丹後の地名 若狭版

若狭

南前川(みなみまえがわ)
福井県三方上中郡若狭町南前川


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福井県三方上中郡若狭町南前川

福井県三方郡三方町南前川

若狭国三方郡八村南前川

南前川の概要




《南前川の概要》
前川神社や佐久間勉記念館があるあたり。鰣川中流右岸に位置する。地名の由来は、中世前河南荘であったことによる。
中世の南前河荘。南北朝期~戦国期に見える荘園。前河南荘とも見え、前河荘の別称。
近江坂本日吉社領。のち盧山寺領となった。蓬左文庫所蔵の金沢文庫本斉民要術巻九・八の裏文書にみえる若狭前河庄事書によれば、当庄は日吉禰宜成仲石見介が、仁平2年(1152)8月、国司藤原親忠の免判を受けて開発したもので、同3年3月、不輸神領となった。立券荘号の時期は明瞭でないが、事書に載る応保2年(1162)5月の経盛朝臣請文に「於庄号者、可為勅定」とあるので、これをさほど下らない時期に勅定を受けたと思われる。なお確実な史料に前河庄が現れるのは、建保3年(1215)11月9日付後鳥羽上皇院宣(盧山寺文書)で「日吉社領若狭国前川庄、任相伝由緒、可令領掌之由、可被伝仰内侍局者、依院宣、執達如件」とあり、追伸として「任注文、可被成庁御下文候了、且為存知、如此被仰下候也、可令存其旨給者」とみえる。さらに事書によれば、建久7年(1196)若狭最大の在庁官人稲庭時定が所領を没収された時、跡は若狭忠季に給付されたが、その「随一」が前河庄下司職であり、「地頭之所務」をすることとなった。建仁2年(1202)この「忠季地頭職」は二階堂行光に移される。しかし元久元年(1204)再度忠季に返され、忠季の子津々見忠時に相伝された。忠季に関しては、寛元元年(1243)11月日付の六波羅裁許状にも「定西申云、藍茜代銭事、次郎兵衛入道跡前河庄者、代々地頭之時、悉所勤仕也」とみえ、当庄地頭職が次郎兵衛入道若狭忠季跡とされている。文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写には新荘の一として「前河庄四十八丁五反三百五十歩」とある。
建武3年(1336)11月25日付光厳上皇院宣(盧山寺文書)に「若狭国前河庄、知行不可有相違之由、院御気色所候也」とみえ、遅くともこの時点までに当庄は盧山寺領となっていた。この頃、当庄は南・北に並立したようで、文和2年(1353)10月4日付重久書下に「若狭国前河南庄事」とあり、盧山寺領が前河南庄と記される。北庄がどうなっていたのかは不明。その後、応永17年(1410)10月2日付足利義持奥上署判御教書(同文書)などによっても、盧山寺領前河南庄が安堵されている。天正19年(1591)7月の指出に、南前川村は「のゝま村」472石余と「やち村」248石余からなっていると記されている。
近世の南前川村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治22年八村の大字となる。
近代の南前川は、明治22年~現在の大字名。はじめ八村、昭和28年から三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北6町、戸数111、人口は男252 ・ 女229、学校1。


