丹後の地名 若狭版

若狭

新道(しんどう)
福井県三方上中郡若狭町新道


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福井県三方上中郡若狭町新道

福井県遠敷郡上中町新道

福井県遠敷郡熊川村新道

新道の概要




《新道の概要》
北川の上流右岸の山間部に位置する。熊川宿の反対側である。地名は、三方郡から京都への通路として新道越の道路が開削され瓜生荘一の瀬から漸次移住して集落を成したことによるという(熊川村誌)が、ニイド、丹生土のことかも知れない。
近世の新道村は、江戸期~明治22年の村。小村にー瀬がある。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年熊川村の大字となる。
近代の新道は、明治22年~現在の大字名。はじめ熊川村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西15町・南北2町余、戸数100、人口は男246・女267。昭和37年に大火があり17戸が焼失。


《新道の人口・世帯数》 450・165

《新道の主な社寺など》

白石神社

『遠敷郡誌』
白石神社 村社にして祭神不詳なり、同村新道字雹谷にあり、境内に山神神社祭神大山祗命あり、天龍神社は祭神不詳にして明治四十二年字池ノ尻より合併す。

『上中町郷土誌』
新道白石神社
新道小字雹谷にあり 新道区の産土神にして祭神は若狭彦命 共創建は不詳
天竜池明神
池の尻に住居たる大蛇を祭りたりと云う 池の谷大岩の麓に雨の神として祀りありしを明治四十三年白石神社境内へ移す。
社寺由緒記  新道村氏神白石大明神 五尺四面の社也古伝二伊勢山田一勧請由為レ差由緒無レ之略レ之



真宗大谷派永平山真覚寺

『遠敷郡誌』
眞覺寺 眞宗大谷派にして本尊は阿彌陀佛なり、熊川村新道字禰宜田に在り、昔時道元高島郡朽木弘照寺建立の爲め此地に来り一小庵を結ばれ、延文二年永平參河守之れを修補して一禅寺を創立せしが中古頽廢し後眞宗本願寺の末寺となる。

『上中町郷土誌』
真覚寺 真宗 新道
往時道元禅師近江高嶋郡朽木村弘照寺建立のためこの地に巡錫し一小庵を結ばれしが中古頽廃し後延文二丁酉年永平参河守なる人之を修補して一禅寺を創立せしが後真宗本願寺善如上人に帰依し本願寺の末寺となり教如上人東本願寺創立により大谷派に転じたものである。
〔社寺由緒記〕
新道村 西本願寺宗 真覚寺
 抑当寺開基は俗姓為二婆羅門氏一即永平参河守末孫也此三河守者始越前之国主而既於二越前一曹洞宗永平寺被二建立一厥后二子細一越前立退当国へ被二引越一当□□□有二居住一云々故往古の寺内雖為莫太太閤様御検地己來□狭□雖然永平伝之屋敷畑山林御免許而于レ今当寺□□□故山の名も平林と云也 ?に三河守嫡孫号二永平一藤衛門殿此仁始は為二禅宗一后被二依本願一一字道場被二建立一即当寺之開基也。夫より愚僧迄及二八代一候如是由緒依レ有レ之御本寺十一代之御門跡准如上人大僧正当国御下り之節従二諸寺一雖レ令二尋請一更無二御承引一当寺に有二御一宿一即為二1御褒美一開山之縁起絵伝四幅致二拝領一于レ今令二安置一古は末寺雖レ有二六ヶ寺一従二中興一四ヶ寺直参に成今は漸末寺二ヶ寺在レ之従二当住一三代以前迄永平系図之巻物并雖レ有二武具等一令二焼失一難二相知一先住之以二口伝一粗令二略述一頗山林竹木等諸役者従二浅野様一以来為二御赦免一者也、
  延宝三卯九月晦日
     庄屋   瀬兵衛



沼田氏出城跡。真言宗膳風寺遺跡がある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
松木長操の生誕地

村の入口に「義民松木荘左衛門生誕地」の碑が建てられている。
松木長操生誕地
松木長操(庄左衛門)は寛永二年(一六二五年)正月二十五日松木家三代目として当新道区に誕生。江戸時代の初め、領主京極氏が小兵城の移築に際しその経費捻出に大豆年貢の苞制を加増、誅求した。若狭農民ひとしく塗炭の苦しみにあいこの窮状を救うため若冠十六歳にして嘆願九年、更に投獄数年ついに磔刑によって二十八歳の生涯を閉じた。この義挙によって悲願の年貢は、旧制に復され以来若狭の農民はもとよりこのことを知る人々は長操を義民とたたえ神と仰いで今日に至っている。
(生家はここから約三〇〇米の山麓にあリます)


