丹後の地名 若狭版

若狭

能登野(のとの)
福井県三方上中郡若狭町能登野


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福井県三方上中郡若狭町能登野

福井県三方郡三方町能登野

若狭国三方郡十村能登野

能登野の概要




《能登野の概要》
成願寺村の北に位置し、丹後街道が通る。古代三方郡に能登郷があり(和名抄)、当地に比定される。「延喜式」神名帳に載せる能登神社が所在する古い由緒ある土地。
中世の能登野。南北朝期から見える地名で、三方郡倉見荘のうち。建武3年(1336)8月28日に南朝方の軍大将左門少将の軍と北朝方斯波時家の軍が能登野で戦い、明通寺寺僧が3人が当地で討死している。応安4年(1371)正月6日に守護一色氏に反抗する鳥羽・宮河・倉見の国人たちは能登野で守護方と合戦した。下って弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進に「のと野」は110文を奉加している。
近世の能登野村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年十村の大字となる。
近代の能登野は、明治22年~現在の大字名。はじめ十村、昭和29年からは三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西9町余・南北15町余、戸数73、人口は男174 ・ 女159。


《能登野の人口・世帯数》 316・109


《能登野の主な社寺など》

矢竹の北古墳・矢竹の古墳・大塚古墳

能登神社(式内社)

国道27号から少し東ヘ入ったところ。国道から鳥居が見えるが、少々わかりづらい、社前の川は八幡川、その川に架かる八幡橋を渡る。
能登神社は能登野・横渡の産土神。享禄5年(1532)の神名帳写(小野寺文書)は能登明神と記し正五位。江戸時代には八幡宮と称し、「若州管内社寺由緒記」に「御神躰阿弥陀 由来不二知申一候」とある。
『三方町史』
能登神社
能登野字森の本鎮座。祭神は大入杵命であるが誉田別尊(応神天皇)は次に述べる神社の合祀以前からあわせまつられている。式内社・指定社(明治四十年一月から府県郷村社にお供え物や幣帛を供えることになった。その神社)・旧村社である。明治四十一年六月六日、次の神社の祭神がこの社に合祀された。
日吉神社祭神大山咋命(元、能登野字山王下に鎮座)
山神社祭神大山祗命(元、能登野字堂前に鎮座)
若宮神社祭神若宮大神(元、横渡字西村中に鎮座)
山神社祭神大山祗命(元、横渡広畑に鎮座)
明神社祭神別雷命・玉依姫命・加茂健角身命(元、横渡字広遠佐に鎮座)
 国帳に「正五位能登明神」とあり、延喜式神名帳に「能登神社」と記されているところから、前述の闇見神社のように延喜年間にまつられていたことは明らかである。延喜式とは、延喜年中(九〇一-九二二)に詔勅によってつくられた国家の施行細則である。また、『若狭国志』(寛延二年〔一七四九〕小浜藩儒臣稻庭正義著)に、「能登野村に在って、八幡といい、能登野・横渡二村の産土神(氏神)なり」とあるが、これは誉田別尊を後であわせまつったため、後でまつった方が主であるとする習慣(伴信友「神社私考」)によって、この社を「八幡宮」又は「八幡さん」とも呼んでいる。
 祭神の大入杵命は崇神天皇の皇子で、弥美神社(美浜町)の祭神室毘古王のいとこである(伴信友「神社私考」)。
 例祭は四月十五日、九月十五日の春秋二回行われるが、四月十五日の大祭当日は、能登野・横渡両区とも、区長・区役員・氏子総代が、午前十一時ごろから当屋で定められた神事を行い、午後一時ごろに御幣を先頭に神社へ向う。途中、参道入口で子供による王の舞、青年による獅子舞が演じられる。終って一同社頭へ向い、例祭式が行われ、ふたたび王の舞・獅子舞が奉納され、これが終ると拝殿で「当(屋)渡し式」があってすべての行事を終る。
 能登野・横渡両区は、明治三十七年まで闇見神社の氏子でもあって、大祭には王の舞・獅子舞とも奉納していた。そのため、現在この神社で奉納する王の舞・獅子舞の舞い方やはやし方は、闇見神社の場合とほとんど同じである。ところで、能登野・横渡両区が、闇見神社の氏子から離れたのは、宮山三十三間山に対する株(ある特権にあずかる権利のこと)と、諸人(もろと)の座位(座席の順序)問題で意見が対立したためである。
 この神社は、明治六年二月、村社になり、その後無格社に編入されたが、大正十四年二月六日には再び村社となった。
 本殿は、弘化年間(一八四四-四八)に火災に遭ったが、明治二十九年四月に再建された。拝殿は明治四十四年四月一日に、社務所は大正十四年八月に建てられた。


『三方郡誌』
能登神社 式内能登野に鎮座すもと八幡宮と稱す能登野・横渡両區の産土神なり。國帳に正五位能登明神とあり、その八幡宮と稱したるは、後に合祀したるを、主と稱し習ひたるなり、祭日八月十五日も此に據れるなり、祭神詳ならず、古事記に大毘古命の從孫大入杵命、能登臣之祖と見え國造本紀に能登國造大入杵命孫彦狭島命、定賜國造とあり。大入杵命は若狭耳別の祖室毘古王には従弟なり闇見神社、和邇部神社は室毘古王に由縁ありげに思はるれば、此社も大入杵命を祭れるにはあらざるか。明治二年二月、村社に列せられ、後、無格社に編入せらる。

