丹後の地名 若狭版

若狭

気山(きやま)
福井県三方上中郡若狭町気山


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福井県三方上中郡若狭町気山

福井県三方郡三方町気山

若狭国三方郡八村気山

気山の概要




《気山の概要》
県立美方高校があるあたり、南北にJR小浜線と国道27号が並走する。JR気山駅がある。「けやま」とも称した(正保郷帳)。水月湖・菅湖の東岸に位置し、北は久々子湖に面する。
古代の気山。平安期に見える地名。若狭国三方郡のうち。治暦元年(1065)9月1日太政官符(壬生文書)は同年7月24日の越中国司解を引き、近江国塩津・大津・木津、若狭国気山津、越前国敦賀津の刀禰らが北陸の国々から納入する調物に対して勘過料を徴すると称して運上公物を拘留していることを述べ、これを禁止している。
中世の気山。鎌倉期から見える地名。弘安10年(1287)7月3日越中国司源棟亮が、越中国から納入する調物に対して近江国塩津・大津・木津、若狭国気山津、越前国敦賀津の刀禰らが勘過料としてそれを拘留・割取することを禁止するよう要求している(東史菊亭文書)。この弘安10年の国司の申文写は、平安末期の治暦元年9月1日の太政官符の文言をそのまま使用したところがありやや儀礼的なものが感じられ、実態を表現したものかどうかは疑わしいという。 11世紀中頃まで若狭・越前以外の北陸道諸国の官物運送は越前国敦賀津に陸揚げされて塩津を通る道筋によっていたが、11世紀後半には気山津の刀禰層の成長に伴い気山津から木津を通る道筋も発達して複線化したものと推定されている。南北朝期以降には気山津は見えなくなる、これは気候の変化に伴う9~12世紀の海退が13世紀以降ますます進行し、久々子湖に砂嘴が形成されて入船できなくなったためであろうとする見解もある。気山津の衰退と入れかわり若狭では小浜が発展していくことになる。気山津が衰えたのちの南北朝期以降には耳西郷内気山村として見える。文和元年(1352)8月1日に須磨久盛・孫太郎が耳西郷気山村の鮭川の知行に関して提出した請文が村としての初見であるが(宇波西神社文書)この文書は疑わしいという。
気山には「延喜式」神名帳に載る宇波西神社があり、文明18年(1486)にこの宇波西神社の田楽頭を差定された者に「け山西方」「け山道光」とある、「け山」が当村のことと考えられる(同前)。同年6月に気山の水月・久々子両湖の間にあった浦見坂を訪ねた聖護院道興は「とはゝやなたか世に誰もうらみ坂つれなく残る恋の松原」という歌を残しているが(廻国雑記・群書11),この恋の松原は気山宇波西神社の北東の地にあった。また気山には南北朝期の延文4年(1359)から気山(毛山)大夫と称される猿楽の楽頭(学頭)が座をなして、藤井保天満宮・長谷寺五所大明神・佐古荘など三方郡各地で楽頭職給田を宛行われている。大永2年(1522)の宝寿庵・宝泉院・宝円寺・長泉庵の坪付には「気山百姓等」の持つ田地が記されるとともに、中村・牧口・寺谷・苧・市など村内の地名が見えている(宇波西神社文書)。戦国期の状況を示す耳西郷惣田数銭帳に、気山村は貞安名・小谷守久名・清正名などの名田や散仕分・番匠分などの耕地23町8反を有する村とあり、耳西郷内で最大の規模を持つ村であった。同じ頃の耳西郷堂社田地数帳には上瀬田7町6反・気山権現地蔵田7反・気山権現市姫田1反が記されている(同前)。永禄元年(1558)11月7日武田信方は気山の合戦で勝利を収め、武田元栄から感状を得ている(尊経閣文庫所蔵文書)。宇波西神社の田楽頭文には文明19年(1487)から苧・市・牧口・中村・きりお(切追)など村内各地の者が頭を勤めているが、天正年間になるとこれらの小字は苧村・市村・寺谷村のように村と称されるものもあらわれている(宇波西神社文書)。しかし江戸期ではこれらの村内小村は自立した村とはならず、気山村に含まれている。
近世の気山村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。浦見川開削は大地震の災害復旧のみならず、水月湖から久々子湖への排水を良くし、湖辺に数多くの新田が開発されることになった。この開削は三方郡奉行行方久兵衛が手掛けた。「若狭部県志」によれば、気山村には中山・市村・中村・牧口・寺谷・切追・苧生などの小名が書き上げられている。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年西郷村・八村の各大字となる。
近代の気山は、三方町の気山と美浜町の気山がある。
当ページの三方町の気山は、明治22年~現在の大字名で、はじめ八村、昭和28年からは三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西20町・南北3町、戸数162、人口は男419・女447、学校1、小船17。
美浜町の気山は、江戸期の気山村牧口の地域で、明治22年~現在の大字名。はじめ西郷村、明治31年南西郷村、昭和31年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西5町余・南北6町余、戸数25、人口は男98・女94。


《気山の人口・世帯数》 686・209


《気山の主な社寺など》

恋の松原古墳(円墳)

宇波西(うわせ)神社(名神大社)

JR「気山駅」から立派な参道が一直線に続いている。突き当たりが宇波西神社。元々は日向湖に祀られていて、その後大宝元年(701)に上野台(美浜町金山)に遷座。当地への遷座は大同元年(906)という。
境内の案内
宇波西神社
御祭神 うがやふきあえずの命(海漁と安産の守神)
御遷座と沿革
文武天皇の大宝元年(昭和五十一年で千二百七十五年前)三月八日、日向で初めておまつりをしましたが程なく今の療養所のある上野谷におうつりになりました千余年前にできた延喜式の神名帳によりますと当時北陸道七ヶ国にまつられていた三百五十二座の御祭神の中で年に三回(新年祭月次月六月と十二月新嘗祭)朝廷から幣帛を奉られたのは此の社だけであり、当時の名神大社でありました。建武文亀年間兵火の爲再度焼失天正年間今福の城主浅野長政が社殿を造営し参道を寄進しました国主酒井家から累代修理改築など篤い崇敬が奉ぜられ現在の社殿は嘉永四年の造営です御例祭四月八日午前二時から氏子各部落の古式豊かな献饌奉幣が相つぎ正午からは県の無形文化財である王の舞、獅子舞、田楽舞等古雅で優美な祭礼が奉納されおわって子供のみこしの御渡りがあります


延喜式に、名神大・月次・新嘗とあり、丁重な奉幣にあずかる北陸道唯一の社格を有する名社。因みに付け加えれば、丹後一宮籠神社が同じ社格で、日本海側では、この2社だけが有したものである。承暦4年(1083)6月10日付および康和5年(1103)6月10日付の神祇官御体御卜奏文(朝野群載)に神名がみえる。中世・近世は上瀬宮(於瀬宮)、上瀬大明神と称し、文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写に「於瀬宮四丁百八十歩 耳西郷」とみえ、享禄5年(1532)の神名帳写(小野寺文書)は「鎮守大明神十二所」の1つとして「従二位勲三等於瀬(ヲワセ)大明神」をあげる。「若狭郡県志」は「文武天皇大宝年中自日向国勧請于茲、一説大同元年勧請之云、元亀年中罹兵火社宇為灰尽、其後建今社」と記し、「若州管内社寺由緒記」は
上瀬大明神は鵜□草葺不合之神祠也、大宝元年金向(カネコ) (の麗) 山□□上野に宮建立遷宮祝了、其後玉尾之下え宮を引移給、御本地薬師故上野宮跡に薬師堂を建奥の院と奉レ祝、其時は社領大分有レ之故別当十八坊神主立合神事祭礼等を勤候へ共太閤御検地にて被二召上一故別当十七坊無住に成今宝泉院一坊残り在レ之候、天正十九年に慶陳と申入道別当神主と本願に成諸方奉加にて宮造立す只今の宮是也、
という。

例祭は4月8日(古くは3月8日)で、巫女舞・王の舞・獅子舞・田楽など中世前期の特色ある芸能(国の無形民俗文化財)が奉納される。舞いは担当する集落によって少しずつ異なるという、また、少子高齢化する集落の中には奉納できなくなっているところもあるという。



氏子圏は広くは地元の気山・海山・北庄と現美浜町の気山・大藪・金山・郷市・久々子・松原・笹田・日向の各地区で、早瀬浦も近年までは氏子圏であった。これらの地区では祭礼数日前より厳重な頭屋行事が行われ、当日の夜中から明け方にかけて定められた順番に従って頭人が幣束と献饌を持参する。芸能は地区ごとに所役が定められ、王の舞が海山(三回に一度北庄)・大藪・金山が交代、獅子舞が郷市・松原・久々子の交代、田楽が日向二年・美浜町気山一年の交代で務める。大永2年(1522)の上瀬宮毎年祭礼御神事次第(宇波西神社文書)によれば、3月の祭礼に膳を献じる所として「田楽村・ししの村・王の村・早瀬浦・日向浦・くるみ浦・神子ノ村・海山・大やふ村・金山村・別所・供僧」を記すが、田楽は古くは気山村の役とされた伝承があり、王の舞も本来は気山の字()村(王村の転訛ともいう)の担当とするなら、ほぼ現在の氏子圏と一致する。この氏子圏は中世の奈良春日社を領家とした耳西郷の範囲とも重なる。なお近世には7月の神事に能楽座の気山大夫の演能があったという。
当社の祭礼で奉納されるまでには、数日前に各集落でも奉納され、それらを一つひとつ見て回ると10数年はかかると言われる、とんでもない規模のものであるそう。