『遠敷郡誌』
松木長操
通稱荘左衛門寛永二年正月新道村に生れ、少にして頴悟なりしと、名家の出なりしを以て十六歳にして庄屋役となりしが先きに京極氏領主たるに及び貢租苛酷にして従来大豆は四斗一俵の制なりしを四斗五升に改められしかば百姓は其増徴に苦しみ、屡哀訴する所ありしも聴かれず、酒井家の時代に到りしかば寛永十七年有志の面々糾合して舊来の如くに減額されん亊を歎願せんとし二百五十二ヶ村の者凝議し松木莊左衛門を第一として二十餘名を選挙して総代とし、郡代役所に赴さて歎願せしが郡代の役人等は國守に反抗するものとして之れと容れず、呈出せし歎願書を却下せしも総代等は必成を期して再三歎願書を呈出し前後數十回約九ヶ年に及び、終に其言動は役人の忌避に觸れ、総代等を捕縛し入牢せしめたれ共、莊右衛門毫も屈せず、願意を主張す、藩吏も終に事情を酌量し藩主に具申して處決する所あり、貢豆の制は願の通り従前の制に復し百姓として領主の令を撓め強願せしは罪すべしとて磔刑を宜し、承應元年五月十六日日笠河原に於て處刑せらる、莊右衛門が人格高邁にして義気に富み、衆民の爲めには死をだに辭せざりし精神は領内の人々は勿論世人の欽慕感歎する所なり、日笠正明寺に葬る、明治二十四年有志相諮り日笠の遺跡に紀念碑を立つ。


