丹後の地名 若狭版

若狭

和田(わだ)
福井県大飯郡高浜町和田


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福井県大飯郡高浜町和田

福井県大飯郡和田村和田






和田の概要




《和田の概要》
JR「若狭和田駅」↓の北側、海までに広がる広い一帯。

和田荘は、鎌倉期~戦国期に見える荘園名。文永2年11月の若狭国惣田数帳案の新荘のうちに「和田庄三十四丁」とあり(京府東寺百合文書ユ)、 12世紀頃よりもあとに成立した荘園と考えられる。建久2年10月日の長講堂所領注文に見える「和田庄」は当荘のことと見られている。室町期の文安6年5月2日に「大飯郡和田庄馬居山西光寺」の僧14人が京都の東寺修造料として計2貫文を奉加している(京府東寺百合文書ヌ)。この西光寺は現在の馬居寺の前身と考えられており、これによって荘域は江戸期の馬居寺村をも含んでいたことがわかる。寛正6年10月4日の幕府奉行人奉書は、大飯郡本郷の国人領主本郷氏の申請によって大飯郡の大島山と和田山の間の本郷山境について東は松登尾、西は甲岩を限ると定めている(東史本郷文書)。武田氏有力家臣の粟屋氏が現地を支配していた。和田は海上交通の要所であったため、永正14年6月に丹後国守護一色義清の守護代延永春信が若狭高浜の逸見氏と結んで、若狭に侵入した時には和田に陣を構えている。永禄4年正月にも和田で丹後勢との合戦があった。連歌師の里村紹巴は天橋立見物の途中の永禄12年6月15日小浜から船で和田に行き、「粟屋小次郎殿館より、北のふもとの一宇にかりの宿を定ぬ、十六日には舟あまたして、かつきのあまのミならす、待(侍カ)衆さへ海に入て、島々の岩かけのみるめとり、あはひさたをり、何よけんとてかへりぬ」と記す。馬居寺の白石山城に居館を構えた粟屋右衛門大夫・小次郎の父子は紹巴と親交があったようで、同紀行に小次郎の句「月を梶に行舟すゞし和田の原」もみられる。「若狭郡県志」によれば、粟屋右衛門大夫は和田村白石山に城を築いていたという。また,紹巴の紀行文にもあるように小浜~和田の間は船が用いられており、天正16年11月25日に浅野久三郎は小浜の桑村玄作に「和田通舟」の船賃は浅野氏の下級家臣であっても取るように命じている。

和田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。右衛門太夫が居住したという白石山城跡がある。当村は江戸期には大飯郡内を支配する陣屋が置かれ、また社倉と伝馬も置かれていた。「雲浜鑑」によると、陣屋は地坪840坪。屋形・台所・表長屋ともに建坪95坪、門3か所、奉行役宅70坪、表門1か所とある。和田陣屋下~小浜間を結ぶ和田通船が明治初期まで続けられ、本郷村・勢井村にも寄港した。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年和田村の大字となる。
近代の和田村は、明治22年~昭和30年の大飯郡の自治体。和田・馬居寺・上車持・下車持の4か村が合併して成立した。旧村名を継承した4大字を編成。交通の要路に当たり海陸の連絡基点になっているため商業も盛んとなり、大正13年頃まで小浜~和田間に淡路島丸と末広丸が就航していた。昭和15~20年戦時体制のもとで字弥陀谷・片間谷に海軍火薬工廠の移築が行われ、その一部を収納した。同30年高浜町の一部となり当村の4大字は同町の大字に継承。
和田は、明治22年~現在の大字名。はじめ和田村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西12町・南北9町、戸数350、人口は男794 ・ 女832、学校1、小船169。


《和田の人口・世帯数》 1650・651


《和田の主な社寺など》

和田古代製塩遺跡
漁協があるあたりという。
『高浜町誌』
和田堂筋遺跡  採集されている土器は、浜禰ⅡB式・船岡式土器で、砂浜の中に多量の土器が散布していた。 
和田1区遺跡 浜禰ⅡB式・船岡式土器が採集されている。中でも注目されるのは、胎土の良好な灰白色を呈する製塩土器が出ていることである。小浜市岡津遺跡で、岡津式と名付けた土器に極めて共通する内容を有している。船岡式に先行し、浜禰ⅡB式の次に位置づけられているもので、これまで岡津遺跡以外では知られていなかったものである。