『三方町史』
宇波西神社
気山字宮本に鎮座。祭神彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊。旧県社。境内社に八幡神社祭神誉田別尊があって、この八幡神社に、明治十一年-四十二年、次に列記する神社の祭神が合祀された。
廣嶺神社祭神素盞鳴命 (元、遊子字宮ノ越に鎮座)
八幡神社祭神誉田別尊 (同)
熊野神社祭神伊邪那美命(元、海山字古畑に鎮座)
廣嶺神社祭神素盞鳴命(元、海山字庄堺に鎮座)
山神社祭神大山祇命(元、海山字五十八に鎮座)
神明社祭神天照皇大神 (同)
天照皇大神社祭神天照皇大神(同)
八幡神社祭神誉田別尊   (同)
廣嶺神社祭神素戔嗚命 (元、北庄に鎮座)
厳島神社祭神厳島大神 (元、塩坂越に鎮座)
八幡神社祭神誉田別尊 (元、塩坂越字北側に鎮座)
神明社祭神天照皇大神 (元、気山に鎮座)
泉神社祭神泉大神   (同)
日吉神社祭神大山咋命 (同)
八幡神社祭神誉田別尊 (同)
風宮神社祭神風宮大神 (元、笹田に鎮座)
山神社祭神大山祇命  (同)
神明社祭神天照皇大神 (同)
大将軍社祭神大将軍大神(元、宇波西神社境内社)
大杉社祭神大杉大神  (同)
塞神社祭神八衢彦命・八衢姫命・船戸神(同)
天満神社祭神菅原道真公(同)
常神社祭神神功皇后  (同)
 ところが、その後これらの合祀神の中には「自分たちの集落に氏神がないということは寂しい」というので、復旧運動が盛り上がり、元どおりになったもの(海山区の熊野神社・塩坂越区の八幡神社・遊子区の廣嶺神社)もある。
 伴信友「神礼私考」に「里民云う、古昔上瀬神此の民家(日向浦の民家)に垂迹し、後上瀬に移る。其の日大刀を携え神輿を従う、故に今に至るも毎春その儀を行う。又曰く、垂迹の日神託(神のおっげ)ありて此地日向国坂山の景色に似たり……今、日向浦の字を出神(でがみ)と云う地に稲荷ノ社とてあるが、いはゆる垂跡の時の社なりと云い伝へたり、これ宇波西の神を始めて祭たる処なるべし」とあり、また「大宝元年三月八日鎮座、故に毎歳春三月八日祭儀を行う」と記されている。このようにこの社は、文武天皇の大宝元年(七〇一)日向浦に垂跡(神として身をあらわす)あって、同年三月八日に上野谷(今の国立福井病院付近)に社殿を建ててここへ移し、さらに、それから百五年後の平城天皇の大同元年(八〇六)三月八日には、あらためて現在地に移されたと言う(「若狭国志」・「神社私考」その他の説)。
 宇波西神社の名は、社前を流れる上瀬川の名を取ってつけられたものである。国帳に「従二位勲三等於瀬大明神]とあるのはこの社のことで、もとは上瀬大明神といった。延喜式神名帳に、「名神大・月次・新嘗」と記されているように、多くの神社の中でも特にまつられた年代も古く、由緒も正しく、霊験のすぐれた社で、国家の大事にあたっては神に幣帛をささげ、祈願を行うため、特別に臨時の祭礼である名神祭にあずかった。この名神祭にあずかった神社とは、延喜式の神名帳によると全国で三百六座、二百二十四社に過ぎなかった。また、毎年祈年祭のほか、月次・新嘗の祭に案上の官幣にあずかったが、これは北陸道七国二百五十二座の中で、この神社だけで、朝廷の尊崇も殊のほか厚かった。
 建武年間(一三三四-三七)と、元亀年間(一五七〇-七二)には、何回か兵火に遭って大事な文献が失われている。天正十九年(一五九一)、今富城主浅野蝉正長政が社殿の再建に着手し、文禄四年(一五九五)に完成した。このとき、水田を埋め立てて参道をつくったが、これが現在の松並木の参道である。慶長十四年(一六○九)には、小浜城主京極若狭守高次が社前に大橋を架け、正保元年(一六四四)には酒井忠勝が国入りのとき、社殿と玉垣を改造し、翌年には社前の板橋をかけかえた。また、寛文三年(一六六三)には、酒井忠直が浦見川開削工事が成功したので田地を寄進し、普請奉行行方久兵衛が石造りの手洗鉢を寄進した。現在境内にある手洗鉢がこれである(「福井県神社誌」)。その後ご元禄十五年(一七〇二)から、享和二年(一八〇二)の間に、当時歴代の小浜藩主が、社殿の修繕六回、橋の修理三回、玉垣や石垣の修理、大鳥居の建て替え、更に蔵米(三十三俵)・みこし・銀などを寄進しており、参府(参勤交代のため大名が江戸に出て幕府に仕えたこと)の途中は、宇波西宮の宮司に謁を賜り、宇波西宮に参詣(「上瀬宮萬記」須磨悌蔵)している。このように昔から小浜藩主からも敬われていた。
 明治六年九月、神祇官の後身である教部省によって県社に指定された。現在例祭は鎮座の日にちなんで四月八日に行われている。
 この社の祭礼は、伝えるところによれば気山村の草分けで、昔この社が日向浦から気山村に移るとき、みこしをかついでお供をした十九人の諸頭(もろと)と呼ばれる人たちによって行われてきた。ところが、これではあまりにも人数が少なくて祭礼にも差し障りが起きるようになったため、延喜二年(九〇二)に、これら諸頭の分家の中から新しく十二人を選んで三十一人としたという(宇波西神社文書)。その後は長い間増やすことがなかったが、正保三年(一六四六)にさらに一人を加えて三十二人とした。その後、明治十七年三月六日、村中の協議によって、諸頭の仕事を村民全体にまかせることになった。現在の諸頭は九戸で、神事は境内の諸頭仮屋で行われていたが、昭和四十二年改築して儀礼殿と名づけ、昔から定められたとおりの儀式が行われている(本編第四章参照)。
 氏子は各集落ごとに昔から定められた独自の神事を行っている。神事芸能については、その舞当番にはいろいろ変遷があったよりであるが、現在では、田楽は明治二十六年から、日向区二年、牧口区一年の順で行われている。王の舞は、江戸時代から海山-金山-大薮の順で行われており、現在は、海山-金山-海山(北庄)-大薮-海山(五十八)-金山-海山-大薮-海山(北庄)の順で行われている。獅子舞は、久々子、松原、郷市が毎年交代で勤めている。
 例祭当日は、深夜から明け方にかけて、氏子区域の各区から次々と、代々受けつがれてきた献供の覚書に示されている供え物を捧げ、供え物は神主の手によって神前に供えられ、祝詞があげられ、参詣の氏子は拝殿にひれ伏して参拝する。
 大祭の式典は数人の神主によって行われ、浦安の舞が奉納される。終って太皷ばやし・みこし巡行・王の舞・獅子舞・田楽の奉納があってにぎわう。
 諸頭の行事・王の舞・獅子舞・田楽などは昔からの伝統的風格があり、県内に広く知れ渡りている。また、八月十九日の秋祭に行われる「風祈能(かざいのう)」は伝統の恒例行事として、現在も倉座能の会によて奉納されている。なお、この社の神事と芸能については『宇波西神社の神事と芸能』(三方町教育委員会昭和五十四年発行)に詳しく述べてあり、ほかにも参考文献が少なくない。


