丹後の地名 若狭版

若狭

武生(むしゅう)
福井県三方上中郡若狭町武生


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福井県三方上中郡若狭町武生

福井県遠敷郡上中町武生

福井県遠敷郡野木村武生

武生の概要




《武生の概要》
野木小学校があるあたり。虫尾または虫生とも書いた、「むしょう」ともいう。鎌倉初期に、この地を本貫としたと推定される御家人「虫生五郎頼基」がいた。
近世の武生村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同16年村内堂ノ下に恵懐小学校校舎を新築、同校を上野木盛雲寺から移転した。同22年野木村の大字となる。
近代の武生は、明治22年~現在の大字名。はじめ野木村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西4町余・南北2町余、戸数17、人口は男59 ・ 女55、学校1。明治32年村役場が玉置から当地の堂ノ上に新築移転した。

この地名はあちこちに見られるが、『西丹波秘境の旅』(澤潔)は、
墓地名、,睦志(虫)とは墓所のことで、呉音ではムショ(無所)で、詣で墓を意味する空無所(カラムショ)の意味である、虫とはムショ(無所)のことで墓地のこと。…両墓制は各地にあり、丹波にも多いが、愛知県では両墓制のことをムショ、またはラントという。死骸を埋めるところ、それは山裾であるが、そこをムショという。ムショには普通詣らない。詣るところをラントという。

ムショと言えば今では刑務所の隠語だが、元は両墓制の埋め墓なのか、詣で墓なのか、
『定本柳田国男全集』「先祖の話」墓所は祭場
…実際のところは日本人の墓所(むしょ)といふものは、元は埋葬の地とは異なるのが普通であった。
 我々の調査團などでは、當らぬ名かも知らぬが此風習を、兩墓制と呼ぶことにして居る。即ち一方はいけ墓・上の墓・又棄て墓とさへいふ土地があって、多くは山の奥や野の末、人の通らぬ海端などに送り、やがては不明になり、又さうなるのを好いとして居る處もある。之に對して他の一方には参り墓・祭り墓、もしくは内墓とも寺墓とも謂ふのが有って、多くは寺に托し又参拜に都合のよい設備をして居る。


『定本柳田国男全集』「葬制の沿革について」
墓所といふ文章語が家々專屬の祭場の意味に用ゐらるゝに封して、所謂墓原には別にムショといふ語があった。ムショも同じく墓所の古音の如くに説明せられては居るものゝ、其感じは全然別であって、此方は通例共同墓地を指して居るやうである。古くは音聲の稍之に近き無常所といふ語がよく用ゐられて居た。


《武生の人口・世帯数》 108・27


《武生の主な社寺など》

不動の滝

堂之前古墳と十数基の円墳からなる芝原古墳群

金剣神社

集落の一番奥、昌寿寺のまだ奥と地図にあるが、その道の途中に鹿除けフェンスがある、これよりまだ奥に鎮座するよう…。カナギと読むようである。

『遠敷郡誌』
金劒神社 村社にして同村武生字水谷にあり、祭神は白山明神第一王子にして元金劒明神社と稱せり。.