『上中町郷土誌』
松木長操刑場の跡
 刑場たる日笠磧は古老の言に拠れば現在日笠迄の北方武生地籍の北川堤防右岸外方に隣接した「七本松」と称する田の中にあったらしい。三十年前にこの七本松は心無しの地主によって悉く伐採され、今は僅に株跡をとどめているに過ぎない。当時はこの辺一帯現在の如き堤防とてはなく、広大な磧の砂洲であり、北川の河身も亦磧中の低き所に流れていた。極めて不規則の状態であったという。現在北川左岸の堤防外の日笠地籍の田の中に一株の松のある所だとも云われるが真疑不明である。
松本長操子の墓
 日笠正明寺山門を入って左側にある。この墓の下に処刑の翌日数多農民哀悼の中に長操子の遺骨が葬られ、当時は香烟絶ゆることがなかったと云われる。墓石は其の後に建てられたもので左記の通りである。…
松木長操
一、松本長操氏の略伝
(解説)本文は昭和十年三月義民松木長操先生事蹟保存会において発行し松木神社遷座祭のとき記念として頒布したものを原文のままに記載する、難読の字句にはふりがなを付けた。
 若狭の義人松木長操子は通称荘左衛門という、京師の公郷中納言藤原の宗藤卿の曽孫にして遠敷郡新道の人也。承応元年五月貢租のことに関して若狭全国民のため時の領主に請願哀訴しそが罪科により本郡日笠磧において磔刑に処せられたるその事蹟を原ぬるに、抑若狭国は土地の高低甚しく水田となさんも灌漑の不便なるより、畑地比較的に多く自然大豆を産すること多き国柄なれば、前の領主木下か勝俊侯の治世には米租の代りに大豆の貢納も許され、米豆共に等差なく各四斗一苞の制なりしが、慶長五年木下氏故ありて本国の所領を没収せられ、京極侯代り本国の領主となりてより頓に小浜城を竹原村雲浜の地に築くこととなり殆ど十ヵ年許りにして家臣の邸宅等までも残りなく成就してけり。その築城中は国中の村々より多くの人夫を課微せり。百姓一同堪えがたくしてすでに他国へ退転せしものさへ多かりき。殊にその土木の為国帑を悉し経済上にも太く困難を来たせしより、俄に貢豆一苞を四斗五升(あるいは五斗ともいう)入りを改め取立てらるることとなり。その他種々なる名目の下に課税せらるるもの少なからず。故に当時上下の困窮譬ふるに物なく別けて貢豆増微は藩民痛苦の関係いと深く百姓の難渋日に益々加りぬ。ここにおいて苛政の怨声漸く洩るるに至り、是非旧制に復され四斗苞に改められんことを哀訴するもの屡々なりしも、京極家は徳川将軍家の姻戚にて威権おさおさ高く、かつ戦国の後の習はせとして人民を慰撫休養するの情とては更になく、とにかく武断的にて万事にあらあらしき事ども多く、唯叱責するのみにて少しも願の筋は取上げられず、また侠勇飽くまで遂ぐる義民もなく、只その暴威に恐れ国守の不仁を恨みて暫くその訴願を中止するに至りぬ。かくて時日を経過し、寛永十一年に至り、京極氏は出雲の国松江城に転じ、酒井侯代りて本国領主となり給ひしより之を好機会としてまたまた穏に哀訴を始めたりければ、酒井家の役人においては京極家の時に納め来りしものを、当家となりてかかることを強いて願い出すは新領主を悔りての事ならんとの邪推より、領主の威光にも拘り候事とてなかなか容易に聰許もなかりき。故に国民は年を迫いて弥々難渋に迫り国中不平を唱うる声四方に起り、倍々新国守役人の不仁を憤りたり。已にして寛永十七年の秋に至り終りに苛税に堪え難く、各郡村の有志の者ども打集い、この不仁苛酷なる収斂を除きて国民一般の困苦を救わんことをば企つるに至れり。この時松木荘左衛門もまた有志の一人にて、年齢僅かに十六未だ総角の姿さえ脱せざる一個の少年なりしが、その性沈毅にして胆力あり、弁舌さえも爽かにして尋常の少年には遙かに立ち勝り、その上門閥にてさえありければ人望夙に帰してその少年なるにも拘らず、村人に推薦せられ庄屋役にぞなりたりける。されば荘左衛門においても村人の等閑ならぬ倚託の重きを感銘して、今度の大事は一身を犠牲に供えても国民の塗炭を救わんものと、雄々しくも心に誓いて彼の大集会に臨みたり。かくて若狭各郡の右志二百五十二カ村の庄屋並びに総代のものども会同協議を遂げたるも、元来無智不文の百姓の寄合とて、唯囂々と国守役人等を罵るのみにて、何日議論の纒まるべきとても見えざりければ、荘左衛門は流石に少年の血気溢れてかかる体裁を見るに忍びず、やがて座末より古老の列びいる前に進み出でて言えるよう、如何に列席の方々よ、僕が米だ乳臭の吻もて白髪老練の諸氏をさし置き斯く烏滸がましく申出づるは無礼の極には候はんなれども、今日は私の集会にはあらず、本国二百五十二カ村の百姓の難渋を救う相談にて容易ならぬことと存ぜられたり。これ故に長上の方々の前をも憚からず、僕の愚考を申述ぶべし暫時容赦あれ、抑も今日各方面始め吾々まで寄合いしは、余の儀にあらず貢納の大豆四斗五升を旧の如く四斗に改められんことを願う為ならずや。然らば別に多議を要せずこの席においてその主意の願書を認め各郡村の総代を撰みて、一切その人に委せ御上へ差出すの外は之れあらざるべし。然るを只締もなく自分の思うままをいい争いて、時日を移さば郡代奉行の耳に入り、如何なる故障の出来んも計られず、諸君其処に心は付かれずやと、堂々と述べ立てけるを、今まで喧々いい罵りたる列席の者共は耳を欹てて粛然として聞き了り、一同げにもと嘆賞し、寔に新道の若庄屋の申条こそ道理なれ年嵩なる吾々には其処に思い及ばざりしか愚かさよとて速に願書を認むる亊に一決し、軈て公事の文筆に慣れたるものを撰みて上書を認め、更に入札を以って総代を撰みたるに、先づ第一の高点は松木荘左衛門にて、次は瓜生村の文太夫、三宅村の喜太夫、井ノ口村小次郎太夫その他の二十余人を撰み出されたり。其の選まれしもの各々承諾を為し上書に調印をなしたり。
