丹後の地名 若狭版

若狭

日笠(ひかさ)
福井県三方上中郡若狭町日笠


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福井県三方上中郡若狭町日笠

福井県遠敷郡上中町日笠

福井県遠敷郡三宅村日笠

日笠の概要




《日笠の概要》
町の西部で北川の左岸中流域。JR小浜線と国道27号が並行して東西に走る。
中世には玉置庄に属した。文明11年(1479)3月小浜へ下向した飛鳥井雅親の「亜槐集」に、帰路守護武田国信が当地まで見送ってきたことが記され、両者の別離の歌が載る。
日笠は古い地名と想われるが、文献は、永正14年(1517)6月20日付の明通寺への如法経米寄進札に施主として「日笠竹之内四郎大夫」と見える。その後大永8年(1528)5月21日付で気山長永が気山大夫・同せん・同鶴に宛てた詫証文に「若さにてひかさ、越前にてしんほう、同木崎三ヶ所を両三人として可被召候」とある。弘治2年(1556)明通寺鐘鋳勧進時の入目下行日記に「十八文日笠手場にて酒」とある。天正16年からは浅野三十郎の知行地であった。
近世の日笠村は、江戸期~明治22年の村。「若狭郡県志」に「有市場・河内等之号」とある。小浜藩領。「若州管内社寺由緒記」によれば、正明寺のほか与楽寺と辻堂がある。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年三宅村の大字となる。
近代の日笠は、明治22年~現在の大字名。はじめ三宅村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西12町・南北5町余、戸数67、人口は男177 ・ 女173。


《日笠の人口・世帯数》 199・60


《日笠の主な社寺など》

上船塚古墳


国道27号線の脇にある。檜が植えられていて、普通の山にしか見えない。手前側(西側)が方形のようで、周濠跡のようなものもある。見学は下船塚古墳に車を止められるスペースがある、そこから歩いて5分とはかからない。下の水田沖積面から10mほど高いところにある。
国史跡の6世紀前半築造と見られる前方後円墳。主軸は東西方向で、前方部を西にして築造され、全長70m、後円部径36m、前方部幅50m、後円部高16m、前方部高16m。2段築成で前方部が発達した墳丘形態をもつ。盾形の周濠がめぐる。発掘調査はされていないが、後円部墳頂の盗掘坑下に空洞があったと伝えられ、横穴式石室の存在が想定されている。副葬品や内部施設は不明、濠・葺石・埴輪などは認められるという。案内板↓


下船塚古墳


旧丹後街道沿い↑にある(西向きに写す)。樹木がすべて切り払われていて、↑墳形がよく見える。猫も通らないが鉄道が通るまでは賑わった街道だったという。この後継の国道27号は左の山の中腹を通る。
上船塚古墳は右手山の少し高い位置にある、ここから20mくらい。この道をまっすぐ西ヘ500mほどに白鬚神社古墳がある。
国史跡の前方後円墳。尾根すそにある上船塚に隣接して沖積面に築成された2段築成墳。脇袋古墳群の上ノ塚古墳の墳形に類似する。盾形周濠をもつ。全長85m、後円部径47m、前方部幅47m、後円部高10m、前方部高8.5m。後円部・前方部に盗掘穴が認められるが発掘調査はされておらず、埋葬施設・副葬品は不明。円筒埴輪片が採集されている。築造時期は5世紀後葉と考えられている。
この付近には日笠古墳群と呼ばれる、小古墳と3基の前方後円墳が分布する。3基ともに東西に主軸をとり、西に方部を置く。ひとつの首長墓系列をなすものと考えられている、おそらく膳臣一族なのだろうが、白鬚や広峰なら渡来系ではなかろうか。(寸法や築造年代などは書によりバラバラ、発掘調査をしないと確定はできなそうにない)