『三方郡誌』
宇波西神社。縣社。式内。気山寺谷に鎮座す。もと上瀬大明神と稱す。國志に曰く、里民云、古昔上瀨神、垂二跡於此民家一、〔日向浦〕移二上瀨一、其日携二大刀一従二御輿一、故至レ今、毎春民行其儀と。神社私考に曰く、今、日向浦の字を出神と云一地に、稻荷社とて在るか、いはゆる垂跡の時の社なりと云傳たりと、然れは最初、日向浦に垂跡ありしを、後に気山に移したるなるべし。又一説に云、始金向山の麓上野谷に鎮座し、大同元年今の地に遷座す、建武元年炎上すと。〔郡縣志に曰く、舊記大寶元年二月八日鎭座、傳言、越前氣比社官菅原氏、奉勅始祭二神霊於金向山一、今社地是也と〕社殿はまた元龜二年炎上したるを、再建したるを、嘉永三年又改築したり、宇波西とは上瀬にて、河に因たる名なるを、神社の號としたるなるべし。主神は草葺不合尊に座すと云傳ふ。こは上瀨と云神號を、羽におもひよせたる説にはあらさるか。さる例世に多き事なりと、伴信友も云へり。國帳に從二位勳二等於瀨大明神とあり。於は古くは上に通はし、ウエと読むひに用ゐたり。萬葉集十二に妹於事、和名抄郷名に井於〔井乃倍〕などあり。神名帳に名神大、月次、新甞と注せり、帳に載せられたる北陸道七國三百五十二座の中にて、月次・新甞の祭に預り、又祈年祭の案上の官幣に預るは、此社のみなり又朝野群載、康和五年六月十日、卜部兼良朝臣奏亀卜御體御卜文に、坐若狭國宇波西神・多太神・常神ム厶社司等、依過穢神事祟給、遣使科中祓可令祓清奉仕事と見えたり。正保二年酒井忠勝、板橋を社前に架す社務職は青蓮院宮なりき。明治六年九月、教部省に於て縣社に列す。未社七座〔常神社・塞社・天満社・八幡社・住吉社・将軍社・豊玉社〕あり。境内千二百十坪、陰暦三月八日を祭日とす。獅子舞・王舞を奏す。此日は鎮座の日なりといふ。また陰暦七月十九日神事能あり。〔今は四月八日の同日を祭日とす〕両西郷村の各邑均しく之を祭る
(故郷百首)伴信友
 これそこの北陸道にふたつなきみたひまつらす宇波西の神
〔合祀〕泉神社。南西郷村氣山(舊牧口)に銃座したりき。國帳に正五位気山泉明神とありもとその社の側より清泉湧出したりけるによりて社號とせるなり。その泉、某年の地震〔寛文なるか〕にて、その邊崩れて、出すなりぬるとそ。相傳ふ、この神は宇波西神の御母にて、白髪の老嫗にて、顕はれ給へることありしと。明治四十二年、宇波西神社境内社常神社へ合祀す


『新わかさ探訪』
宇波西神社の王の舞
中世から連綿と続く 若狭の春の華やかな舞楽
 桜の花が咲くころ、若狭の各神社ではにぎやかに春祭りが行われます。美浜町や若狭町などでは、神事芸能「王の舞」が奉納され、なかでもとりわけ華やかなのが、毎年4月8日、宇波西神社(若狭町気山)の大祭で舞われる王の舞。このとき奉納される一連の神事芸能は、国選択無形民俗文化財に指定されています。
 同神社の氏子は、若狭町気山、海山、北庄と、美浜町の日向、笹田、久々子、松原、郷市、金山、大薮、気山の計11集落、約1千戸を数えます。この神社に伝わる王の舞には、次のような言い伝えがあります。
 昔、北庄の瀬兵衛と治左衛門の二人が、祭りの神事に使うフナを捕りに舟を出したところ、刺し網に片目のフナと鼻高の面、鉾がかかったので、すぐさま宇波西神社に奉納し、その後、二人は京都の賀茂神社で舞いを習い、それを宇波西祭りに舞ったのが王の舞の初めだというもの。王の舞の古い衣装箱に、「元禄三庚午年…三方郡海山村…本願主田辺瀬兵衛尉敬白」と書かれているものがあり、地元には「瀬兵衛舞い舞い、治左大鼓」という言葉も残っています。
 王の舞は、鳳凰が羽根を広げた形の鳥兜をかぶり、鼻高の朱面をつけて鉾を振る、王朝風の古式ゆかしい舞いで、豊作豊漁と国の平安を祈って演じられるもの。宇波西神社が所蔵する大永2年(1522)の『御神事次第』には、当時すでに王の舞が舞われていたことが記されています。また、気山の小字である
()の村は「王の村」で、かつては、ここが王の舞を担当したという説もあります。今は、海山・北庄・大薮・金山の4集落が輪番で王の舞を受け持ち、それぞれの地区の師匠から若者たちへと、舞いが代々伝授されてきています。
 舞楽(舞いを伴う雅楽)は、奈良時代から今日に続く音楽舞踊で、王の舞はその原型をくむものだそうです。古い舞楽の一つ「竜王の舞」の「竜」がとれて、「王の舞」になったのではないかともいわれています。若狭に春が訪れると毎年神前で奉納し、しっかり守り継がれてきたのは、人々の信仰心と伝統を守り続けようとする思いの強さによるものでしょう。
 若狭町内では、トップを切って4月2日に天満社(藤井)と天神社(相田)で奉納された後、同月中旬にかけて国津神社(向笠)、闇見神社(成願寺)、宇波西神社、能登神社(能登野)、多由比神社(田井)と続きます。それぞれ少しずつ風習が異なり、舞い人も地区によって少年や未婚の青年、壮年などさまざま。宇波西神社の王の舞は、舞いの最中にすきを突いて舞い手をコカス(突き倒す)と、その年は豊作豊漁になるという言い伝えかあるため、青竹や木の棒を持った警護役がピリピリしながら周りに目を光らせ、時には緊迫する場向も見られます。


田楽は中世のものだろうが、王の舞はそれよりも古く古代の王朝文化の流れをくむものと思われる。王朝といっても日本の王朝というよりも朝鮮や中国の王朝文化が流れ込んだものであろう。古代とはそうした時代であったのだろう。

王の近衛5名が長い木の警棒を持って警戒、さらにその外を青竹を持った何名かが固めている。彼らは飾りではなく、実際に機能している。厳重な警固のスキを突いて、王を倒そうと飛び出してくる者が実際にある、動画を見てもらえばよくわかる、かなりサクラ的な、儀礼的な闖入者だが、たまに本気の者が飛び出してくるというから気は抜けない。
王を倒すと豊年になる、そうした古い言い伝えが今も信じられているという。
人類史の何とも古い時代の民俗思想ではなかろうか、『金枝篇』の一編を見ているような気がする。王は殺されるためにある、そうすることによって世界は更新される。
王とは古くなり腐敗しカセとなり果てた秩序、それをすばしっこい若者が倒すことによって、世界はふりだしに戻り、新しい時代を迎える。今でも通用するような革命思想を人類は古くから持っていたのではなかろうか。その素朴な形態なのかも知れない。











川中神社

宇波西神社の500メートルくらい上流側、若狭梅街道のすぐ脇に鎮座する、たいへん興味引かれる社。川の中にあったという、今はその川はないが気山(宇波西)川といい、菅湖-水月湖-三方湖はぐるりと廻りを山で囲まれ、流れ込む川はあるが、流れ出る自然の川がない、排水溝がないのだが、ただ唯一このあたりだけに山に切れ目があり、かつては上三湖の水はこの部分を流れて久々子湖・海へと注いでいた。琵琶湖でいえば瀬田川のような川がここにあった、その守護神が当社と思われる。
菅湖は、写真でいえばこの社の右手側奥の、ここから500メートルばかの所にあり、菅湖から当社へと流れる古い川の跡があるというが、よくわからない。菅湖の湖面からの当社の比高は10メートルくらいある。三方断層とそれに並行する日向断層があり、日向湖から菅湖の真ん中を通る日向断層の東側が隆起、西側の水月湖あたりは沈降している、当社のあたりは、広い範囲で隆起し続ける。寛文2年(1662)の地震で1丈(3メートル)ばかりゆり上がったという。そのために、上三湖の水はどこへも流れ出ることができなくなり、湖の水位は上昇した。

←『縄文博物館常設展示図録』より
ずっとさかのぼって縄文期は、このあたりは海であったという。鳥浜の縄文人たちは、この水道を丸木舟で渡り、外海へ出たのであろうか。
久々子湖と菅湖の間の狭い水道部、気山水道とでも呼べば、そこに当社がある。


『三方町史』
川中神社
気山字中村に鎮座。祭神於瀬川中大神。明治四十一-二年、この社に次の神社の祭神が合祀された。
稲荷神社祭神宇賀能御魂神(「神社明細帳」宇波西神社文書)(元、この神社の境内社)
金毘羅神社祭神大穴持命 (同)                  (同)
 延喜式神明帳に於世神社、国帳に正五位於瀬川明神と記されており、伴信友「神社私考」には「(前略)里人の説に、昔上瀬(ウハセ)河の河上此処を流れたりし時、其川中へさし出たる崖に在し社なるによりて、上瀬ノ川中権現、又川崎権現とも称えり」とあり、さらに「寛文年中太く地震たる時、河の流レ変りて、今は地のさま替りて、川中といふ由を知る人少なりと云へり」とあり、この社の昔の様子を知ることができる。
 例祭は四月十五日で、祭典・引き車・もちまきが行われる。