『上中町郷土誌』
金劒神社 武生字水谷鎮座
社寺由緒記 一二四頁に
一、金剱大明神 八十年以前火災御座候由七十五年以前建立仕候 由緒知レ不申候
一、大将軍 一、山の神  二社共由緒知レ不レ申候
    武生村庄屋  三郎左衛門 以上
○遠敷郡誌 一二五五頁に
一、金劔神社 村社にして同村武生字水谷にあり祭神は白山明神第一王子にして元は金劔明神社と称えた 以上
大日本地誌大系 四七頁
 若狭郡県誌に
一、金劔明神社 在二上中郡虫生村一為二産神
        三月三日 九月八日   有祭    以上
伴信友全集 第二-一八六頁
一、正五位金劔明神 この神号土人金劔をカナツルギの約りたるべし、旧訓にも劔字にキの仮字をさしたり然るを近世になりては土人カネツルギと呼ぶはむかしの唱をわすれて字になづみたるさかしらときこゆ 遠敷郡虫生村にも金劔明神あり祭日は三月三日 九月八日
さてその金劔は神休をさして称するかまた神名か地名か考得ず  以上
野木村誌 一六五貞に
一、金劔神社由緒 加賀国石川郡より遷した白山明神第一王子金劔明神を祀った 同郡河内村に白山七社の一である国幣中社白山比咩神社ありて古くは白山大権現または妙権現とも言った。同郡鶴来町に県社金劔神礼がある白山比咩神社の摂社にしてまた白山七社の一つである。
「賀州石川郡河内庄金劔宮天照大神分身権現白山妙理権現第一王子也」とある。
一、祭神 金劔明神に対する鶴来町会劔神社の社司の見解によると、祭神は天津彦彦穂瓊々杵命、また白山比咩神社の古文書(白山記国宝)に依れば、当社祭神白山第一王子とあり、是は当神社は白山七社の一にして白山摂社の第一位を意味する。
一、山神社 鳥居の傍にあり。神石ありて玉垣を廻らしてある。
一、伝説 山神社は字芝原にあったのを遷したものである。
一、境内 百〇八坪
一、宮高 安政元年現在
    一字どうく 下々田二十四歩
    一、字同  下々田二畝二十歩
    一、字すまいば 中下田七畝廿二歩


曹洞宗泉谷山昌寿寺

『遠敷郡誌』
昌壽寺 曹洞宗長泉寺末にして本尊は阿彌陀如來なり、同村武生字谷口に在り。

『上中町郷土誌』
武生村 昌寿寺
社寺由緒記に
一、薬師如来 弘法大師の御作と申伝候。百年以前堂焼候由申伝候。其後草庵を建立入置候処六十八年以前に京極若狭守様御内橋本道羽と中仁、建立被成候へ共大風にて破壊仕今は一間四方草庵に御座候共外由緒知不申候
一、禅宗泉谷山昌寿寺 本尊如意輪観音に而作者も由来も知不申候
       武生村庄屋  三郎左衛門
野木村誌に
(本尊)薬師如来(社寺由緒記には本尊如意輪観音と書してあるが今は薬師如来を本尊としている)
(由緒)長泉寺末泉谷山昌寿寺は大字武生に在り。往古加福六にありしと伝う。滋賀県管下当時の寺院明細帳によれば「天文三年長泉寺住職の僧が創立ナリトイフ」とあり長泉寺記録によれば開山は同寺第四世古山修鷹和尚にして承応二年七月入滅あり。創立の年時と入滅年時の差甚だしく創立の時不明なりと記載されている。
これは長泉寺第四世は古山修鷹ではなく古山祖鷹和尚であることが、上野木窪田治太夫家の古文書によって天明八年戊申八月十日長泉寺住職弘鏡が寺印を捺印して空印寺御役寮え提出した控書によって判明した。
(薬師堂)不動 阿弥陀 薬師の三尊を安置すこの堂もとは字堂の前に在った。
(眠地蔵)昌寿寺地域内に在りもとは字堂の上に在った。
(寺地)滋賀県管下当時の寺院明細帳に所有地田弐反六畝拾六歩山林六段歩記載あり。
遠敷郡誌に
一、昌寿寺 曹洞宗長泉寺末にして本尊は阿弥陀如来なり同村武生字谷口にあり。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