山神社。愛宕神社。明神社。〔祭神不詳〕 共に横渡鎮座 以上五社、明治四十一年六月四日、能登神社に合祀す。



『大日本地名辞書』
延喜式能登神社は能登野の八幡宮是なるべしと云ふ、蓋能登国造大入杵命を祭る、〔官社私考・神祇志料〕能登の国人の移住せる郷里にや。○守護職次第記云、応安三年十二月に、山東山西郷に一色より守護代を入、彼所を被押之間、同晦夜守護使壱岐太郎を夜討にし畢、此由を聞き同四年正月二日、守護代西津を立て山東山西に押寄せ、菅浜に於て合戦有之、両方之手負数十人、雖然守護殿方は死人無之、山東方は少々被討了、守護殿方は打勝給て帰給ふ処に、鳥羽宮河倉見の能登野に出合ひ、同六日晩景に合戦有之、両方の手負数十人あり、其時も守護殿方打勝陣を取る処に、同七日晩西津より一色信伝の御子息、其時は兵部少輔殿、(詮範)能登野へ御攻ありて、守護代共に西津へ帰給了。
補【能登神社】○神祇志料、今能登野村に在り、八幡と云ふ、(若狭国志・官社私考)蓋大毘古命の従孫大入杵命を祀る、即能登国造の祖也(古事記・旧事本紀)
 按、続日本紀養老二年越前四郡を割て能登国を置くに拠らば、本国と越前と相隣り且大毘古命に由縁あるを以て此神を祭りし事明し、姑附て考に備ふ。



境内の案内板
能登神社御案内
祭神 大入杵令(能登臣の祖)・郷土開拓の神・家内安全を守る
誉田別命(応神天文) 八幡神社の祭神 武運長久・健康長寿
合祀の神 大山祇命 大山咋命 加茂大神 大鷦鷯命
例祭 祈年祭  二月二十八日
   春季例祭 四月十五日(玉の舞・獅子舞奉納)
   秋季例祭 九月十五日に近い日曜日か祭日
   新嘗祭  十一月三十日
特殊神事 王の舞・獅子舞・子供囃子
神宝   木造一本角獅子頭(若狭町郷土資料館に保管)
由緒沿革 若狭町能登野森の本に鎮座の「能登神社」は延喜式神名帳に(七百十五年)記載されており、今から一千三百年以上前から祀られていた古社である。(古事記に能登臣の祖なり)とある。
 能登神社の御祭神である大入杵令(おおいりぎみのみこと)は第十代崇神天皇の皇子(子供)で闇見神社の御祭神で沙本之大闇見戸売命(さほのおおくらみとめのみこと)の夫である第九代開化天皇の皇子で日子坐(ひこますおう)との御子の室毘古王(むろびこおう)「美浜町宮代鎮座彌美神社の御祭神」とは従兄弟(いとこ)にまします。
明治二年二月に小浜藩方より村社に列せられた。…


平城宮出土木簡に「若狭国三方郡能登郷戸主粟田公麻呂戸口三家人□麻呂調塩参斗」「若狭国三方郡能登郷戸主[  ]海部□麻呂調塩[  」「能登郷戸主粟田公麻呂戸□粟田荒人調塩三斗」などとある。
粟田とあるのは和邇氏の後裔氏族の粟田氏だろうから、闇見神社も含めて当地一帯は和邇氏の地であったのかも知れない。当地の海部氏は丹後海部氏とも関係あるのではなかろうか、そうだとすればもともとは和邇氏一族で調塩を作っていた氏族なのかも知れない。。


龍天神社
『三方郡誌』
龍天神社 能登野能登野川の川上に鎮座す、國帳に正五位能登河中明神とあるは此神なるべし。里人、神身は大蛇なりと云ひ傳へたり。

山神社
『三方郡誌』
山神社 日吉神社 共に能登野鎮座。


曹洞宗飯盛山長福寺

『三方町史』
長福寺
所在能登野五一-一。山号飯盛山。曹洞宗。本尊観世音菩薩。円成寺の末寺である。『若州管内社寺由緒記』には「禅宗長福寺本尊十一面観音古へ市川修理太史殿の牌所にて御座侯へ共七十年以来惣庵に成申候」とあり、由緒のある寺で、守護武田家の旗本、畑田修理之助、畑田加賀守の菩提寺であると伝えられている。しかし、文政三年(一八二〇)八月二日に火災に遭って、寺に関係のある古文書や、古記録を全部焼いてしまったため、それまでのことについて詳しいことは分かっていない。なお、火災後の寺は、文政五年に再建された。
本堂は、昭和五十七年末に改築された。この寺は、円成寺の住職がその職を兼務している。



