丹後の地名 若狭版

若狭

佐古(さこ)
福井県三方上中郡若狭町佐古


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福井県三方上中郡若狭町佐古

福井県三方郡三方町佐古

若狭国三方郡八村佐古

佐古の概要




《佐古の概要》
鰣川中流域、左岸側の山裾に位置する。
中世の佐古荘。鎌倉期~室町期に見える荘園。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案(京府東寺百合文書ユ)に、本荘のうちに「佐古庄 七十丁一反百七十五歩」とあり、またそれとは別に当荘から分出したと思われる佐古出作が同帳に見える。佐古出作は4町3反70歩とあり、元亨年間頃の朱注には国領と記されている。同朱注には別の箇所に佐古出作の地主職は先年国衙と税所とが相論し、当時は税所の沙汰であると記される。暦応4年(1341)9月15日の足利尊氏下文に、足利尊氏は今川頼貞に越後・和泉・若狭・越中など諸国に散在する所領の地頭職を勲功の賞として宛行って、そのうちに当荘が見える。応永元年(1394)3月2日気山氏と推定される次郎大夫は左衛門尉源叶(地頭か)から長谷寺五所大明神に所属する猿楽気山座の楽頭職に補任されると同時に「佐古庄楽頭田」1反(半済方)を宛行われている(江村伊平治家文書)。天文13年(1544)11月15日石井光顕は梶大蔵丞に田地4反を売却して、それは「佐古本所石井新介光顕」の重代の所領であるという。同16年3月1日石井光顕は光政と連署して気山五郎三郎に学(楽か)頭識(職か)を申し付けるとともにその禄物2石を給与し、それは「佐古斗子に定」と見える(江村伊平治家文書)。
近世の佐古村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治22年八村の大字となる。
近代の佐古は、明治22年~現在の大字名。はじめ八村、昭和28年からは三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北7町、戸数33、人口は男91 ・ 女82。

《佐古の人口・世帯数》 139・35


《佐古の主な社寺など》

天神社

『三方町史』
天神社
佐古に鎮座。祭神菅原道真。旧村社。明治四十一年ごろ、山王権現社(日吉山王)祭神大山咋命をこの社に合祀したが、『若州管内社寺由緒記』には、「山王本尊地蔵、当村の氏神九十年以前、丹後守松丸様御局より堂建立と申伝候」とあり、さらに「天神本尊薬師、四十年以前、香川但馬守殿より堂建立成され候由申伝候」とある。佐古「郷土誌」にも「山王権現社は天正十四年(一五八六)に丹後守松丸によって当村の産土神としで建立し、えい山の坂本から山王権現を勧じょうし、寛永六年(一六二九)に天神社を勧じょう、香川但馬守によって社が建立された」と記されている。
 この天神社が、佐古村民の氏神となったのは、その後、天神社の小祠が建立されたときか、あるいは、現在の本殿が建立され、山王権現社が合祀されたときからではないかと考えられる。
 現在の本殿は、その棟札によると、安永三年(一七七四)正月十五日に着工、安永四年八月二十四日に棟上げが行われている。
 鳥居は、明治三十五年十月十日に建てられた。昭和二十三年四月十八日に、社殿の屋根は草ぶきから瓦屋根にふき替えられた。
 例祭は四月二日で、青年や中年が太皷ばやしを奉納し、神主による儀式が行われる。昔は、適当な場所に舞台を設け、区民の有志によって芝居が演ぜられたという。


『三方郡誌』
天神社。村社。佐古に鎮座す。明治二年、村社に列せらる。
  神社私考に曰、山都田神社、〔式内〕國帳に正五位山津明神とあり。津の下に田の字を脱しれるなり。此神社、今詳ならず。今、當郡佐古村の田地の字に、山ちだと呼ふ處なり。これもしくは山都田の訛りたる地名の遺れろならむか。しからは此里に山王の社あり。もしこれにはあらぬか。又天神社もあり。二社ともに祭日は三月二日なり。猶よく證考ふへしと。〔以上〕大日本史神祇志には、此社を山都田神社とす。