《南前川の人口・世帯数》 301・101


《南前川の主な社寺など》

大納言の古墳・下り山古墳・岡の山2号墳・道の上古墳

前川神社

国道27号から山手へ少し入った山麓。若狭能倉座の神事能は県無形民俗文化財に指定されている。参道脇には、当社宮司の子として生まれ、明治43年海軍第六潜水艇での事故死にあたり、死の直前まで事故究明のメモを残した佐久間勉潜水艇長の記念館がある。
『三方町史』
前川神社
南前川字宮の本に鎮座。須磨千頴外二名校注『神道大系神社編』には「志ニ云、山王ノ祠在二北前川村一」とある。祭神大己貴命・金山彦命。指定社。旧村社。明治四十一年八月七日、次の神社の祭神がこの社に合祀された。
八幡神社祭神誉田別尊(元、この社の境内社)
金毘羅社祭神金毘羅大神(元、野々間三十三号辻堂前・谷内字南谷に鎮座の二社)
春日神社祭神天児屋根命・伊波比主命(元、谷内字尾ケ谷に鎮座)
愛宕社祭神迦具土神(元、野々間に鎮座)
田中神社祭神田中大神(元、谷内市岡ノ山に鎮座)
山神社祭神大山祇命(元、野々間字山ノ神下・谷内字滝谷に鎮座の二社、
北前川区内に鎮座の東山ノ神社・西山ノ神社・三名社の三社)
稲荷神社祭神倉稲魂命・猿田彦命(元、北前川字稲荷前に鎮座)
 大同元年(八〇六)三月に、南前川の山竹五郎助・梅木長七・宮下権之正らによって、近江国坂本の日吉山王宮から勧じょうされた(野々間区有文書)と伝えられているが、「若州管内社寺由緒記」には、北前川村兵部伊賀・兩前川村宮ノ下権正らによって勧じょうされたと記してある。元は山王社と言った。なお、弘仁五年(八一四)には、北前川から、承平五年(九三五)には谷内より申し出があってその後は両前川の産土神としてまつられてきたという。伴信友「神社私考」に「神階記に正五位前河明神即此レ也と云えり」と記されている。元禄五年(一六九二)七月二十九日、両前川区で神社再建の相談がまとまり、翌六年七月二十九日完成して今日に及んでいる。
 例祭は四月十四日であるが、その前々日の十二日には、野々間、谷内、北前川の各集落で、氏子はそれぞれの集落の当屋に集まり、座敷の床の間に神像の軸をまつり、神主を迎えて、野々間八本、谷内四本、北前川十二本の御幣を作る「講神事」が行われる。
 四月十四日の祭礼には、定刻に、参道の中程に設けられた御幣参集場所に三集落がぞろい、決められた儀式を行い、あいさつを交わした後、野々間、北前川、谷内の順に行列を作り「エーヨ、エーヨ」の掛け声で参道を神社へ向かう。三集落からの御幣・お神酒・鏡餅が神前に供えられ、神主によって祝詞があげられ、お神酒をいただき、供え物が下げられて、神前での式が終る(本編第四章参照)。この祭りの儀式は、大津坂本の日吉神社の祭りを手本としていると伝えられている。九月十五日には太皷ばやしをあげている。


『三方郡誌』
前川神社。村社。南前川に鎮座す。もと山王社と稱す。國帳に正五位前河明神とあるは此なり。南北兩前川の産土神なり。傳云、大同元年三月、近江阪本より勧請すと、此時前川神社に配祀したるなるべし。明治二年四月、村社に列せられ、前川神社と改めらる四月初申の日を祭日としたりしが、明治四十一年、四月十四日と定めらる。


曹洞宗白銀山西方寺

本尊が馬頭観音の寺。
『三方町史』
西方寺
所在南前川四八-三。山号白銀山。曹洞宗。本尊馬頭観世音。旧谷内(やち)村の中央で、延喜(九〇一-九二三)のころ、表街道の山側に西に向って建っていたといい、その場所の古い呼び名を空畑(そらはた)と言う。残されている過去帳の最も古いものは、万治元年(一六五八)である。
 馬頭観世音を本尊とする寺は少なく、若狭地方でも珍しく有名である。三方郡でも馬頭観世音を本尊とする寺はこの寺だけである。
 この寺は、元は天台宗であったが、十八世紀の中ごろから曹洞宗に改宗した。このことは、今もこの寺に残っている過去帳で明らかである。これによると、承応から寛延(一六五二-一七五〇)ころまでは、戒名はすべて天台宗の戒名(禅定門・禅定尼)で記されているが、それ以後は曹洞宗の戒名(信士・信女)で記されている。