 かくて総代等の面々には出願の手続その他の打ち合わせを為し、なおかくきまりし上は如何なる艱難辛苦に遭うもまたこの事に関し仮令生命を失うも決して素志をかへじと、堅く相誓いて一同遠敷大明神の広前において神酒洗米を頂き、恭く擁護を祈りて各々一先づ帰村なしたりけり。かくて荘左衛門初め二十余人総代等は、郡代役所に赴きて懇に減租の歎願書を差出したり。その願意の大略は当国の貢租大豆の儀は、木下様御時代は四斗を一苞として納むる掟に候ところ、京極様に相成りてより俄に四斗五升一苞に御改めありしより以来殊に百姓の困窮一方ならず、京極様御在国中より旧の如く四斗に御復し下さるよう数年間歎願いたし来りしも、只叱責を受くるのみにて願の筋は聞届けなく、御国替となり更に御当家様に相成候ても、矢張京極様同様の御取立にて、京極様以来長々の困難にて一層難渋に陥り、已に総潰れにも及ばんとする形勢に立至れり。この上は是非に御上の御慈悲を以って、旧の如く四斗苞に御改め下さるよう、御仁政の程偏えに願い奉ると、一字一語一血惨憺の状を具して訴えたるに、郡代の役人はその款願書を一見して、大いに憤り憎き百姓共の挙動かな、新国守を軽蔑し御上の命令に抵抗し彼是沙汰するこそ、無法の強訴をなさんも知れじと寂と厳重に叱りつけ、願書を突戻し到底取上ぐべき様もあらず、ここにおいて総代等はかくまで事理を分ちて歎願するに、一応の事情も取糺さず、突戻すとは情なき非道の役人かな。よし百度千度突戻さるるとも、当所よりの宿願を徹さで止むべきやと、愈々精神を励まし歎願書を出す事数十回に及び、すでに九ヵ年の長きに渉り、慶安元年の子の春に至れり。
 その歳月間の辛苦奔走は容易のことにあらず、然るに郡代の役人は馬耳東風然として更に取合わず、その都度叱り懲すのみにて願の筋は取上げられず、如何に直朴温厚の人民も今は胸にも据えかね、最早や尋常の手段にては取上ぐまじ、いざや今度こそは是非共反省よりの覚悟とて、今更驚き恐るる事のあるべきやと、心を決し打揃いて郡代役所に出て、恭しく歎願書を差出し、具に農人等数年来の難渋の状を述べ、今度こそは是非に御慈悲の沙汰あらんことを強願して止まざりければ、役人等は又してもく蒼蠅き剛情なる百姓よと、怒気を含みて願書さえも手にふれずして投返しけるにぞ、荘左衛門はかくまで百姓の難渋を陳情してそれが軽減を歎願するものを、何処までも苛酷に取扱わるるは恐れながら政道に悖らずやと、飽くまで抗論なしたりければ役人共大に立腹し、太々しき者ともかな、この後重ねて訴え出るにおいては、屹度入牢申付くると、言放ち同心の者に指揮して門外に追い出し、最早門前へも寄せ附けざりければ、荘左衛門は今ははや歎願の途絶え、詮術なく恨を呑んで消然として各々帰村し、最後の手段を凝議する処あらんとする一刹那、不仁暴戻の郡代役人等にこの後又々総代等の役所へ来らん事を患一度武威を以って恐嚇し飽くまで懲しめんとて、俄かに同心組子等を各村へ馳せ向わせしめ、総代等を無法にも捕縛して百姓牢へ投入れたり。
 是の日荘左衛門は斯るべしとは思いも寄らず、老母の膝下にありて日頃嗜める田村の曲を謡いつつ、毋を慰め居たる所へ、御上意なりと呼べり、而して捕吏の同心組五六人屋内に突入し、荘左衛門の前後を取囲み、あわや捕縄を下さんとす。老母は打驚きその中に入り声を震せて、何事に候にや伜荘左衛門に限りて犯せる罪は微塵も無之筈といわせも果てず、礑と睨み御上において召捕るべき筋あればこそ吾々捕人として出張りせしなれ。その方知らずやこれなる荘左衛門は御上の御威光を怖れず、不都合の強訴度々に及ぶ、その罪甚だ以って軽からず、依って今日厳命下りしなり。疾く起てよと各捕縄を振り翳せば、荘左衛門は泰然として、「母上よ何を驚き給うぞ、今日こそ僕が常日頃より誓いたる我一命もて万民の命に代る秋にて候、この期に至り御歎きあるは日頃に違いて女々しく候、宜敷御断念ありたく候」と言いつつこちらの捕吏に向い、御役目御苦労なり、仰に任せ御繩頂戴せんこと勿論なれど、見らるる如く只今老母の前にて、田村の謡曲をうたい興ずる時にしあれば、中途に止まんは風情なし、哀れ些少の時間を給わりうたいさしの謡曲の終るまでの猶予を与えられたしと願えり。捕吏の頭人は稀有なる言をいう奴と思えども、情やありけん荘左衛門が頼みを許し、謡曲にまれ別離にまれ望みはあらば暫時の猶予を与うべし。者共暫時控えよと伝うる下知に、組子のものは構えし十手を膝に下ろし左右に開きて控えたり。
 こは忝けなしと荘左衛門は手に持てる扇子にて鼓の拍子をとり、いざや官人の情の間に謡いさしたる残りをば、今生の名残りに続け申さん、「母上よこれぞ今生の謡おさめに候」とまた謡い出す田村の曲音吐声調おもしろく、聞ゆるも憂なき人の余所目かや。頓て謡曲もうたい了りければ、荘左衛門は捕吏の頭人に打ち向い、さぞ待ち詫び給いしならん、最早や思い残すこともなし、さらば御召捕下されよというに、頭人は心得て組子の者に注目して、夫れと烈しき命令の下に組子のもの立塞り、荘左衛門を取て押え犇々と之を縛し、沿道厳かに小浜城獄舎につなぎたり。あわれ罪なくして見る配所の月、春陰天黒夜な夜な鬼火を咏むる身とぞなりける。然るに領主の役人共は、一時権謀により総代のもの等を捕えしが、素より重く罪せんとの心にあらず、只何かな訴えを止めさせんとの底意なりしかば、尋常の囚人とは待遇を異にし、獄舎の戸をも鎖さず、互の話も制せずなすがままに捨置き、詐て寛大慈仁の体を示し、恩威並ひ行ひ不知不識の間に不平の心を鎖磨せしめんと謀り、あるいは威し、あるいは梳し、若し前非を悔い向後斯る挙動なからんには、何時にても罪を赦し帰村せしむべしとて、役人等迭々説得を試みしも、若州全国民の難渋を救わんとする総代なれば、俄にその志を変更するものはなく、断乎として動かざりしも素より意志の薄弱なる百姓等のことならば時は時機勢にて囂々騒擾せしものの、かく手籠にして赫さるる時は胆落ち魂も消ゆる心地して、唯重き咎めのあらんことを恐れ、戦慄して一年乃至二年にして前非悔悟との口述を以って訴願を取消し、出獄せしもの多く後に残りて獄中にあるもの俚かに荘左衛門の外三人となりぬ。この三人はすなわち瓜生村の文太夫。三宅村の喜太夫、井ノ口村の小次郎太夫にて、他の百姓に較ぶれば稍々意志堅牢にて義気もあり、いわゆる鉄中の錚々たるものなりしも日夜間断なき威嚇と懷柔に敵する能はず、漸く志気蕩け且つ在獄の年数も余り長くなり辛苦に耐え兼ねてや、流石の三人も言甲斐もなく慶安四年の冬に至り、徒に願意を抛ちて出獄を許されけり。