浄土真宗本願寺派契照山常徳寺

常徳寺ははじめ善光寺と称し天台宗であったが、文明年間真宗本願寺派となり、寺号も常徳寺と改めた。「墓のない村」だそうで、山手も見てみたが墓地はなかった。
『三方町史』
常徳寺
所在佐古二五-九。山号契照山。浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。開基は小野篁と伝えられ、元は寺号を善光寺といい、天台宗であった。寺は長久年間(一〇四〇-四三)に建立され、佐古の下町蓮の池に在つたという。
 長禄元年(一四五七)に、今井与茂五郎兼利という武士が、若狭へ来て弓矢を捨て、この寺に入って堂を守った。ところが、文明七年(一四七五)には、本願寺第八世蓮如の教えを受けて真宗に帰依し、髮をそって僧となり、僧号を演照と言い、翌文明八年に、堂を現在地に移して、寺号を常徳寺と改めたと伝えられている。寛永十七年(一六四○)には、火災に遭ったが、文化二年(一八〇五)になってようやく、現在の堂を再建した。その後、文政十年(一八二七)と、明治二十八年には、さらに修繕を行い、昭和三年には、カヤぶきを現在の瓦屋根に改修した。
 この寺の住職は、昔から諸役御免が許され(「若州管内社寺由緒記」)、特に、幕藩時代には、領主の代替わりと、年始には、お祝いのため登城することができた。
 この寺の檀家は、昔から墓を持たないことを固く申し合わせ、現在も墓地を持っていない。このことは、次に述べる田名の安養寺の場合も同じことで、全国でも珍しい「墓のない村」として、昭和六十年読売新聞社発行の『親鷲と真宗』に紹介されている。
 釣り鐘は延享二年(一七四五)に鋳造したが、太平洋戦争中昭和十七年に供出され。現在のものは昭和二十二年一月に再鋳造したものである。


『三方郡誌』
常徳寺。真宗本願寺派。佐古に在り。傳云ふ、小野篁の開基にして、初め善光寺と稱し、天台宗なりしか、文明年中、住職演照、蓮如に歸依して改宗し、寺號をも常徳寺と改めたりと。寛永十九年、火災に罹れり。現今の堂宇は、その後の再建なり。古来領主より、諸役免除せられ、舊藩主の襲封、及年頭には、住職登城して祝賀し、及ぴその葬儀に會するを得たる寺格なりき。今本山堂班内陳列座の寺格なり。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