曹洞宗多門山正伝寺
『三方町史』
正伝寺
所在南前川三三-二四(野々間)。山号多門山。曹洞宗。本尊千手観音菩薩。平安時代に、天台宗正伝庵として建立された。鎌倉時代に次々といろいろな宗派が興り、地方にも伝わっていたが、やがてこの地にも曹洞宗が伝わってくると、文安二年(一四四五)、臥竜院二世光祐は、この寺を曹洞宗に改宗し、建物を修理して自ら開祖となった。その後、天保十三年(一八四二)に改築されたが、初めはカヤぶきで、その後瓦屋根に改修された。なお、礎石は反花(かえのばな)(レンゲの裏返し)のある珍しい石が使われている。
 境内には護法閣や毘沙門堂がある。
 明治二十一年、山口県出身の僧霊亀が三十五歳でこの寺の住職となり、その後二十一年間、寺を守り続け、寺の備品なども整え、仏道布教に努めた。村人もその恩恵に感謝し、徳を慕う者が多く、その功績をたたえて中興の開山と呼んだ。昭和三十三年に、吉田郡上志比の吉祥寺六世瑞岳が隠居してこの寺の住職となったが、昭和四十年に死去し、現在は臥竜院の末寺で、無住となっている。昭和五十八年には、本堂の大修理と、屋根のふき替えが行われた。なお、寺宝として開山光祐の坐像を絹地に着色して描かれた軸物が秘蔵されている。



南前川城
 明倫小学校の裏に張出した山頂突端に中世後期の南前川城跡がある。「若狭郡県志」に「伝承山県式部丞之所守也、武田信豊之麾下而領此処矣」とあり、守護武田氏の重臣山県氏一族の城と考えられる。しかし城跡は南北25メートル、東西30メートルと小規模で、見張所あるいは砦か。隣接する藤井には武田信豊・義統の奉行人山県下野守秀政の居城(所在不明)があったと伝えるので、それとの関連が考えられる。秀政は天文19年(1550)には式部丞であり、天正8年(1580)には下野守を名乗っている。
『三方郡誌』
南前川堡址。南前川〔野々間南前川小学校の背後〕に在り。山縣光若の據りし處なり。

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》

「佐久間大尉生誕地」の碑(東郷平八郎揮毫)と佐久間記念交流会館↑
前川神社は記念館の背後の山腹にある。

佐久間大尉の像(館内展示)

佐久間勉艇長
明治43年頃は、各国海軍とも潜水艦(艇)の開発期で、どの国でも事故があった。潜水艦での事故死は悲惨と哀れの極みである、従って見苦しいとする最後も見られたが、佐久間艇長以下14名は最後まで持ち場を離れず職分をつくして亡くなっていた。
記念館展示品より
明治の文豪、夏目漱石(一八六七~一九一六)
第六潜水艇の遭難三ヶ月後に発表された文章の一部です。
 「文芸とヒロイック」
往時英国の潜航艇に同様不幸の事のあった時、艇員は争って死を免れんとするの一念から、一所にかたまって水明りの漏れる窓の下に折り重なったまま死んでいたという。本能の如何に義務心より強いかを証明するに足るべき有力な出来事である。(中略)一方に於いて佐久間艇長と其部下の死と、艇長の遺書を見る必要がある。…


与謝野晶子が挽歌十五首を寄ている。
こんな展示もある。
アメリカでは国会議事堂の大広間に、ワシントン大統領の独立宣言と並んで、佐久間艇長の遺書が原文のままコピーされ、英訳を添えて丁重に陳列されていました。また、イギリス海軍においては現在もなお艇長の遺書が軍人の教訓として生かされています。


日本海軍の大先輩というか大教師であった国々がやはり注目していた。東郷さんしか知らないどこか鎮守府のマチでは知られることもないが、小浜公園にも彼の銅像がある。
半潜水状態での事故、と書かれているから、シュノーケルから水が入ったものだろうか。これは今でもヤバイそうで、ワタシの同級生に海自の潜水艦に乗っていた者があるが、ハワイの近くで訓練中シュノーケルから水が入って沈没しかけたことがあったそうである。「海水が入らないように弁くらいはついてるだろ」と問うと、「うまく作動せん時もある。あのときはこわかった。本気でもう死ぬと思た」と言っていた。


潜水艇浮上せず 4年前に竣工したばかりの「第6潜水艇」(75トン)が4月15日、広島湾の岩国市新湊沖でテスト航海中に沈没し、艇長以下15人全員が殉職した。同艇は17日引き揚げられたが、艇内から遭難の経緯などを記した佐久間勉艇長のメモが見つかり、涙を誘った。写真は引き揚げ後、13年2月に撮影されたもの。艦籍を除かれたあと、教育用として呉の潜水学校にしばらくの間、陸揚げ保存された
コピーだけあって元の書名がわからなくなったが、背をのぱすのもままならないような小さな艇であった。
記念館の展示品↓