 最後に残りしものは独り松木荘左衛門のみ、氏はその入獄の初よりすでに決心するところより、甘んじて身を訴願の犠牲に委せしものなれば、郡代奉行よりしばしばあらん限りの手段をもってその変心を試みしも、荘左衛門の心は鉄石の如く牢乎として抜くべくもあらず、頑として奉行の説諭を退けて謂いけらく、抑もこの上訴たるや決して私の願いにあらず、苟も若州全国民が塗炭の苦を救わん為の代表なり。しかるに新領主当国に御入国以来十数年の久しきに亘り、日々の歎願なるもなお未だその貫徹を見ざるは是れ自ら赤誠の足らざるを羞づる所、今日にして何を苦んで重且また大なる訴願を棄却し謝罪出獄を為さんや、僕はあくまで従来の志望を達するまでは、仮令この身獄申に斃るるも何か憂うべけんやと、堅く取って動かず已に獄にあること五星霜の久しきに亘れども、毫も憂苦とせずますます節義を持し屈撓すべき色さえ見えざりければ、国守にありてもこの上為すべき術もなく、かつ多年間の辛苦も厭わず身命を堵して哀願するものさえあるからは、人民歎きも全然偽りならざるべしとて、漸く訴願を聴納し貢豆は荘左衛門の願の通り従前の苞制に復し、荘左衛門は御領内百姓の身分として領主の令に背き、剛情に我意を申し募る段々不届なり、之を打捨て置く時は強願を好む者陸続之に傚ひて、あるいは国守の威武を軽んずることもやあらん。依て莊左衛門は磔罪に申付て、以後上訴強願の徒を懲さんとの議決し、早速国老より当時天下の老職もて江戸在府中なる藩主酒井忠勝侯にその可否裁断を仰ぎたるに、伺出の通り指命ありけれぱ例により荘左衛門をば白州に呼び出し、罪状を具して磔罪の宜告にぞ及びける。
 荘左衛門は予て覚悟のことなれば毫も驚く容子もなく、役人に打ち向い僕死罪に相成候事は予め覚悟のことに候へば御申渡しの次第は畏く候。唯々心がかりは彼の歎願の一条にて候、これは如何に相成申するや承りたしと問いければ、役人は左もあるべしとうなづき、そのことはその方配慮するまでもなし頓て願の通り聞届けらるべしと言えるを聞くや、荘左衛門は喜色満面に隘れつつ、十有余年の願望ここに達し、苞制旧の如く四斗に改まりし上は思い置く事更になし、磔刑にあれ人刑にあれ、存分仕置ありたく候と、左も潔き丈夫の返答に役人共も感じ入り、偖々武士も恥しき義烈世に得易からざる偉人と、かくも久しく苦しめたる事よと称嗅の声その死を惜まざるものあらざりけり。
 しかれども最早助命すべきに術もなけれぱ日笠磧において遂に磔刑に処せられたり。時にこの時藩主忠勝公は江戸在封なりしが、日頃荘左衛門が高節豪胆なるを聞きて惜しき丈夫哉、かかる者を殺するは惜しく活し置きなば国のため用いらるる処もあるべしとて、寛大をもって先に下せし宜告を取消し助命なせよとめ由急使を以って国許の家老へ達せしも、惜むべし、彼の時速くこの時遅し、その使者の刑場に来りし時はすでに刑の執行の後にてありければ、忠勝候の恩旨に只々死後の英霊を慰撫するに過ぎざりけれぱ、実に恨みても余りあり。之を聞ける諸氏一入その不遇を悲しみあたら丈夫を失いしを嘆かぬはなかりき。この日若狭全国の人民はかくと聞くよりも悲しみなげきせめては刑場に行きて最後の景況をも見つこの世の名残りを惜まんものと、朝まだきより馳せ集える老若男女は数を知らず、刑場の矢来の外囲へ稲麻竹葦の如く立並び押し合いひし合い重なり合いてその混雑は名状すべからず、かくする内頓て荘左衛門は創手に引立られ、磔柱の十字架に縛り付けられたり。この時荘左衛門は少しも恐るるけしきなく、神色自若として若柱の上より見物の人々に向い、「僕は見らるる通り磔刑に処せらるるぞよ、その代り我死後は貢豆は旧の如く四斗苞と改めらるべし、必ず四斗五升をもって納むべからず」と大音声に述べ終り従容として死に就けり。見物の人々この有様を見て皆涙を垂れてさめざめとなき、称名念仏を唱え異口同音に回向をばなしたりける。かくて処刑の翌日その親類緑者は申すまでもなく、若州全国の重立ちたるもの寄り集り、荘左衛門の死骸を請いうけ厚く、之を日笠村の禅刹正明寺に葬り決名は松木長操居士と号けぬ。葬むる日領主への憚りあればとて、心利きたる者のみ密に取営む手筈なりしに、早くもこの事を聞き伝え各村より集い来り葬儀に加りしもの多く、棺の前後を囲繞し、いと賑しき葬儀となりぬ。
 墓前の群集は山をなし香火の烟は雲をなして目を驚かす許りなりしが、その後も参詣の人々絶ゆる事なかりしという。而してその年の秋の暮より新大豆を初穂として戸毎の神棚に松木の神霊を祭ること村々の習慣となり。今にこれ礼存せり。嗚呼荘左衛門の勇肝義胆の血一度迸りて苛政を矯正し、暴官汚吏をしてその心を寒からしむ。死して栄ありというべし、維新の後有志相謀り、明治二十四年八月旧日笠の里に一碑を建て、松翠と共に長しなへにその功績を伝うる事とはなしぬ。昭和八年十一月熊川村新道区に鎮座まします松木長操先生の神霊を祀れる松ノ本神社を熊川区に遷座し、新たに社殿を建立し毎年五月十六日を例祭と定め祭典を執行す。
松本長操碑
 旧三宅村日笠の路傍にあり、今を去る三百余年前時の国主京極氏の時代に納税を滅ぜん事を歎願し後の国主酒井氏の時磔刑に処せられた地である。明治二十四年五月有志此処に碑を建て精霊を永く伝える。題字は伯爵後裔象治郎氏の揮毫するところ、碑文は元の衆議院議長中島信行氏の撰となっているが、実際の碑文の撰者は三方町佐柿の漢学者故武永仁三郎氏である。なお原本の書は表裝に付し松木神社義民館に保存されている。
義士松本長操氏遺跡記念碑々文