武生の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
武生
若狭旧事考に武生は旧名虫生と書くとあり、若狭国志補遣に「拾芥抄姓氏録宿弥部に、武生氏あり。」と載せ。若狭郡記に「虫尾今虫生と書く」とある。建久七年六月の東寺文書に、虫生五郎頼時の名ありて武生は鎌倉時代の初期に虫生と記したようである。
兼田前より武生前にかけて多くの小丘が田の中にあった。これは北川であった所を田に拓く時に造った丘でこれ等は皆河原石から出来ている。北川は元野木役場のあった西の岩鼻に当っていたようである。
字中河原に一小丘があって老松が数本生えている、昔はここに鎮守社があったという。
円塚、大将軍中将軍、大藤、松塚武生の奥地北山の麓は平坦で芝原と称し円塚、古墳群の遺址多く附近は古代住民の椄息に適していた。字大将軍、中将軍は各々宮跡ともいい、なおその附近に三尺を廻る大藤あり。また字中河原のと松の生えた小丘は松塚と称し、松木長操処刑の地であるともいい伝う。
不動滝と党前薬師
武生の山奥に入れば珪石岩の露出し、渓は布引く如く白く更に木樋にて高さ三丈に及ぶ滝あり。不動尊が祀られている。頭や肩の痛みにはこの滝に打たれて効あり。又布引の滝の傍らに小さき穴ありて之に溜りたる水は乳の出ること妙なりといわれる。字堂の前には薬師堂があったらしいが寺へ移転しその跡の霊木もすでに枯死してしまった。
藩政時代の教育、寺子屋時代は玉置の玉泉寺に於て医師の野々口為敬氏について学んだ。又私塾としては画家の大倉月山が部落民を教化されたとのことである。

土地改良工事中六百年の古瓦出土
 昭和三十七年十二月土地改良工事中武生地籍神谷ぞいの地点から古寺の土蔵または土屏の腰瓦と思われる古瓦一枚が出土した。およそ一尺角の大きさで「文保六年末三月」の文字が釘彫りにされている。
 「文保六年末」とあるは文保三年の誤りではないかと考えられる。文保は二年三年とつづいて三年の己未の年に元応と改元されこの年は後醍醐天皇が最初に即位された年である(後醐醐帝は建武元年に再度即位された)およそ六百三十五年を経過している。
 ちなみに先年越前の五分市の小丸城趾の三の丸趾から古瓦が発見され瓦の文学としては有名である。「五月二十四日いき(一揆)おこり其まま前田又左衛門(利家)いき千人ばかりいけどられ候也御せいはい(成敗)はりつけかま(釜)にいられあぶられ候哉云々とある。天正三年(約四百年前)の出来ごとで一揆に対する前田利家の行った残虐な成敗を瓦文学に残したもの。文保の古瓦は歴史的に価値はないが越前出土の古瓦よりも二百三十年以上も古いもので、しかも無傷であることが珍しい。後年農民がもぐらどめに使用したものが埋っていたものかもしれない。土地改良工事の重要な記念品としても永久保存したいとおもう。


武生の伝説

『越前若狭の伝説』
薬師堂   (武生)
武生のあざ堂の前にあった薬師堂の本尊は、もと昌寿寺の方丈の間に安置されていた。ある夜「和尚(おしょう)起きろ。」と続けさまに呼ぶ声に住職が目をさますと、方丈の間が燃えていた。住職は驚いて近所の人を呼び起し、消火に努めた。ふしぎにも火は少しも広がらないので、消しとめることができた。これは薬師様か火をおさえて下さったがらである。    (野木村誌)

内藤佐渡守  (武生)
箱が岳城が落ちたとき、城主の内藤佐渡守は、馬でこの地に降りて勇戦したか、俗にシャクというひょうたんに似たつる草に馬の足をとられ、馬もろとも倒れた。そこをやりで突かれて戦死した。それで土地の人は今でもひょうたんを作らない。  (福井県の伝説)




武生の小字一覧


『上中町郷土誌』
武生の小字
水谷 中奥 奥之加一 新田 馬作(バサク) 中道 谷口 堂之前 東原 中将軍 大将軍 堂之腰 堂之上 堂ノ下 羽折 中 タモノ木 猫田 桑ノ木原 新桑 中屋田 樋褂 上樋 道仙河原 中河原 前川 笙吹 五反田 下法華 上法華 橋詰 下堂子 上高田 高田 小杉ノ木 上堂子 下河原 芝之欠 袖河原 上川 上甲田 甲田 下田 下土橋 山ケ鼻 上河原

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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