『三方郡誌』
河中神社。同區中村に鎮座す。もと河崎権現と稱す。國帳に正五位於瀨河中明神にとあり。里人云、往時上瀨河の河上、此處を流れたりし時、其川中にさし出たる岸に在りし社なるによりて上瀨川中権現、又川崎権現とも稱せり。寛文年間大地震の時河流塞り、地のさま変りて、川中と云ふ山を知れる人少なしと。或云、式内於世神社なるべしと。祭神詳ならす。


八幡神社
『三方町史』
八幡神社
気山字中山(宮ノ下)に鎮座。祭神誉田別尊。山城国石清水八幡宮から勧じょりしたが、その年代は不明である。明治七年六月、敦賀県から村社に定められたが、その後、無資格社に編入された(「神社明細帳」宇波西神社文書)。例祭は十月二十四日で、引山車が行われる。


秋葉神社
『三方町史』
秋葉神社
気山字寺谷に鎮座。祭神迦具土神。遠州(静岡県周智郡春野町)秋葉山本宮から勧じょうしたという。三月十五日の例祭には、祭典のほか、宵宮に引き山車が行われる。


廣嶺神社
『三方町史』
廣嶺神社
気山字市に鎮座。祭神素盞嗚男命。播磨国(兵庫県)から勧じょうしたという。例祭は七月七日であるが、最近は七日前後の日曜日に行っている。当日は祭典、引き山車が行われる。


日吉神社
『三方町史』
日吉神社
気山字苧に鎮座。祭神大山昨命。この社には、神明社祭神天照大神・八幡社祭神誉田別尊の境内社がある(「神社明細帳」宇波西神社文書)。
 例祭は四月十八日で、引き山車が行われる。十二月第一日曜日には神事が行われる。近江国坂木村日吉神社の分霊を勧じょうしたといわれているが、その年月日は不明である。


大山祇神社
『三方町史』
大山祗神社
気山字切迫に鎮座。祭神大山祇命。境内社に神明社祭神天照大神がある。伊予国(愛媛県越智郡宮浦)大山祗神社の分霊を勧じょうしたといわれている。例祭は四月十六日で、当日は祭典や引き山車が行われる。



高野山真言宗慧日山宝泉院

宇波西神社の南側にある。宇波西神社の別当寺の一つという。
『三方町史』
宝泉院
所在気山一三〇-七。山号慧日山。高野山真言宗。本尊薬師如来。この寺の移り変わりは、あまり明らかでない。本尊に薬師如米をまつり、字波西神社の別当寺を兼ねていた。したがって、寛文二年(一六六二)の浦見川開削普請に当たっての、大願成就の祈願は、この本寺堂で行われた。本尊薬師如来は、天竺霊鷲法道仙人の作といわれ、行方久兵術の守護仏としてまつられていた。初めは十余坊もある大伽藍であったが、太閤検地のとき、全部取除かれ、本堂だけが残ったといわれている。天正元年(一五七三)七月、朝倉の兵がこの寺を攻めたことがあるが、このとき、火災に遭っている。この寺は、紀伊金剛峰寺の末寺である。また、若狭観音霊場第六番札所であって、本尊は三方町の指定文化財となっている。
 昭和六十三年四月、老朽した本堂の復興に着工し、平成元年十月、本堂、庫裏の落慶法要を行った。
 寺宝の如意輪観音像は、寛文二年の大地震のため、湖が干潟になったとき、湖底から見つけたもので、林春斉がこの像を干潟観音と名付けた。水晶山に堂を建て干潟観音堂といい、この観音像を安置している。
 この寺の釣り鐘は、太平洋戦争中昭和十七年に供出され、そのままになっている。


『三方郡誌』
寳泉院。眞言宗古義派。氣山にあり、本尊薬師如來は天竺靈鷲法道仙人の作なりとぞ。初め十餘坊もありし大伽藍なりしが、豊臣氏検地の時、悉く廢して、本院のみ存すと云ふ。天正元年七月、朝倉氏の兵、本院を攻めしことあり、天正の兵燹に羅りたりと傳ふるは、此時のことなるべし。紀伊金剛峯寺末なり。
(朝倉始末記)
 …


曹洞宗清涼山向福寺

『三方町史』
向福寺
所在気山二三一-二八。山号清涼山。曹洞宗。本尊延命地蔵菩薩。この寺は、竜沢寺二世性印(天文八年〔一五三九〕四月二十一日死去)が開山した清涼山泉源庵と、竜沢寺五世調順(慶長五年〔一六〇〇〕九月十二日死去)が開山した徳雲山向福寺の二寺が、昭和二十八年に合併して開かれたもので山号を清涼山、寺号を向福寺と名付けられた。竜沢寺の末寺であったが、昭和四十七年七月十二日に、法地の認可を受け、法地に昇格した。法地開山は竜沢寺三十四世勝山であり、初代住職は密学であった。
 昭和四十七年に慕地の移転整備と、庫裏の新築を、また、昭和五十七年には、客問の新築など、伽藍や境内地を整えた。


曹洞宗向旭峰福昌寺
『三方町史』
福昌寺
所在気山五〇-二○(苧)。山号向旭峰。曹洞宗。本尊釈迦如来。元禄二年(一六八九)五月に、竜沢寺十五世覚苑によって創立された。竜沢寺の末寺であって、昭和五十九年二月二十一日に改築され、入仏式が行われた。


曹洞宗羊水山宝徳寺
『三方町史』
宝徳寺
所在気山一九四-二(切追)。山号羊水山。曹洞宗。本尊釈迦如来。万治二年(一六五九)の創立であるが、無住のため、その開山や沿革については、明らかでない。竜沢寺の末寺であって、堂が老朽化したため、昭和五十八年七月、集落の集会場を兼ねて改築した。


干潟観音堂
『三方郡誌』
干潟觀音堂。氣山慧日山頂に在り。聖如意輪観世音菩薩を安置す。堂宇は寛文五年十一月國主酒井忠直の創立にして、霊像は寛文二年五月の大地震に水月湖に得たるなり。干潟觀昔とは、林春齋の名くる所、忠直、亦僧玄光〔佐賀人字蒙山〕及ひその臣井上貞則をしてその縁起を記さしむ。延寶元年八月五日、燈油料田十石を寄せられ、貞享三年三月酒井忠隆、鳬鐘一口を堂前に掛けらる。紀伊金剛峯寺末に属す。
(干潟観音由緒)…



一宮堡址・堂谷山堡址
『三方郡誌』
一宮堡址。気山に在り。里人一宮城址と稱すれとも、一宮とは何人なるか、詳ならす。國志には一宮賢成〔讃岐守〕となす。曰く土人説云、王朝臣、食邑氣山田井等時世不詳按、弓書跋曰、天文二年八月九日、一宮壹岐守賢成、盖天文中人也と。

堂谷山堡址。気山に在り。何人の拠りし處か詳ならす。


『三方郡誌』
武田氏支配下の若狭では、領内の要害に譜代の重臣を配置して国を守らせたが、『若狭守護代記』の「山城の覚」(但し天文〔一五三一-一五五四〕の末より永禄年中〔一五五八-一五六九〕まで)によると、気山にも山城が設けられており、城主は熊谷伝左衛門であったことが記されている。これが言うところの気山城であって、昭和六十年五月九日、三方町文化財調査委員奥村忠治によって、三方町気山の国広山にあることが発見され、小浜市文化課の大森宏により、気山城の遺跡であることが確認された。国広山は、国道27号の西側約三百メートル、気山保育所に隣接する標高九八メートルの山で、頂上には愛宕神社がある。遺構は、山頂一帯に四段構造の主郭があり、北尾根の緩やかな斜面には土塁を盛った三段堀、別に七本の堀がつくられており、本格的な山城として貴重なものとされている。


浦見(うらみ)

浦見川。川というが、これは自然の川でなく、スエズ運河のように人工の運河である。江戸初期に掘られたもので、切通しの長さ80間、川底幅4間、全長180間。手前側が久々子湖、山の向う側は水月湖。赤い船は観光船。
三方湖-水月湖-菅湖は丘陵地に囲まれていて、排水溝というか、流れ出る自然の川としては唯一、菅湖から東へ出て気山川(宇波西川)に流れていた、大雨で増水すると、湖岸の民家・田畑はしばしば浸水の被害を受けた。京都の町人後藤治兵衛は浦見坂の開削を計画し、小浜藩主酒井忠直に申請し、寛文元年(1661)手代谷口甚右衛門らの手で着手した。しかし天候不順で工事は進まず、ついに中止してしまった。同2年5月の大地震で気山川が1丈(3メートル)ばかり隆起し、ふさがって湖水があふれ、沿岸の各村は水に浸り、田畑は収穫がなく、はなはだしい惨状となった。そこで藩では、梶原太郎左衛門・行方久兵衛を惣奉行として浦見坂開削に着工した。工事は半ばで大きな岩石が現れ、遅々としてはかどらなかったので、越前および京都白川から石工を呼び寄せるなどして同4年5月に完成したが、要した人夫は22万5,300余人、費用は1,659両であった。浦見坂の切通しの長さは144m、川幅7.2m、川の長さは324m、これにより、湖の水位が下がり、新たに90余町の田地が開け、生倉村と成出村ができた。この工事がはかどらないのをあざけった落首に、「堀りかけて通らぬ水の恨みこそ底行方のしわざなりけり」「浦見坂横田狐にだまされてほるにほられぬ底の行方」があり、難工事であったことがうかがわれる。行方久兵衛はいかにも初志を貫きたいと、毎夜宇波西神社に祈願を込めたところ、ある日「少し北に寄せて開削せば必ず成功すべし」という夢のお告があったと人夫たちを励ました。人夫たちは半信半疑ながら、少し北に寄せて掘ったところ、工事は着々と進んだとも伝えられる。

