丹後の地名 若狭版

若狭

山中(やまなか)
福井県大飯郡高浜町山中


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福井県大飯郡高浜町山中

福井県大飯郡内浦村山中






山中の概要




《山中の概要》
青葉山の北麓斜面、内浦小中学校があるあたり。北は内浦湾に面する。旧内浦村の中心地であった農業地域。中央を県道21号(舞鶴野原港高浜線)が東西に通る。

山中村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「若狭郡県志」に「山中村属内浦、去小浜七里半許也、合西村、東村、中村、白井、堂上等而為山中村」とあるように村は数集落に分れていた。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内浦村の大字となる。
山中は、明治22年~現在の大字名。はじめ内浦村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西12町余・南北12町余、戸数59,人口は男151 ・ 女155、学校1。

《山中の人口・世帯数》 113・46


《山中の主な社寺など》

広瀬古墳群

『高浜町誌』より↑

人家などはなく、一帯は五色山公園となっていて、その一番海ぶち、ヒロセオートキャンブ場がある所だと思われるが、聞いてみても、このあたりでですか、古墳は知りませんな、化石はこの先で出ますがね、ということであった。その桜が植えてあるあたりでなかろうか。
自分の先祖の墓所も忘れ果てると、ワシらの国は神国だとか天から降ってきた現人神が統治される世界に例のないありがたい国だとかアホげなうわごとをいうようになるから気をつけられよ。
『高浜町誌』
広瀬古墳群  古墳の痕跡らしきものを含めて九基の古墳があり、そのうち四基の石室が現存している。古墳の分布・石室の開口方向によってグルーピングすると、二つの小グループに分けることができる。墓道(古墳へ通じる道)の概念を発表された研究者の説に従うと、石室の入口方向を揃えていることは、墓道を共有していたことを意味するものであるという。これらの小グループの古墳が、何らかのきずなで結ばれた人々の墓であったと理解することも可能である。

広瀬古墳群(実測図15~17)
 山中集落の内浦湾に東西する断崖上に位置し、四基の横穴式石室と石室の残骸を示すもの五基の計九基からなる古墳群である。
 上田三平氏の報文によると、大正七年一一月石材採取の目的で地元青年団員によって発掘された一石室から管玉一、銀環、銀鍍金を施した雲珠様のもの、直刀片、須恵器(提瓶・横瓶・台付壺・ハソウ・杯)が検出されたといわれる。石室の記述、図版写真などから判断すると、一石室は一号墳のことであることがわかる。
 今回報告した須恵器(実測図15・16・17)は、第一号墳出土資料で、故森下譲氏が内浦中学校に奉職されていた昭和四一年の夏休みに、中学生と共に石室清掃・石室実測を行った際検出されたものである。残念ながら、平面図以外の石室図面は完成されていないが、石室の形態は両袖で、主軸方向はN40°Eである。玄室長四一二センチ、玄室奥幅は一九五センチを測る。羨道長は四〇〇センチ、羨道幅は玄門近くで一四〇センチ前後を測る。
時期の判明するのは一号墳のみであるが、須恵器の示す年代は六〇〇年を前後するころと判断される。

今は人家もなく何もないが、内浦地区で古墳があるのは当地と音海だけ、神野浦に縄文後期の遺跡が見られるが、当地は内浦地区開闢の地であったと思われる。海から開けていったものか。


日枝神社(山王宮)

境内は大きな古木と石造物、古い神社と思われる。
『高浜町誌』
元指定村社
日枝神社
大山咋神
(山王権現廿一社)
伊弉諾尊
伊奘冊尊
菊理姫神
山中
字宮の森      
五五七・六四坪
四七戸
山中      
四月庚申
一〇月一六日      