新宮神社

『高浜町誌』
元村社
新宮神社

伊奘冊尊
早玉男命
事解男命
和田
愛宕山      
八二八坪
三一五戸
和田全区
安土区
青戸区      
一〇月一四日       社殿
拝殿
神楽殿
鳥居
社務所      
獅子舞
鉾太刀の舞
御輿の足洗い
棒振り      
猪、鹿の頭を供える      
 諏訪神社 事代主神
 稲荷神社 倉稲魂命
 八幡社 三女神
 大神宮 国常立尊
 天満宮 菅原道真公
 猿田彦社 猿田彦大神
新宮神社
 和田愛宕山にあって、康治二年二月一四日(一一四二)創建された。(郡県志)祭神は素盞嗚尊・速玉男命・事解男命で元郷社である。一〇月一四日に例祭が行われている。
 康治元年一一月一三日漁夫常のように船を出して、網を打ち廻し、これを引き揚げようとすると普通よりも重く、よく見ると石と思われるものが網にかかり、揚げようとしたがなかなか揚がらず漁具とともに捨ておいて逃げ帰った。翌朝漁夫とともに捨ておいた物を取りにいったところ、石と思っていたものは石ではなく古木となった神体であった。皆恐れかしこみただちに当地の庄司家にこの事を告げた。これを同家の邸にお祀りした。村人は朝夕たえまなく参拝し、漁夫は漁を止め海より大きな石を取り寄せ庄司家の門に立て鳥居になぞらえ農夫は浜より砂を運び地を清めて日々参拝した。康治二年二月一四日現在の地に社殿を建て鎮座した(和田村誌稿)。
 (参考)現在庄司家の前にあるこの門の前は昔から葬儀の列が通ることが出来ないと言い伝えられている。同家では表に出ず裏より出られる。庄司家では昔より代々新宮神社に正月には門松と御饌米五合、橙一個を供進されている。.


愛宕神社

愛宕神社
 金比羅神社
愛宕大明神 和田
愛宕山
  二月初午 社殿
鳥居
 火祭り しけの時目標として道火をたく
裏山の高い所にある。

宗像神社

宗像神社 弁財天 和田
ハセギ島
    社殿
鳥居
   
新宮神社境内の海側にある。元々はハセギ島にあったものか…


海神社

海岸に「海神社」がある、ワダ神社と読むのなら、当地名を負った社になり、大変重要な神社なのだが、何も資料がない。古い社なら、安曇海人の社でなかろうか。


臨済宗相国寺派鹿王山真乗寺

『高浜町誌』
臨済宗相国寺派 鹿王山真乗寺
一 所在地 高浜町和田第百十二号七番地
一 開 創
一 開 基 叟是有信大和尚
一 本 尊 延命地蔵大菩薩
一 檀家数 三一五戸
一 由緒沿革 真乗庵開基叟是有信大和尚、文亀年中なり、と伝えるが正しくはわからない。吉坂文書によれば文亀二年四月十六日(一五○二)とある。もと大島半島の麓に在って鹿王庵と称していたが、後年真乗庵と改め、今日の真乗寺となった。寺伝によれば、当寺は遠く奈良時代の創建といい、現在の安土山をむかしは鹿王山と呼んでいたところから、山号を鹿王山と号した。当寺はもと真言宗系に属する寺院であったと推定されるが、その草創年月日等についてはわかっていない。開山有信大和尚、京都相国寺開祖普明国師の禅風に帰依して、臨済宗に転じ、相国寺の末寺となった。
 〝戦国〟に及び信長の地方政略の兵火によって、諸堂宇悉く烏有に帰し、この地を去り今の処に移って再興した。
 現在の寺域は当寺に所属していた旧末寺の寺領である。
 明治初年第十三世月川和尚代、庫裡及び仮本堂、鐘楼等を新改築し、続いて第十四世越宗和尚代、今日の高塀、土蔵を改築、続いて、薬師の森にあった薬師堂を、このとき当寺の境内に移した。
 現在の本堂は、実に二か年有余にわたる歳月をもって、大正一五年に落成した。
 その後、寺域を拡げ、鐘楼の大修理、梵鐘の改鋳等あり、昭和六〇年に改めて今の庫裡を新築した。
 境内に薬師堂がある。本尊薬師如来の縁起によれば、天平神護元乙巳歳(一二一一)三月八日の夜半、鹿王山麓の釈迦ケ浜に不思議な光りを見た里人たちは、恐る恐る近よってみると、そこに、一体の仏像があった。お身丈およそ一・二メートルの坐像で、左の手には瑠璃光の小壺を持っておられ、一見して薬師如来様とわかった。早速その地に堂を建てお祠りした。それから後のこと、ある夜薬師様は里人の夢枕に立たれ「われこそは温泉守護の大医王なり、日ならずして此の地に湯の涌き出づることあるべし」と、お告げがあった。
 それから間もなく大地にわかに裂けて湯が涌き出で、三つの池が出来た。日頃病める人たちにとってはこの上ない恵みのお湯であるとのことが、近在の人々の口伝えによって、湯治に来る人々のあとが絶えなかったという。ところが文明十三年(一四八一)五月はじめのある夜、野馬一頭どこからともなくやって来て、この浴漕の中に飛び込んだ。それから温泉の湯は濁ってしまって、お湯の効きめがなくなった。丁度その折、真乗寺の開山有信和尚の一夜の夢に、如来は「但馬の国城崎の里に縁あり、温泉を城崎に移す」とのお告げに目がさめた。有信和尚は不思議のことよと、このことを城崎の道知和尚に知らせたところ、時を同じくして道知和尚も同じ夢のお告げを受けていたとわかった。それから後はプッつりとお湯が出なくなったが、薬師如来様はそのままこの地におとどまりになった。
 それから数年たって延徳元年のことである。真乗寺境内に一本の霊木天竺桂があった。一夜その下に異光輝くを見た里人は、この地にお堂を移し秘仏としてお祀りすることとした。そのところを「薬師の森」といい、数十本の老樹が鬱蒼と繁っていたが、大正三年和田小学校々地を拡張するに当たって更に今のところへ移し替えた。
 この尊像は、行基菩薩御作と伝えられ、二五年目毎に御開帳法要がある。.