事故の状況は記念館の説明がよくわかる。

遭難の状況
 明治四十二年十二月に佐久間勉が艇長を命ぜられた、国産第一号の第六潜水艇は、性能が悪く「ドン亀」とあだ名され、操縦は困難を極めていました。明治四十三年四月十二日には、約二時間三十分の半片航に成功。さらに十五日、山口県新湊沖で半潜航に入ろうとしたとき、艇に故障がおこり、突然通風筒から海水が艇内にどっと入ってきたのです。
 艇長は、一大事と直に部下に通風筒のスルイス・バルブを閉じさせようとしましたが、これを動かす鉄の鎖が途中で外れたのです。直ちに手で閉めさせますが、手では鎖のように速く閉めることができず、閉め終わる時には、海水は艇内に入って、艇の後部に溜まりました。このために、潜水艇は後方に傾いて、ちょうど二十五度位の傾斜をもって沈降し、海底にて十三度位の傾斜をもって留まったのです。その時刻は午前十時頃で、司令塔の深度計は五十二フィート(約十五・八m)を示していました。
 海水の艇内への浸水と同時に、通風筒の下にある配電盤に水がかかり、いっきに大電流が通ったために、電線のゴ厶が燃えてガスが発生し、呼吸が困難となりました。
 沈下と同時に艇長は、「メインタンク排水」を命じました、通常、この水を排出すれば、艇は容易に浮上するのですが、メインタンクより排水した水量よりも、通風筒から浸入した水量の方が多かったために、浮上する様子もありませんでした。
 艇長は少しでも艇を軽くするために、ガソリンを排出しましたが、これもまた暗闇の
ため排出用の空気量を計るゲージが見えず、過大の空気を送ったものとみえて、ガソリンパイプが破れ、その破れ目から艇内にガソリンが流れ出て、悪臭が発生しました。
 メインタンク、ガソリンタンクを排出し、一切の希望を手動ポンプにかけて、懸命に排水に努めますが、司令塔の深度計は五十二を示したままで、時刻は十二時、二時間にわたる艇員の努力にもかかわらず、艇は停止して遂に浮上しませんでした。
 ここにおいて、艇長は艇内の指揮を長谷川中尉にゆだね、自らは苦しい呼吸の中、司令塔にある小さなガラス窓から差し込む微光を頼りに、遺書を書きつづったのです。
 この間、艇員は全て、中尉の命に従い、それぞれ全力をつくして手動ポンプを動かし、点灯するように努め、ガスの発生を防ごうとしましたが、ついに及ばず、十二時四十分すぎに、艇長と十三人の艇員はそれぞれの持ち場についたままで息をひきとったのです。