葉祭
(正月一一日)      
社殿
御拝所
拝殿
神楽殿
宝物殿
社務所
鳥居
境内社五      
 
中古、山王社と称し白井に在り
応安七年改築
享保一七年再建
山岳信仰
(宝物)太刀
遠音の笛
祖霊信仰      
杵築神社 大国主神
須世理毘売命
大将軍神社 星の神
若宮神社 応神天皇
八柱神
金比羅神社 大物主神
崇徳天皇
出雲神社 大国主大神
熊野神社 熊野権現
日枝神社
 慶安七年(一六五四)に山中村の中村助太夫という人が、村人と相談の上、叡山に行って老僧に、山の祠の中に御鏡が一面あるが、どの神様の御神体であるかを知っているものがないので教えてほしいと頼んだ。すると老僧は一つの紙包みを呉れたので、それを村に持ち帰って正楽寺の知尊法印に示した。知尊が開いてみると山王大権現二一社を書いた巻物で、大山咋神の御神体の神鏡であることがわかったので、森のところに新たに社を造営して祀った。これが山中の宮の森にある日枝神社である。宝物として遠音の笛と二二代久左衛門が奉納したという太刀(内藤豊護守の所持品という)がある。


『大飯郡志』
指定 村社日枝神社 祭神大山咋神 山中字宮ノ森に在り社地五百六十一坪 氏子五十四戸 永續資金壹千圓五十餞 社殿三間二間 御拝所十尺九尺五分 拜殿 二間二間半 神樂殿二間半八間 鳥居一基
境内社 青葉神社祭伊弉諾尊伊奘冊尊 社殿三尺五寸四方 杵築神社祭神大國主命社殿三尺五寸四方

(鎌倉時代に青山中が山門領なりし頃よりの、神祠なる可し。領主と神祠と密接関係ある各地皆然り。)


「白井」というの、神社前の小道を青葉山の法へ少し登った所にある、溶岩ゴロゴロの傾斜地↓。このあたりに大伽藍の寺院があったという。



臨済宗相国寺派青葉山西林(さいりん)寺

『高浜町誌』
臨済宗相国寺派 青葉山西林寺
一 所在地 高浜町山中学堂の脇
一 開 創 文和二年(一三五三)
一 開 基 一伝周清和尚
一 本 尊 聖観世音菩薩
一 擅家数 五四戸
一 由緒沿革 当寺の開創については、「永和元年(一三七五)示寂の一伝禅師によって」と伝うるにとどまるが、“郷土誌内浦”には「文和二年一伝周清和尚」と誌しているので、ここでは開創年代を『文和二年』とする。
 当寺においては今日までに、近隣の三か寺を合寺している。すなわち
 文政三年三月
      隣寺 福田庵
 大正二年六月
      下区 養源庵
 大正三年十月
      白井区洞泉庵
である。
 境内仏堂に不動堂がある。本尊不動明王像は、行基菩薩の作と伝え、天平年間“道場寺”(西林寺の前身)の本尊であったが、同寺が廃頽するに至り堂を建てここに移したと伝える。


『大飯郡志』
(青葉山)西林庵 同(臨済宗) 同(相國寺末) 山中字堂ノ脇に在り 寺地百九十五坪 境外所有地三町八畝十四歩 檀徒三十四人 本堂八間九間 本尊正観世音 由緒〔明細帳〕文和二年一傳和尚開基 境内に不動堂あり、其本尊は行基作と傳へ賽者多矣
 (文政三年隣寺福田庵を、大正二年六月養源庵、を此寺に合併せり)
 〔同 前〕開基一傳清和尚永和年中示寂 建立諸檀那中 名寄四石六斗六升四合年貢地也



山中城(愛宕山城)
集落北側に愛宕神社が鎮座する独立丘陵があり、山頂に中世後期の城跡がある。県道から五色山公園へ少し入った道脇になる。
「若狭郡県志」は「伝称内藤豊後守所構出城之旧趾也、或云内藤久右衛門之所居而非豊後守之出城矣」とする。

『高浜町誌』
山中城  集落北側に愛宕神社を祀る独立丘陵があり、城はその山頂に所在する。全長は空堀を含めて東西六五メートル、最大幅五〇メートルとなっている。西側には二条の空堀を配し、郭の北・西側に土塁をめぐらせている。北側は一段下って小郭があり、北東には竪堀もみられるが単郭の小城である。域主は内藤氏の出城と伝え、同名久右衛門が拠ったとされている。