行方久兵衛翁頌徳碑
宇波西神社の参道脇にある。


行方久兵衛翁は一六一六年生まれ小浜藩士で一四〇石五九年三方郡の軍奉行となる六二年五月一日寛文の大地震により三方水月菅湖の水が堰止められ異状な水位となり人家水田の水没沿岸一帯に及ぶ翁は藩の命により浦見坂の切り開きを決意五月二七日起工時に四七歳工事は難行を究め悪口非難の中で上瀬神社に祈願し神夢により水路を稍北に寄せ苦難の限りを尽し二年後の六四年五月二日漸く完成現在の五湖の姿となる延人員二二五、三四九人金貨一、六五九両二分三〇〇ヘクタールの土地と成出生倉の二部落誕生すその功績により百石の増加となり其後勘定奉行関東者頭に栄進病により小浜に没す年七一歳後年郡民その徳を讃え碑を建て翁をしのぶ 昭和六二年一〇月吉日建之 三方ライオンズクラブ

『三方郡誌』
浦見川。氣山字切追にあり。寛文年中の開鑿にして、水月湖の水を久々子湖に通す。その開鑿は最初京都の人後藤治兵衛、その計畫をなし、國主酒井忠直に請ひ、寛文元年八月十九日、後藤治兵衛の手代谷口甚右衛門・京都嵯峨角倉の手代稻笙久右衛門下着して、浦見峠の東に小屋を建つ。起工は同月二十七日なり。此時の郡奉行は近藤長兵衛、代官は嶺尾平左衛門・鳥見助兵衛なり。即ち工事を谷口・稻笙両人に命じて、各小濱に歸れり、両人数百人の人夫を使役して、九月二十四日迄從亊したりしかとも、天候順ならず、工事捗らざりしかば、明年を期して京に歸れり。此時、久々子湖の排水は、御蔵米二十俵にて谷口・稻笙両人の手より、久々子・金山の両庄屋下請負して、寛文二年正月十一日より久々子湖エラノ脇を掘切りたり。かくてあるうち同年正月中旬より天候常ならざりしか、遂に五月朔巳刻〔午前十時〕京畿近國大地震、丹波龜山・篠山両城、攝津尼崎、近江膳所及小濱等の諸城崩れ、施で北海諸國に及べり。此時三方郡は丹生浦より早瀬に至る五六里の海邊は、十間乃至百間、殊に早瀬浦にては百三十間許も沖へ干上り、三方湖も長足の山より嵯峨山に至る五尺或は八尺も淘上り、坤の方は数尺淘下れり。爲に気山川口、崩潰閉塞し、湖の水流れず、水準増すこと一丈に及び、沿湖の三方・鳥濱・田名・向笠・田井・海山・気山の各村の田甫、水を被ること凡千七八百石なり、即ち三方は水、寺門前近くまで及び、鳥濱は水底となり、上は笙の間の猫縄手たもの木と云ふ處まで水こみ、猶佐古の善光寺に及び、田井にては宮の前井ノ口と云處に及べり。住民難を避けしものは、鳥濱の七十二戸は小今庄に小屋をかけ、田名二十九戸は白山坂の左右に、伊良積十三戸は高嶽の麓に、海山村二十九戸は上光寺瀧の下口に小屋を作り、気山の湖邊の住民は谷の間岩の洞小松尻等に住居を占めたり。因で國主酒井忠直、之を救はんとて檢使を遣し、氣山川を檢せしむるに、川底に百二十餘丈が程つゞきたる大盤石ありて、其功成がたき旨を復しければ、重ねて見分の爲に老臣を遣して、審議を重ね、浦見坂を開鑿するに決し、家士乃び領内の百姓に百名(石)につき二人の人夫を課し、梶原太郎左衛門・行方久兵衛を惣奉行として之に從はしむ。両人命を受けで直に浦見に到り、普請小屋を建て、工事に要する器其は小濱鍛冶をして急ぎ製作せしめ、人夫を招集する千七十五人、鍜冶大工下奉行杖突等を合せて総計人員千百二十六人、各部署を定めて工事に着手す、鍬初は同年五月二十七日〔或云二十三日〕辰刻なり。かくて工事の進捗に従ひ坂の南北各四十間許の處にて岩磐現はれ、業容易ならず、即ち越前より石工〔百餘人〕を召して、片時も油斷なく工を督す。人夫倦怠し數へ節を作りて奉行を嘲ける。是歳九月十七日〔或云十二月七日〕漸く細狭なる川道を通ずるを得たり。その水・勢急にして、渠底左右の土石を流し、坂の西方大に崩る。即ち石工をして之と除かしめ、亦大に人夫の勞を助くるを得たり。是冬、明春亦普請あるべしとて、普請小屋守を置き、郷中より普請中の薪を徴す。雪中にて未進多く、百姓亦怨嗟す。翌三年正月二十五日、又工を起し、五月、湖邊耕作の期に至る。即ち坂の西方より開鑿して水際に切り下げ、四月十九日、渠口を堰止め、石工をして前年未だ竣功せざりし個所を切取らしむ。同月二十九日に至り、廣さ渠底にて四間、深さ前年より七尺を加へたり、五月朔日、堰を除く、かくて浸水の田甫悉く復し、新に干潟を田井保にて一町二反許得たり。是歳、國主忠直、暇を賜ひて、六月二十五日、江戸を發して國に下る。道に浦見坂の工を巡視し、久々子・三方兩湖の水準を均しからしむ。〔六尺五寸の差ありしと云〕その翌四年二月十九日、久兵衛等藩命を帶びて三たび浦見に至り、同月晦日、更に渠口を堰きて、約四十間の堀坪を掘らしめ、又京都白川の石工〔百餘人〕も到着せしかば、三月八日、その丁場を受け取らしめたり、こゝに久々子湖の排水口たる早瀨川は、其兩岸砂原にして崩壊し易く、且川口狭くして、排水充分ならざる爲、湖水久々子湖に漲ること多し。因て亦浦見坂の下奉行及び人足を分ち遣はして之を修め、幅員を九間となし〔従来二間〕且、兩岸に長さ百四十間、高さ六尺の石垣を積み、之に橋を架す。是より湖水を排出すること速にして、久々子湖畔にも新田十二町餘歩を得たり。かくて久々子・水月兩湖の水準、衡を得たるも、渠底淺くして舟楫に便ならさる恐あるを以て、又更に一尺深からしめ、五月二日に堰を除き、此に於て企く治水の功を竣へたり。即ち浦見坂開鑿工事は寛文二年五月二十七日に始まり、同四年五月二日に完成す。その人夫及費用は左の如し、
数二十二萬五千三百四十九人 〔下奉行、杖突く、足軽、扶持方奉行、道具奉行、鍜冶奉行、御家中出人、郷人足(國中敦賀郡)郷中間、大工、鍜冶〕
扶持米三千八十二俵二斗九勺
瓦木 三萬六千九百九十八束七分七厘
 此代米三百七十六俵二斗六升
合計三千四百五十九俵六升三合九勺
 銀積り 五十五貫七百六十九匁八分九厘

而して、その浦見山切通しの長さ八十間、頂上より川底に至る高さ二十三間川底にての幅四間、川の長さ百八十間なり、また得たる所の新田、三年なるを卯ノ干と字し、四なるを辰ノ干と字す、同七年、新田を檢地す。卯干検地奉介、行方久兵衛・岡田與三右衛門、その竿入高四十九石六斗九升五合辰干検地奉行、行方久兵衛・池田八右術門・岡田良三右衛門・鳥見助兵衛、その竿人高三百四十五石餘総計二百九十五石二斗三升三合なり、因て三方・鳥濱・氣山・佐古の邑民を分ち、各土高二十石を給し、一村を成さしめ、稱して成出と云。又田井野・河内・世久津・海山・北前川・気山等の邑民を分ち、同高の田を給し、一村を成さしめ稱して生倉と云ふ。生倉・成出の名は、浦見川御普請について田地殖へ、猶亦イクラモ成出テンと云ふ意にて稱せしなりと云。
〔故郷百首〕伴信友
 浦見坂岩きりとほし行水の流れての世にのこるいさをか


浦見川で完璧に水害がなくなったかといえば、そうでもない、見ての通りに狭いし、この運河はよく崩れた、そのたびに湖の水位は上がり、被害を受けた、嵯峨隧道がのちに追加で掘り抜かれる。