新道の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
新道区の沿革
新道区の起こりは三方郡より京都への通路として、新道越の道路開通によって起こった名称と考えられる。然るに其道路の開けたるは何時なるや知るよしも無いが、或説には瓜生庄にして小字一の瀬に始まり漸次新道に移りたるもので、天正年間まで沼田勘解由の食邑であったという。

右の如く文政年間頃には熊川の繁昌につれて、商工業者も出て戸数百四戸あったと旧記に見える。しかし明治維新後交通の変革と封建制の廃止によって、熊川駅の哀退と共に新道の商工業も又共に衰えた。
義民松木長操子は此地の生誕で同家は南向高燥の地を占め、後ろには山を脊負い麓に墓地と稲荷の森を擁している。
新道谷に沿うて北へ約二十町膳部と袮する所に、田九町歩余り、緩斜面の山を遶らした平地に往古天台宗の寺があったという寺跡があり今に寺谷堂谷の名が残る。その一角に鐘楼の跡を鐘撞田という。釣鐘埋没し居て植付の日は今も必ず雨降ると迷信す。
又山の鼻に天蓋山という築地の形もあり、此等を綜合するに或いは伝説のみでなく根拠あるやも知れぬ、又新道川の奥に池の尻と称する所は昔一大沼沢であって、大蛇の伝説もあるが、今は葭が繁茂しこれを刈り取ってお寺の屋根葺用としている。これを三丁程下って天龍池明神があり雨乞の神といわれたが、明治四十三年白石神社に合祀された。尚昭和廿八年十三台風の時にこの辺大いに荒れたので、龍神の怒りを鎮めんとて新たに小祠が営まれた。
産業には石灰山から石灰が生産され、初めて掘られた年月は不明で極めて古く大戦後まで続いたが今は廃山となる。
又製紙会社は松岡喜兵衛が三椏利用の為め、明治の末期に創始されたもので以後盛衰を経ながら今に至る。
琴ヶ淵の滝(伝説)は新道越の下傍にありて高さ二十四尺、往古盲の夫婦連が来り夫は琴を背負いて通行中誤まって転落して死す、婦は之を搜したが盲のこととて求め得ず。向山に登りて悲泣せり云々の伝説がある、その山の名を涙が洞と称すと。