『三方郡誌』
觀音堂。能登野に在り。創立は古しと雖も、文政三年八月二日、回禄して記録を失ひ、由緒詳ならず同五年再建す、圓成寺末なり。

能登野城
『三方郡誌』
能登野堡址。能登野にあり、武田氏の臣市川修理亮が據りし所なり。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


能登野の主な歴史記録


『三方町史』
能登野
昔、三十三開山にある能登郷の地又に、そこにある豊富な木を材料にして、漆塗り仕上げのもとになるわんなどの器物を作る木地師が住んでいた。彼は能登の国の出身で、同国の人と交流する関係上、山を下りて住んだのが、能登野の始まりであるといわれているが、残された記録がないので年代は明らかでない。今でも、能登郷の地又には平地があり、屋敷跡が見られる。太平洋戦争終結後、ここでしばらく生活した人がいる。
 この集落の字上田には、大塚古墳・大塚の東古墳・矢所の北古墳・矢竹の古墳・無名の古墳などの古墳群があり、大塚はその中心で、他は陪塚であろうといわれている。大塚古墳は明治二十九年ごろ発掘され、鏡が出たと伝えられているが明らかではない。外の古墳はすべて盗掘されている。このことから、千二、三百年以上も昔から人が住みつき、集落が造られていたと推察できる。
 建武三年(一三三六)九月十七日付けで、佐々木(朽木)義信が奉行所宛に「佐々木出羽五郎義信申す当国能登野〔○三方郡〕へ馳せ向い去月二十八日合戦の忠節を致し若党野村小二郎討死仕り候」の軍忠状(朽木文書)を出しており、また「若狭国守護職次第」には、応安の国一揆で応安四年(一三七一)一月に、一色詮範が能登野へ攻めたことが記されており、能登野は六百年余り昔は戦場となったのである。永享十二年(一四四〇)、武田氏が守護となり、領内の要害に諸将を配置したが「若狭守護代記」によれば、義統時代(一五五六-一五六七)には畑田加賀守が配置されていた。室町末期の能登野城主は市川修理亮であった(『三方郡誌』)。
 弘化三年(一八四六)八月二日、成願寺より飛火して上野、能登野の二十八戸が類焼した。また、文政三年(一八二〇)に長福寺が焼失したが、それより弘化三年の大火までに、村には十一回もの火災があった。
 日照りのときの田の用水と、非常の場合の防火用水のため、堤(ため池)が、大正六年ごろと、大正九年ごろに、二カ所造られ、現在も、いつも水をたたえている。昭和二十九年に、能登野・横渡・井崎・上野共同で簡易水道を設置し、昭和四十二年九月に、新しくろ化装置を設けて完全給水をしている。


能登野の伝説





能登野の小字一覧


『三方町史』
能登野
清し谷(きよしだん) 清し谷口(きよしたにぐち) 清し(きよし) 木虎(きとら) 丸山(まるやま) 椎名谷(しいなだん) 谷口(たにぐち) 坊多墓(ぼたはか) 谷田(たんだ) 奥谷田(おくたんだ) 北名後谷(きたなごだん) 名後谷(なごだん) 南名後口(みなみなごだん) 名後口(なごくち) 藤田(ふじた) 森の下(もんのした) 三本本(さんぼぎ) 森の前(もんのまえ) 森の本(もんのもと) 岩浪(いわなみ) 穴虫(あなむし) 赤谷(あかだん) 鹿の谷(しかのだん) 堂の上(どうのうえ) 桂口(かつらぐち) 松尾(まつお) 馬の庄(うまのしょう) 盆ヶ市(ぼんがいち) 大前(だいみょう) 此笠(このがさ) 森の上(もんのうえ) 日与比(ひよび) 参段(さんだ) 奈胡(なご) 梅の坊(うめのぼう) 松の木(まつのき) 間所(まどころ) 堂の下(どうのした) 堂の森(どうのもり) 流田(ながれた) 東山の下(ひがしやまのした) 東山(ひがしやま) 鳥居前(とりいまえ) 横縄手(よこなわて) 薬師谷(やくしだん) 木樵谷(きこりだん) 前坂(まえざか) 法谷(ほうだん) 堂の前(どうのまえ) 山王の下(さんおうのした) 飯谷山(いいだんやま) 片山(かたやま) 井場(いば) 中川(なかがわ) 堀越(ほりごし) 笹原(ささわら) 茶屋(ちゃや) 重王堂(じゅうおうどう) 六田(ろくでん) 塚本(つかもと) 五反田(ごたんだ) 大田(おおた) 西町(にしまち) 二又(ふたまた) 中町(なかまち) 東町(ひがしまち) 飯谷縄手(いいだんなわて) 須後谷口(すごだんぐち) 多地(たち) 岸田(きしだ) 堀田(ほりた) 追抜(おいぬき) 雨紅(あめにじ) 後山(うしろやま) ?木谷(たぬきだん) 駒ヶ谷(こまがだだん) 狭峠(せばとうげ) 津波伊谷(つばいだん) 市の庄(いちのしょう) 桃の木谷(もものきだん) 鴈の子(たかのこ) 南俣西(みなみまたにし) 南俣(みなみまた) 北俣(きたまた) 金岩(かないわ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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