佐古の主な歴史記録


『三方町史』
佐古
昭和三十二年から始まった土地改良事業で、佐古の昔の田の面影は、跡方もなく消え去った。それまでの佐古の田は、外に例を見ない程整然とできていた(第二部第二章参照)。この大がかかりな区画整理は、班田収授法(大化の改新〔六四五〕の時に実施がうたわれ、大宝令〔七〇一〕によって大成された)の遺産といわれる。今から千三百年余り前に、あれだけの区画整理が出来たことは、相当佐古が開発されていたと言える。上中町無悪にも、佐古と同じ班田収授法によってできたと見られる田がある。また、漢学者であり、歌人であった小野篁が、承和四年(八三七)に遺唐副使として田烏から船で唐へ行くはずであったが行かずに、海士坂を通って佐古へきて、字蓮地に善光寺(天台宗)を建てたとの伝説を合せ考えると、佐古と無悪とは何か深い因縁があると思われる。文永二年(一二六五)の「若狭国惣田数帳写」には、「本庄」の一つとして佐古庄が出てくる。十一世紀後半以前に成立した由緒の古い荘園である。このように、佐古は古い昔から開けていたが、寛永十七年(一六四〇)、寺の火災により古記録が焼けてなくなり、古い歴史については伝承以外にほとんど詳しいことは明らかでない。
 井崎の北西、佐古と黒田の中間東側に張り出した標高二七〇メートルの山頂にある大倉見城(井崎城ともいっている)は、さほど大きくないが険しい要害の地で、三方町南部、東部地区を一望できる位置にあり、城主は熊谷直之であった。直之は熊谷直実の子孫で、代々安芸国に住み、武田家に仕えた。武田信栄が若狭国の守護となった時、これに従って移住し、倉見・岩屋・田上・黒田・井崎・成願寺・上野など二千石を領して、天文年間(一五三二-一五五四)に井崎に城を築いた。永禄十一年(一五六八)には越前朝倉軍を迎えて、よく戦った。
 この城山は表は井崎方面であるが、味方の陣地確保・兵糧貯蔵等は佐古が適地であったようで、それにちなんだ地名馬場・追馬谷・駆上り・道近畑・ハ卜の鼻・こし舞などがあり、城の守りとして佐古側が便利で、食糧の補給基地としても絶好の地であったと思われる。
 佐古には他の集落に比べて二つの不思議がある。その一つは各家庭に神棚が無いことであり、その二は墓地が無いことである。これは宗教上から出たことで、集落民の中では誰も不思議に思っている者は無い。戦時中、毎年戦に勝つために伊勢神宮の御札が役場を通じて下付されたとき、区長は全戸数分を受領して、一括氏神様に奉納し、年度が代わるごとに古い御札は境内の一隅に「焼納所」を設けて焼き捨てた。墓も区内では一切造らないことを申し合わせており、現在京都の西本願寺墓地に累代の墓を建立している家はただの四戸だけである。このことについては、「墓のない村」として『親鸞と真宗』によりて紹介されたことは、第五編第三章で述べたとおりである。