新道の伝説

『越前若狭の伝説』
池の尻明神    (新道)
むかし白屋(しろや)のお石という女の人が、白屋の山を越えて新道の奥にある池の谷という所へよもぎを摘みに来た。池の谷には大きな池があったが、お石はいつもこの池のそばで休んで、池に顔を写しては髪を結うていた。ところが、この池には大蛇(だいじゃ)か住んでおり、お石はこの大蛇に見入られて自分も蛇(じゃ)休になってしまった。
お石がいつまでも帰らないので、親がさがしに行くと、お石が現われて「自分はもう家へ帰ることができない。ここの主(ぬし)になるため、おこわ(赤飯)を一斗(十八リットル)蒸して持って来てほしい。」といった。親が「子どもはお乳をほしがって泣いている。どうしたらよいのか。」と問うと、お石は「自分の目の玉を片方渡すから、子どもか泣いたらこれをねぶらせてほしい。」といって、目を片方くりぬいて渡した。それで、ここに住むへびやかえるはみな今なお片目であるともいわれる。親はおこわを蒸して持って来て、おひつごと池に投げ入れると、うずをまいて池の中に沈んで行った。
新道の奧の池のしりという所にある天竜池の明神(みょうじん。一般には池の神さんと呼ばれる。)は、大蛇になったお石をおまつりしたものである。そして、昔から八月一日は、この池の神さんのお祭として、とてもにぎやかであったし、また、子どものことをよく聞いて下さる神さまとして信心する人が多がった。なお、池の水に顔や姿を写して見ることを水がかみというが、池の主に見入られるから水かがみをしてはいけないともいわれている。 (永江秀雄)