藤内権守城址と播磨木塚
 山中の内浦小、中学校の西側の丘に藤内権守の城址及び墓がある、城址は今より約七八〇年前藤内権守が拠った所で現在愛宕社が祀られる、昔この山頂より宮の森の的場へ射術を競ったといわれる。守護代記によると建久七年(一一九六)藤内信宏の名がある。
 この城址の西側に播磨木塚がある。
 播磨木塚は西暦一四三〇年ごろ全国的な凶作と疫病のため各地に徳政を求める一揆が発生した。播磨の守護赤松満裕は将軍義教を誘殺し嘉吉の乱(一四四一)が発生した。
 山名持豊は幕府より赤松満裕の追討を命ぜられ、赤松氏の播磨木城を攻略し赤松満祐は自害した。
 その残党が流れてこの権守の愛宕城を攻めて来たが敗滅した。その将士を葬りたる塚であるという。


内藤氏の出城址
 山中区の中央に小丘(現在の大川神社)があり内藤豊後守の出城址といわれる。内藤久左エ門家は内藤豊後守の後裔で二十数代の系図及び薙刀、古文書がある。又先祖が日枝神社に寄進した鬼丸作りの太刀(七八センチ)があり中世武将の面影がしのばれる。
 内藤一族は初期広瀬山附近に住居しありしも後出城址附近に転住したといわれる。


『大飯郡志』
内藤氏の遺趾 〔同上〕(若狭国志) 在山中村豊後守内藤某所構一説久右衛門内藤某所居之堡不詳孰是)(藤内権守城趾 山中の西部 権守と称す の小丘上に在り、愛宕社現在矣 傳ふ五百年前同人の據りし處と 地名所原要考覈 〔守護代記〕建久七年-藤内信廣

この山のよう…


五色山公園



いいとこだけどね、自然は。腐った小判電力の原発が、もしそこになければで、ゼニがせっかくの自然景観と安全と健康を害している。事故がなくてもである…
工事をしている山の斜面が見えるが、そこの向う側が高浜原発である。
「原子力」を誠の意味で安全に、社会に役立つように扱えるだけの精神も責任感もわれらの国にはない、科学力もなければ、学問もなく、技術もなく、政治もなく、企業などにあるはずもない。何もないのに、あたかもあるかのように、アメリカより技術があります、安くてクリーンなエネルギーですとか、大ウソを連発こいて来た、それが3.11で示されたのであった、もう9年もすぎたが、いまだ5万人弱が避難をし、デブリはデも取り出せない。
今はそうした神話を信じるアホはなかろう。仮に彼らの大ウソが正しくても10万年の後までも多量の死の灰が残り、その処理ができない。すぐそこにたまり続けている、何でそこにためるのか。何にもない国には何もできない、ただそれを見ないようにしているだけしかできない。甘い考えをしていると日本全土がこうなる。それとも日本全土から原発をなくすか、どちらかを選ばねばならない。

内浦小中学校

コロナのため誰もいない…


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


山中の主な歴史記録




山中の伝説


『若狭高浜むかしばなし』
山中の鳥塚
 山中の峠、今もその道路の脇に、たたみ一畳ほどの平べったい大きな石がある。見たところ、何でもないただの石だ。けれど、これが実に不思議な鳥塚なのである。
 里の人の話では、この石の下に一羽の黄金の鳥が埋められているという。
 それはもう大昔のこと、日本の地を固めた黄金の鳥が三羽いた。その一羽は江州(滋賀県)に、もう一羽は奥州(東北)に、そして残りの一羽がここに埋められているのだ。けれど、石の下にいるのは黄金の鳥だけではない。その鳥とともに、ある旅の僧が入定したそうだ。
 言い伝えによると、この塚石のまわりを息を止めて七回まわると、石の下から鳥の鳴声が聞こえるという。けれど、誰がやってみても、たいがい途中で息が苦しくなって七回もまわることができない。
 息を止めて、七周。どなたか一度、試してみてはどうだろうか。また、この塚石に七日間お参りすると、必ず願い事がかなえられるという。