白石山城
安土山公園
『高浜町誌』
安土山
 和田の東北部のなだらかな山(標高約八〇メートル)で、展望台や、柚子園があって公園となっている。展望台より、高浜海岸と、青葉山の眺望は実に天下の絶景である。この風景が大正一三年摂政宮殿下(現在の天皇陛下)が本県に行啓の際、県より献上した写真帳に若越八景の一として収載された。また、昭和三九年若狭湾国定公園指定の記念郵便切手の図案となった。
 入江に面する南側をまきといい、往昔牧畜をしていたといわれる。山頂の和田山は屍ケ嶽(しびとがだけ)といわれ、千年前老人を捨てた姥捨山であったといわれる。


けっこうきつい傾斜の坂道を登る。眼下はこんな光景。屍ヶ嶽まで車で行ける。

牧は牧畜とは関係はないのでは、槙山寺のあった牧山は牧畜をしていた山ではなさそうで、牧場の牧は、古くは馬柵(ムマキ)という。鏡作麻気神社とかあるが、マキ、マケは金属と関係があるのでは…
安土とは堋とか書くが、弓の的を立てておく背後の土盛りのことである。そうした意味でなければ、安曇(あづみ・あど)のことであろうか。信長の安土城の安土もこの安曇の意味という。宗像神社もあり、和田は安曇、宗像の海人の拠点であったのであろうか。


《交通》


《産業》
和田漁港

左は愛宕山、右は安土山、和田山。

《姓氏・人物》


和田の主な歴史記録


『大飯郡誌』
牧場の趾 和田山の南麓入江に瀕する地に、牧磯牧灘と稱するあり、往古牧畜の遺趾ならむ。犬見の大字名は此牧畜に害ある野犬山犬を監視せしに原づくと傳ふ。
小山 和田山の西南端の小丘を云ふ、傳ふ昔郷右衛門なる者、一普化僧と相打ち共に死せしを葬りし處なりと。近者里人辨財天を祀れり。
釋迦濱 和田山の槇嶺と宮山と間の越えし所の砂洲を云ふ、真乘乗本尊の漂着〔出現〕せし地と傳ふ。


和田の伝説・民俗


『高浜町の民俗文化』
和田の雄島参り
 和田の雄島参りの参拝日は旧来より八月六日に定められていたが、近年では六日付近の吉日とされており平成四年度は八月二五日に実施された。これは若狭・丹後地方の雄島参りの中では最も遅い参拝日であるが、出港時間は高浜町では最も早い午前六時である。
 この年は中型漁船一艘に八人、上陸用の小型漁船一艘に二人の計一〇人が漁業協同組合を代表して参拝した。冠島に午前七時二〇分に到着、小型漁船を艀にして着岸し、海面に出ている丸石づたいに上陸する。老人嶋神社の境内で紅白の幟を奉納した後、神前に御供を献饌し参拝する。全員が参拝し終えると献饌した神酒を下げてきて境内で酌み交わす。その後、船玉神社と蛭子神社(瀬ノ宮神社)を全員で参拝し冠島を出発する。途中、葉積島の北側中腹に鎮座する弁天さんに向かって船から遥拝し帰港する。
 和田では雄島参りのことを「イッキ参り」に行くという。この「イッキ参り」とは、京都府丹後町の竹野神社を参拝することで、天照大神を祭神として斎き祀ったことから斎宮神社、すなわちイッキさんと呼ばれている。昔の雄島参りでは第一の目的が竹野神社参りであり、冠島の老人嶋神社を最初に参拝した後、竹野神社参拝に向かった。そのとき竹野神社の砂を持ち帰り、自宅の玄関前に撒いて清める習慣があった。また竹野神社参拝後は宮津の智恩寺と成相寺へ参拝し一泊してから和田へ帰ったというが、近年では雄島参りだけが行われている。『若狭和田郷土誌』によれば、戦前には「勢勇社」という漁村青年団が組織され漁業組合の補佐機関となり祭礼行事等を執り行ったとあり、若者組の存在が見られる。また「漁師我が家に寝ず」といわれる寝宿(ねやど)の習慣もあり、漁師の子弟が一五歳になると最寄りの宿を定めて寝泊まりをし出漁の準備を手伝ったという。このように戦前の和田の雄島参りには若者組の行事としての要素があったと思われる。)