恋の松原

宇波西神社の北、梅街道を行くと久々子湖が見えるはじめるところ辺りに案内板。
恋の松原伝説
 恋の松原のルーツを訪ねてみると、鎌倉時代初期にはすでに、藤原為家が次の歌を詠んでいます。
 逢うことを 
  いくとかまたん 若狭路の
    やまのくろつみ つみしらせはや
      権大納言 民部卿 為家
『若狭郡県志』には、「恋の松原は上瀬神社の東北に在り」とあります。平安時代中期には、この辺り一帯は松林で、「恋の松原」または「
古美(こみ)の松原」と呼ばれていたようです。
 さらに、『三方郡誌』には次のようにあります。
 恋の松原気山に在り。宇波西神社の東北の地を言う。恋の松原は、「八雲御抄」並びに、「夫木抄」にも若狭とあり。里人は此処とし常に「こみの松原」と称す。伝えいう。往古一男一女あり。密かにここに会せんことを約す。女、先ず至りて待つ。時に大いに雪降り、男来らず、女、約を守りて去らず。
遂に、椎橋の下に凍死したりき。当時、この地松原なりき。故に恋の松原と称すと。後の人その墳を築き、また謡曲を作れり。
 悲恋の女性の叫びが、今もなお聞こえるようです。    美浜町教育委員会


『三方郡誌』
戀の松原 氣山にあり。宇波西神社の東北の地をいふ。戀の松原、藻鹽草には播磨とし、八雲御抄には若狭、夫木抄には若狭、或國未勘之とあり。國人は此處とす。土人は常にこみの松原と稱す。傳へ云ふ、往古一男一女あり、密に此に會せんことを約す。女、先つ到りて待つ。時に大に雪降り、郎、來らす。女、約を守りて去らす。遂に椎橋の下に凍死したりき。當時、此地、松原なりき。故に戀の松原と稱すと。後人をの墳を築き、又謠曲を作れり。
〔八雲御抄〕 名所
 こひの松原 若狭
〔夫木抄〕
 原               駿河
ほのかにも猶あふことを頼みてやこひの松原しけりそめけん
                 甲斐
いかにせんあひみぬ程のふるま丶にしけりをまさるこひの松原
〔廻國雑記〕准后道興、浦見坂の條に引きたれは略す
〔故郷百首〕伴信友
白雲と消にしあとか乙女子か戀の松原まつとせしまに


『大日本地名辞書』
○郡県志云、上瀬祠に東北を恋松原と呼ぶ、清輔初学抄并に八雲御抄に、恋の松原を若狭の名所とす、夫木集に
 ほのかにも尚逢事を頼みてや恋の松原茂り初めけむ。
又准后回国雑記(文明十八年)には
  「三方の海、こひの松原うち過ぎて、浦見坂といへる所にて、おもひつづけける
 問はばやな誰が世に誰をうらみ坂つれなく残るこひの松原、
  此所々を打過ぎて、はたおりの池と云へる所にやすみて、
 蝉の羽の衣に夏は残れども秋の名に立つ機織の池」
と載せらる、其地理稍考証すべし、機織池不詳。
補【恋松原】○郡県志〔重出〕上瀬神社の東北に在り、清輔朝臣和歌初学抄并に八雲御抄等に恋の松原若狭国に在り云々とあり、土人コミノ松原と称ふ、向若録に曰く、湖畔松林あり、鬱々たる緑陰数百歩に連接す、名けて恋の松原と曰ふ。




《交通》
気山津
平安~鎌倉期に繁栄した三方郡の港津。治暦1年(1065)9月、越中国の調物運漕に際して、路次の国々の津泊などで〈勝載料〉を割き取ることを禁じた太政官符(写)に、近江の塩津・大浦・木津,越前の敦賀津とともに当津が見え、当時北陸方面から近江を経て京都に至るための一要津であったことが知られる。この地に鎮座する式内社宇波西神社が、月次・新嘗の奉幣にあずかる北陸道唯一の社格を有したのも、気山津の重要性によると思われる。南北朝期ごろ以後は、小浜の繁栄とともにしだいに衰微したらしいという。

『三方町史』
気山津の隆盛
三方町域の北西部は日本海に面し、海岸の地形はリアス式で出入りに富んでいるが、今は大型船の停泊に適する場所は案外少なく、また背後の山地が海に迫っているため平地は狭く、港町が発展する立地条件にも恵まれてはいないが、この地域の浦々は、早くから開けていた。延喜十九年(九一九)、渤海国の船が丹生浦(現美浜町)に来たことが知られているように(『扶桑略記』)、この地域の海は直接大陸ともつながっていた。『古記』(吉田経房の口記)の承安四年(一一七四)八月十六日の条によると、若狭三河浦(現神子)住人時定という人物が、久永御厠(伯耆国)に濫行をはたらいたとして訴えられており、当時すでに神子浦に浦人の定住が見られ、かなり遠隔地との交流があったことが推察される。この神子浦にも増して、より早くから繁栄を見せていたのは気山津であった。鎌倉時代の公卿勘解由小路兼仲の日記『勘仲記』に載せられている、治暦元年(一〇六五)九月一日の太政官符によると、同年七月、太政官では越中国からの請願により、近江国の塩津・大浦・木津ならびに越前国敦賀津とともに若狭国気山津に対して、それらの津の刀祢(役人)らが、「勝載料」(一種の通行税)と号して、運上の調物を割き取ったり、綱丁(調庸などを、諸国から京へ運んだ人夫の長)に乱暴をはたらいたりするのを禁じていることが知られるが、このことにょって、当時気山津が琵琶湖北岸の諸港や敦賀津と並んで、北陛方面から京都への物資運送の途上に位置した、若狭随一の要津であったことが知られるのである。現在気山に鎮座する宇波西神社は、『延喜式』の神名帳に、「名神大、月次、新嘗」と記載され、北陸道の式内社三百五十二座のうちで、月次・新嘗の祭や、祈年祭に際して官幣にあずかるただ一つの大社であったことが知られているが、これは気山津の繁栄が背景にあり、その守護神として朝廷の尊崇をうけていたからにほかならないのである。気山にある久々子湖は、今でこそ周囲を陸地で囲まれ、外海との行き来も十分ではないが、その当時はおそらく日本海が陸地に湾入する形をなしていて水位も高く、多くの出船、入り船でにぎおう重要な港であったと推測され、宇波西神社はまさにその沿岸に位置していたのであった。古代においては、この港を擁する三方地方は、交通上極めて重要な位置を占めていたと見て差し支えない。
 しかし、中世以後の気山津は、おそらくは地形の変化も作用したのであろうし、一方で遠敷郡の小浜が次第に港としての発展を遂げるとともに、その趨勢に押されてだんだんと衰え、歴史の舞台にはほとんど登場しなくなった。そしてついには寛文二年(一六六一)の大地震によって、港としての生命と機能を完全に失った、と考えられている(小牧実繁「気山津の変造」『地理論叢』第八輯)。

『新わかさ探訪』
かつての久女子湖は天然の良港 気山は日本海航路の要津
 旧三方と美浜の両町にまたがる気山は、平安時代中期(11世紀ころ)から鎌倉時代にかけて「気山津」と呼ばれ、敦賀とともに出船入り船でにぎわう日本海航路の重要な港でした。船で運ばれた北陸道諸国からの物資は、気山津から陸路、熊川宿(現在の若狭町熊川)を経て、琵琶湖西岸の木津(現滋賀県高島市)に運ばれ、湖上水運で大津へ向かいました。
 久々子湖の奥に位置する気山が、どうして日本海の要津たり得たのか-。それは、この湖が鎌倉時代(13世紀ころ)まで、「湖」ではなく「湾」だったからです。その奥深い入り江は、まさに天然の良港でした。
 今からおよそ5千年前には、海面が現在よりも3~5m高く、内陸深くまで海が入り込んでいました。その後、気候の変化に伴って海水面が徐々に下降したことに加え、耳川(久々子の東側で若狭湾に注ぐ)によって陸から押し流された土砂が沿岸流に運ばれて堆積し、湾の入り口をふさいでいきました。久々子の入り江は、次第に潟湖と化して船の出入りが困難になり、南北朝以降の古文書からは「気山津」が消え去ります。その衰退と入札かわりに、若狭では小浜が発展しました。
 現在、気山を巡り歩いても湊町の面影はなく、湖畔には水田が広がるばかりです。…