小浜公園の案内板と銅像
佐久間艇長略伝
偉人、佐久間勉大尉は、明治十二年九月十三日福井県三方郡三方町北前川、佐久間可盛氏の次男として生まれ、八村小学校、福井県小浜中学校を至て、攻玉社海軍中学、海軍兵学校へと進まれ、明治三十四年海軍兵学校を卒業、同三十六年海軍少尉に任官されたのである。爾来明治四十三年四月十五日殉難されるまで、人として、海軍将校としてその全き生活はあたかも神格を有される如く、その遺書は誠に国の至宝である。大尉は、郷土の誇りばかりでなく、日本国民の均しく敬すべく範にすぶき全き人である。
佐久間艇長遺言 (原文)
 小官ノ不注意ニヨリ、陛下ノ艇ヲ沈メ、部下ヲ殺ス。誠二申訳無シ。サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ、沈着ニ事ヲ処セリ。我等ハ国家ノ爲職ニ斃レシト雖、唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ、以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂フルニアリ。希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽サレンコトヲ。サスレハ我レ等モ遺憾トスル所ナシ。
(沈没ノ原因)
瓦斯林潜航ノ際過度深八セシタメ「スルイス、バルブ」ヲ締メントセシモ途中「チエン」キレ、依テ手ニテ之ヲ締メタルモ後シ、後部二満水セリ。約二五度ノ傾斜ニテ沈降セリ。
一、傾斜約仰角十三度位。
一、配電盤ツカリタル爲、電纜燃エ、悪瓦斯ヲ発生、呼吸二困難ヲ感ゼリ。
十四日午前十時頃沈没ス。此ノ悪瓦斯ノ下二手動「ポンプ」ニテ排水ニカ厶。
(沈没後ノ状況)
一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ。燈消エ「ケージ」見エザレドモ「メンタンク」ハ排水シ終レルモノト認ム。電流ハ全ク使用スル能ハズ。電液ハ溢ルゝモ少々、海水ハ入ラズ。「クロリンガス」発生セズ。
残気ハ五〇〇石+労位ナリ。唯々頼ム所ハ手動「ポンプ」アルノミ。
(右十一時四十五分、司令塔ノ明リニテ記ス。)
溢入ノ水二浸サレ、乗員大部衣湿フ。寒冷ヲ感ス。
 余ハ、常ニ潜水艇員ハ沈置細心ノ注意ヲフ要スルト共ニ、大胆ニ行動セザレバ其発展ヲ望ムベカラズ、細心ノ余リ畏縮セサランコトヲ戒メタリ。世ノ人ハ此ノ失敗ヲ以テ、或八嘲笑スルモノアラン。サレド我ハ前言ノ誤リナキヲ確信ス。
一、司令塔ノ深度計八五十ニヲ示シ、排水ニ勉メトモ、十二時迄ハ底止シテ動カズ。此ノ辺深度八十尋ナレバ、正シキモノナラン。
一、潜水艇員士卒ハ、抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス。力丶ルトキニ困ル故。幸ニ本艇員ハ皆ヨク其職ヲ尽クセリ。満足ニ思フ。我八常ニ家ヲ出ツレバ、死ヲ期ス。サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出ノ中ニアリ。(之レ但シ私事ニ関スル事、言フ必要ナシ。田口、浅見兄ヨ、之ヲ愚父ニ致サレヨ)
(公遺言)
謹ンデ
陛下ニ白ス。我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ。我ガ念頭ニ懸ルモノ之アルノミ。
左ノ諸君ニ宣敷(順序不順)
一、齊藤大臣 一、島村中将 一、名和少将 一、山下少将(気圧高マリ鼓マクヲ破らルヽ如キ感アリ)  一、小栗大佐 一、井出大佐 一、松村中佐(純一) 一、松村大佐(竜) 一、松村少佐(菊)(小生ノ兄ナリ) 一、舟越大佐 一、成田鋼太郎先生 一、生田小金次先生
十二時三十分、呼吸非常ニクルシイ。瓦斯林ヲ「フローアウト」セシ積リナレドモガソリンニヨウタ。一、中野大佐 十二時四十分ナリ


記念館展示のメモ遺書(一部)