『若狭高浜むかしばなし』
和田の水田
 和田の水田地帯は、かつて沼だったという。江戸時代初期、沼を埋め立て豊かな耕地をつくったのは、一人の乳母だった。
 その乳母は和田村の出で、小浜藩主酒井忠直に仕えていた。実に忠誠よく奉公したため、大変喜ばれていたそうだ。
 ある日、
 「ほうびをとらすから、何なりといってみよ」
そう藩主より申し渡された。乳母は少し考えてから静かに、けれどはっきりといった。
 「私の郷里は、深毛(ふげ)という場所が一大沼地となっており、昔から耕地が少のうございます。この沼地を埋め立て、耕地にしてくださいましたら、村は必ずや繁栄することでございましょう。私のほうびごときは望むところではございません。どうか、この埋め立てをお願いいたします」
 その故郷を思う気持ちに感心した忠直は、すぐさま各村から人夫を集め、この大事業を始めた。埋め立て用の土には、月見山の土が多く使われたという。
 やがて沼は消え、そこには立派な水田が現われた。乳母はほほ笑みながら、いつまでもいつまでも水田をながめていた。

ひとこと地蔵
 ぽかぽか陽気のある春の日のことである。和田に住んでいるおばあさんは、あまりにお天気がよかったので、ちょっとその辺へ散歩に出ることにした。
 「ほんまに、今日は散歩日和やわ」
ふだんはほとんど外出せず、家でじっとしているおばあさんだったが、なぜかその日はからだが自然に動いてしまった。
 春の日差しを気持ちよく受けながら、てくてく、てくてく歩いていくと、おばあさんはいつのまにか山の中に来ていた。
 「何だかちょっと来過ぎたみたいやわ。そろそろこの辺で引き返そうかね」
おばあさんが方向を変えようとしたとき、道端に変わった形の石がころかっているのに気が付いた。
 「おや、こりゃまた珍しい石だこと」
おばあさんは、腰をかがめてその石を拾った。そして近くでまじまじ眺めていると、その石がだんだんお地蔵様のように思えてきたのである。
 「とにかく持って帰って、おじじに見てもらおう」
おばあさんは、石を大事そうに小脇にかかえ、早歩きで山を降りていった。
 家に帰るとおばあさんは、さっそくおじいさんにその石を見せた。
 「この石はお地蔵様にちがいない。さっそくおまつりするとしよう」
おじいさんはたいへん喜んで、その石を家にまつることにしたのである。
 ところが、数日後のことである。あばあさんは朝から突然腰が痛くなり、動けなくなってしまった。
 「このお地蔵様は、うちにまつっておいてもご利益がないのかもしれん。もとの場所に戻した方がよいじゃろう」
おじいさんはおばあさんから、石を拾った場所を聞き出し、その石を返しに山へ出かけていった。
 「おばばの腰痛が早く直りますように」とお祈りしながら。
 おじいさんが山から帰ってくると、不思議なことに、おばあさんの腰痛はほとんど和らいでいた。
 その話を聞いて村の人たちもおまいりをするようになったという。そのお地蔵様は、〝ひとこと地蔵〟と言って、一言だけなら願いが叶うそうである。また〝ひとこと地蔵〟は首から下のないお地蔵様で、特に下の病気に効果があると言われている。
 今でも、〝ひとこと地蔵〟には、お線香やお茶などのお供え物が絶えないという。)


.新宮神社
 神社の始まりは、何らかの言い伝えがあることが多い。これは、新宮神社ができたときの話である。
 康治元年(一一四二)十一月十三日のことである。村の漁師がいつものように海へ出て舟で網を打っていると、重い石のようなものが網にかかった。〝こりゃ、重いぞ〟力いっぱい引上げようとしたが、なかなか上がってこない。それでも無理に網を引っ張っていると、にわかに辺りが暗くなってきた。静かでどことなく重々しい感じがする。いつもと違う光景に漁師はすっかり怯えてしまった。そのまま、漁を続けることもできず、思い切って、網はそのまま捨てて家に逃げ帰ってきてしまった。次の朝、捨ててきた網を取りにこわごわ、その場所へ行ってみると、何かが網に掛かっていた。よくみると、石ではなく古木で作られたご神体であった。それを見て漁師は村に戻った。
 「わしの網にご神体が掛かっている。みんないっしょに見にきてくれや」
 「ほんとに、ご神体かね」
 「まず、いって見ようや」
村のみんなは網のところまでやってきた。
 「ほう、ありがたや、ありがたや」
ご神体であることが分かって、みんなはおそれかしこんだ。そしてさっそくご神体を村の本郷庄司氏宅へ持ち込んで、ここでおまつりしたのだった。
 それを伝え聞いた村人たちが、朝早くから夕方まで絶え間なく訪れてはお参りした。漁師たちは、海から大きな石を取り寄せ、門に立てて鳥居になぞらえた。そして、お百姓たちは、浜から砂を運んで敷地内を清めた。村人たちは毎日の参拝を一人として忘れるものはいなかった。
 こうして、次の年の康治二年二月十四日、愛宕山のふもとに社を建て、ここにご神体をおまつりすることとなった。それが新宮神社の始まりである。神社ができたことによって村人の信心はますます深まり、村は前にもまして平和になった。
 ご神体が上がった場所は新宮谷と呼ばれている。).