.山中の大伽藍
 大むかし、山中から白井(しで)へ行く途中、一方は山、一方は谷のところに「ヤマノエ山」という大伽藍があったといわれる。その伽藍のものであったとされる仏像が五体、今も内浦にあるお堂にまつられている。神野には阿弥陀如来の坐像一体と金剛力士像の二体があり、神野浦には阿弥陀如来坐像が一体、小黒飯には薬師如来坐像が残されている。これらの仏像は、もとはいっしょにまつられていたもので、その場所が伽藍であるという。
 七堂伽藍は、戦国時代に織田信長によって焼き払われ、そのときのものは四体の仏像以外、いっさい残っていないそうだ。
 天正四年(一五七四)に反信長派の武藤友益を討ったときか、または、丹羽長秀城わり(城をこわす)の天正十二年ころに焼き払われたとされているが、確かな記録はなく、炎の中から五体の仏像だけ、辛うじて持ち出されたと、いい伝えられているだけである。
 山の中に広い寺院が建てられていたといい伝えられる、そこへの道案内のように、古びた地蔵が今も立っているのが不思議である。

大師さんの傘穴
 山中の神社の下の方に、ひとつの石がある。よく見ると、横に長い穴があいている。
 縦にあいた穴なら珍しくもないのだが、横に長くあいているとあって、村の人々は腕を組み不思議がった。
 「横風が開けたんやろか」
 「いやいや、恐ろしい蛇の魔物が開けたのかもしれん」
 「誰か、手をつっこんでみなされ」
みんな口々に勝手なことをいっておった。そのとき、
 「それは、お大師さんの傘の跡じゃ」
人々のうしろから静かにこたえたのは、村の長老だった。
 長旅で歩き疲れた弘法大師がここで休み、そのときこの石に傘をさして休まれたというのだ。
 今は草に隠されるようにしてあるが、一度石の穴をのぞいて見てはどうだろう。もしかすると、お大師さんの傘がまだ残っているかもしれない。

山中の石碑と難破船
 昔むかし、山中(地名)のこんもりした山の中に古びた石碑が立っていた。
 ある日のこと、村人が山の方を見てみると、その石碑が倒れている。
 「大変だ、船が難破しているぞー!」
 「ほんまじゃ、ほんまじゃ、早く助けにいかにゃならん」
倒れた石碑を見た村人たちは、次々にあわてだした。
 不思議なことに、若狭の海で船が難破すると必ずこの石碑が倒れるのだ。起こしておいても、船が難破するとまた倒れる。いつもいつもその繰り返しだった。
 かつて、ここは罪人の処刑場だったという。死んだ罪人たちを供養した石碑が、せめてもの罪ほろぼしに難破船を村人に知らせるのだろうか。
 石碑は山から下ろされ、今は西林寺の境内におさめられている。ここに来てからは、もう倒れることがなくなったという。

山中の亀ヶ塚
 山中(地名)の梨畑には、亀ヶ塚と呼ばれる場所がある。
 何百年もの昔、このあたりには亀吉という男が住んでいた。村一番のへんくつで、その上とんでもない乱暴者とあって、村人はほとんど困っていた。
 「また亀吉が、騒ぎを起こしたそうじゃ」
 「亀吉を何とかできる者はおらんのか」
 村人が集まって相談をしていると、一人の男がにやりと笑っていった。
 「いい方法がある。わたしに任せてくださらんか」
 あくる日、男は亀吉の家に行き大声でわめいた。
「おーい、亀吉! おまえの落とし穴に猪がかかったぞー!」
猪を生け捕るための落とし穴に猪がかかったとあっては、さすがの亀吉もじっとしていられない。大急ぎで、その落とし穴の所へ飛んでいった。
 「どこに猪がかかったんや」
だまされたとも知らずに、亀吉は身をのりだして落とし穴をのぞきこんだ。そのとき。
 「うわ…っ!」
亀吉は、突然後ろから突き落とされた。そして、あっという間に村人たちに生き埋めにされてしまった。
 村人は埋め穴の上に一本の松の木を植え、そこを亀ヶ塚と呼んだ。やがて大きくなった松はいかにも乱暴そうで、何とも不思議な形をしていたそうだ。
 それから長い長い年月がたも、その松もいつしか切り倒された。亀吉の話もすっかり忘れられ、あたりにはたくさんの梨の木が植えられた。やがて一面の梨畑が生まれ、毎年毎年香りのよい梨がたわわに実るようになった。けれど、今も亀ヶ塚と呼ばれる場所には、一つも梨が実らないという。
 村人に深い恨みをもつへんくつの亀吉が、亀ヶ塚にひっそりと生きているのかもしれない。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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