬に到りて尽く、此岬と松崎附近に鰤漁場あり。

昔海半島の東岸 高濱彎に面す は、南より 脇坂、小崎、雁田、の三鼻を出し、名島の群礁 名勝 を久木演鰐礁鼻小丹生浦小泊横濱の小出入ありて今戸岬に達し、西折して小山鼻トチガ島大師洞を形りて押囘鼻に達す、ヘタ澗、沖澗、獅子、男の諸礁風島は小泊り附近に散在し、イ礁は其北に在り、此附近一帯は有名なる鰤漁場なり。

地質 本村の大部分は輝石安山岩より成り、東岸難波江の海セイに三紀古層、 名島は其海に没入せしもの 内浦灣の兩邊山中鎌倉上瀬に中生層、東邊の音海西邊の鎌倉日引に石英粗面岩、南邊山中 の一部 に閃緑岩の多少露出せるを見るのみ。難波江鎌倉等より産出する介化石は、三紀古層中生層の砂岩頁岩等の間に介在し、難波江の時雨石は宏山岩の稜角圓くなれるもの、日引石は安山岩質の凝灰岩及石英粗面岩質の複成凝灰岩なり。

合併事由 各村ハ現今ノ戸長役場所轄區域ニシテ従來内ノ浦組卜稱シ既ニ合同ノ習慣アルノミナラズ人情風俗ヲ同ウシ地形上ニ於テモ交通ノ不便ナキニ付相當卜認メリ尤モ神野山中鎌倉音海ノ四ケ村ハ各自獨立ヲ望ミシモ何レモ小村獨立ニ堪ヘス之デ容サバ自餘ノ村々獨立スル能ハズ其他難波江小黒飯ハ青郷村ノ區域ニ合セン事ヲ望ミシモ地形上太甚シキ便否ノ差アルニアラズ遂ニ斯クセリ
沿革 青葉山に南を劃らる丶本村は、蕭絛たる漁村として経過したるにや、載籍上の所見多からず。延喜の頃神野浦の人春日爲光松尾観音寺草創せしと傳ふ。〔倭名抄〕の阿遠郷に、此村も含まれしは定説なり 其郷内なりしとすれば、太古飯豊青皇女又稱忍海部の御名代なりしなる可し。
(若狭神名帳)に載する酒垂明神は小黒飯の天神なる可く、正五位鞍道明神は此村内にありしならむ


鞍道浦 鞍内浦 共に(東寺百合文書)崇徳帝大治元年の公驗状と近衛帝仁平元年の附属状に見え、此村内の沿海地にて、内浦の名も或は之に原づきし乎。此浦は青郷に近く、丹生氏 之は丹後加佐郡(西大浦村)大丹生の領主ならむ。三方郡にも丹生浦あれど、餘りに遠隔せり。丹後のと誌むるが妥当ならむ の所領たりしなり。
現今丹後に属する田井浦松尾寺等一帯の地が、本郡に属せしは、〔太田文〕此國の内に田井保を載せ、且抑領の語あるを據とし、全郡誌沿革章に既に考證せり。〔同〕に見えて久しく春宮御厨たりし青保は本村にも瀰しが如し。〔同〕に見ゆる二三について説述せむ。
恒貞浦 難波江小黒飯は此浦内なりしならむ。

 〔太田文〕 国領 恒貞浦 十五町六反百十歩 …地頭職税所分  
友次浦 除青 山中一町四反也とあるにて、神野浦山中等なるは明かなり。国領-定田五町七反三百歩―地頭職税所分 たりしなり。

山中 は此浦内なりしも 山門沙汰―天台石泉房領-地頭得宗領たりしなり。(山中に日枝神社あるは其の傍証也)此地 青郷内青保内 が、〔建久交名状〕に見ゆる青氏との関係は徴證す可きもの無し。社寺の縁起に據れば、遡り得るも、之は如何ある可き。南北朝以後内藤氏 武田氏臣? 此に居り附近を領せしが如し。
慶長の頃佐々一義此地を領せし事〔若狭郡縣志〕に見ゆ。
舊藩治時代には、鎌倉が上下二區に分れ居り、十二ヶ村を算し、内浦組と稱せり。



『大飯郡志』
六斎念佛 毎年一月十六日を念佛初めとし、十一月廿四日を念佛をさめとす。その開葬式法會共に其宅に至りて、鉦三、太鼓三に合せて念佛す。多くは青年の務とせり。
蟲送り 作物に蟲生じて被害甚しき年は、區内の老若隊をなし、鉦太鼓を折ちならし、海邊に此の害蟲を送、また村の一部にては六月中に之を行ひ、其都度船を造りで海に流すもあり。
疱瘡流 小児種痘をなし一週間をふれば、桟俵の上に赤飯をのせ、笹葉を白紙にて卷き、不倒翁をのせ道傍辻等に置く。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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