揺拝海面は漁師の掟
 海に生きる漁師たちは、海に対して深い畏敬の念を抱いていた。そうした思いから漁師仲間での約束事がいくつかあった。不浄のときは、船はその場所を通らないという揺拝海面もそんな一つだった。
 揺拝海面とは、神域なのである。和田の漁師たちは、むかしから新宮神社と葉積島の間にあたるところを揺拝海面といっていた。葉積島には漁師の守護神である弁財天をまつる社がある。
 「お~い、仏さんが上がったぞう」
 「どこの人間だろう」
 「今年はこれで三人目じゃな」
 「葉積島の西を通って浜に着かにゃならん」
もしも漁船が操業中に水死人を引き上げて、浜に連れ戻る場合は、揺拝海面である新宮神社と葉積島の間を通ることはならないとされていたのである。死人を乗せて通るのは、この神域を汚すことになった。
 揺拝とは、はるか遠くから拝むということである。新宮神社におられる神様と葉積島の弁財天は互いに行き来されたのだろうか。この揺拝海面は和田だけでなく、高浜にもある。
 高浜では、恵比須神社と鷹島の弁財天をまつる岩の間が、揺拝海面とされている。死体を乗せ、浜辺に陸揚げしようというときは、馬礁(ばくり)の西から浜へ向かわなければならなかった。


新川のキツネ
 今からほんの少し前のこと。和田に住むおじいさんは、親戚の娘さんの結婚式に呼ばれていった。久しぶりに親戚の人たちが顔を会わせたせいか、宴会はたいへん盛り上がり、おじいさんは飲めや歌えやの楽しい時を過ごした。
 その宴会からの帰り道のことである。ほんのり酔いのまわったおじいさんは、ごちそうの包みを首にかけ、宴会の余韻を楽しみながら、鼻歌を歌ってふらふらと歩いていた。
 新川の近くまで来ると、橋のたもとのあたりで誰かの呼ぶ声がした。
 「じいさま、じいさま」
おじいさんは、まわりを見わたしたが誰もいない。
「きっと、気のせいだろう」
そう思って歩きだすと、再び、
 「じいさま、こっちだよ」
と呼ぶ声がする。おじいさんが目をこらしてよく見ると、橋の上で誰かが手招きしているのがぼんやりと見えた。
 「たぶん、わしの友だちが迎えに来てくれたのじゃろう」そう思い込んだおじいさんは、その人に案内されるまま、ずっと後ろを歩いていった。
 しばらく歩いて気が付くと、そこは鉄道の踏み切りの前だった。カーンカーンと踏み切り棒が閉まると、ガタンゴトン、ガタンゴトンとおじいさんの目の前を列車が走っていった。列車が通り過ぎ、踏み切り棒がもとの位置に上がった。するとそこには、さっきの宴会の風景が広がっていたのである。
 おじいさんはうれしくなって、首にかけたごちそうの包みをはずし、宴会の輪のなかに飛び込んでいった。そして、歌ったり踊ったり大はしゃぎ。
 しばらくして、ちょっと疲れてきたおじいさんは。
 「もうそろそろ、帰るとするか」
と言いながら、さっき首からはずしたごそちうの包みを手に取ろうとした。ところが、その包みがどこにも見当たらないのである。
 「確かにこのあたりに、置いたはずじゃがなあ」おじいさんは不思議な気分になった。
 「そういえば、わしをここまで案内してくれた人は、いったいどこへ行ってしまったのじゃろうか」何やらぶつぶつ言っている間に、宴会の風景は消え去り、おじいさんの前にはただ鉄道の踏み切りがあるだけだったのである。ごちそうをなくしたおじいさんは、すっかり元気をなくし、とぼとぼと家へ帰っていった。
 昔から新川には、ごちそうを目当てに人をだます悪いキツネがいたといわれている。


はったい地蔵
 西の方から和田区に入ってまもないところ県道(昔は若狭街道と呼んだ)沿いに、高さおよそ四尺(一・二〇メートル)ばかりの石碑が立っている。この石碑を村人は〝はったい地蔵〟という。そういわれるようになったのは、聞き違いからだった。
 いつのころからか、街道沿いに石碑は立っており、石の表面には『応無所住而生其心』(金剛経の一句)と刻まれていた。
 むかし、このあたりに一人の老婆がいて、いつも石碑をおがんでいた。そして、石碑に祈っては、病に苦しむ人を助けた。
 「おばばにおがんでもらうと、体がいつのまにか楽になってくる」
「わしや、足の痛いのを治してもらいたいので、お頼みしたら、いっしょうけんめいに石碑に祈ってくれた。お陰で、治ったよ」
 そんな噂を聞いて、病む村人たちが老婆のもとへとやってきた。老婆はお経を唱えているのだが、みんなの耳にはどうも 「オームギ、バッタイ、ニショウゴンゴウ」(大麦ばったい二升五合)と、聞こえる。それもそのはず、みんなには石碑の表に書かれている字がむずかしくて読めなかったから、日頃、使いなれている言葉に、聞こえてしまう。その方が覚えやすいのだ。
 そうこうするうちに、村人たちはこの石碑を〝はったい地蔵〟というようになってしまった。また、この〝はったい地蔵〟には乳の出を必ずよくしてくれるご利益があるといって、乳の出が悪い人が願をかけにきた。そして、願いがかなって乳のでかよくなると、そのお礼に〝はったい〟(麦の新殻を炒って、ひいて粉にしたもの)を供えるのが、ならわしとなった。このならわしは今も続いているという。
.