三百年ほど前に三方郡にお石という女の人がいた。ある日新道山へよもぎを摘みに来た。一心にとっているうち暑くなったので、付近の池の尻(しり)へ顔を洗いに行った。洗いながら何気なく自分の顔を水鏡にうっしてみると、どうしたことか顔じゅううろこがはえていた。お石は自分の変った姿を悲しみ、そのまま池へとびこんでしまった。
お石の両親は、娘がいなくなっだので心配していると、ある夜の夢に「お石にあいたかったら、新道山の池の尻へ赤飯を入れてくれ。」という告げがあった。両親はさっそく赤飯をつくり、池へ持って行って入れると、蛇(じゃ)体のお石が現われた。
その後この蛇(じゃ)は、ときどき通行人を襲うので、村の人は社を建て、池の尻明神として祭った。その社は今なお新道山に存在し、村人の雨ごいの社となっている。  (福井県の伝説)
参照松木荘左衛門(次項)、蛇神さん(上中町安賀里)

松木荘左衛門   (新道)
今から三百年あまり前に、新道村に松木(まつのき)荘左衛門という庄屋がいた。勇気と知恵のあるりっぱな人物であった。その荘左衛門が少年のころ、新道の奧に大きな池かあり、大蛇(だいじゃ)が住んでいて近寄る人を捕えてのむので、恐れられていた。荘左衛門は自分か退治するといって、伝家の宝刀を腰にして、みんなの止めるのも聞かずひとりで山へのぼった。出かけるとき、「この川の水が赤くなったら、それは大蛇の血であるから、迎えに来てください。」といって、池へ向かった。やがて二時間ほどして、川の流れがまっかになったので、人々が大池へ行ってみると、大蛇の死がいのそばに少年が立っていた。
荘左衛門は長じて若狭農民の先頭に立って租税減免の訴願に立ち、苦節九年の後、ついにその願いはかなえられたが、その身ははりつけの刑ときまった。ところが酒井忠勝公は松木荘左衛門の義勇を惜しみ、助命の早馬を立てられたので、急使は東海道を西へ飛んだ。
天竜川のほとりまでさしかかったとき、空がにわかに曇って大風雨となり、馬は一歩も前へ進まず、このために数刻の違いで松木さまはついに刑場の露と消えたが、これはさきに退治した大蛇の恨みをここで返したものである。そこでこの池のほとりにほこらをたてて大蛇の霊を祭ったのが、今でも池の明神として残っている。         (若狭の伝説)

大蛇退治のとき、大蛇があばれたので、地面に大きなすりばちのような穴があいた。そこをじゃばみ(蛇喰)といい、今も残っている。
また次のようにもいう。殿様の使者は早馬でやって来たが、途中で大雨か降り、大井川がなかなか渡れなかった。そして使者が若狭へ着いたとき、荘左衛門は、はりつけ台で一やり突きさされたところであった。 (永江秀雄)
参照池の尻明神(前項)

城山   (新道)
新道の一の瀬に城山と呼ばれる山がある。むがしその上に沼田勘解由(がげゆ)の城があった。その北方の瓜生の膳部(ぜんぶ)山には松宮玄蕃頭(げんばのかみ)が城を構えていた。沼田と松宮が戦争したとき、沼田軍は城山の上で兵糧(ひょうろう)攻めにあった。城山へは少し離れた熊川の西山から谷水を引いていたが、じゅうぶんではなかった。このとき沼田氏は、城山の上で馬に米を流しかけさせた。松宮の軍勢が遠くから見ると、豊富な水で馬の足を洗っているように思われた。その後沼田氏は、敗れて近江へ逃げた。熊川の得法寺が現在ある場所は沼田氏の屋敷跡であるといわれ、今も大きな石塔のあるのは沼田氏のお墓であるという。 (永江秀雄)

五本松   (新道)
城山にはむかし沼田影有という武将が城を築いていた。その城内に五本松という大木があった。八キロの遠くからもはるかに望み見られた。従って戦争のときは、敵が攻め寄せる目標になった。城主の影有は、松の木の横から大水をあぴせかけたので、敵は「あのような高い所に滝かあるのか。」と思って攻めなかったという。後に豊臣秀吉の軍に攻め落されて、城はなくなった。五本松は新道の松尾文友という人が買った。数十年前文左のむすこの文三郎が出征した。すると今まで生き生きしていた五本松が、にわかに枯れてしまった。文左の家の人が、どうしたことかと心配しているところへ電報が来て、むすこの戦死を知らせた。今でも五本松の株が残っており、その下に松尾文三郎の墓がある。  (福井県の伝説)



新道の小字一覧


新道の小字名
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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