『三方町史』
佐久間 勉
前川神社の神官であった父可盛、母まつの次男として、明治十二年(一八七九)九月十三日に生まれた。幼少のころは、色白で温順、声は女子のように優しく恥ずかしがりやであったという。明治十八年、七歳で明倫小学校に入学、九歳の時、八村尋常小学校に転校、卒業後温修科を経て明治二十四年、三潟尋常高等小学校(現在の美浜町弥美小学校)第二学年に入学、明治二十七年には小浜中学校(現在の若狭高等学校)に入学した。礼儀正しく兄弟愛深く、規律をたっとび、虚弱であった体の鍛練に冷水摩擦や木刀の素振りに励んだ。また、吉田松陰の士規七則や、室鳩巣の自警文を手記して座右に備え、日夜修養に励んだほか、学費の節約に努め、衣類の洗濯や自炊をし、教科書のほとんどは借りて写したという。これらのことは、青少年教育のための生きた尊い資料である。
 小浜中学校四年の時、東京の攻玉社海軍中学校に転校、翌三十一年海軍志願が認められ、十一月海軍兵学校に入学、明治三十四年満二十二歳で兵学校を卒業、海軍少尉候補生として軍艦比叡に乗り組んだ。明治三十六年海軍少尉、翌三十七年海軍中尉、従七位に叙せられ、日露戦争に出陣、明治三十九年四月、功五級金鵄勲章ならびに勲五等双光旭日章、戦役従軍記章を受章、海軍大尉に任ぜられ第一潜水艇隊艇長、正七位に叙せられた。翌四十年第一艦隊参謀、皇太子殿下韓国行啓の旗艦鹿島への乗り組み、春風駆逐艦長、四十一年対島分隊長、呉鎮守府軍法会議判士、明治四十二年十二月七日第六潜水艇艇長を命ぜられ、翌四十三年四月十五日山口県新湊沖で、半潜航行中沈没し艇長以下十四人とともに殉職し従六位に叙せられた。
 四月十五日午前十時潜行を始めるや間もなく艇に故障を生じ、浮上することができなかった。艇長以下十四人は各配置についたまま落命しており、その沈着ぶりは世界の人々を驚かせた。艇長のポケッ卜から、黒表紙で縦一三・六センチ、横九・六センチの手帳が見付かり、事故のすべてを知ることができた。司令塔から漏れてくるかすかな光を頼りに、ガスが発生し、気圧が高まり鼓膜の破れるような思いの中で、呼吸に苦しみながらも死に至る瞬間まで書きつづった三十七ページ九百八十二字の鉛筆書きの遺書は、拡大して記念館に展示されている。遺書や両親への便りには、勉の豊かな人間性があらわれている。
 遺書には、第一に陛下の艇を沈め部下を死なせるに至った罪を謝し、乗員一同がよく職分を守ったことを述べ、また、この事故によって潜水艇の発展の勢いをくじくことのないように祈って、沈没の原因や海底に沈んでからの状況を詳しく述べている。第二に部下の遺族についての願いを述べ、上官、先輩、恩師の名を書き連ねて告別の意を表し、最後に「十二時四十分なり」と記されている。満三十歳であった。
 艇長の殉難については、小学校修身教科書に「沈勇」「職分」という題目のもとに取り上げられ、国民の師表として敬まわれた。三方町では。町内全戸を会員とする佐久間勉艇長遺徳顕彰会が結成され、毎年四月十五日には海軍大尉従六位勲五等功五級佐久間勉の墓前で、盛大な遺徳顕彰祭が営まれている。大尉の遺徳をしのんで遺品、資料展示の佐久間記念館が、昭和四十六年(一九七一)北前川に建設された。
 生家の周辺は、青少年健全育成のために佐久間キャンプ場が開設されている。前川神社の参道人口大鳥居左側に建つ「殉難艇長佐久間大尉生誕地」の石碑の字は、東郷平八郎元帥の書で、材石は田烏から寄付された自然石である。田烏から海路久々子湖を経て、三方湖の鳥浜に陸上げされ、建立発起者八村青年会と在郷軍人会の奉仕によって、地車で北前川まで八時間かかって運搬された。総費用は二百六十五円十四銭五厘(当時、米一俵の価格四円三十七銭)で、大正四年四月十五日に除幕式が挙行され、大尉の長女輝子によって除幕された。平成二年四月十五日、殉難八十周年記念碑が建立され除幕式の予定である。
 佐久間勉については、法本義弘『佐久間艇長』、同『正傳佐久間艇長』、三方町教育委員会『沈勇の人佐久間勉』、成田鋼太郎『殉難艇長佐久間大尉』八村教育会『沈勇なる佐久間大尉』など多くの文献がある。


15メートルくらいなら脱出可能かと思えるが、当時の潜水艦はそうした安全設計にはなっていなかったものか。彼の軍歌はたくさん残されている。
(390) 佐久間艇長 ロイヤルナイツ ●軍歌 - YouTube
(390) 【大日本帝国】日本海軍・修身教科書『沈勇佐久間艇長』 - YouTube