『三方町史』
三方地方の条里
条里制

写真37に掲げたのは、明治九年(一八七六)地租改正事業の一環として作成された字限図のうち、佐古村に関するものの一部である。ここにはきわめて整然とした地割りの状況が看取できる。そして「八ノ坪」「九ノ坪」「十ノ坪」という、数詞を冠して何ノ坪と袮する特徴のある言い方の字名の存在が確認される。これは明らかに古代以来のいわゆる今里制地割りの遺構である。条里制というのは、古代律令国家の時代、遲くとも平安中期ころまでに開拓された土地の方格地割りのことで、大和・山城あたりの畿内平野をはじめとして、ほぼ令国的に施行され、若狭地方においても、北川流域の小浜平野をはじめ各所の平野部に、近年までその遺構が伝えられていたのである。三方町域にあっては、最近の圃場整備実施以前までは、主として鰣川左岸域にかなりその遺構を確認することができたのであった。
条里制の最小の単位は前記の「坪」である。これは六十間(一〇九・〇九メートル)四方の区画であり、これが三十六並んだ同じく正方形の区画を里と称する。さらに里が一方向に帯状に連結しているある広さの地域区分を条と呼んだ。この地割りの制度が条里制と称されるゆえんである。里を構成する三十六個の坪には数詞が付されており、その並び方には図示(図18)したように千鳥式と平行式の二種類があった。一つの坪は一町歩(九九・一七四アール)の広さで、内部が一段歩ずつ十枚に区切られる。この区切り方に二通りあって、一つは縦長に十等分するやり方で、これを長地型といい、いま一つは全休を二等分した上で、この等分線と直角に五等分する方法で、こちらを半折型という。実例的には前者が圧倒的に多いといってよく、佐古地区の遺構もまさしくそれで、三方町域に存在した条里の基本形式は長地型であったといってよい。このような整然たる地割りをほどこすことによって、ある一段歩の田地の所在を、何条何里何坪の東(または西・南・北)の縄本(計測の基準となる畔道をいう)から何段目というふうに、正確に指示することができるようになっていたのである。これは、律令国家の施行した、かの班田収授制と密接に結びついた制度であった。
条里的地名の残存状況
すでに触れたとおり、かつて三方町域には、鰣川左岸域にかなりの条里遺構が認められた。これに反して右岸域には、字限図を検してもごくわずかしかその遺構を見出すことはできない。これは、この地域が左岸に比してより地勢が低く、長年月の間に河川の乱流などによって遺構が消滅したものであろう。しかし、幸いに左岸域に残されていた遺構と、若干の条里に関係ある字名の残存を通じて、推定の域にとどまるものの、この地域における条里の境界線の状況をある程度まで復元することが可能である。これについては、すでに斎藤優氏(『若越条里の研究』)や田中完一氏(「敦賀・若狭の条里」)の研究があり、ここでの結論も結局それらの研究とさして異なるところはないが、掲載した図を参照しつつ、一応の解説を述べておきたい。
まず、明治の地籍図上に残る、条里制に関係すると想定される何々ノ坪あるいは何々条という字名を拾ってみると、つぎのようになる。
倉見地区   八反坪
井崎地区   西ノ坪 下八上 上八上
岩屋地区   大坪 上大坪 市ノ坪 八反坪
黒田地区   下ノ坪
北前川地区  長坪
佐古地区   十ノ坪 九ノ坪 八ノ坪
田名地区   大坪
三方地区   清水坪
以上はたして条里制に由来するものかどうか疑わしいものまで含めても、この程度しか残存していない。そこで、つぎに条里の遺称というのではないが、ある場合には条里界の復元に役立ちうる土地の境界に関する字名を拾いあげてみよう。それは条里界が荘園・郷・保等の境界と一致するケースが事実として多いからである(例えば隣郡遠敷郡北川流域の条里の場合にもそれは見られる)。
井崎地区   下西界 大西乃界
岩屋地区   上西ノ界 下西ノ界
藤井地区   境 法次 法次尻 法次番(法次は「榜示」即ち境界標識を意味する語の転訛したものと考えられる。)
南前川地区  北境
北前川地区  南境 北野境 三方境
田名地区   榜示元 榜示元尻
向笠地区   庄堺
鳥浜地区   上榜示元
三方地区   庄境 北庄境
気山地区   庄境
手掛かりは以上で尽きる。この地域にあっては、ほかに有効な文献史料のごときものは見いだされていない。これをもって条里界の復元ははたして可能であろうか。
鰣川流域条里の復元