和田の蛇塚
 和田の田んぼのなかに、五輪塔一基がある。むかしから、これを〝蛇塚〟という。蛇塚は、約二メートル四方の玉垣で囲まれてあった。
 むかし昔、カンギョウ谷(現在の片谷)に大蛇が住んでいて、村人たちにたびたび害を与えていた。
 「この間は、うちの牛がおそわれた」
 「やれやれ、あんたんとこもか」
 「どうしようもないな」みんな口々に大蛇による被害を話した。しかし、ついに我慢できなくなった人びとは、大蛇退治のために集まった。
 「何とか、大蛇を退治できないものか」
 「いや、そんなことをして、後のたたりが恐ろしいぞ」
「このままでは、わしらの生活がめちゃめちゃにされてしまう」
 「そうだ、そうだ。みんなで退治しよう」そう決まると、村人たちは力を合わせて、ついに大蛇を退治したのだった。大きな大きな蛇だった。みんなは、蛇を供養するために五輪塔を一基立てた。それが、〝蛇塚〟といわれるようになったわけである。
 また、別の話では五輪塔は高浜城主の逸見公の供養塚で、〝へんみ塚〟だったのが、後でなまってしまい、〝へび塚〟になったのではないかと、いわれている。
 むかし、五輪塔を囲んでいた玉垣は、今では泥の中に没してしまって、すっかり見えなくなっている。
 この蛇塚は、室町時代後期の作といわれ現在、高浜町の文化財に指定されている。


釈迦浜の仏像
 むかし、天平元年の三月八日の夜、鹿王山麓(現在の安土山の裾)の釈迦浜に珍しい光を放つものがあった。村人が連れ立って、探して見ると、一体の仏像が見つかった。
 「清らかなお顔といい、すばらしい仏様だ」
 「名のある彫り師が作った薬師如来様に違いない」
 如来様をよく見ると、行基作の銘が記されていた。みんなは作者が行基と分かって、さっそくおまつりすることに決め、山腹まで運んでお堂をこしらえた。それからしばらくしたある夜のこと、一人の村人の夢にこの如来様が現われた。
 「われは温泉を守る仏である」と、いわれた。
 その後、数十年たったある日突然、大地がにわかにさけて一夜にして三つの池ができ、温泉が出たのだった。
 「温泉じゃ、温泉が出たぞ。」温泉は病に効果てきめんだった。病気の人間が温泉の湯を浴びると、すぐに病気が治ったのだった。この噂は、近隣はもちろん、遠くまで伝わった。そのため、湯治にやってくるものがひきもきらなかった。
 さらに数百年がたった。文明十三年(一四八一)の五月の初めのある夜、野馬が一頭、温泉に闖入した。そうすると、それからというもの温泉湯はにごってしまい、病気を治す効き目も失われてしまったのだった。ちょうどそのとき、浄楽寺の僧の有信が夢を見た。薬師如来様が現われて、〝丹波の城崎に温泉を移した〟といわれるのである。はっと夢からさめた有信は不思議に思いながらも、〝もしかしたら〟と思うのだった。さっそく城崎に問い合わせると、温泉が湧き出たという。夢のお告げとぴったり合った。温泉は城崎へ移されてしまわれたのだった。
 しかし、如来様は、延徳元年(一四八九)、和田の地に戻ってこられた。ある夜のこと、真乗寺の境内の天竺橋の下に異様に光るものがあるので、それを探しだしたところ薬師如来像だった。
 「これはこれは、お薬師様だ、きっと戻ってこられたのだ」
 「ああ、ありかたい、ありかたい」みんなは口々にそういって、さっそくお堂を建てた。以来、秘仏として供養しおまつりするのだった。それからというもの、二十五年ごとにご開帳され人びとがお参りしている。