南前川の主な歴史記録


『三方町史』
南前川
この集落内には、下り山古墳、道の上古墳、岡の山2号墳などの古墳がある。昭和三十年代の第一次土地改良事業のとき、今井長太郎によって、この集落西側の標高七-十四メートルの水田の中で遺跡が発見された。これが南前川遺跡である。昭和六十年五月がら約二カ月間、三方町教育委員会が発掘調査をした。発掘された遺物は、弥生時代後期の土器(わん形、つぽ形、かめ形、器台形其の他)、古墳時代の土師器(小型丸底つぼ、高杯、かめ形、つぼ形)や木製品であった(「南前川遺跡」三方町文化財調査報告書第六集)。これらのことは、千数百年前には既に人々の営みのあったことを物語っている。
 また、前川神社は、大同元年(八〇六)、近江国坂本の日吉山王宮の神霊を勧じょうしたと伝えられる(第五編第三章参照)ところから、このころには集落ができていたことになる。この日吉山王宮から神霊を勧じょうしたのが野々間であり、谷内(やち)が氏子になったのが南北朝期の観応元年(一三五〇)であるという。このように南前川は、昔から野々間と谷内の二つの小字に分れているが、その起こりについては明らかでない。
 ところで、文永二年(一二六五)の大田文に、前河庄四十八丁五反三百五十歩の田数が見られる。前河庄は日吉社領で、鎌倉末期からは京都の廬山寺が領家職を有した。前河庄にかかる荘園名として、南北朝期には南前河庄、前河南庄の表記があり、当時前河庄は南と北に分かれていたと考えられる。さらに、足利尊氏のころ、若狭国前河庄内野間村と記した文書があることから、野々間のあったことが推察できる(須磨千穎「若狭国三方郡の荘園」)。また裏山弓焼場(よめやくば)には、守護武田氏の重臣山縣氏一族の城跡があったと伝えられているがその場所は不明である。
 明治十一年から置かれていた各村の戸長役場は、明治十七年に廃止され、それに代わって相田、藤井、南前川、北前川、佐古、田名の六ヵ村の戸長役場が、南前川に置かれた。この戸長役場は、明治二十一年の市町村制の施行に伴なって発足した八村役場の誕生まで続いた。
 この地域の人々が尊敬している明庵学海禅師は、天和二年(一六八二)に野々間の山竹五郎助家に生れ、七歳の時、藤井村向陽寺で仏門に入り、二十九歳で初めて山城の国自性寺の住職になった。その後、中名田の法泉寺、田上の常在院、倉見の永正院などの住職を経て、元文六年(一七四一)、小浜藩主酒井家の菩提寺である空印寺の第十六世となった。四年後、太良庄の長英寺が全焼したので、三ヵ年の間托鉢に回り、寛延元年(一七四八)に諸堂を再建し中興開山となった。野々間は、昔から水不足で用水に困っていた。水を求めて一心に願をかけていた時、母の胎内に宿ったという明庵禅師は、野々間の辻堂前地籍で、しやくじょうを立てて祈ったところ清水がわき出したという。村人たちはこの水を明庵水と呼び大切に使った。大正十三年、丹後街道沿いに、高さ約一五五センチの花コウ岩に「明庵大禅師慈恩碣」と宇野玄機によって書かれた碑を報徳会が建て、その遺徳をたたえている。
 旧明倫小学校の裏山に、佐久間艇長以下十四人をまつる六号神社が有志によって建てられている。
 谷内の地蔵堂には、三方町文化財指定の地蔵菩薩坐像が安置されている。また、野々間には、毘沙門天不動明王と、木像彩色の多聞天立像を安置した毘沙門堂がある。


南前川の伝説

『越前若狭の伝説』
明庵水   (南前川)
南前川の野々間に明庵(みょうあん)水といって一年中いつも美しい清水のわき出ている泉がある。これは、むがし明庵和尚がこの野々間に水の乏しいのを救おうとして造った泉である。明庵和尚がこの地面にしゃくじょう(錫杖)をつき立てると、不思議にもそこから清水がわき出したといわれる。
明庵和尚は、野々間の山竹五郎助という家に生まれた。この野々間には美しい水が少なくて、谷から流れて来る川も夏になるとぼうふらがわく状態であった。明庵の母になる人は、これをなんとか解決したいと一心に願をかけていた。ある夜すい星が口中に入る夢を見て懐妊し、生まれたのが明庵和尚であったという。そのためか、水がなくて困っている所に明庵和尚か法力によって泉や池を造ったという話が、あちこちに残っている。
大正八年ごろに大干ばつがあったが、ほかの川の水はみなかれてしまったのに、この明庵水だけは尽きることがなく、いつもよりかえって多くの水がわき出た。村人たちは今さらながら明庵水のありがたさに感激し、少し離れた街道端に明庵和尚の遺徳をたたえるため記念の石碑を建てた。  (永江秀雄)



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『三方町史』
南前川
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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