広嶺神社

立派な参道の奥に鎮座。日笠、神谷、加福六、兼田、武生、玉木の6ヶ村の大社。もと玉置庄の総社。6月13~14日の祇園祭は町民俗行事という。
『遠敷郡誌』
廣嶺神社 指定村社にして同村日笠字大谷口にあり、俗に山王と稱し又祇園天王社、牛頭天王社等と稱し来り、寛喜二年建立と傳ふ、祭神は素盞鳴命、稲田姫命にして境内に日枝神社、八幡神社合祀祭神大山咋尊、譽田別命蛭子神社、熊野神社合祀祭神不詳の二社あり、明治四十一年に合併せられたるもの二社あり、五王社は祭神不詳にして字西山にあり、六社神社は元六所明神社とも稱し、祭神は天兒屋根命、應神天皇、伊弉冊尊、玉依比賣命。大山咋命にして字山田森下にありたるものなり。

『上中町郷土誌』
広嶺神社 日笠
字大谷にあり 祭神 素盞鳴尊、稲田姫命社記録によれば寛喜一、庚年社殿の再建ありてより明治十二年に至る、六百五十年間沿革の記すべきことなし。(村誌より)
禰宜神名帳に「在上中郡日笠村所祭素盞嗚尊也伝言寛喜二年建之矣三月八日尊祭供醴而祭之同月十日有神事能六月朔日庄内中立榊同八日庄内中獅子巡回十日有餞神輿奠醴供神璽奉移神輿祭儀山崎氏行之者乎同十一日麦初尾神示同十四日神輿遊行斯日有王舞」とあり又合祀の二社あり。
一、五工舎
一、六所明神社
祭神 天児屋根命 応神天皇 伊弉冊神 玉依日売命 大山昨命
この神社に関し若狭郡県誌に「在同村八月十八日有祭正保二年酒井忠勝公有祈願而修補神殿」
又伴信友全集神社私考の文中に
正五位 田中氏明神
日笠村の老人曰己の里内に田中氏の民数家あり、その宗家分別て後に上田中と呼べり、遠祖のことは詳ならねどいと古くより家門を統ぎ来れり、さてその上田中が世々伝へもてる山麓にむかし遠祖を祭りて建たりといい伝えたる神祠ありて田中明神といえるを今は六所大明神と申す。すなわちその上田中氏世々神事を掌り來れり。祭日は八月十八日なり、然ればその六所大明神と申すはすなわちこの田中氏明神にてその田中が氏の遠祖を祭れる神なるべきことあきらかなり。(田中氏古くは姓氏録右皇別に田中の朝臣は武内宿禰五世の孫稲目宿禰の後なり) 
社寺由緒記  日笠村午頭天王並昭立四社
日笠 神谷 加福六 兼田 武生 玉木 この六ヶ村之大社ニ而御座候、人王八十五代帝後堀川御宇寛貞二庚申年建立之由当年迄四百四十と申伝候緑起等無之社領一町四畝十歩有之候得共弾正殿御検地ヨリ無之候。
六所大明神 緑起等不二相知一社領六反九畝有之候由申伝候 禰宜与九郎
正保元年従二御公義樣一上葺被レ成レ下候。
   禰宜 徳兵衛
牛頭天王宮は明治四年広嶺神社に名称変更せられなお現存せる左記の棟札あり。



曹洞宗日照山正明寺

村の入口にある。国道27号線に向けて「松木長操遺跡」の案内板がある。
『遠敷郡誌』
正明寺 曹洞宗永平寺末にして本尊は阿彌陀佛なり、三宅村日笠字南栗長に在り、慶長十年敦賀郡祖鑑創建す、境内佛堂に四佛堂あり、本尊は薬師如来観世音彌勦地蔵菩薩にして元村内所々民有地に在りしを明治十二年合祀す、開山堂あり、本尊は道元禪師祖鑑にして天保二年創建。