お諏訪さんキツネ
 明治維新のころまで新川の海岸ぶちに小さなほこらがあった。そこに住みついていたキツネがいた。土地の人はそのキツネを、お諏訪さんと呼んでいた。このお諏訪さんは人を化かすのが上手だったらしく、土地の人たちに恐れられていた。そして、その反面お諏訪さんと親しまれていた。
 戦前(第二次大戦前)までは和田の若者たちの楽しみといえば高浜へ来て遊ぶことで、三、四人で連れ立って来て遊んでは帰っていったものである。
 ある夕闇せまるころ、和田から一人の若者が連れもなく岩神さんの近くまで来ると、若い娘が途方に暮れたようにしょんぼりと立っている。この若者は若い娘などには、ものも言えない内気な若者であるが、そのときはすらすらと言葉になった。
 「ねえさん何しとんなんねんや」と、やさしく言った。見れば着物と帯は一段と美しく、頭は桃割れ
で、そのいきなこと。顔はあくまでも色白く眉、鼻、囗もととのい、若者はこのような別ぴんは今までに見たこともなかった。ほんに絵から抜け出たというのは、このことを言うのであろうか。若者には娘の美しさが昼間のようにはっきりと見えた。しばらくは、声をかけるのも忘れて、ぼんやりと眺めていた。娘が口を開いて言った。
 「おにいさん、どちらへ行くのですか」
 「おれはいま高浜へ遊びに行く途中や」若者はぽつりと言った。それを聞くと、娘は恥ずかしげに袂で顔をおおって体をくねらした。その白い横顔を見ると耳元まで赤くなっている。若者がぼうっとなるのもむりはなかった。娘が言った。
 「いやですわ、あまり顔を見ないでください。おにいさん、おいやでなかったら私のお相手してくださいません?」若者は仰天して飛びあがらんばかりに喜んだ。娘が恥ずかしげに手を差し伸べてきた。若者はしばらくぼんやりとして、その手を見ているだけだった。若者の心臓は高鳴り、今にも倒れそうである。私の手をしっかりと握ってくださらない・・その手は白魚のように美しく温かく、柔らかだった。若者はうれしさのあまり夢ではないかと自分を疑った。若者は娘の手をとって歩きだした。しばらく歩いて海岸ぶちまでくると、娘が言った。
 「ここんとこで休みましょう」
見れば、そこには敷物がある。若者は不思議に思ったが、どっかとそこにあぐらをかいた。すると、娘が
 「しばらく待っててね」
と言って立ち上がった。そのとき若者は、あっと、声を出さんばかりに驚き、慌てて両手で自分の口を押えた。娘は気がつかなかったらしく、振り向かなかった。若者は立ち上がりざま砂をけるように走った。家にどうして帰ったか分からなかったという。
 それからというもの若者は病の床にふしていたという。そして〝うそや、うそや〟と繰り返し口走っていたという。
 さて、若者は娘の何を見たのであろうか。


親孝行右近
 孝行者として数々の表彰を受けた一瀬右近の話である。右近は旧名を文左衛門といい、文政二年(一八一九)に和田に生まれた。
 父親は農業をしていたが、酒ぐせが悪く、他人に迷惑ばかりかけていた。
 「ほら、またあんたとこの父ちゃんが喧嘩をしかけているよ。困ったもんだねえ」隣のおばさんにそういわれて、駆けつけると父親は大きな声でどなり散らしていた。体は酒に酔ってふらふらだった。人々はこわそうに見ながら、避けて通ろうとしていた。
 「父さん、さあわたしにつかまってください。みなさんが迷惑してるじゃないですか」父親をなだめながら、家へと連れかえろうとするのだった。小さいながらもしっかりものの右近の後ろ姿を、隣近所の人々は感心しながら見送った。
 「いやな顔ひとつしないで、なんという気持ちのやさしい子供なんだろう」
 「家の子につめのあかでもせんじて飲ませたいもんだよ」
 「そうだ、そうだ」しかし、父親の酒ぐせはよくならなかった。
 農業をしていては父親の面倒が十分にみれないと思った右近は、十五才のとき傘づくりを習い、これで生活するようになった。
 「父さん、そんなに酒を飲んでは体に毒です。前後不覚になるほど酔っ払ってしまっては、今に病気になってしまいますよ」折を見ては父親に酒の害を説いていましめたのだが、父親は息子の言葉を聞かなかった。毎日毎日酒を飲み続けた父親は、とうとう右近が三十六才のとき死亡した。父親を亡くしてからというもの、右近は母親に孝行を尽くし続けた。母親が病気になったときは、昼も夜も看病した。
 「母さん、わたしがそばにいますから、安心して眠ってください」
 「何だか、今夜は寒くて眠れそうにないよ」
 「それでは、わたしが添い寝をいたしましょう。そうすれば、暖かくなります」寒い夜に火をおこしたりすると、病人の体に悪いのではないかと、自分が裸になって母親の床に入って肌のぬくもりで母親の体を温めてあげたという。そうこうするうち、母親が亡くなった。厳しい寒さの続く冬だった。しかし右近は墓前に七夜通ってお参りしたという。また、母親は雷を大変こわがった人だったので、雷がとどろくたびに墓に駆けつけて、墓石に傘をさしかけながら声をかけた。
 「母さん、心配しないで、わたしがおそばにおります。雷が止むまでいますよ」そうして、雷が鳴り止むと家に帰った。
 毎週必ず一度は両親の墓参りをし花を供えるので、墓前の花は年中絶えることがなかったという。今は語り種でしかない親孝行な子の話。)