《産業》


《姓氏・人物》


気山の主な歴史記録

『三方町史』
気山
宇波西神社は、第五編第三章で述べたように大宝元年(七〇一)、神霊の垂述を見てその年の三月八日に社殿を建立したと伝えるから、気山の歴史はかなり古くから始まっていることは明らかである。
 「勘仲記」(鎌倉後期の貴族、中納言勘解由小路(かでのこうじ)〔藤原〕兼仲〔一二四四-一三〇八〕の日記で「兼仲卿記」ともいわれる)の、弘安十年(一二八七)七月十三日の条には、治暦元年(一〇六五)、九月一日の太政官符と弘安十年(一二八七)七月三日の越中守源仲経申状が引用されていて、それにはともに「若狭国気山津」の記事が出ている。これは当時の気山が、敦賀と並ぶ日木海の重要な港として、都への物資輸送や交易で賑ったことを物語っている。しかし、その後、久々子湖が次第に砂丘化して浅瀬が広がるにつれ、港として栄えた気山津の働きも次第にすたれたものと思われる。
 武田氏支配下の若狭では、領内の要害に譜代の重臣を配置して国を守らせたが、『若狭守護代記』の「山城の覚」(但し天文〔一五三一-一五五四〕の末より永禄年中〔一五五八-一五六九〕まで)によると、気山にも山城が設けられており、城主は熊谷伝左衛門であったことが記されている。これが言うところの気山城であって、昭和六十年五月九日、三方町文化財調査委員奥村忠治によって、三方町気山の国広山にあることが発見され、小浜市文化課の大森宏により、気山城の遺跡であることが確認された。国広山は、国道27号の西側約三百メートル、気山保育所に隣接する標高九八メートルの山で、頂上には愛宕神社がある。遺構は、山頂一帯に四段構造の主郭があり、北尾根の緩やかな斜面には土塁を盛った三段堀、別に七本の堀がつくられており、本格的な山城として貴重なものとされている。
 気山は、従来、牧口、切迫(きりょう)、苧、寺谷、中村、市、中山の七つの小字からなっており、藩政時代以来西郷組に入っていたが、明治十九年には、八村組に編入された。ところが明治二十二年の町村制施行の際には、小字の牧口だけがふたたび西郷村に編入された。昭和六十一年には、別に古川の小区が誕生して七つの小区からできている。
 昭和三十八年四月、上谷地区に、県立美方高等学校が開校し、このため同年八月に、国鉄小浜線気山駅が設置された。
 切追集落に、永享年中(一四二九-四一〇)、藤井向陽寺五世経隠が創立したという宝応寺があった。その後、廃れて絶えたが、豊臣秀吉の侍女が施主となって再興し、名を竜沢寺と改めたという。後に金山村へ移築されたが、これが現在の竜沢寺であるといわれている。
 気山川および浦見川の漁業については第二編第四章で述べたとおりである。



気山の伝説

『越前若狭の伝説』
宇波西神社(一)   (気山)
 むかし日向(ひるが)に六右術門という漁師か住んでいた。毎日日向(ひるが)湖でつりをしていたが、ある日少しもつれない。日が暮れかけたので帰ろうとすると、一羽のウ(鵜)が現われて、「この湖の一番深い所に高貴な方がおられて、あなたに救い上げてほしいといっておられる。今そこへ案内します。」といった。六右衛門か承諾して、ウのあとについて水中にはいると、十ひろもある深い底へやすやすとくぐることができた。
 湖底がら神器を引き上げ、家に新しい神だなを作ってお祭りした。すると神だなから声があり、「わたしはうがやふきあえずのみことである。九州の日向(ひゅうが)からはるばる来た。わかしを上瀬(うわせ)川のほとりに安置してほしい。近郷の守り神となろう。わたしの国の名日向をお前の村の名に与えよう。」といわれた。
 翌朝このことを村の人に話し、上瀬川のほとりに宮を造り、四月八日の吉日に宮を移した。この日は神意により村の若者のひとりか天狗(てんぐ)の面をかぶり、わきざしを差した六右衛門をそばに従え、ほこをもって、おもしろおかしい舞いを舞いつつ先達申し上げた。村の人は獅子舞いを舞い、つつみをたたき、笛をならしてお送りした。気山の宇波西(うわせ)神社はこのようにして始まった。
 日向(美浜町)に今も六右衛門の家がある。このいわれで、いまだかつて家ではお産や葬式をしない。  (福井県の伝説)
   註
六郎右衛門の当主渡辺鉄男氏によると、このような伝説は、六郎右衛門家には全然ない。(永江秀雄)

宇波西(うわせ)神社(二)   (気山)
 上瀬(うわせ)大明神は気山にある。一説には比吉(ひえ)大神であるという。宝物に炎色の法衣がある。向陽寺の開山大等和尚が、おおかみにいただかせた法衣である。  (若耶群談)

上瀬大明神の宝物に炎色の法衣がある。藤井村向陽寺開山大等和尚のとき、おおかみがいただいたものである。 (寺社什物記)

泉神社  (気山)
社のかたわらから泉がわき出たので社号とした。その泉は地震でくずれ、今はない。この神は宇波西神の母で、白髪の老婆の姿で現われたことがある。   (三方郡誌)

干潟(ひがた)観音  (気山)
 寛文二年(一六六二)五月一日関西地方に大地震があり。その影響で三方湖が傾斜し、北東部の土地が上かり、南西部か下がった。そのため湖のほとりで百ヘクタールばかりの田が干上かった。村の人は、地震の後に大波か来るかと思い山の上に逃げた。しかし波は来ず、湖水は満ちることなく、ひかた(干潟)となった。
その夜山の上から国広山と光島(湖岳)の間の湖水の西を見渡すと、湖上に光るものがある。気山村の長(おさ)熊谷氏が行って見るに、如意輪観音の像が水中にて光を放ち、南を向いて立っていた。取り上げてみると、その像は金銅で、長さ二十四センチほどある。驚いてこれを郡奉行の松本貞保にさし出した。貞保はこれを国主酒井忠勝に献じた。
さて地震により川筋の土地が上がったため、湖の水が流れなくなり、水位が上がって、塩越坂・田井・鳥浜・田名などの諸村は洪水になり、田地二千余石が荒廃した。そこで藩では、従来の川筋を捨て、新たに浦見川を掘り抜いた。大工事であったにもかかわらず、犠牲者はひとりも出なかった。これは岩くずれが、いつも人の寝静まった夜にだけ起きたからである。また巨岩があり、人の力を加えずして自然の岸壁となって、工事を助けた。おかげで四村は水害をのがれたのみでなく、逆に干上った百余ヘクタールも水利を得て耕地になった。
あれこれ考えるに、これはすべて観音様のおかげであるというので、慧日山の頂をならして一堂を建て、干潟(ひかた)の観世音とあがめ奉った。     (干潟観音由緒)

浦見川のます形     (気山)
水月湖と久々子湖をつなぐ浦見川の中央東側の岩壁に一辺の長さ一五〇センチほどのます形(がた)が彫ってある。これは工事奉行行方(なめかた)久兵術か彫らしめたものであるという。これには三つの説かある。
一つは。この水道を掘るのに、これだけの大きさのますに銀をいっぱいつめるほどかかったという意味で、これを刻んだ。
一つは、久兵衛がここに碑文を彫ろうとしたら、その母が、「お前の仕事が後の世のために役立たないことなら、碑文はいつまでも恥として残ろう。もし後の世の役に立ったなら、記録など残さなくても、お前の名は永久に朽ちないであろう。」とさとされ。方形の輪郭だけ彫って中止した。  (若狭の伝説)
いま一つは、久兵衛か石工に、「彫った文字は何百年ぐらい続くか。」と問うたところ、石工は、「何百年とはもたないが、念入りに彫って百年は保証しましょう。」といった。久兵衛は百年ぐらいならば無益であると、中止した。今方形だけあって銘文かないのはこのためである。   (逢昔遺談)

恋の松原   (気山)
湖畔に松林があり、緑の木がげが数百歩の間連接している。ここを恋の松原という。むかし男と女があり、ここで会うことを約束した。女が先に来たが、その日はたまたま大雪で、そのため男はまだ来ていなかった。女は信を守って去らず、ついにしいの橋の下でこごえ死んだ。故に人は恋の松原と呼んだ。しいの橋は上瀬(うわせ)社の東数百歩の所にある。しいの本の根が渓流に横たわり橋となっているのでこの名かある。今はない。またこのとき女が雪の山坂を恨んだので、その山を恨み坂山と称する。今は浦見坂と書いている。男もまた恨んで湖に身を投げて死んだ。  (若耶群談)

   註
「和歌初学抄」および「八雲御抄」には、恋の松原は若狭国にありと出ている。しかし土地の人は古美(こみ)の松原と称している。(若狭郡県志)「夫木集」「八雲御鈔」は若狭国となし、「藻塩草」は播州(兵庫県)となす。近世林間に高墳を築き、また謡曲を作って唱えている。(若狭国志)「若狭旧蹟伝来記」に俚謡として「恋の松原恨みの小坂わが子かやしゃれ沖の島」とあるは、一つ橘伝説(別項)の異説であろうか。(三方郡誌)