『上中町郷土誌』
正明寺 曹洞宗 日笠
日笠区にあり当山は日照山と号し人皇百七代後陽成天皇の慶長十二年の春敦賀禅源寺第二世前大乗の創建に係る 開山は光山祖鑑なり。後住職第四世亨保年間に至り田地数町歩を有せり 本堂には阿弥陀仏を安置す。伝へ言ふ。御本尊は鎌倉時代の作にして当院は住古浄土宗に属したるものなりしも後曹洞宗に改宗したるなりと。義士松木長操の処刑せられたるは住職第二世の時にして同義士の霊を当院に祀る。開山堂は当時第十世の代天保二卯年檀徒相協議し建立せるものにして之には開祖道元禅師並開山祖鑑の像を安置せり。また境内には一堂字四仏堂ありて薬師如来(往古大火の災に遭い現在御手のみ残す)観世音菩薩弥勒地蔵菩薩の四仏像を安置して本尊となす 元来これ等諸仏像は区内各所にありしを明治十二年四月何れも当寺内に移せしものなり 当寺には左の九ヵ寺の末寺あり。
 曹福寺(神谷)桂林寺(兼田)玉泉寺(玉置)長福寺(平野)栄昌寺(大興寺)正寿寺(四分一)徳林庵(三分一)福泉庵(門前)宝泉庵(池河内)
社寺由緒記
禅宗日照山正明寺 本尊阿弥陀脇立観音勢至春日の作と申伝候 古寺及二大破一候故御断申上寛文六丙年午再興化候以前は寺領三反有レ之候へ共弾正殿以来無レ之候
 延宝三乙卯年九月十七日
   住持 林真和尚
   庄屋 田中
社寺由緒記
日笠村拔苦山興楽寺 本尊十一面観世音慈覚寺大師御作と及承候 五十年斗前迄は村より上に堂有之候へ共、弾正殿以来往来の天皇の御旅所へ庵を立置候処村中病難を受け牛馬等迄なやみ候故寛文十一年御断申上堂建立仕候。夫より災難不レ來掃除灯明などは観音講中之者御籤次第に仕候。住持は之無候。寺領二反有之由申伝候。弾正殿御検地より無之候
大地蔵
大地蔵と申而八尺之座像御座候へ共昔焼亡仕今残る所は左の手斗観音堂に入置申候
辻堂 本尊つま取地蔵と申伝候住持無レ之弥勒菩薩恵心の作 昔は庵主有レ之候得共今は一間四面の堂にて何の由緒メ不二相知一候
毘沙門 恵に心作、六十年以前迄は堂有之候へ共大破仕り十年以前に修覆仕候処大明神の庇を借り申候。
別当 徳兵衛


松木長操の墓
山門を入ってすぐ左手に五輪塔があり、「松木長操居士」と刻まれている。


案内板がハゲていて読めない部分が多いが、義民松木長操の墓だそうで、彼は住職の計らいにより、ここ正明寺に葬られた、この五輪塔は寛延2年(1749)に日笠村の人によって建てられた現在最古の墓と書かれている。




《交通》

日笠の東端にある踏切、その脇に道しるべの石柱(町史蹟)が立っている。「左北国ゑちぜんみち」「右志由ん連以みち」と刻まれ、文化13年(1816)の銘がある。この石柱の向きがおかしいとする書もあるが、これでいいのでなかろうか。踏切を渡っていく道が旧丹後街道で、越前敦賀へ続く、踏切の手前から右に行く道は九里半街道(熊川街道。若狭街道、鯖街道、巡礼道とも)で近江へ続く。29番松尾寺から30番竹生島宝厳寺に向かう巡礼者にはこれでいい。ここで丹後街道と九里半街道が合流した、今は人家もまばらだが、鉄道が開通した大正7年までは人馬の往来はげしかったという。旧丹後街道と今の国道27号線はこのあたりの道筋は違っていて、旧丹後街道はこの先の堤を経て波古神社の手前から右に折れて須上峠を越えて安賀里へ出た。


《産業》


《姓氏・人物》
松木長操(ながもち)(庄左衛門)処刑の地(町史蹟)

若狭の義民松木長操は、当地の北川河原で磔刑にされたといわれ、現在その跡といわれるところに碑が立てられている。
案内板がある。
義民松木長操 処刑の地
  上中町指定史跡 昭和三十年指定
江戸時代の初め、小浜に新しい城を築くため、年貢、特に大豆が大幅に増額され、これは城ができても改められませんでした。そのため、若狭の農民は大変な苦しみを強いられることとなりました。
この時、新道村の若き庄屋であった松木庄左衛門(贈名長操)先生は、若狭の農民を救わんとして、実に九年もの嘆願を続け、ついに磔の刑に処せられました。
しかし二十八歳の若きその一命と引さ換えに嘆願は達成されました。時は慶安五年(一六五二)五月十六日、処刑の地はこの近辺であったと伝えられています。
 松木長操奉賛会