和田村の晴明石
  〝恋しくば尋ねてきてみよ泉なる信太の森のうらみ葛の葉〟
 母キツネが小さな子をおいて去っていったときに、障子に書き残しだのが、この一首。
 突然、姿を消してしまった母を求めて、泣き叫んだ子供が大きくなって、〝阿倍晴明〟と呼ばれるえらい人になったというが、浄瑠璃や民話として今に伝えられている。
 阿倍晴明は、平安中期の陰陽家、つまり今でいう天文学者だった。陰陽・推算の術を学び、精霊を使って天文を解き、世の事変を予見したそうである。つまり、予言者でもあったようである。現在もわが国天文学、暦学の祖として知られる立派な人物である。
 この阿倍晴明か、全国を巡る旅に出かけたおりに、和田村に立ち寄った。歩き疲れた阿倍晴明は、道端にあった石に腰を掛けていっぷくしていた。通りがかりの村人がたずねた。
 「遠くからお見えのようですが、何をなさっておられる方ですか」
 「私は、陰陽を学ぶもので、阿倍晴明と名乗るもの」
 後で、村人が学のある人にそのことを話したところ、阿倍晴明か実は暦学に通じたたいへん立派な人であることが分かったのだった。
 それからは、村の人たちは、晴明か腰をおろした石を〝晴明石〟と言い伝えるようになったという。
 今は田淵家の玄関前に置かれている。


うば捨て山
 和田の安土山は千何百年も前のむかしは、屍ヶ嶽(しかばねがたけ)といわれていたそうだ。
 伝説によれば、村では六十才以上の年寄りになると、生きている人を家族のものや、あるいは、村の人が山のうえに連れていき、そこへ捨てて帰ったという。そのため、むかしの安土山は白骨で埋まっていたそうで、昼でも無気味なところとしてこわがられたそうである。
 年をとったというだけで、病人でも何でもないのに、捨てられる。生きたまま、捨てられる。お年寄りがいる家では、お年寄りが六十才近くになるにつれて、いつとはなしに口数が少なくなり、笑い声が減っていく。
 留吉は母親が六十才になるのがこわかった。あと三月、あと二月と月日はどんどん進んでいく。日が進むにつれて留吉やその家族の気持ちは重く沈んでいった。そしてついに、その日が訪れた。
 「おばあちゃん、とうとう六十になってしもうたね」
 「おまえら、悲しまんでもいいよ。わしは、喜んであの山へいくよ」けなげなおばあちゃんのことばを聞くと、みんなの目から涙がとめどなく流れ落ちた。
 「これまでみんな仲良くすごせて、感謝の気持ちでいっぱいや。さあ、みんな笑ってわたしを見おくっておくれ」明るいおばあちゃんの声に、家のものは励まされる始末だった。
 留吉はだまったまま、おばあちゃんを背負った。軽かった。おばあちゃんは背負われていく日のために余り食べないようにしていたのだろう。その軽さが、また息子の留吉の胸をどっと悲しみでいっぱいにした。
 夜のとばりにつつまれた山の上へと背負われていく間、おばあちゃんはこどものころの歌を歌い続けた。その、ゆったりとしたやさしげな歌声が、留吉の耳になぜか心よくひびいた。幼いころに聞いた懐かしい子守歌のようだった。留吉もいつのまにかおばあちゃんといっしょになって歌をくちずさんでいた。そうしていると、家を出たときの高ぶった気持ちが、いつのまにか消えていった。ずっと小さな声で二人は歌い続けた。やがて、山の上に着いた。それでも、二人は歌をやめなかった。留吉は歌をやめるのがこわかった。
 ほっと息をついて留吉は提灯をかたわらに置き、背中から母親をそっと降ろした。
 おばあちゃんはまるで、眠っているような顔をしながら、まだ歌をうたっていた。小さく体を丸めながら歌っていた。留吉は、さよならもいわないで、ただ母親の肩に手をそっとおいたのだった。おばあちゃんはゆっくりと何度もうなずいた。それが、二人の永遠の別れだった。
 今は、安土山は美しい公園になっている。

小山弁天
 安土山は外海と内海とにはさまれた、和田東北部のなだらかな山である。その山背から眺める丹後半島および青葉山は弓を描くような海岸線と美しく調和し、天下の絶景ともいわれている。
 その安土山の西南端には〝小山〟と呼ばれる小さな丘があり、弁財天がおまつりしてある。
 伝説によると、むかし和田の郷右衛門という人が、ふとしたいさかいがもとで、一人の普化僧と戦うことになった。二人とも刀を持てばまずまずの腕前だったので、なかなか勝負はつかない。しばらくは刀のすれ合う音だけが、キーンキーンと丘の上に響いていた。その時である。
「やあっ」ほとんど同時にふたりが叫んだかと思うと、次の瞬間バサリと倒れる音がした。そこに横たわっていたのは、真っ赤な血にまみれたふたりの屍だったのである。
 後に里人は、相打ちして死んだ二人を葬り、弁財天をまつって、〝小山弁天〟と名付けたという。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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