先行業績も注目したとおり、右に列挙した諸手掛かりのうち、条里界の復元にとってもっとも有効なものはといえば、佐古地区に南から北へと整然と並んで存在していた八ノ坪・九ノ坪・十ノ坪(ただし十ノ坪のみは、本来別個の坪であった柬隣りの坪をも含んで、二カ坪分に拡大している)の字名である。少なくともこれによって、南北にとおる条里界線が、これらの坪の一町(=六十間)東か、もしくは逆に一町西かを通過するものであったことが確認できるからである。ただ、はたして一町東か西かを確定することは、これだけでは不可能であり、別の手掛かりを必要とする。そこで試みに両方の線をそれぞれ南北に延長していってみると、西側の線に触れる手掛かりはさしあたり何も発見できないが、東側の線の北方延長線は、ほどなく向笠地区の東南端に位置する字名「庄堺」の東端線に連結することが確認されるのである。先述したとおり条里界がしばしば荘園・郷・保の境界と一致する例があるという事実に照らせば、ほかにさしたる資料が得られない以上、これはかなり依拠すべき手掛かりとせねばならない。そこでこころみに、この線を基準線として鰣川流域の地学名分布図上に条里界線を描き出してみると、付図のような状況になる。その場合注目されるのは、(1)佐古地区を含む条から数えて四条北に当たる条の北界線が、ちょうど気山地区南端の字名「庄境」と三方地区北端の「北庄境」が隣接して見いだされるその南界部分を通過すること(ここは往時三方郷と気山をその一部とする耳西郷との境界であったと判断される)、(2)同様に佐古地区から二条北に位置する条の北界線が、三方地区南端の「庄境」と前川地区北端の「北野境」「三方境」の境界上を通過すること(ここはかつて三方郷と前川庄の境界をなしたものと思われる)、(3)境界地名的字名は見出せないが、相田地区と横渡地区とを分かつライン(中世の藍田庄と倉見庄の境界)が、これまたみごとに条里界線に一致することである。これだけの証拠によって、一応推定の域を出ないという留保付きながら、付図に示した条里界線がかなり妥当性に富むものであることが立証されたとしてよいであろう。付け加えれば、基準線想定の有力手掛かりとなった向笠地区東南の「庄堺」は、中世の向笠御厨の東南端を示すと考えて誤りないであろう。なお、いまひとつ言えば、井崎地区に「下八上」「上八上」の字名があるが、これがもし条里の八条を示すものであるとすれば、鰣川流域の条里は、郡最南部の白屋地区「槇ノ本」の南端あたりを起点とし、北へ向かって一条・二条と数えたと判断できる。他に有効な手掛かりを欠くため確定的ではないが、一つの見通しとして述べておきたい。里内部の坪の並び方が千鳥式か平行式かについては、依拠できる手掛かりは何もなく、不明といわざるをえないが、隣りの遠敷郡のそれが千鳥式であることが分かっているので、それに準じてこの地域も千鳥式であったと考えておくことが、さしあたり妥当な理解であろう。里の東北隅を一ノ坪とし、西北隅を三十六ノ坪とする並び方である。
向笠、黒田・岩屋、田井地区の条里
鰣川流域の条里の主要部分についての解説は以上のとおりであるが、町域の平野部には、なおほかに主要部とはいささか趣きを異にする条里の存在が知られる。向笠、黒田・岩屋、田井の三地域のものがそれである。趣きを異にするというのは、条里界線の方向がそれぞれに違うのである。その状況は付図によって見て頂きたいが、南北線を基準とすれば、向笠地区の条里は、鰣川流域主要部のそれに対して、高瀬川沿いに約三〇度西へ傾いた様相を示しており、黒田・岩屋地区のそれは、黒田川の流れに沿って約一二度東へ振れた条里地割りが検証できる。田井地区のものは、別所川沿いに約三七度西への傾斜の見られるものである。これらの地域はいずれも小河川を中心に形成されたごく狭い平地であって、そのため主要地域とは開発の時期を異にし、それぞれ独自の条里が形成されたと判断すべきものであろう。黒田・岩屋地区には「市ノ坪」「下ノ坪(あるいは五ノ坪の転訛か)」の字名があるが、主要地域で想定した千鳥式の坪並みをここにもそのまま適用するとすれば、前者は三十一坪、後者は三十五坪の十の位がそれぞれ省略されて残ったものということになるが、どうであろうか。岩屋地区東端に残る「上西ノ界」「下西ノ界」、東隣りの井崎地区西端の「下西界」「大西乃界」なる字名は双方の境界が主要部の条里との切り替わり線に相当することを示すものかと思われる。向笠・田井の条里については、坪並みを推定すべき何らの手掛かりも存在しない。


佐古の伝説





佐古の小字一覧


『三方町史』
佐古
前田(まえだ) 蓮池(はすいけ) 子宇藻(こうも) 水谷(みつたん) 十の坪(じゅうのつぼ) 篠原(しのはら) 雄鳥(おんどり) 深町(ふかまち) 九の坪(くのつぼ) 泉谷(いずみだに) 開田(かえった) 八の坪(はちのつぼ) 佐古原(さこわら) 山地田(やまちだ) 柿崎(かきざき) 加屋(かや) 志伊良(しいら) 沢(さわ) 桑の元(くわのもと) 札場(ふだば) 宮の下(みやのした) 馬場脇(ばばわき) 池の本(いけのもと) 片山の下(かたやまのした) 殿ヶ市(とのがち) 西(にし) 板坂(いたさか) 松本(まつもと) 杉本(すぎもと) 腰前(こしまえ) 城山口(しろやまぐち) 滝谷(たきだん) 元坂(もとさか) 下山(しもやま) 宮の奥(みやのおく) 尾小谷(おこだん) 部六(ぶろく) 城山(しろやま) 堂の上(どうのうえ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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