日笠の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
日笠
 日笠は三宅地区の西端に位し南には日笠山が聳えて松永村門前、池河内との間を隔つ。東北部は一帯の平原で北川はその北境を流れ、日笠川は約一里程奥山より発源して北に流れ北川に入る。従って灌漑至便地味肥沃で農産物は饒である。この地は元玉置庄で広嶺神社は庄中の総社であり、正明寺は本寺で今に玉置の入込山もある。
 住民は農耕を主とし森林を副資源として生活す。地勢上これを下、中、上ノ町に分け下ノ町には人家最も多く、また上ノ町の人家の尽きるまで街道より約八町あり谷の深きを知る。山間には松、杉、檜よく繁茂し、奥山はいわゆる保安林で地積約百町歩前途有望の森林となる。
 藩政時代草石高六百十四石二斗六升八合、貢米は三百九石七斗一升五合を納付し、酒井藩制囲籾俵数百四十八俵納庫した。
 舟塚は区の西端にあって国道の両側に沿い前方後円の二大古墳があり、また西より坂を上つた街道傍に藩政時代から明治にかけて、茶所といい行人に茶を接待した所があったという。
 正明寺境内には義民長操子を葬って古来農民の悲涙をそそいだ墓墳あり、東端路傍の記念碑は長へに義烈をたたえ、また磔刑に処せられた日笠河原は河川の変遷等もあったが古老のいい伝えから推定して、今河辺に一本の松が残り遺跡の碑が建てられている。
 東方山の中腹に弥勒神の古趾あり、また西方籔肉桂ノ木の森には元薬師堂ありしも、往昔火災に罹り焼失したりと古老の口碑に伝う。今路傍の観音様と俗称する所にその堂宇趾を存す。
  ○
附記。なお伝え曰う、飛鳥井雅親郷集に大膳太夫入道宗勲若狭小浜の舘に侍しし比京へ帰り上りしにひかさという処までしたい来て宗勲もやがてのぼる可き由申して
  行末の都に向ふ袖だにも
     ぬるゝになれし別れかなしも
  ○
日笠の道標石
  右じゅんれい道 左北國越前道
国道二十七号線国鉄踏切にあって、文化一三年に立てられたもの、これは西国三十三ヶ所観音霊場を巡拝するいわゆる巡礼の道しるべのためで、なお三宅区にも「直ぐ竹生島道」の道標もあり若狭にはこれに似たものが所々に見られる。
舟塚に係る伝説
今は無格社なれども国分に御幣社あり、往昔より遠敷明神の祭礼と共にこの舟塚に神主参向し幣を奉戴し、塚の周囲を巡りし後この幣を社に収めたるを以て御幣社というと、以って遠敷明神との縁故あることが知られる。
  ○
日笠の女神事。往昔大神当村白木原に御降臨の折、里女大勢にて草苅をなせしが皆々争いて御幣を取りあい御勧招せしより始まる。毎年各戸より女一人づつ参加し争いて御籤を引きて来年の当番をきめるならわしがある。


日笠の伝説


『上中町郷土誌』
松木荘左衛門と大蛇
 今から三百余年前新道村には大きな池があり其処には大蛇が住み近寄る人を呑むと云うので恐れられていた。少年の松木荘左衛門は胆太くこれを退治しようと思い立って親類縁者の止めるをも聞かず家伝来の一刀を腰にして出かける時「もしも此の川に赤いものが流れたらそれは大蛇の血であるから迎えに来て下され」といい残して勇気凛々として池へ向ったがやがて一刻もして果して大蛇の血で、川の流れは真赤になったのでそりゃこそと人々は大池に行って見ると大蛇の死骸の側に少年が立っているので一同驚き入ったと云うことであった。
 荘左衛門が長じて若狭農民の先頭に立って租税減免の訴願に立ち苦節九年の後遂にその願は叶えられたが其の身は日笠磧にてはりつけの刑と決った。ところが酒井忠勝は荘左衛門の義勇を惜しみ助命の早馬を立てられたので急使は東海道を西へ飛んだ。天竜川のほとりまでさしかかった時一天俄にかき曇って大雨となり馬は一歩も前へ進まずこの為に数刻のちがいで荘左衛門は遂に刑場の露と消えたが、これはさきに退治した大蛇の怨みをここで返したものであると世人は噂さしたと云う。そこでこの池のほとりに祠を建て大蛇の霊を祀ったが今でも池の明神として残っている。