気山の小字一覧


『三方町史』
気山
是福浦(これふくら) 従福浦(じゅうふくうら) 気福浦(きふくら) 山福浦(やまふくら) 領福浦(りょふくら) 番福浦(ばんふくら) 号福浦(ごうふくら) 初福浦(はっふくら) 苧福浦(おふくら) 村福浦(むらふくら) 便福浦(べんふくら) 理福浦(りいふくら) 吉福浦(よしふくら) 入江畑(いりえばた) 入江浦(いりえうら) 入江田(いりえだ) 入江脇(いりえわき) 入江口(いりえぐち) 日向道(ひるがみち) 芋の口(おのくち) 日向口(ひるがぐち) 猿林(さるばやし) 歩行谷(あるきやだに) 歩行前(あるきやまえ) 日総田(ひそだ) 松尾の下(まつおのした) 松尾(まつお) 松尾谷(まつおだに) 小松尾(こまつお) 松尾脇(まつおわき) 気総田(きそだ) 川田(かわだ) 天水田(てんすいだ) 持畑(もちばた) 西良(にしら) 野手谷(のてだに) 西良谷(にしらだに) 境谷(さかいだに) 笹田道(ささだみち) 水附谷(みずつきだに) 水附道(みずつきみち) 猪の谷口(いのたにぐち) 猪の谷(いのたに) 赤磯辺(あかいそべ) 白磯辺(しろいそべ) 磯辺口(いそべぐち) 智新出来(ちしんでき) 仁新出来(にしんでき) 天苧(てんお) 下苧(したお) 泰苧(たいお) 勇新山来(ゆしんでき) 平苧(ひらお) 下仙田(したせんだ) 中仙田(なかせんだ) 上仙田(うえせんだ) 西嵯峨(にしさが) 嵯峨(さが) 細磯辺(ほそいそべ) 阿武子(あぶし) 東阿武子(ひがしあぶし) 西川口(にしかわぐち) 上川口(かみかわぐち) 行浦見(ゆきうらみ) 方浦見(かたうらみ) 仙田口(せんだぐち) 高浦見(たかうらみ) 名浦見(なうらみ) 伝浦見(でんうらみ) 峠鼻(とうげばな) 西河端(にしかばた) 中河端(なかかばた) 東河端(ひがしかばた) 麸子(ふご) 岩崎(ゆわさき) 千原(ちはら) 千原谷(ちはらだに) 万瀬崎(まんせさき) 国瀬崎(くにせさき) 泰瀬崎(たいせさき) 平瀬崎(ひらせさき) 恋松原(こいまつばら) 人松原(ひとまつばら) 跡松原(あとまつばら) 梅木谷下(うめのきだんした) 似泉原(にいずみばら) 錦泉原(にしきいずみばら) 泉口(いずみぐち) 土松の下(つちまつのした) 火松の下(ひまつのした) 鉢屋窪(はちやくぼ) 水松の下(みずまつのした) 日松の下(ひまつのした) 赤松の下(あかまつのした) 木松の下(きまつのした) 金松の下(かねまつのした) 恋水(こいみず) 恋道(こいみち) 宮本(みやもと) 干潟(ひかた) 天寺谷(てんでらだに) 西松の上(にしまつのうえ) 東松の上(ひがしまつのうえ) 録谷(みどりだに) 順の木(じゅんのき) 八日田(ようかでん) 地寺谷(ちてらだに) 堂の下(どうのした) 心寺谷(しんてらだに) 人寺谷(じんてらだに) 砂田(すなだ) 岡の下(おかのした) 源上野(げんうえの) 平上野(ひらうえの) 上野山(うえのやま) 上野畑(うえのばた) 上野の段(うえののだん) 藤上野(ふじうえの) 橘上野(たちばなうえの) 花上野(はなうえの) 鳥上野(とりうえの) 風上野(かぜうえの) 月上野(つきうえの) 春白子(はるしらこ) 夏白子(なつしらこ) 秋白子(あきしらこ) 冬白子(ふゆしらこ) 稲荷山(いなりやま) 古神山(こかみやま) 居山(いやま) 屯林(どんばやし) 仁中村(じんなかむら) 義中村(ぎなかむら) 礼中村(れなかむら) 智中村(ちなかむら) 信中村(しんなかむら) 森下(もりのした) 古川(ふるかわ) 土手原(どてばら) 水堀(みずぼり) 西水堀(にしみずぼり) 四方崎(よもざき) 浜四方崎(はまよもざき) 切迫道(きりようみち) 玉切迫(たまきりよう) 尾切迫(おきりよう) 山切追(やまきりよう) 自切迫(じきりおう) 湖切迫(こきりおう) 移切迫(うつりきりおう) 景切迫(けいきりよう) 色切迫(いろきりよう) 誠切迫(せすきりおう) 善切迫(ぜんきりよう) 灯島の間(とうしまのま) 籠島の間(かごしまのま) 光嶋の間(こじのま) 堺井礁(さかいいくり) 桃井礁(ももいくり) 椿井礁(つばきいくり) 柳井礁(やなぎいくり) 藤井礁(ふじいくり) 荻井礁(はぎいくり) 栗井礁(くりいくり) 荒堀切(あらほりきり) 浪堀切(なみほりきり) 磯堀切(いそほりきり) 堀切道(ほりきりみち) 花菅浦(はなすがのうら) 鳥菅浦(とりすがのうら) 風菅浦(かぜすがのうら) 月菅浦(つきすがのうら) 菅浦道(すがのうらみち) 甫小谷浜(みなみこだにはま) 北小谷浜(きたこだにはま) 栗林(くりばやし) 小谷(こだに) 新田(しんでん) 阿後田(あごでん) 小谷畑(こだにばた) 向山(むかいやま) 小谷道(こだにみち) 拝矢崎(はいやさき) 五市(ごいち) 穀市(こくいち) 野泰(のやす) 成市(なるいち) 就市(じゅういち) 下谷川(しもたにがわ) 上谷川(かみたにがわ) 西猪の向(にしいのむかい) 東猪の向(ひがしいのむかい) 女小松(めこまつ) 青女原(あおめばら) 黄女原(きめばら) 黒女原(くろめばら) 白女原(しろめばら) 赤女原(あかめばら) 紫女原(むらさきめばら) 緑女原(みどりめばら) 紺女原(こんめばら) 紅女原(ベにめばら) 焼山(やきやま) 立岩(たていわ) 天白良喜(てんぴくらき) 地白良喜(ちびくらき) 陰白良喜(いんびゃくらき) 陽白良喜(ようびゃくらき) 子丸山(こまるやま) 丘丸山(うしまるやま) 寅丸山(とらまるやま) 卯丸山(うまるやま) 丸山腰(まるやまこし) 堤(つつみ) 地蔵谷(じぞうだに) 笹原畑(ささわらばた) 総山腰(そうやまごし) 総山下(そうやました) 九日田(ここのかでん) 地蔵前(じぞうまえ) 水分(みずわけ) 総畑(そうばたけ) 堂道(どうどう) 大谷口(おおたにぐち) 関口(せきぐち) 北関谷箇(きたせきがだに) 南関箇谷(みなみせきがだに) 関割(せきわり) 上辻堂(かみつどう) 下辻堂(しもついどう) 谷畑(たにはた) 萱田(かやた) 塩越道(しゃくしみち) 塩越口(しゃくしぐち) 右塩越(みぎしゃくし) 左塩越(ひだりしゃくし) 塩越前(しゃくしまえ) 山ヵ崎(やまがさき) 堂谷(どうだに) 堂谷畑(どうだにばた) 脇堂谷(わきどうだに) 南萱田(みなみかやだ) 昼場(ひるば) 豊中山(ほうなかやま) 作中山(さくなかやま) 宮下(みやした) 森本(もりもと) 高畔(たかぜ) 須崎(すさき) 下古川(しもふるかわ) 古川上(ふるかわうえ) 谷田(たにだ) 松木田(まつきだ) 庄境(しょうざかえ) 山脇(やまわき) 山下(やましも) 吉ヤ谷(よしやだに) 勝負分(しょうぶわけ) 関ヶ谷(せきがだに) 山神谷(やまのかみだに) 総畑ヶ原(そうばたけがばら) 地蔵脇(じぞりわき) 村蔵山(じぞうやま) 白良喜鼻(びゃくらきはな) 大谷べら(おうたにべら) 屯林谷(どんばだに) 古居山(ふるいやま) 白子山(しらこやま) 細見谷(ほそみだに) 梅の木谷(うめのきだに) 梅の木原(うめのきばら) 大岩(おういわ) 古城山(こじろやま) 堂谷鼻(どんばたにばな) 堀切(ほりきり) 塩越原(しゃくしはら) 菅の浦(すがのうら) 井礁(いくり) 鼻四方崎(はなよもざき) 東四方崎(ひがしよもざき) 魚梁谷(うおはりだに) 干潟山(ひかたやま) 応水谷(おうみずだに) 切迫上(きりようえ) 甲輪島(こわじま) 磯辺(いそべ) 仙田(せんだ) 奥の谷(おくのたに) 西の谷(にしのたに) 東越(ひがしごえ) 日向越(ひるがみち) 西稲谷(にしいらだに) 西号浦(さいごうら) 坂城ヶ岳(さかしろがだけ) 是浦(これうら) 石打山(いしうちやま)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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