『越前若狭の伝説』
つまとり地蔵      (日笠)
日笠のお寺につまとり地蔵さんと呼ばれる優しいお顔の、大きな地蔵さんがおまつりされている。これは昔は、もっと田んぼに近い道のふちにあった。
むかし日笠の宮田平太夫という家におなごし(下女)がいた。夏の初めに毎日田へ草収りに行っていた。ある日のこと、あまり暑いので、この地蔵堂にはいって休んでいた。お堂のぐるりには木が立ち並び、ここはとても涼しい場所であった。そのうちに、おなごしは眠たくなってぐっすりと寝込んでしまった。目をあけたとき、日はとっぷりと暮れていた。飛ぶようにして家へ帰ると、おなごしは主人に泣いてあやまった。
その翌日、いつもより早く起きたおなごしは、急いで田んぼへやって来た。きのうの分も草を取ろうと思って来て見ると、田の中の草は全部きれいに収れていた。おなごしは不思議でたまらず、きのうの地蔵堂まで来て見ると、お地蔵さんの衣のすそやそでに土がついていた。優しいお地蔵さんがおなごしのために、かわって草を取って下さったのであった。
それ以来、この地蔵さんをつまとり地蔵と呼ぶようになり、みんながいっそう深く信仰するようになった。今もこのお地蔵さんのつま(着物のすそ)には、所々にかわいた土がついている。   (永江秀雄)

つまとり地蔵の名称はすでに「社寺由緒記」に出ている。(杉原丈夫)

五王さま  (日笠)
もと五王さまのあったあたりは、むかしは大沼で、蛇(じゃ)体の主(ぬし)が住んでいた。この主には千人の子どもかあったので、食を求めるため村へ出て荒し回った。村の人は困って。相談の上、毎年ひとりずつ娘を供えることにした。その時期か来ると、娘をかごに入れて沼のそばに置いて帰る。すると沼の中から蛇(じゃ)が出て、娘をかかえて沼の中にはいる。しかし毎年娘を失うのはかわいそうなので、お堂を建てて五王さまとして祭り、娘のかわりにダンコを、一軒から千十ずつ作ってお供えすることにした。後に五王さまは氏神さまに合祭されたが、毎年十月十七日には千十ずつのタンゴが村から上がる。子どもたちは喜んでタンゴをもらいに行く。これを千タンゴといって。子どもたちはこの日を待っている。    (福井県の伝説)

一本松    (日笠)
むかしおやすという娘とその親が、今の一本松の所に住んでいた。あるときこの親子は悪者に殺されたので、ここに葬った。すると間もなくその場所に松の木がはえ、見る間に大きくなった。この松は田んぽのまん中にあるので、耕作のじゃまになる。それでときどきこの枝を切る人があるが、そのたびにその家に不幸がある。この松のあたりに大きなへびが住んでいる。村の人は、松の木は昔殺された親の霊、へびは娘の霊であるとして、恐れている。  (福井県の伝説)



日笠の小字一覧


『上中町郷土誌』
日笠小字名
奧山口 市野々 一ッ谷 鹿子谷 大谷口 土山 居矢ノ谷 仙玉 井根口 永菴院 嶋ノ谷 西山 小森 横升 山田 奥山田 山越 窪 山田森下 白屋 杉繩手 東小林谷 岸ノ下 溝端 南立繩手 南栗長 上市場 栗長 北立繩 東玉塚 玉塚 谷田 早崎 西小林谷 奥沢 沢田 松塚 百町 滝谷 大坪谷 船塚 尾畑 谷 池松 下池松 境ノ手 西奥田 野田 下河原 堂徳 高田 町田 奥田 薬師下 下船塚 上野崎 野崎 乗友 馬淵 野寺 森ノ下 西中河原 中河原 中瀨 瀬川 二本木 田上 下ノ霜 欠口 上下河原 清水下 上清水 西山ヶ鼻 山ヶ鼻 上河原 地蔵河原 川上 下柳 川端

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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